夢追い人の跳躍
―――さあ、眼を開けて。
―――さあ、世界を創ろう。
〈 夢追い人の跳躍 〉
水灰 道理が意識不明になり病院に搬送されたというのを紗陽が知ったのは移動中のマイクロの中、何気なく開いたニュースアプリからだった。今徐々に頭角を現しはじめた若手俳優の
水灰道理は、確かついこの間入っていた撮影がクランクアップしたばかりのはずだった。
スタジオ敷地内や食堂でちらりと見かけたことのある彼を自然と思い出したが、それは微かに頭に浮かんだだけであまりはっきりとしたイメージではなかった。アイドルではないのでお付きの者もそんなにはおらず、さらりと身軽に行動しているようには確か思ったけれど。
「道理くんが倒れたらしいね」
ビックバン内に据えられた機材ベースの中、監督である与賀が隣に屈み膝の上で脚本を開く演出部の安達にぼそりと声をかけた。与賀の二作品ほど前の映画に水灰は出ていた。全編後編で制作された映画で、そしてそれは、興行収入的にも評価的にもとても跳ねた。大成功と言ってもいいものだった。丁度水灰が注目されはじめた段階での成功だったので、その映画は水灰にとって大物俳優へのスタートとなったと言っても過言ではない。
「笠井さんによると意識がまだ戻らないそうです」
まだ若手の安達がそう答えた。笠井というのは水灰のマネージャーか何かだろう。圧し殺したようなその声を少し不思議に思ったが、紗陽が気にしていても仕方がない。薄暗いバンの中、目の前の機械に手をのばしスイッチを入れる。ヴ……ン……という羽が篭るような音を立てて、ディスプレイが黒く灯った。立ち上がるまでの間、足元に置いた小さな手提げからタンブラを出した。それは私物なのでどんなデザインのものでも構わないのだが、現場で使うものだと思うと好みのものは買えなかった。艶のないマットな感じの黒いそれだけ。面白みもなければ可愛げもない。
ホテルを出る前中に注いだ安い紅茶を湯気と共にほんの一口だけ口にし、熱さがじんわりと喉元を下っていくのを感じながら蓋を閉じキーボードに手をのばした。昨日の続きを読み込み、PC用の眼鏡の奥から眼を凝らす。ディスプレイにコマンドをいくつも展開させ、昨日撮ったラストカットを二カメ分全て展開させ、細かく指を動き出す。掬い上げるように、紡ぎあげるように。
カットとカットを繋いでゆく。
暗く狭苦しいバンの中で、紗陽は世界を繋ぎ出す。
映画撮影の現場は組ごとによっていろいろと特色がある。この与賀の場合、カメラを最大二台使っての撮影だった。カット数がやたら多いのが特徴の与賀の作品だが、その分編集で繋いでみないとそれが流れとして通用するのかしないのかがわからない。撮影し、データを編集者に送り編集して後日確認して……その時はじめて、可か不可かがわかる。カット数が多い故の痛いロスだった。
与賀もそれを自覚していたらしい。だが彼はハリウッドを見学した時、まさにこれは自分にぴったりだという手法を目にした。現場に編集者と機材を連れ込み、その場で簡単に画を繋げさせ可か不可かを判断する。リテイクやボツは圧倒的に減り、現場がスムーズに動くようになった。
前作の映画の編集者は紗陽の先輩だった。が、近頃身内の体調が悪いらしく長期ロケの出張には出れないという判断が下り、その部下であった紗陽が異例の出陣をすることになった。基本機材の詰まったラボから出ることのない紗陽が、今どこまでも広がる岩山を削って平らにしただけのような黄土色の砂が舞い上がる過酷な地にぽつんと佇むバンの中でカットを必死に繋いでいる。どちらにしても室内じゃないか、なんて誰にも言わないで欲しい。監督の真横に二十時間近くずっと居続けながらひたすら細かいカットを繋げ続けるのだ。それも二カメラ分。
スピードもセンスも求められるそれは、普段こなしていたラボの仕事とは別のところできりきりと紗陽の神経を削っていた。
現場初参戦とはいえ、この与賀組が他の組に比べハードスケジュールであることは他のスタッフの話の端々から感じ取れていた。朝は宿泊先のホテルを六時に出発、準備をして撮影は九時開始、撮影が終わりホテルに辿り着くのは日付が回った二時。そこからダッシュでシャワーを浴びて次の日(というより数時間後)の準備をして、そうしたら既に三時になっていて……なんとかベッドに潜り込み瞬きすると既に時間は出発十五分前。口の中で悲鳴を上げつつ飛び起きて、……がこの一ヶ月続いている。紗陽はまだ肉体労働ではないが……現場を走り回るスタッフたちはどうしてみんな平気な顔で毎日働いているのだろう。たぶん人間じゃない。
