第二話 俊平くん鵙池寮管理人体験始まる
翌週、月曜日。
俊平は放課後、自宅へ一旦帰ったあと普段着に着替え、自転車を利用して夕方六時半頃に鵙池寮の玄関前へやって来た。石段の両側には自転車も走行出来るバリアフリーの通路があり、ここまで辿り着くことが出来たのだ。
上手くやっていけるかなぁ?
専用の駐輪場に自転車を置いた俊平はわくわくしながらも恐る恐る、玄関入口横のチャイムボタンを押した。俊平の心拍数は高まる。
数秒後、住民の誰かによって扉がガラガラッと開かれた。
「!!」
俊平の心拍数はさらに高まる。
「おう、俊平ちゃん、いらっしゃい」
出て来たのは、愛子さんであった。
「いらっしゃーい、俊平くん。私、首を長ぁーくして待ってたよ」
「いらっしゃいませ、俊平お兄さん」
「……いらっしゃい」
寮生の三人もすぐ後ろ側にいた。俊平を温かく迎え入れる。
ミャァ~ン♪
三毛猫の文治郎も、歓迎の言葉を述べてくれたような気がした。
「あっ、きょっ、今日から、お世話になります、助野俊平です。皆さん、よろしく、お願い致します」
俊平がかなり緊張気味に挨拶すると、
「俊平ちゃん、そんなに畏まらなくても」
「俊平くん、もっとリラックス、リラックス」
「こちらこそよろしくお願いしますね、俊平お兄さん」
愛子さん、琴恵、フルールは優しく微笑んだ。
「俊平ちゃんが実家から送った荷物はもう届いてるよ。そのままの状態で俊平ちゃんのお部屋で運んでおいたから」
「お気遣い、ありがとうございます」
「俊平ちゃん、今から玄関前で鵙池寮をバックに記念撮影するよ」
愛子さんはそう告げて、デジカメを俊平の前にかざす。
「俺、写真はあまり……」
「まあまあ俊平ちゃん、そう言わんと」
「俊平くん、真ん中に並んでーっ」
「わわわ」
戸惑う俊平は琴恵に腕を引っ張られ、玄関出て少し進んだ所に並ばされた。
愛子さんは鵙池寮の全景が写る位置まで移動し、デジカメを構える。愛子さんから見て俊平の右隣に琴恵、左隣にフルール。フルールの左隣に茉佑。琴恵は文治郎を抱きかかえている構図だ。
「そんじゃ、撮るよ。はいチーズ」
愛子さんはそう伝えてから約三秒後にシャッターを押した。これにて撮影完了。
「すごくきれいに撮れてるね。さすがお婆ちゃん」
琴恵は愛子さんの側へ駆け寄り、保存された画像を見て感心する。
琴恵と文治郎は爽やかな笑顔。他の三人は普段通りの素の表情であった。
「おら、最新式の機材も難なくこなせるからね。さて、もうすぐ夕飯時だ。俊平ちゃんのために、出前を取っておいたよ。近くの〝ウリ坊寿司〟っていうお店で」
「ありがとうございます。俺のために」
愛子さんの計らいに、俊平は深く感謝した。
すでにダイニングテーブルの上に夕食が並べられてあった。
大きな舟形のお皿に乗せられた鯛やマグロ、イカ、ウニ、伊勢海老などの刺身盛り合わせ。他に大皿に盛られた中華料理、ベルギーの郷土料理でムール貝の白ワイン煮とフライドポテトがセットになった【ムール・フリット】。鶏肉・にんじん・セロリ・たまねぎなどを生クリームと卵黄で煮込んだ【ワーテルゾーイ】。牛肉をビールで煮込んだ【カルボナード】。デザートに金平糖やワッフルなんかも用意されていた。
「ムール・フリットとワーテルゾーイとカルボナードと、ワッフルはわたしの手作りです。愛子お婆さんもかなり手伝ってくれましたけど」
フルールはちょっぴり照れくさそうに伝えた。
「そうなんだ。めっちゃ美味そうだ」
物珍しさも相まって、俊平はフルールの手料理に目が釘付けになる。
時計回りに俊平、琴恵、フルール、茉佑、愛子さんという座席配置で、俊平と茉佑が向かい合う形となった。
文治郎は床に並べられた鯖缶と市販のキャットフードの前に座る。
「ほな手を合わせて」
愛子さんがそう告げると、寮生の三人はすぐに両手を合わせた。
「あっ……」
俊平はワンテンポ遅れてしまった。
「俊平ちゃん、そう慌てんでもええんよ」
愛子さんは優しく微笑む。
「ほなおあがり」
「「「いただきます」」」
こう告げると寮生三人、
「いっ、いただき、ます」
ミャーォン。
そして俊平と文治郎、愛子さんも食事に手をつけ始める。
「俊平ちゃん、遠慮せずにどんどん食べな」
「はっ、はい」
俺、女の子達に囲まれて食事をするのは人生初体験だよ。
そんな理由からか俊平はけっこう緊張していた。
「俊平お兄さん、これどうぞ」
フルールは、俊平の前に並べられていた小皿に餃子とシューマイをよそってくれた。
「あっ、どうも」
俊平は軽く会釈する。
「俊平くん、大トロだよ。すごく美味しいよ」
琴恵もよそってくれた。
「あっ、ありがとう」
えっと、刺身醤油。あっ、すぐ前にあった。
俊平は左手を伸ばし、刺身醤油の瓶を取ろうとした。
「あっ、ごめんね」
そのさい、同じく取ろうとしていた茉佑の手の甲に触れてしまい慌てて謝る。
「!!」
茉佑はびくっとなって、反射的に手を引っ込めた。さらにその子は俯いてしまった。
どうしよう、嫌われちゃったかな?
