59話:ダイムノベルとギャンブラーという生き方
決闘の現場を後にして大通りを歩く。脳裏にはあのギャンブラーの笑みが浮かんでいた。
なんとなく口笛で吹いていた。たぶんこれは俺の癖だ。なにかから逃避したいとき、逃避行動の最中は歌を口ずさむか口笛を吹くか。ついやってしまう。単純作業で脳みそをリセットしたいときもつい歌っていることが多い。
ジョニーが再び凱旋するとき (万歳!万歳!)
僕らは彼を温かく迎えるだろう (万歳!万歳!)
男どもは喜び 少年らは叫び 女たちはみな集まり
みな陽気に楽しむだろう
ジョニーが凱旋するときには……
さて、決闘で死んだ彼は、不運な南軍の若造みたいなものだったのか? 生きて帰れなかったのは見届けた。
それが不運によるものだったのか、力不足だったのかはさておいて。相手が悪かった、というのはまぁ間違ってないのだろう。年季の入ったショートリボルバー。
俺が最初に買おうとして「ギャンブラーになる気か?」と問われたモデルにそっくりの銃を持ち歩く彼は、相当の腕っこきというやつなんだろう。実際にイカサマをしていたかどうかは分からない。が、カードで食っていくだけの器量、難癖つけられたときに生き延びるだけの技量、どちらも備えていた。
いつ頃からギャンブラーとして食ってきたかは知らないが、銃のヤレ具合から見ると、ずいぶん長いこと続けてきたに違いない。細かい傷、交換されているパーツ、表面処理の削れ具合。使い込んだ道具というのは見れば分かる。一度バラしてメンテナンスをさせていただきたい気分だ。
うちに持ち込んでくれないかなぁ。などとぼんやり思う。
ベック師匠の店はすでに「うち」という認識になっているあたり、俺も西都市に馴染んだのかもしれない。
ダイムノベルに出てくるギャンブラーというのは彼のような存在なのだろうか。ふと思い浮かべる。年季の入った彼が半生を振り返って語る内容のような小説を。
ダイムノベル、つまり10セントくらいで買えた安い小説だ。19世紀末にはお話がひとつ載った小冊子が10セントで買えた。ホテルで一泊2ドル、ワインがボトルで1.75ドルのときに10セント。簡易な娯楽が100円前後の価値だと思えばかなり安い代物だ。しかも内容も薄っぺらい。ライトノベルより荒唐無稽であり得ない内容。
でも西部の田舎ならあるかも、と都会に住んでいる子供には思わせる程度の内容。なんせ新聞ですら伝聞や誇張で膨らんだ犯罪の内容を精査なしに載せてしまうような時代だ。そんなものを普段から目にしていたらダイムノベルの内容も信じてしまうのかもしれない。そもそも読める時点で学があるはずなんだけどな。ま、当時は聖書以外の印刷物はたいがい娯楽だったんだろう。
この世界の娯楽はダイムノベルほどのものすら見かけない。手配書は簡単なガリ版もどきだし、ニュースは電報や電信の交換手が酒のアテ代わりにする噂話が元ネタだ。ある所にはあるのかもしれないが本もめったに見かけない。宗教らしきものにも出くわさない。
誰かが死んだら町長だかのお偉いさんと身寄りの年長者が故人を偲んで思い出話をして簡単に祈って燃やして埋める。身寄りのない者だったら町長が金で雇った連中に埋めさせて簡単に祈って終わりだ。持ち物は売りさばかれ葬式代がわりに化ける。もっとも決闘の結果の死であれば懐の金目のものは決闘の勝者の懐に移るわけだが。
衛生観念はある程度はあるようで、遺体を埋める穴の中に降ろすと、燃料をかけて焼くようだ。その場合、身につけたものに手を出すやつはいない。少なくとも接触感染という概念はある。そういう葬式のときはみな簡易な手袋をし、マスクをして、遺体とともにそれらも焼いてしまう。経験則からだろうか。遺体を損壊しても罰が当たる、なんていう考え方はないようだ。
死んだら物。思い出に浸ることはあれど遺体にすがることはない。死体は金を使わない。死体は蘇らない。死体は思い出を語らない。が、死体を放置すると病気が流行る。だから焼く。焼いて灰にする。ある意味で実践的な死生観だと思う。
あの穴に降ろされて燃やされるのはもっと先のことだと思いたい。若い身空で冷たい死体となって土の中で燃やされるのは勘弁だ。




