ひとひらの救済 5
それは一瞬のことだった。
「……あっ!」
バンに詰め込まれていた人間全員が全員、そんな声を上げてがたっと立ち上がる。編集に集中していた紗陽は一瞬状況が飲み込めず、あわてて音声を確認していたイヤフォンを外した。
「松白くん!」
与賀が叫んだ。ばっとドアが開けられ、次々にひとが飛び出してゆく。何が―――与賀専用のディスプレイを覗き込む。きちんとした画覚ではない、ただカメラを持っているだけのようでそこから送られて来ている画は大きく傾いていた。
「……あ……!」
画面の端に映ったひとの集まり。誰かが倒れているのか横たわった頭髪が一瞬だけ見えた。あれは、松白……?
カメラが安全なところに避難させるのかぶつんと接続が途切れる。コードを抜かれたのだと理解して紗陽もバンを飛び出した。とんっとごつごつした地面を捉え現場に向かって走り出す。現場まで行ったら迷惑になる。けれど、近くで状況を確認するぐらいなら。
「な―――なにがあったん、です、か」
近くにいた衣装部に訊くと、彼は苦いものを噛み潰すように顔を歪めた。殺陣の段取り中だった松白が地面の砂に足を滑らせタイミングをずらしてしまい、止められなかった相手方の武器が肩を殴打したらしい。殺陣としては頭に振り下ろされたそれをガードする手筈だったので、寸前で何とか頭を避けたのだ。
「……」
力なく辺りを見やる。見渡す限りの砂の地。ごつごつとした石と、砂の……風が吹くと砂嵐のように辺りが茶色くなるような土地だ。そんな中で激しいアクションをしていたら、いつ何が起こってもおかしくはない。
松白のことは苦手ではない。ただ仕事相手というより紗陽にとっては『絶対に粗相のあってはいけない相手』であったからあまり関わりたくなかっただけで。松白の人間性まで深くは知らないが、それでもいつも紗陽にやさしく微笑みかけ、丁寧だがくだけた調子で紗陽を気遣ってくれていた。そんなひとが怪我をした思うと胸がじくりと沈んだ。
その日の撮影は、大事を取って撮休となった。
それだけ、松白の存在というのは大きかったのだ。
もやもやとした気持ちのままホテルに戻った。滅多にない、というかこの組はじまって以来の明るい時間での解散だ。地方に来ているのだし飲みに繰り出す人間も多いかと思うが、表立ってそれをする人間はいなかった。でも、それだって悪い話じゃないのだ……みんなぎりぎりだ。ぎりぎりでやっていて、飲んだりはしゃいだり、そんな時間が必要だ。
紗陽は部屋に引き篭もる組だった。シャワーではなく湯船に浸かろうとお湯をひねり、洗濯物を回収しにランドリー室に向かう。
ヒナと遭遇した。
「あ。ヒナさん」
「紗陽さん。今日は大変でしたね」
「いえ、私は……」
紗陽は、何も。暗いバンの中に籠もっていただけだ。
「……でも、お疲れのようです。……あ、そうだ、ちょっと待って頂けますか? すぐなので」
こきりと小首を傾げて言われてノーと言える紗陽ではない。かわいいひとだなあと思いながらもうなずくと、ヒナは一度たっとランドリー室を出てゆき宣言通りすぐに戻って来た。
「これ、昨日家から送ってくれたもののひとつなんですが。どうぞ、気分が少し変わるかも」
「え……」
差し出された小さな袋を見下ろす。淡いピンク色の入浴剤。受け取っていいのかと思わずそれとヒナを交互に見た。
「や、あの、でも。こないだもチョコレート頂きましたし、あ、あれ本当おいしかったです、どうもありがとうございます。元気が出ました」
「いいえ。どうぞ、気にしないで使ってみてください。……あ、こういうのちょっとあれでしたかね……」
少しあわてたようにヒナが言ったのでぶんぶんと首を横に振った。肌が荒れるとかそういうのはない。ないのだが。