俊平はとても気まずい気分に陥った。
「俊平ちゃん、飲み物どれでも好きなのを選んで飲みな」
「はい」
ダイニングテーブルの上には烏龍茶、オレンジジュース、メロンソーダ、レモンサイダー、コカコーラのペットボトルも置かれてあった。
俊平は慎重な動作で烏龍茶のペットボトルを手に取り、コップに注ぎ入れる。
「ねえ俊平くん、今彼女はいるの?」
「いや、いないよ」
琴恵からの突然の問いかけに、俊平はびくりと反応し慌てて答える。思わず烏龍茶をこぼしそうになった。
「意外だね。俊平くん格好いいのに」
「いや、そんなことないと思う」
これは琴恵ちゃんからの私と付き合って下さい告白フラグか? いや困るよ。俺、女の子とどう付き合っていいか分からないし。
俊平は戸惑い、意識を移そうとウニの刺身に手をつけた。
「俊平お兄さんは、大学は東大か京大狙いですか?」
今度はフルールが質問してくる。
「いや、俺そこまで狙えるほど成績良くないよ。この間の中間も三百人ちょっとのうち五〇位台だったし。阪大、神大はじゅうぶん狙って行けるって担任からは言われたけど」
「それでも素晴らしいと思います。なんといっても神高でも上位層ですし」
「そっ、そうかな?」
尊敬されたようで、俊平は少し照れてしまった。
「やっぱり俊平くんは神高の中でも賢い人だったね。私の目に狂いはなかったよ」
琴恵もかなり嬉しがっているようだった。
「俊平ちゃんの通ってる神高、確か明日六月一日は創立記念日で休みだったね」
「はい、よく御存知ですね」
「おら、この近辺の学校のことにはけっこう詳しいよ。特に神高は旧制中学の頃から知ってるさ」
俊平はこのあとも緊張気味に愛子さん、琴恵、フルールと会話しながら食事を進めていった。
愛子さんはよく噛んで食べていたためか、みんなの中で一番後に食べ終えた。食後の煎茶を啜って一息ついて、
「ほな手を合わせて」
この合図。寮生の三人はすぐに手を合わせる。
「あっと……」
俊平はまたもワンテンポ遅れてしまった。
「俊平ちゃん、慌てんでもええよ。ごちそうさま」
愛子さんはにこやかに微笑みかける。
「「「ごちそうさまでした」」」
寮生三人、
「ごちそうさま、でした」
俊平もワンテンポ遅れて食後の挨拶。文治郎はすでにどこかへ消えていた。猫らしく気まぐれなのだ。
「じゃあ、お皿持っていくね」
琴恵は使った食器類を何枚か重ねて両手で持ち、台所の流し台へ運んでいく。フルールと茉佑も同じようにした。夕飯後の食器洗いは、いつも寮生の三人が担当しているそうだ。毎日美味しい料理を作ってくれる愛子さんに感謝の意を込めて、という理由らしい。
「俺も、後片付けを手伝います」
「おう、気が利くね、俊平ちゃん」
俊平は今回、出たゴミをポリ袋に捨てる作業を担当した。
それを終えたあと、
「あっ、あのう、俺、見取図を確認して疑問に思ったのですが、ここには、男湯は、ないのでしょうか?」
俊平は恐る恐る愛子さんに尋ねてみた。
「おう、今は女湯オンリーさ。旅館だった頃は、男湯もあったんだけどね。寮にするさい女湯にまとめて広くしたのさ。ついでにトイレもね。だから俊平ちゃんも気兼ねせずに堂々と女湯を使いな」
愛子さんはにっこり笑う。
「……」
俊平はこの寮が女性専用に改築されている点を、当然のように不安に思った。
「俊平くん、お風呂先にどうぞ。廊下突き進んで一番奥の別館だよ」
琴恵はロビー奥を手で指し示す。
「寝巻きも用意してあるよ。脱衣場にタオルとセットで置いてあるから」
愛子さんは伝える。
「ありがとう、ございます。俺、寝巻き、持って来ているのですが」
「まあ、今日はあれを着な。荷解きはあとにして」
「はい」
俊平はやや重い足取りで廊下を突き進み、別館の大浴場へと向かっていった。
おう、蛍だ! 山が近いだけはあるなぁ。
途中、中庭の前を通りかかった所で何匹か光っているのを見つけ、ちょっぴり感激。
金太郎飴と若あゆと……ちまきと柏餅を模った休憩用椅子まであるぞ! これまで和菓子仕様とは。
直後にこんな発見もした。庭園灯が灯されていたため桜や梅や松の木、花菖蒲、紫陽花などなどが植えられた和風な中庭の装いと、別館の外観もぼんやりとした明るさで窺うことが出来たのだ。岩を囲った人工池で錦鯉も飼われていた。
確かに外観が柿のねりきりだな。
感心気味に別館の柿色横開き扉を引いて出入口を通り抜けたあと、
本当に、入って、いいんだよな?
