夢追い人の跳躍 2
シャワーの湯量は申し分なかった。温度調整が大変だったが、そこを何とか堪えてしまえば、なんとか。
もうもうと湯気が立ち上る。紗陽の思考のように晴れず、白い煙が紗陽の脳内と今いる空間とを曖昧模糊にさせてゆく。
頭の中は安達と水灰道理、そして水灰創太でいっぱいになっていた。
(……安達さん、最後のお別れに行けなかったんだ……)
五日前。五日前も同じように、撮影は早朝から深夜まで続いた。それにここは地方で、簡単に関東には戻れない。……奥歯を噛み、何かをやり過ごす。
水灰創太は、数週間前から昏睡状態だったそうだ。
交通事故に巻き込まれ。目覚めず、ベッドに横たわっていた。……容体が悪化し、そしてついに、還らぬひとになってしまった。
そしてその報せを受けた水灰道理もまた、倒れてしまった―――。
きゅ、と唇を噛んでシャワーを止めた。バスタオルを被り、濡れたままの足でスリッパを履きぺたぺたとユニットバスの浴室を出る。
ここ数週間住み慣れた、とはいえ親しみは感じないホテルの一室。一日の内ほとんど数時間しかいないのだから致し方ない。
ざっと身体を拭き、服を身に付け―――机の上に、目をやる。
黒いハードディスク。一台の、それ。……中に入っているデータを思うと、胸が重くなった。
これ、預かっててくれないか。
―――安達はそう言って、紗陽にこれを差し出した。
何ですか、これ
「創太が監督して、道理が出演した自主制作のデータ。……ついこないだまで、個人的にやってたんだよ。スケジュール縫って、なんとか……でもまだ完成してない。最後のカットがまだ撮れてないんだ」
そんな大事なもの……
「わかってる。でもこうなった今、これが手元にあるだけで辛いんだ。……お願いします、預かるだけでいいから……」
……
結局断れなかった。当然だ。いつもなら紗陽に頼るなんてことを考えもしないであろう人物。いっぱいいっぱいになって、身動きが取れなくなって―――そんなひとに縋られて、ノーと言えるほど紗陽は強くなかった。それが例え、たまたま自分がこの場に出会したからだという理由でも。
「……『観てもいいよ』、か」
ずっとずっと、それこそ学生時代からあたためて来た脚本だった、らしい。
脚本を書いたのは水灰創太。道理と共にこの世界を夢描き、そして、卒業し漸く少しずつ形になった。
―――完成、するはずだったのだ。今となってはそれも不可能に近いが。
「……」
わかっている。明日もある。早く髪を乾かして寝なければ……身体は疲れ切っている。睡眠を欲している。早く眠って、少しでも休んで―――
手は淀みなく動き、自前のMacを立ち上げるとHDを繋いだ。
「……」
何をやっているのか自分でもわからないまま。
紗陽はその中身を読み込んだ。
―――びゅうううう、という風。今まで感じたことのないその風が頬を髪を身体を流れ、紗陽は閉じていた目を開いた。
「……へ、……」
世界が傾いている。
「っ……っきゃあああああああっ!」
その落下感に紗陽は絶叫した。自分のその悲鳴すら空に残されたまま、がむしゃらに手足を動かした。仰向けに落下している。
「っ、きゃあっ! きゃあああっ!」
ぼんっと背中が何かやわらかいものにぶつかり一瞬だけ受け止められ、跳ね返されるようにばいんっと再び宙に浮かんだ。そのまま落下し地面に身体全体でべちゃっと着地する。
「……っ、たあ……」
痛い、と。滲む涙と痛む身体に身を捩り、俯せからごろんと、何とか上体を起こす。
「っはは! きゃあああ、だって!」
明るい声が降って来て紗陽は顔を上げた。褐色色の肌の少年が何やら大きな布を持ち、屈託のない明るさで笑っていた。肌と対照的な白い歯がきらりと光る。―――外国、人?
「お姉さん、天使? 妖精? うっかり落ちて来ちゃったの?」
「え……へ……?」
「きょとんとしてるや! おっちょこちょいなんだね!」
何がなんだかわからない内にどことも知らない場所に落下し、そしてそれをおっちょこちょいと判断される。世の中一瞬の油断すらままならない。呆然としながらその少年を見上げていたのだが、その少年が「ねえドーリ!」と紗陽の背後に声をかけたので文字通り飛び上がった。
ドーリ―――道理?
振り返る。青い空の下、太陽を背負い逆光になった青年。
「んー……天使とか妖精とかって、落ちて来るものか?」
それでもわかる。―――わかって、しまう。
艶やかな黒髪に涼しげな黒い眼。
長身痩躯、長い手足に小さな顔。
水灰道理
今現在、意識不明のはずの彼が、そこにいた。