「でもせっかくお家の方が送ってくれたのに……」
「たくさん送ってくれたのでまだあるんですよ。だから大丈夫です。本当気にしないでください、紗陽さん現場での私の癒しなので、これを機にもっと親しくなれたらなあという下心からなので」
照明部は女好きなのですよ、と茶目っ気たっぷりに言われて思わず吹き出した。圧倒的に男性が多い照明部、確かに女好きが多いとはよく聞いていた。女性であるヒナにとっては『現場で歳の近い女子と仲良くなれたらうれしいな』という気持ちだろうが。
「他の部署の若い女の子たち、『照明部の男には気を付けろ』って上司から言われてる子たくさんいて。ふうん、ねえ、ところで私照明部なんだけど、今度ご飯行かない? ってちゃらく誘ったら五人ナンパに成功しました」
「ヒナさんもてもてですね」
「これでも女子にはもてるんです」
ちょっと自慢です、と胸を張って微笑まれ紗陽も微笑み返した。ありがたく入浴剤を受け取る。
「ありがとうございます。ゆっくりさせて頂きますね」
「はい、楽しんでください。……ところで」
「はい?」
「私照明部なんですけど、今度ご飯食べに行きません?」
「是非。楽しみにしていますね」
……やわらかだがさわやかな風。覚えのあるその清涼感に眼を開ける。
視界は傾いていたが、それはどうやら身体がやわらかいがしっかりとした何かの上に横たわっているからだった。白いシーツの海から起き上がり、うーん、とのびる。室内の明るい白の壁に視線を巡らせ、窓辺に行き着いて……花瓶の水を入れ替えたドーリが、ごつごつしているが長い指先でそっと、花を挿し直す。……きちんと水を替えていてくれたんだ、と、自然と心が思った。
「……サヤは落ち込んでることが多いな」
「……え?」
「元気出したみたいだけど、落ち込んだあとだろ」
「……」
「ほら、当たり」
ゆったりと振り返ったドーリが言う。何と言ったらいいのかわからず、ベッドの縁に座ったまま唇を軽く閉じた。
「何があったかは、知らないしどうでもいいけど。……サヤのせいじゃないならどうしようもないよ。流れに任せるしかない」
「……」
一度黙って。じっと、その顔を見つめた。
「……花」
「ん」
「……水、替えてくれてたんですね」
「生き物だからな」
す、と、指先が花びらを薄く撫でた。
「少なくてもこの花は責任の取れない命じゃない」
「……」
水灰、創太。
「……ん……」
ふわりと、何かを探すようにドーリは虚空を軽く見上げた。くん、と形のいい鼻を微かに鳴らし、サヤに歩み寄りながらうろうろと視線を彷徨わせる。
「……? っ、」
目の前に立ったドーリがふいにすいっとサヤの首筋に鼻を寄せた。声も出せないくらいぎょっとし硬直すると、ああ、と納得したようにドーリがうなずき、
「サヤだ。花みたいな匂いがする」
「……そ、そうですか……」
そうですか。びっくりするのでこれからはやめてください。そう言いたかったがそんな度胸はないし、毎度毎度予告もなしにふいに現れては消えるサヤが言えた口じゃないかもしれない。いや、ドーリは一度も驚いていないけれど。
謎を解き明かして満足したのかドーリが身を引き、こっそり胸を撫で下ろしながら一体この世界はどうなっているのだろうと内心首を傾げる。ヒナからもらった入浴剤は花の匂いで、確かに言われた通り今のサヤからは花の甘い匂いが微かにした。湯気あたたまる浴室で使った時は思わずうっとりしてしまうくらい素敵に香った匂いが、微かに。……でもあれは『現実』で……
……また、『現実』の説明が出来ない。
「……」
黙ってしまったサヤに、ドーリは短く言った。
「散歩行く?」
一も二もなくうなずいてしまったのは、その問いがうれしかったからだ。