女湯と書かれた暖簾の前で一旦立ち止まり、ゆっくりとした動作で恐る恐る脱衣場に足を踏み入れる。脱衣場には全自動洗濯機も設置されており、洗面台も三つ並んでいた。脱いだ服は、洗濯機横に置かれてある籠に入れるようにと張り紙に書かれてある。
俊平は脱ぎ終えると手ぬぐいで大事な部分を隠し、ガラガラッと扉を引いて浴室に入り、シャワー手前の風呂イスに腰掛けた。休まずシャンプーを押し出し、頭を擦る。
その最中、
「俊平くん、お背中流してあげるよ」
入口扉がガラガラと開かれた。
「うわっ! あっ、あの……」
琴恵が浴室に入って来たのだ。彼女は服を着たままだったものの、俊平は当然のように慌てる。
「私、実家でもお父さんによくやってたよ」
琴恵は手に持っていたハンドタオルにみかんの香りのボディーソープを染み込ませると、俊平の背中に押し当てゴシゴシ擦っていく。真剣な表情だった。
「……」
俊平の頬はだんだん赤みを増していき、心拍数は急上昇する。
早く出て行って欲しいな。と心の中で思っていた。
「俊平くん、気持ちいい?」
「うっ、うん」
「ここのお湯は温泉成分も入ってるから打ち身、切り傷、捻挫などにもよく効くよ。じゃぁ俊平くん、ごゆっくりくつろいでね」
琴恵は俊平の背中にお湯をかけると、こう伝えて嬉しそうに浴室から出て行った。
やっ、やっと出て行ってくれた。
俊平はホッと一安心する。
その後も、また戻ってくるかもしれない。と警戒し、大事な部分は手ぬぐいで隠したまま髪の毛を洗い、琴恵の残していったハンドタオルで体を擦り洗い流していき湯船には五分ほど浸かった。
浴室をあとにすると、そそくさ体を拭きトランクスを穿いてTシャツを着た。休まず愛子さんが用意してくれていた藍染め浴衣の寝巻きを着込み、ロビーへと戻っていく。
「俊平ちゃん、サイズもピッタリだね。とってもよく似合ってるよ」
愛子さんに微笑み顔でじーっと見つめられ、
「そっ、そうでしょうか?」
俊平は少し照れてしまう。
「俊平お兄さん、お風呂上りの一杯どうぞ」
フルールは冷たい麦茶を用意してくれていた。
「ありがとう」
俊平は軽くお辞儀する。
「俊平くん、湯加減どうだった?」
琴恵からの質問に、
「最高だったよ」
俊平は満足げな表情を浮かべて答えた。
「それはよかったよ。じゃ私達も入ってくるね」
「では俊平お兄さん、またのちほど」
自室にいる茉佑を呼びに行き、寮生三人は大浴場へ。いつもいっしょに入っているのだ。
「俊平ちゃん、覗きに行かないのかい? 絶好のチャンスだよ」
愛子さんはにこにこ顔で問い詰めて来た。
「すっ、するわけありませんよ」
俊平は慌て気味にやや強く主張する。
「おう、おらの思った通りの紳士だねえ」
愛子さんはハハハッと笑う。
「俺、荷物の荷解きをして来ます」
俊平は居た堪れなくなったのか、早足に彼に割り当てられた204号室へ向かっていった。机、布団、収納ケースといった必需品は元から用意されてあったため、彼が持って来た荷物は中くらいのダンボール三箱分だけで済んだ。そのため引越し業者に頼まず、宅配便で済ますことが出来たのだ。主に衣服と書籍と学用品が詰められてある。
制服とその他の小さな荷物は通学鞄に詰めて俊平が自分で運んだ。
五分ほどで荷解きを済ませたあと、イスに腰掛け一息つこうとしたら、
「俊平ちゃん、ちょいとお盆片付けるのを手伝ってくれないかい?」
階段下から愛子さんの叫び声が聞こえて来た。
「分かりました」
俊平はすぐに返事をし、ロビーへと向かう。そのあと愛子さんに台所へ案内された。
「俊平ちゃんは背ぇ高いし、これをあそこに置いてくれないかね。おらじゃ、手が届かないんでね」
愛子さんは食器棚を見上げながらお願いする。彼女の背丈は一四五センチほどだった。
「俺、同世代じゃ小柄な方ですよ」
俊平は照れくさそうに言いながらお盆を受け取り、床からの高さが一八〇センチほどの所にある収納スペースにしまってあげた。
「さっぱりしたー、アイス、アイスーッ」
ちょうどその時、風呂から上がった琴恵がここへ駆け寄ってくる。
「うわぁっ!」
俊平は思わず目を背けた。