地方ロケに来ているのに、地方らしいことは何もないなあ……とほぼ停止した思考で思いながら今日も今日とて仕事を終え、ホテルの前に着けられたマイクロからよろよろと下りる。
胃が奇妙に空っぽでそれがまた疲労感を後押ししていた。夕飯は現場でロケ弁が出たが揚げ物ばかりで油っこく、しかもキンキンに冷えていたためおいしいと言えるものでは到底なかった。食べ物にケチを付けるのはよくないと我ながら思うが、これが毎日、もう既に一ヶ月だ。朝昼だって似たようなものだ。きちんと働いているはずなのにどうしてまともなものが食べれないのだろう。ああ、今すぐここにキッチンが欲しい……野菜たっぷりのコンソメスープとふわふわ卵の雑炊を作りたい。
エレベーターで部屋のある階に上がり、どろどろとした足取りで廊下を歩く。……圧し殺したような、啜り泣きを無理矢理潰したような……そんな声が聞こえたので、思わず足を止めた。何かの聞き間違いか幻聴かと思ったが、息を殺し耳を澄ませると確かに誰かが泣いている声がした。……ぞっとする。
動きたくはなかった。が、目の前の角を曲がらなければ部屋には行けない。それにまだ決まったわけではない……それがもう生きていないと、決まったわけでは。
そうっと、気配を探る。啜り泣く、声……深く考えちゃ駄目だ怖いから。恐る恐る視線を巡らせると、廊下の突き当たり……非常階段の黒いドアが微かに開いていた。誰かが、外にいる……。
こくりと唾を飲んだ。足音は床の絨毯が消してくれた。震える手でドアノブに触れ、そうっと、押し下げ、
「……っ、え……?」
啜り泣く声が止み、その人物が紗陽を見た。紗陽もふっと息を飲む。
「あ……だち、さん……?」
演出部の安達だった。廊下から漏れる光を微かに受けたその眼は濡れていて、うろたえたようにする仕草が啜り泣く声の主であることを示していた。ああ、やってしまった、と内心静かに焦る。
幽霊ではなく生きた知り合いだった。それもこの先まだ一ヶ月以上一緒にやっていくような。気まずいにもほどがある。
「あ……ごめん、なさい。失礼しました」
「や……ごめん、ドア開いてたんだな。ごめん……」
ぺこりと頭を下げ一目散に退散しようとしたが間髪置かず安達に答えられそういうわけにもいかなくなった。泣いている理由を訊くほど親しくもなく、上辺だけの言葉で慰めるほども親しくない。歳下の紗陽に言われたところで微塵も効果があるわけない。むしろ逆効果だろう。
「……泣き声聞こえたら……怖くなるよ、な」
「……」
はいともいいえとも答えられず黙ってしまった。だからこそ沈黙はただ雄弁に肯定してしまう。ここでもう少し器用だったら気の利く言葉のひとつやふたつ言えただろうに。
紗陽に世界は向いていない。
「……道理がさ」
誰かに聞いて欲しいのか。もう限界、なのか。
安達がぼそりと言った。
「道理が。……意識、戻らなくて」
「……道理?」
道理―――水灰、道理?
「……安達さん」
もしかして。―――ファンでは、なく。仕事上の知り合いでも、なく。
「道理は……大学時代からの友人なんだ」
真っ赤な目をした安達が、微かに震える声でこぼれ落とした。
「俺が、助監で。あいつが、俳優で。……いくつも自主制作して。いつか、プロの現場で一緒になろう、って、」
前回与賀組に水灰道理が出演した時は、まだ安達は与賀組にいなかった。
漸く、数年以内には一緒に仕事が出来る場所まで辿り着いたのに、水灰道理は眠ってしまった―――
「みんな、いなくなろうとする」
「……みんな?」
引っかかる言葉。―――まるで。
水灰道理の他にもまだ、いなくなるかもしれないひとがいるようで。
「……水灰道理って、芸名なんだよ」
そう―――なのか。
「水灰、って奴は他にいる」
「……ほかに……?」
「……監督を務めてた、奴。……水灰創太」
水灰創太。
「……そのひと、は……」
安達は笑った。
不安そうで
悲しくて
さみしい。―――置いて行かれた、子供のように。
「死んだんだ。―――五日前だよ」
道理が倒れたのはそのあとだ、と、彼は言った。