ひとひらの救済 6
「あそこの屋敷のご令嬢は、レイラって名前らしい」
「……レイラ?」
思わず疑問符が付いてしまったのは何故ドーリがそれを調べたかと思ったからだった。きょとんと声を返すと三歩ほど斜め前を歩くドーリが肩越しに僅か振り返る。
「そこから疑問?」
「い、いえ。違います。……調べていたのが意外で」
「サヤが興味を持ったから何か起こりそうだって言わなかったっけ」
「あ、はい、聞きましたけど……」
聞きましたけど意外でした、という言葉は飲み込む。
「あの、私がこないだ来たのっていつなんですか?」
「三日前。三日間ビリーを着けてみたけど、毎日仕事終わりあの夕焼けの時間に屋敷に花を持って行く。最初は顕花かと思ったけどどうやら違う。毎回、ビリーが去ったあとにあの窓から金髪の若い女が顔を出して、花を見て引っ込む。花は夜になったら屋敷の使用人が回収してそのまま棄ててる」
「え」
思わず立ち止まった。すたすたとドーリが歩いて行ってしまうのであわてて追う。
「す、棄ててる? どうして?」
「目障りなんだろ」
「じゃ、じゃああの綺麗な女性はそれを受け取れてないって話ですか」
「綺麗だった? 顔は見えなかった。まあ雰囲気はあったな」
「綺麗でしたよ、金色のふわふわした長い髪に青い眼」
「……よくそこまで見えたな」
感心したようにドーリが言った。はじめて感心されたがそれが視力という微妙な部分だったので何とも言えない。いや、視力はあるにこしたことはないと思うのだが。何だか少し空しい。
「……レイラって、本当にお嬢さまって感じの名前ですね」
思わずそんなことを言うとドーリは肩を竦めた。
「箱入り娘ではあるんだろうな」
結果的に言うとレイラは本当に箱入り娘のようだった。お屋敷が見えるカフェテラスに腰かけさわやかなオレンジジュースを一口。突き抜けるような鮮烈なおいしさにきゅうっとなった。
「ドーリ、おいしいです。ありがとうございます」
「どーいたしまして」
水灰道理とカフェで二人なんて聞いたら日本の若い女性からおばさままでが甲高い声を上げそうだが、サヤにとってこのひとは水灰道理と同じ顔をした別人なので何てことはない。……いや、でも実際、どうなのだろう。水灰道理の顔を知っていても……水灰道理の内面は、それこそ親しいひとでないと誰も知らない。
このひとのことどころか、水灰道理のことをサヤは何も知らない。
「……」
「で」
「……え?」
「今度は何があったわけ?」
「……訊かないんじゃないんですか」
「訊かないとは言ってない。知らないしどうでもいいってだけ」
じゃあ訊かないでください、と思ったが答えなければ消えてしまう。答える意志はとりあえず持ったが、言葉を探すのが難しい……軽く眉を寄せ、一生懸命考える。
ドーリは何も言わなかった。サヤの方も、消える気配はない。……たっぷり何十秒も時間を置いて、ややあって探るようにたどたどしく、
「……最近、籠もり切りだったんですけど、そこに足を運んで来る方がいて、」
「ふうん」
「その方はもちろん私ではなくて、私のやった仕事に興味があってそれを確認しに来ていたんですけど、来られる度、私にも一言二言、気遣うような言葉を軽くかけて来てくれるひとで、……あ、そのひとは偉いんです。偉いっていうか……立場が特殊というか。とにかく、私個人としてはあんまり関わりたくはない立場の方、なんです。……何か粗相があったら怖いし、緊張するので」
「ふうん」
聞いているのか聞いていないのか。いや、聞いているのだろうけれど。……でも、ドーリだって―――否、水灰道理だって、松白と同じ立場の人間だ。もし仮に水灰道理が映像をチェックしに毎日サヤのところに足を運んで来ても、やはりサヤは緊張して居心地が悪くなる。出来るだけ避け、自分からは関わらない。何かあったら、怖いから。……でも。