「こりゃこりゃ琴恵ちゃん、バスタオル一枚で歩いちゃいけないよ」
愛子さんはにこにこ微笑みながら優しく注意した。
「あっ! いっけなーい。今日からは俊平くんがいるんだった」
琴恵はてへりと笑い、くるりと踵を変えて脱衣場の方へ戻っていく。
「うわっ!」
俊平はとっさに視線を床に向ける。琴恵の桃のようなぷりんっとしたお尻が丸見えになっていたのだ。
☆
「さっきはごめんね、俊平くん」
二分ほどのち、パジャマに着替えた琴恵は再び戻ってくる。
「俊平さん、琴恵さんがご迷惑をおかけしたみたいで申し訳ないです」
「……」
フルールと茉佑もそれからすぐに台所にやって来た。この二人は最初からパジャマを着込んでいた。
なんか、女の子特有のいい匂いが……。
寮生三人の体から漂ってくる、ラベンダーやミントのシャンプーや石鹸の香りが、俊平の鼻腔をくすぐっていた。
「俊平くん、ここの寮には、とっておきの場所があるの。私について来て」
「べつに、いいけど……」
俊平は琴恵に招かれるままに大浴場へと足を進める。大浴場の浴室には、俊平はさっき入浴したさいは特に気にならなかったが裏庭へ通じる柿色の横開き扉があったのだ。
俊平と琴恵は出てすぐの所に並べられてあった草履を履いた。
「裏庭もけっこう広いんだね」
「旅館時代はここに露天風呂があったらしいよ」
「どうりで」
「俊平くん、前方に石段があるでしょ。あそこを上っていけば、神戸の夜景が見られる絶景スポットに辿り着くの」
琴恵は手で指し示す。
浴室を出てさらに二〇メートルほど北へ進んだ所にそれはあった。
琴恵を先頭に一段ずつ登っていく。数メートル置きにある外灯が足元を照らしてくれているおかげで、二人は夜道を難なく歩くことが出来た。
「ハァハァ……なんか、登山、してるみたい。勾配がきつい」
二百五十段くらい登った頃には、俊平はかなり息が切れていた。
「六甲山の中だからね。もうあと少しだよ。頑張って俊平くん」
琴恵はまだ余裕の表情だった。体力はけっこうあるらしい。
「さあ着いたよ、俊平くん」
三百段ちょっと上がった所に、展望台兼休憩所があった。
「これも和菓子の形になってるんだね」
「本当に食べれそうでしょ? ここは近所の人の散策コースにもなってるけど大評判だよ」
そこに建つあずまやは、屋根が栗饅頭。四本の柱がみたらし団子、花見団子、草団子、きな粉団子。円卓がどら焼き、長方卓が菱餅、間を挟む二基の長椅子が梅羊羹と最中を模っていた。
二人は南方向を向いて立ち止まる。
「……すごい。神戸の夜景、写真では何度か見たことあるけど、本物は違うなぁ」
俊平はハッと息を呑んだ。眼下に広がる宝石のように煌く街並み。右手には赤色に光り輝くポートタワー。正面遠くには人工島群が見え、その一つ、神戸空港に飛行機が着陸していく様子も確認することが出来た。東遠方には大阪方面の夜景も窺えた。
「ここは私の一番のお気に入りスポットなんです。寮のお部屋からも一応見えるけど、ここの方がずっと見晴らしが良いので」
琴恵は微笑み顔で嬉しそうに言うや、俊平の手をぎゅっと握り締めた。
「あっ、あのう……」
俊平はびくりと反応した。彼の頬は瞬く間に赤みを増し心拍数もどんどん上がっていく。
「風がすごく気持ちいいね」
「そっ、そうだね」
「俊平くん、この素晴らしい夜景を眺めると、疲れも吹き飛んだでしょ?」
「まっ、まあ、確かに……」
「夜景もいいけど、昼間の景観もすごく良いよ」
「そっ、そう?」
「それじゃ、そろそろ寮へ戻ろう」
「うっ、うん」
俊平と琴恵は手を繋いで並ぶようにして歩き、石段をゆっくりと降りていく。
俺にこんなにも快く接してくれた女の子は、初めてだよ。
俊平は嬉しさ七割、照れくささ三割といった気分だった。
*
鵙池寮ロビーに帰り着くと、
「俊平ちゃん、神戸の夜景は美しかろう?」
愛子さんからさっそく感想を訊かれる。
「はい。写真で見るのとはまた違って、絶景でした」
俊平は満足そうな表情で答えた。
「私は俊平くんとデート出来てすごく楽しかったぁっ♪」
琴恵は満面の笑みでとても嬉しそうに愛子さんに伝える。
