第五話 茉佑のドキドキ職場体験
六月八日、火曜日。
午前七時二〇分頃。みんなはいつものようにダイニングテーブルにて朝食を取っていた。
「そういえば桝谷さん、今日は学校の制服着てるんだね。保健室登校の日?」
普段とは違った服装の茉佑を見て、俊平は少し疑問に思った。
「わたし達の学校の中学二年生は、今日と明日、職場体験活動期間なんです。公立校ではトライやるウィークというのをやっているので、菖蔭もこれと似たような活動をしていこうと、十年ほど前から毎年実施してるの」
フルールはさらりと伝える。
「あたし、これだけは参加しようと思うんだ。学校へは行かなくていいから」
茉佑はぼそぼそと打ち明けた。
「桝谷さん、えらいね。そういや俺が中二の時もクラスに不登校の子がいて、俺はその子と同じ班だったんだけど、トライやるウィークの時だけはちゃんと参加してたよ」
「俊平お兄さんはトライやるウィークを体験されたんですね。どこへ行きましたか?」
フルールは興味深そうに尋ねてくる。トライやるウィークとは、一九九八年度から兵庫県教育委員会が実施している、県内の公立中学二年生を対象に一週間、学校から離れて職場体験活動をさせる取り組みのことだ。
「農協だったよ。食品加工所とか、神戸の卸売市場とか、ほとんど見学で楽だったな。最終日はサ○テレビも取材しに来てたよ。俺もちょっとだけ映ってた」
「テレビに映るのは、わたし嫌だな。わたし達の学校は私立なので二日だけだったんですけど、青少年科学館へ行きました」
「私は洋菓子屋さんだったよ。ケーキ食べ放題ですごく楽しかった♪」
琴恵は満面の笑みで思い出を語る。
「そうなんだ。店での職場体験は接客もあるだろうから俺には無理だな。あの、桝谷さんは職場体験どこを選んだのかな?」
「図書館! 本が大好きだから。凛々菜と同じ班なんだ」
茉佑がにっこり笑顔で嬉しそうに答えてくれた直後に、玄関チャイムが鳴らされた。
「はいはい」
いつものように愛子さんが玄関を開け、応答する。
「おはようございます」
「おっはよう、マユちゃん迎えに来たよ」
「おう、おはよう」
上垣先生と凛々菜が迎えに来てくれたのだ。
「あの、凛々菜。上垣先生。あたし、やっぱり、その……なんか、怖くて」
茉佑は自分の気持ちを素直に伝える。
「大丈夫よマユちゃん、アタシがそばに付いてるから」
凛々菜は頼もしい言葉をかけてあげた。
「じゃぁ、行って来ます」
八時ちょっと前。茉佑は通学鞄を肩に掛け、玄関から外へ出た。
凛々菜と上垣先生、茉佑、三人いっしょに歩いていく。
三〇分ほどで本日お世話になる図書館へ辿り着いた。
「なんか、緊張するよ」
「アタシもだよ。心拍数めっちゃ上がってる」
茉佑と凛々菜は館内入口前で、ぴたりと立ち止まってしまった。
「大丈夫よ、先生が先に入るから」
上垣先生が先頭を歩き、入口を通り抜ける。茉佑と凛々菜は彼女に続いて、恐る恐る館内入口へと足を踏み入れた。
「おはようございます!」
上垣先生は受付の人に向かって元気よく挨拶した。
「おはようございます」
「おっ、おはよう」
凛々菜と茉佑は照れくさそうに挨拶する。
「おはよう。えっと、菖蔭女子中学の桝谷茉佑さんと胸永凛々菜さんね」
「はい! そうです」
「はっ、はい」
受付の人に挨拶され、凛々菜は元気よく、茉佑は緊張気味に挨拶した。
「桝谷さん、胸永さん、今日と明日、よろしくね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
「……」
受付の人の目を見ながら話す凛々菜に対し、茉佑は俯いてしまった。
「大丈夫?」
そんな茉佑を見て、受付の人は心配そうに問いかけてくれた。
「この子、けっこう人見知りの激しい子でして」
