うたかたに溺れる
夢の御使い。人はおどけて、彼をそう呼ぶ。
創作魔法の天才、想像を現実に変える者、と。そんな意味を、その言葉にこめて。
「……で? 今度はなーに、それ」
「しゃぼんだま」
「……なにそれ」
「だから、しゃぼんだま」
「うん、ごめんね、わたしが知りたいのは名前じゃなくって。それが、どういうものなのかを、訊いてたんだ」
わたしが苦笑しながら告げると、ぱちぱちと彼はその赤い瞳を瞬かせる。それから、かくん、と首を傾けた。白銀の髪は、蜂蜜の色をした日に照らされて煌めく。
「あ。そ、か。……この国では、知られてない?」
「そうだね、少なくとも私は知らない」
ここは魔法の国、その王都にある魔術学校。そして、彼の生まれは、科学の国。魔法ではなく、科学と呼ばれる技術によって支えられている国なのだと、ずいぶん前に彼から聞いた。
「僕の故郷だと、みんな、これ、好きだったよ」
彼ののんびりとした声を聞きながら、わたしは手近な木製の椅子に腰かける。木の質感は、独特の温もりでわたしを迎えてくれる。石造りの校舎内にありながら、木の家具で統一されたこの部屋が、わたしはけっこう、気に入っている。
「へえ、それ、おもしろいの?」
「うん。おもしろいし、綺麗」
彼が手に取った小さなガラスの容器、これをビーカーと呼ぶのだというのも、彼から教わったこと。その小ぶりなビーカーには、虹色にも見える、透明な液体が注がれている。そこに、彼は細い筒を一本、とん、と差し込む。
「シャボン液を、ストローの先につけて、吹くの。ちょっと、やってみるね」
管楽器を奏でるときのように、彼が筒に息を吹き込む、と。
セピア色の部屋に、虹色が溢れた。窓から差す光を受けてひかる、細かな球体たち。わあ、と思わず声をあげてしまった。
「綺麗!」
「うん、でしょ」
ちょっぴり誇らしそうに、彼は笑って。
「魔法のシャボン玉、だから。これだけじゃ、ないんだよ」
彼はわたしに歩み寄ると、こうやって、と言いながら、無造作にわたしの手を取った。彼の華奢な手に導かれ、わたしの指先が、ぱん、と薄い球体を、弾く。
ふわりと、あたりに広がったのは、わたしの知らない景色だ。真っ青な、抜けるように澄んだ空。色とりどりのガラスのドームと、モノトーンの曲線的な建築物とが立ち並ぶ、街並み。子供たちが駆けていき、大人たちがそれを見守って──
と、そこまで認識したところで、ぱっと景色がセピアに戻る。その感覚は、夢から覚めるときのそれに、よく似ていた。
「あれ、は?」
「僕のおもいで。ふるさとのまち。このシャボン玉は、吹いたひとのおもいでを、映すんだ」
シャボン玉の中、よく見てみて。と、彼がもう一度シャボン玉をつくってくれた。今度は、大きめの球を、いくつか。言われたとおりに目を凝らせば、ゆっくりと色を変える球の内側には、先ほど見た街並みが映り込んでいた。
「……すごい」
感嘆の声がこぼれる。いつまでも見ていたいくらい。けれど、シャボン玉は、あっという間に壊れて、消えてしまう。肩を落としたわたしに、彼はちょっと眉を下げて笑う。
「シャボン玉は、長持ちしないの」
「そうなんだ……ちょっと残念」
「うん、でも、儚いからこそ、綺麗」
「あー、……そう、かもね」
ところで、とわたしは戯れに、問うてみる。
「この魔法、どうしてつくろうと思ったの?」
「ん」
彼は視線をわずかに伏せ、考え込む。研究に夢中でしばらく梳いていなかったのだろう、ぼさぼさになった白銀の髪が、彼の深紅の目を少し隠す。それから、彼はそっと口を開いて、
「……僕の、ふるさと。ずいぶん昔に、焼けちゃって。もう、僕、帰れないから」
その、言葉に。く、とわたしは息を飲み込んだ。それに気づいたのか、気づいていないのか。彼はふにゃりと、笑顔を浮かべる。
「無理なのは、わかってても。ちょっとでも、帰りたくて。帰ったみたいに、なりたくて。それで」
そうして彼は、シャボン液を吹く。つくりだしたシャボン玉を弾いては、懐かしそうに目を細める。ここではないどこかを、眺めながら。シャボン玉がすべて壊れると、また吹いて、弾いて。
「それも、また学校の発表会に提出するの?」
「んーん。これは、誰にもないしょ」
だから、ここだけのはなしだよ。彼はわたしに向けて、口元に人差し指を立ててみせた。けれどもそれも一瞬のこと、彼はふたたび、シャボン玉で遊び始める。
「そっか。……そ、か」
わたしはなにも言わず、それを、見守る。
またあしたね、と別れたときには、とうに日は落ちていた。日の光が差さなくなると、暗がりを照らすのは魔法でともされた灯りだけ。彼の研究室を出ると、石造りの冷たい廊下が待ち受けている。ほの暗い通路の先は、闇に溶けて、見えない。
足を引きずるように、数歩。もう、耐えきれなかった。灯りの下、ずるりと崩れ落ちるように、膝に額を押し当てる。
──泣くな。
涙する資格など、私には、私たちには、ない。
だって。
彼の故郷を焼いたのは、ほかでもない。
科学を、未知の力を恐れた、私たちの国なのだから。
夢の御使い、なんて、いったい誰が呼んだのだろう。
そんなのは嘘だ。わたしは思う。
彼は夢の使者なんかじゃない。彼は、夢に囚われているんだ。ずっとずっと昔から、焼けた故郷を離れたあのときから。
彼はただ、ひたすらに、故郷に帰る日を夢見ている。
叶わぬ夢を、見続けて。
うたかたの幻に、溺れている。
奥附
2015年12月3日 第一稿完成
2015年12月17日 本ページにて公開