「デッ、デートって……」
俊平の表情はやや引き攣った。
「そうかい、そうかい。ところで琴恵ちゃん、キスはしてあげたのかい?」
愛子さんは囁くような声で琴恵に耳打ちする。
「あっ、忘れてたよ。ごめんね俊平くん。私とデートしてくれたお礼だよ」
琴恵はそう言うと俊平の側へずいっと寄り、何の躊躇いも無く俊平のほっぺたに、チュッとキスをした。
柔らかい感触が一瞬、俊平の頬に伝わる。
「…………あっ、あの、しっ、信部さん……」
俊平の頬は瞬く間に熟れたいちごのごとく真っ赤になり、併せて心拍数も急上昇する。あまりに突然のことで放心状態になってしまったようだ。
「この様子じゃ俊平ちゃん、女の子にキスされたのは初めてだったようだね」
愛子さんはにんまり微笑む。
「私も、男の子にしたのは、俊平くんが初めてかな。フルールちゃんや茉佑ちゃんには何回かしたことがあるけど」
琴恵はてへりと笑う。
「おーい、俊平ちゃーん」
「……えっ、あっ、なっ、何でしょうか?」
愛子さんに大声で呼ばれ、俊平はようやく我に帰った。
「俊平ちゃんに鵙池寮管理人としての適性能力を測るために、一つ重大な任務を与えるよ」
愛子さんから突如告げられる。
「どういった、任務なのでしょうか?」
俊平の心拍数は依然高いままだった。
「そうだねえ……これは、琴恵ちゃんから発表した方がいいかな?」
愛子さんがそう言うと、
「俊平くん、お勉強お助けしてね。私、勉強大の苦手なの。高校入ってからはますます成績下がっちゃって。私、この間の中間テスト数学と化学で赤点採っちゃったの」
琴恵は照れくさそうに打ち明けた。そのあと、一学期中間テストの個人成績表を自分のお部屋から持って来て俊平に手渡す。そのプリントには各科目の平均点と個人の得点と偏差値、学年順位が記載されていた。
「化学が平均56点の27点。数Ⅱが59の28点、Bが63の24点か。もう数ⅡB習ってるんだね」
「菖蔭では、数学と英語については中学三年生から高校課程に入るんです。わたし達の学年で数学ⅠAを習ってますよ」
つい先ほどトイレから出て来たフルールが伝える。
「やっぱ中高一貫だから進度が速いんだね」
「そうなんだよ。私、授業速過ぎてついていけないよう」
琴恵は悲しげな表情で嘆く。他の科目についても世界史Aと現国以外は平均点を下回っていた。
「大学受験のことを考えると、早めに全過程を済ませるに越したことは無いと思うけど。俺も高校の数学は中学卒業する頃には独学である程度マスターしたよ」
俊平が爽やか笑顔でこう伝えると、
「それはますます頼もしいよ。さすが神高生だね」
琴恵の顔にホッとした笑みがこぼれた。
「というわけで俊平ちゃん、琴恵ちゃんが期末テストで赤点を回避させることが出来るように、勉強の手助けをしてやってくれないかね」
「はい、分かりました。俺もすでに数ⅡB、よほどの難問でもない限り解けるので」
俊平は快く引き受けるも、
俺に、信部さんに勉強教えることなんて出来るのかな? 今まで人に勉強教えた経験なんてないし。
脳裏に一抹の不安がよぎった。
「フルールちゃんは、ものすごーく頭良いんだよ。これ見て」
琴恵は、フルールの先日行われた中間テスト個人成績表も見せてくる。
「あっ、こら、琴恵さん。勝手に持ち出したらダメでしょ」
フルールは優しく注意する。フルールの中間テスト総合得点は五〇〇点満点中四九五点。学年トップだ。国語九七点、社会九八点で、他の三教科は全て満点だった。
「すご過ぎる……」
それを見て、俊平は驚愕した。彼も学年トップというのは、公立中学時代にある一教科だけでしか取れなかったのだ。
「フルールちゃんは私が中学の頃、九〇〇点満点の期末で取ってた点数よりも高い点中間テストで取ってくるんだよ。私もフルールちゃんの天才的頭脳が欲しいよぅ」
悔しそうに嘆き、琴恵はフルールの頭をなでる。
「わたしはちゃんと真面目に勉強してるもん。琴恵さんは、勉強量が全然足りてないと思うの」
「そうかなあ? 私、一日三〇分は机に向かってるよ」
疑問を浮かべる琴恵に、