上垣先生は伝える。
「あっ、あのう。あたしなんかで、大丈夫でしょうか?」
茉佑は俯いたまま受付の人に尋ねた。
「大丈夫よ、人見知りが激しくても、出来る仕事はたくさんあるから」
「そっ、そうですか」
にこやかな優しい表情で言われ、茉佑は少し安心出来た。
「では、本日はよろしくお願いしますね。先生はこれから、他の班の子達の所へ見回りに行ってくるね」
「先生……もう行っちゃうの?」
茉佑は寂しがる。
「また迎えに来るから」
上垣先生は優しく微笑みながらそう告げて図書館をあとにし、他の班の子達がいる事業所へと向かっていった。
「桝谷さん、胸永さん。こちらにいらっしゃい」
茉佑と凛々菜は、受付の人に書庫室へ案内された。
午前九時より、本日の作業がスタートする。
「昨日、新しい本が入って来たの。それと、返却された本を分類ごとに分けて本棚に並べてくれるかな?」
「分かりましたーっ」
「……」
二人は職員の方から本がたくさん乗せられたカートを受け取ると、協力して押して館内へ運ぶ。
平日ながら、お年寄りや小さなお子様連れの女性を中心に多くの利用者がいた。
重たい本は凛々菜が、軽い本は茉佑が。
二人は手分けして社会学、文化人類学、哲学、法学、工学、数学、化学、物理学、地学、生物学、医学の専門書などをそれぞれの分類番号ごと順番に並べていく。
「届かないよぅ」
「アタシも無理だ。けっこう高いね。二メートル以上はあるよ」
「これ使ってね」
困っている茉佑と凛々菜に気づいた職員の方が、すぐに駆け寄り優しく気遣ってくれる。
「ありがとうございます」
「あっ、ありがとう」
凛々菜と茉佑はきちんとお礼を言い、踏み台を使わせてもらった。
小さい子ども向けの絵本や児童図書、図鑑などもたくさんカートに乗せられていた。
「あの、マユちゃん、今作業中だから、あとにしようね」
「あっ、ごめんなさい凛々菜」
凛々菜に優しく注意され、絵本を夢中になって読んでいた茉佑は慌てて謝る。
「桝谷さんは、絵本好き?」
「はい、大好きです。幼い頃の気分に浸れるので」
背後から職員さんに話しかけられると、茉佑はとても嬉しそうな笑顔で答えた。
「そっか。桝谷さんの将来の夢は何かな?」
「絵本作家さんです。お絵描きもお話を作るのも、好きなので」
次の質問には照れくさそうにしながらも、元気な声で答える。
「アタシも同じです。イラストレーターや漫画家さんにもなりたいですけど」
凛々菜も楽しげな気分で会話に加わった。
「ワタシも子どもの頃、そうだったな。二人とも夢はしっかり持ってね。頑張ってね。応援してるよ。絵が得意なら、二人でここの図書館のPRポスター作ってみない?」
「いいんですか!?」
思わぬ依頼に、凛々菜はちょっぴり驚き顔。
「もちろん。デザインは自由にしていいよ」
職員さんからこう言われると、
「ありがとうございます! やったねマユちゃん」
「うん!」
凛々菜と茉佑は嬉しそうな笑顔を浮かべた。そのあとこの二人で協力して、メルヘンチックなイラストを一枚の画用紙に絵の具を使って楽しそうに彩っていく。
こうして完成させたポスターを、館内の壁に貼ってもらった。
「すごーい、立派に出来たね」
「とってもかわいらしいね」
「利用客絶対増えるよ」
職員の方々から褒められ、
「なんか、ちょっと、照れくさいね、マユちゃん」
「うっ、うん。でも、すごく、嬉しい」
茉佑と凛々菜の頬はほんのり赤らむ。この二人はこのあとお昼の休憩を取って、午後からはラベルの貼り付け作業に挑戦していく。
「受付も、やってみる? カウンターでの業務なんだけど」
「アタシはやりたいですけど、マユちゃんは」
「……あたしも、やってみます」
その作業中、職員の方から誘われると、茉佑は少し考えてから決意した。
