ひとひらの救済
〈 ひとひらの救済 〉
その街は欧州のどこか。石造りの建物に時間で磨かれた石畳。抜けるような青い空にくっきりとした白い雲、つまりどういうことかというと、シャワー上がりのタンクトップにショートパンツという格好のサヤは完全に浮いていた。
「……うわあ」
例の如く突然現れたのであろうサヤに、ドーリは声を上げた。美形のどん引きって本当に心に来る。
「なに、その格好……寝巻きで外うろつく趣味でもあるわけ」
「……ないんですけどね……」
このひとは遠慮というものを全く知らない。サヤ以外の女子が言われたら泣くだろうなと思いつつあきらめて息を吐いた。
古き良き街並みが続く観光名所。その時代を意識しているのか電光掲示板などは見当たらず、恐らく当時のままであろう古風な風景がずうっと先まで続いている。……きっと水灰創太は『現代ではないどこか』を描こうとしたのだろう。そのためなのかドーリは旅人の必需品とも言えるスマホも電子機器も一切持っていなかった。
「まあどうでもいいけど。最近出て来ないなと思ったらふいに出て来るんだな」
「……私と最後に会ってからどのくらい経ってます?」
「大体一ヶ月」
一ヶ月。それは随分と経ったものだ。サヤとしては二日ぶりなのだけれど(二日間徹夜だった。役者のスケジュールが挟まれなければこのままノンストップで三日目に突入していただろう)。
大きな時間差を感じつつも思わずとっくりとドーリを見やる。―――なんというか、この摩訶不思議な状態に慣れてしまった自分がいる。
水灰道理。
恐らく、このひとだ。けれどその水灰道理がこのひとなのかはわからない。恐らく違う。たぶん。……そんな矛盾しているし困惑もしてしまうような状況を、今となっては『そうなのかもしれないね』となあなあにしてしまった自分がいる。
恐らくこの青年は『ドーリ』なのだ。
それがどれだけ水灰道理とリンクしているのかはわからない。けれど、水灰道理だと思って接するわけにはいかないだろう。きっと。
口が悪くて態度も大きい青年。水灰道理にはこんな評価は下せない。
「サヤ」
「はい」
「ほら」
するりと上着を脱いだドーリがサヤにそれを差し出した。きょとんとしてそれを見る。
「なに、広げてどうぞお嬢さま袖をお通しくださいってやらなきゃ着れないわけ」
「え、や、そんなことは」
「じゃあさっさと着て」
「……はい」
受け取って袖を通す。ふわりと香った香りは―――本来なら一度も嗅いだことがないはずの匂いだった。
小さいが明るい街だった。太陽は燦々と降り注ぎ、ひとびとは楽しそうに行き交う。海が近いこともあってか、その空気も新鮮なように感じた。
「……何でそんな楽しそうなの?」
「え?」
部屋の窓に飛び付くように駆け寄り大きく窓を開け放ったサヤにドーリが訝しげな声をかける。振り返ると何だか気に食わなさそうな難しい表情をしていた。
答えないと消えてしまう、と思い少しあわてて口を開く。
「いや……きれい、だから。気分が良くて」
窓の外には美しい街並みと鮮やかな色の海。カーテンと髪を風が揺らし、サヤにとっては大きな上着が風をはらんでふくらむ。
「道行くひともみんな楽しそうで。辛いこととかなさそうで、気分が軽くなります」
「……ふうん」
頑張って説明してみたことが幸となったのか、一応ドーリは納得してくれた、ようだった。ほんの少しかもしれないが興味が湧いたのか、少し離れたサヤの隣で一緒に窓の外を見やる。
ドーリが今日取った宿。当然のようにツイン部屋に案内されたわけだが、当然のように支払いはドーリだった。サヤは無一文もいいところである。保険証や免許証どころかハンカチすら持ち合わせていない。文字通り着の身着のままだった。
申し訳ないけどこればっかりはどうしようもならないなあと穏やかな気持ちで考えながら、遥か先を描く水平線に眼を凝らす。―――どこまでも続く荒れた砂地ではない。トラックやバンやマイクロが並び疲れたというより憑かれた顔をしたやつれたひとたちが行き交うサヤの戦場ではない。きらめく海! さわやかな風! ああ、世界は美しい!
「……何だろう、今回のサヤはものすごくうざったい気がする」
ぼそりと隣で毒を吐かれたが、何も気にしないことにした。
「んーっ……おいし、い!」
ガーリックソテーされた大きな貝の身を頬張り、口いっぱいに広がる旨味にぎゅっと目を閉じた。おいしい。おいしい。
「人数分の椅子があって、お皿を全部置けるだけのテーブルもあって、ぺらぺらの薄っぺらいやつじゃない金属のナイフとフォークとスプーンもあって、出て来る食事はあったかくておいしくて、ここはもう天国ですね」
「サヤ、普段どんな環境で飯食ってるの」
やって来たレストラン、オープンテラスに腰かけ、パラソルの下でにっこりと微笑むと素直に引かれた。今をときめく俳優の甘い顔がどん引きだった。普通の女子ならそれだけで泣きたくなるかもしれないが、もうサヤにとってこの青年は『見たことのあるひとと顔がそっくりで見たことのあるひとと若干本質も似ているかもしれないひと』という放り投げるにしたってもう少し考えようがあるだろうというようなポジションに投げ込んだひとなので泣きそうにはならない。若干傷付くだけだ。椅子は全てキャストに提供されるのでどこともしれない冷たい地べたに座り、膝の上できんきんに冷えたおいしくない揚げ物ばかりの申し訳程度にしか野菜のない(しかももしゃもしゃでおいしくない)お弁当を毎日食べているのだ。この世界に味覚があってよかった。痛覚があるのだから味覚だってなければ不公平というものだ。
「俺の金なんだけどね……」
ぼそりと呟かれたその言葉に多少思うところはあったので、ぺこりと頭を下げておく。
「……まあ、出された食事美味そうに楽しんで食べる奴と食事するのは悪くないけど」
「……あ、や……いつもはもう少し大人しめですよ」
テンションが上がっているのは否めない。そう訂正を小さく入れて、パエリアを取り分けドーリの前に皿を置く。
「ずうっと仕事中みたいなものなんです。だから、つい」
「妖精って何してんの? 人間の幸福度調整でもしてんの」
「それは本当業務って感じですけど……」
というかサヤは妖精じゃない……パエリアを口に運ぼうとした瞬間、にやりとドーリが笑った。
「えっ?」
―――そこで気付く。このひと今質問した。サヤが答えられないであろうとわかっている質問を。
「あっ……あああっ!」
「じゃあなーサヤ。それは俺がもらう」
急激に遠退く意識の中、手からスプーンが抜かれそれはもう腹立たしくなるくらいの綺麗な笑顔でドーリが笑った。