「少な過ぎ。高校生の自宅での勉強量は学年プラス三時間が基本よ」
フルールは呆れ顔で再度指摘する。
「そんなに出来ないよぅ。あっ、もう十時過ぎてるのかぁ。今日は眠いからもう寝よ。俊平くん、いっしょに寝よう。私、いつもフルールちゃんと茉佑ちゃんといっしょに同じ部屋で寝てるんだ。毎日が修学旅行気分ですごく楽しいよ」
「俺、それは、無理だな」
琴恵の要求を、俊平は即、かたくなに拒んだ。
「お願い、お願い、俊平くん」
「でっ、でもね……」
「俊平ちゃん、いっしょに寝てあげな」
愛子さんは俊平の肩をポンッと叩き、笑顔で説得する。
「いや、でも……」
「俊平お兄さん、親睦を深めるためにも私達といっしょに寝ましょう!」
フルールも強く要求してくる。
「茉佑ちゃん、俊平くんいっしょに寝てくれる方がいいよね?」
「……」
琴恵からの問いかけに、茉佑はこくりと頷いた。
ミャーォン。
文治郎もなぜか鳴き声を上げた。
「ほらね、俊平くん。フルールちゃんも茉佑ちゃんもいっしょに寝たいって言ってるよ」
「…………分かった」
琴恵ににこにこ顔で言われ、俊平はとうとう引き受けてしまった。
「やったぁ!」
琴恵は大喜びで俊平のお部屋へ駆け込み、押し入れに仕舞われてあったお布団を取り出し自分のお部屋へ運び入れる。
お布団は出入口付近から、一番奥の窓際に向かって一列に四枚並べて敷いた。昨日までは川の字に敷いて茉佑を真ん中、その両隣に琴恵とフルールが挟む配置にしていたらしい。
「俺は、一番端っこで」
「ダメだよ、俊平くん。俊平くんはここっ!」
琴恵は強制的に、窓際から二番目の布団を指定する。
「琴恵お姉ちゃん、あたし、ここ」
「俊平くんのお隣がいいんだね?」
琴恵が確認すると、茉佑はこくりと頷いた。茉佑は、廊下に近い方の布団を指差したのだ。
「……」
俊平はどう反応すればいいのか分からなかった。
「わたし、窓際ね」
「あーん、私も窓際で俊平くんのお隣がいいっ!」
フルールの希望に、琴恵も譲らず。
「俊平お兄さん、わたしと琴恵さん、どちらにお隣になって欲しいですか?」
「……えっ、えっと……」
俊平は返答に窮する。
「俊平くん、私だよね?」
「わたしですよね?」
琴恵とフルールに腕を引っ張られる。俊平は今、両手に花の状態だ。
「あの、布団を、一列に並べるんじゃなく、山の字に敷けば、いいんじゃないかな? それで、俺が下側の一の字の部分に寝れば、みんな平等に俺の隣になるかと……」
「それはいいアイディアですね」
「俊平くん、天才! さすが神高生だね」
俊平のとっさの思いつきにフルールと琴恵は大賛成した。琴恵が布団を並べ替え、事態はあっさり収まる。昨日までの配置の枕元に俊平の布団を横向きにして敷くという配置だ。
信部さんのお部屋、やっぱ女の子らしいな。甘いお菓子の香りもぷんぷんするし。
この部屋をよく見渡してみて、俊平はそんな第一印象を抱いた。
ピンク地白の水玉カーテン、本棚には少女マンガなどが合わせて二百冊ほど。学習机の周りには鯛焼き、お団子、羊羹、ケーキ、ドーナッツ、アイスクリーム、いちご、みかん、バナナなんかを模ったスイーツ&フルーツアクセサリー、ゆるキャラ系の可愛らしいぬいぐるみ、着せ替え人形、オルゴールなどがたくさん飾られてあり、女子高生のお部屋にしては幼い雰囲気だった。
「おやすみーっ、俊平くん」
「おやすみなさい、俊平お兄さん」
「……」
寮生三人がお布団に潜ったあとに、
「おっ、おやすみ」
俊平は長い紐を引いて電気を消してあげ、自身もお布団に潜り込んだ。
それから三〇分ほどして、
「……眠れない」
俊平は天井を見つめながら硬い表情で呟く。
寮生三人はもう、すやすや寝息を吐きながらぐっすりと眠っていた。
俊平が眠り付けたのは、布団に入ってから一時間半以上が経ってからだった。
ともあれ、俊平の鵙池寮管理人体験初日の夜は静かに平和に更けていく。
☆
翌朝、午前六時二〇分頃に自然に目が覚めた俊平は、まず自分のお部屋に向かい、実家から持って来た私服に着替えた。
続いて脱衣場へ向かい、顔を洗ってから台所へ。
「おはよう、ございます。おばあちゃん」