「別に、その方が怖いとか、嫌だとかじゃないんです。そのひとの立場が怖い。……でも、きっとどこかで、そうやって言葉をかけてくれることが少しうれしかったんです。ずっと籠もり切りで、ずっと誰とも喋らず仕事するから。……自分が選んだ仕事とはいえ、きつくなる時はきついから。……でも、そのひとが今日、怪我をして。……幸い何日かしたら復帰出来るようなんですけど、……やっぱり、そうやって、社交辞令とはいえ自分にやさしくしてくださった方が怪我をされると、……つら、くて」
「ふうん……」
「……ドーリが言ってた、『落ち込むことが多い』って……本当、そうです。私が落ち込んだってどうしようもないことで落ち込むんです。馬鹿だから」
はは、と小さく苦笑いする。ドーリが口を開いて、そして、その視線がふっと移った。ぱっとサヤが振り返ると、オーリの視線の先、屋敷の前にビリーが自転車を停めるところだった。
「あっ……」
思わず小さく声を上げる。ドーリが素早くポケットから紙幣を取り出しテーブルに置いて、「行くぞ」とサヤに声をかける。長いコンパスで歩き出したその姿をあわてて追いかけた。
さり気なく、通行人を装ってドーリが歩調を調節する。ビリーが花を置き、少しの間無人の窓を見上げて―――帽子を被り、自転車を押し歩き出す。跨りかけた瞬間、ドーリが声をかけた。
「こんばんは」
「……? ああ、こんばんは」
にこりとドーリが微笑みながら声をかけた。その微笑はどこを取っても人当たりのいい好青年という笑顔で、微塵のわざとらしさもない。これがほんの一面だと知っているサヤが見ても、でもまたこの表情も事実なのだろうと納得させてしまう笑み。……何も言っていないのに、ドーリがサヤの足をこっそり踏んだ。何てことするんだこのひと。
「先日は妹が花を頂きまして。どうもありがとうございます。お姿をお見かけしまして、改めてお礼を言いたいと妹が言ったのですがどうにも引っ込み思案で。声をかけられないから俺にかけてきてと情けないことを言うものですから。突然すみません」
何だろう、このひとは百回サヤをいたぶられなければ悪夢を見る呪いでもかけられているのだろうか。じとんとした眼で見上げていると、ビリーはきょとんとした顔から納得したような顔になって大きくうなずいた。
「ああ! 何日か前のお姉さん! いえいえ、そんな、ご丁寧に! ああでも、よろこんで頂けたなら僕もうれしいですよ! やっぱり女性には花が似合いますからね。素敵な女性なら尚更です」
にっこりと微笑みかけられ胸がじいんとした。何ていいひとなのだろう。顔はさわやかイケメン、どんな表情でもお手の物の毒舌で気遣いのないどこかの青年とは大違いだ。久しぶりにやさしい人間に出会った気がする。
「あ、ありがとうございましたああぁぁ……」
「ど、どうしてそんなに泣きそうな顔をされてるんですか?」
「ああ、気にしないでください。変なんですこいつ。俺に全く似てないですよね。……ところで、先ほどあちらのお屋敷に花を置かれていたようですが……僕、世界を回っていろんなひとに話を聞くのが大好きなんです。あなたの行動を見てどうしても気になってしまいまして……よろしければ、少しお話を伺えませんか?」
「んー……」
意外なことにビリーは少し困ったような顔をした。すかさずドーリが切り込む。
「ああ、もちろん口外致しませんよ。僕、口が堅いんです。妹は抜けていますが約束は守ります」
今日このひとが見る夢があと一歩のところで電車に間に合わずそのあとの乗り継ぎが上手く行かなくなり遅刻する夢でありますように。
「……歩きながらで、いいですか?」
「もちろんです」
ドーリの笑顔にノーとは言えなかったのかビリーはそう言うと、自転車を押しながら続く路を軽く促した。