「マユちゃん、大丈夫?」
凛々菜はちょっぴり心配する。茉佑が人と話すのが苦手だということをよく知っているからだ。
「大丈夫!」
茉佑はきりっとした表情で答えた。
茉佑と凛々菜は受付備えの椅子に座り、利用客が来るのを緊張気味に待機する。二人の目の前にはパソコンが置かれてあった。
数分後、一人の中年婦人が茉佑の方へ歩み寄ってくる。
つっ、ついに来たよ……。
ドク、ドク、ドク、ドク。茉佑の心拍数は急上昇した。
「すみません、西洋美術史の本はどこにあるか分かるかしら?」
中年婦人は茉佑に尋ねて来た。
「えっ、えっと。美術の専門書だから、えっと、あの……」
「ここに西洋美術史って打って、検索ボタン押してね」
「あっ、はい」
職員の方から優しく教えられると、茉佑は一生懸命パソコンを操作する。
「あっ、あの、ごめんなさい、その本、今、貸し出し中みたいです」
茉佑は手をパタパタさせながら中年婦人に伝えた。
「お嬢ちゃん、慌てんと」
中年婦人は優しく気遣ってくれる。
「あっ、ごっ、ごめんなさい」
茉佑は下を俯いてしまう。
「ありがとう、あなたのおかげで探す手間が省けたわ」
「あっ、どういたしまして」
中年婦人は優しく微笑みかけられ、茉佑のお顔は茹で蛸のように赤くなっていた。
「それじゃ、頑張ってね」
中年婦人は嬉しそうにそう告げて、図書館をあとにした。
「おめでとう、桝谷さん。よく出来たね」
職員の人に頭を優しくなでてもらった。
「いっ、いやぁ、あたしなんて」
茉佑は笑いながら、照れくさそうに謙遜する。
「マユちゃんもやれば出来るじゃん」
凛々菜も職員の人と同じようにして褒めてあげた。
ちょうどその時、
「こんにちはー」
館内入口付近から一人の女性の声が聞こえてくる。
「あっ! 上垣先生だぁーっ」
戻って来てくれたのだ。館内へ入ったのを確認すると、茉佑は手を大きく振り、彼女の方へ駆け寄った。
「図書館の作業は楽しい?」
「はい、とっても楽しいです」
上垣先生からの質問に、茉佑は嬉しそうに答える。
「お二人とも、とても真面目に自ら積極的に働いてくれましたよ」
受付の人は嬉しそうに上垣先生に伝える。
「いやぁ、そんなことないよぅ」
「アタシもです。迷惑ばかりかけちゃって」
茉佑と凛々菜は照れ隠しをするように髪の毛を掻いた。
この二人は引き続き受付を続けていくうちに午後三時、本日の作業終了時刻となった。
「桝谷さん、胸永さん。明日もよろしくね」
「はい。さようなら」
「……さっ、さようなら」
凛々菜と茉佑は職員の方々に別れの挨拶をして、図書館をあとにした。
「凛々菜、すごく楽しかったね。食堂のビーフカレーもとっても美味しかったし、お土産も貰えたし。参加してよかったよ」
「うん、貴重な経験が出来てめっちゃ嬉しい♪ 作文、今日の活動だけでも原稿用紙五枚分余裕で書けそうだよ」
二人とも普段出来ない体験が出来たことの喜びに心を弾ませながら、帰り道を歩き進んでいく。
「えっ!? 受付やったの?」
「うん、すごく緊張したけど、とっても楽しかったよ」
鵙池寮へ帰ったあと、茉佑は先に帰っていたフルールに今日あった出来事を伝えると、とても驚かれた。
「それはよかったね。今日のことで少しは成長出来たんじゃない? 教室に入れそう?」
「……そっ、それは、まだ、ちょっと、無理」
フルールが尋ねると、茉佑は少し暗い表情になった。
「保健室登校の回数、少しずつ増やしていくことから始めればいいから。ゆっくり一歩ずつ、教室へ入れるよう成長していけばいいの」
フルールは優しく微笑みかけ、頭をそっとなでてあげる。
「うん。あたし、頑張るよ!」
すると茉佑は今まで見せたことの無いような、生き生きとした表情へと変わった。