先に起きて朝食の準備をしていた白割烹着姿の愛子さんに、緊張気味に挨拶する。
愛子さんは、いつも五時頃には起きるそうだ。
「おはよう俊平ちゃん、昨夜はよく眠れたかい?」
「いやぁ、それほどは。朝起きたら、ルクレールさんが俺の布団に潜り込んでいて、かなり焦りました」
俊平は一度あくびをしてから打ち明けた。
「ハッハッハ、あの子、一番しっかり者だけど、案外甘えん坊さんだからね。今でも一人じゃ寝られないんだよ。まだ茉佑ちゃんが来てない頃、琴恵ちゃんが野外活動へ行っていない時なんか、おらといっしょに寝てたんよ。まあ、これからもあるだろうけど、そのうち慣れてくるさ」
愛子さんは大きく笑いながら言う。
「そうでしょうか? 俺は不安です。ところで、中庭に接してる廊下の屋根が、落雁やおこしや有平糖や甘納豆を模ってるのも趣がありますね」
「気に入ってくれたようだね。俊平ちゃんのお部屋からだとよう見えただろ?」
「はい。記念に写真も撮っておきました。あの、おばあちゃん。俺も何かお手伝いしましょうか?」
「おう、やってくれるのかい。本当に俊平ちゃんはいい子だねえ」
「いえいえ」
俊平は謙遜した。
「そんじゃあ、これをつけてくれないかい」
愛子さんは黒の割烹着を手渡す。
「分かりました」
俊平はすぐに装着した。
「よう似合ってるよ」
愛子さんは優しく微笑みかける。
「そうで、しょうか?」
「俊平ちゃん、卵焼きは作れるかい?」
「まあ、一応は……」
俊平はそう言うと、調理台に出されてあった卵をボールに割り入れ、塩、コショウをまぶし菜箸でかき混ぜる。続いてガスコンロの火を付けて四角いフライパンにサラダ油を引き、溶き卵も垂らしていく。
「なかなかいい筋をしてるね、俊平ちゃん」
愛子さんは並行して他のメニューも作りながら、楽しそうに観察していた。
「まあ、俺、家でもたまに料理手伝ってますし」
俊平はちょっぴり俯き加減で照れくさそうに言う。
卵焼きは六人分完成させた。琴恵のお弁当の分も作っているからだ。中学部では給食があるため、作る必要は無いと愛子さんは説明する。
二人で協力して、出来上がったメニューの数々をお皿やお茶碗、お椀に盛り付け、ロビーにあるダイニングテーブルへと運んでいった。
愛子さんは文治郎の朝食メニュー、鯖の缶詰も蓋を開けて床に並べた。
ミャーォ。
すると蓋を開ける音に反応したのか、すぐさま文治郎が管理人室から飛び出して来て駆け寄って来た。文治郎が夜寝る時は、愛子さんと同じ管理人室にいるらしい。
食事と、お箸とスプーンも並び終えほどなくして午前七時、鵙池寮での起床時刻となった。琴恵のお部屋からヒンカラカラカラ♪ ヒンカラカラカラ♪ と駒鳥の鳴き声な目覚まし時計の鳴り響く音が聞こえてくる。
「琴恵さん、起きてーっ!」
その音が止むと、すぐさまフルールの声がこだました。
「まだ眠いよぅ。あと一分だけでもぉー」
「ダメ、ダメ。茉佑さんはもう起き上がってるよ。ほらっ!」
「あーん」
琴恵がぐずっている様子が、ロビーからも分かった。
「確かにルクレールさん、しっかりしていますね」
俊平は感心する。
それから数分のち、
「おっはよう、俊平くん、お婆ちゃん」
「おはようございます。俊平お兄さん、愛子お婆さん」
「おはよー」
三人とも身支度を済ませてロビーにやって来た。
「おう、おはよう」
「おはよう、ございます」
愛子さんと俊平は挨拶を返す。みんなは昨日と同じ配置で椅子に座った。
「あっ、あの、桝谷さんは、今日は、学校お休みなのかな?」
気になったことがあり、俊平は茉佑に、少し緊張しながら初めて話しかけてみた。
「!! うっ、うん。中学部の二年生は、今日はお休みなんだ」
茉佑はびくっと反応した。制服姿の琴恵とフルールに対し、茉佑は私服姿だったのだ。
「違うでしょ、茉佑さん。俊平お兄さん、この子は今、不登校になっちゃってるの。一年生の二学期頃からほとんど教室へ行ってないのよ。二年生になってからは始業式の日に行ったきりで」
フルールは困惑顔で伝える。
「そうなんですか……」
訊いちゃいけないこと訊いちゃったかな?
俊平は罪悪感に駆られた。
「まあまあ、フルールちゃん。茉佑ちゃんも時たまは保健室登校してるんだし。では、おあがり」
昨日の夕食時と同じく愛子さんからの食前の挨拶があり、朝食タイムが始まる。
「茉佑ちゃんも何とか教室まで行けるようになれるよう努力してるよ。そういや今日の卵焼き、いつもと少し味が違うような。お婆ちゃん、お塩多めに入れた?」
琴恵はきょとんとした表情で突っ込んだ。
「今日の卵焼きは、俊平ちゃんが作ってくれたのさ」
愛子さんは伝える。
「まあ、ほんの、少し手伝っただけだけど……」
俊平は照れてしまったのか下を俯く。
「そうなんだ! 俊平くん、お婆ちゃんに匹敵するくらいすごく美味しかったよ。また作ってね」
「俊平お兄さん、ぜひともお願いします」
「うっ、うんっ」
琴恵とフルールに褒められ、俊平の頬の赤みはより一層増した。
「それじゃ、お婆ちゃん、俊平くん、茉佑ちゃん、文ちゃん、行って来まーすっ!」
「行って来ます」
琴恵とフルールは午前八時頃に鵙池寮を出た。ここから学校へは約一キロ、徒歩十五分ほどらしい。
「ほな食器洗いを始めるかね。俊平ちゃんは、脱衣場に置いてある洗濯物を洗濯機に入れて回してくれないかい?」
「はい」
俊平は返事をすると、足早に脱衣場へ向かっていった。
「あっ、あのう、おばあちゃん。ちょっと、困ったことが……」
しかし数十秒後、すぐに戻って来た。台所でお皿洗い真最中の愛子さんに伝える。
「茉佑ちゃん、あとはやってくれないかい?」
「はーい」
茉佑は笑顔で対応した。
こうして愛子さんも脱衣場へ。
「あれ、なのですが……」
俊平は洗濯籠を指し示す。
籠の中には、動物の絵柄がプリントされたものと、水玉模様のショーツが入れられてあったのだ。そして真っ白なブラジャーが二枚。さらに汗がいっぱいしみ込んだ夏用体操服上下も一着あった。それはフルールのものであることがゼッケンから分かった。
昨晩最初に風呂に入った俊平の洗濯物は、一番下に埋もれてしまっていた。
「ハッハッハ、俊平ちゃんも男の子だねえ。さすがに女の子の洗濯物はまずいかね」
愛子さんはそう言うと寮生三人の他、俊平の分も合わせて洗濯物を両手で抱え込み、洗濯機の中へ入れた。そしてテキパキとした動作で洗剤を入れ蛇口を回し、スタートボタンを押す。
「ありがとう、ございました」
俊平はその手際の良さに舌を巻きながら、お礼を言った。
「こりゃ悪かったね。でもあの子達、きっと俊平ちゃんに触られること全然気にしてないだろうから、俊平ちゃんも堂々と触ればいいさ」
愛子さんは笑顔で言い張る。
「いえいえ、そのようなことは絶対出来ません」
俊平は照れくさそうに宣言した。
「紳士だねえ」
愛子さんは再び笑う。
同じ頃。
「おはようございまーすっ、信部先輩、フルルン」
通学路を進んでいた琴恵とフルールは、瑞帆に挨拶された。面長でおでこが広く、ポニーテールに束ねたしなやかな黒髪が特徴的な子だ。
「おっはよー、瑞帆ちゃん」
「おはよう、瑞帆さん」
琴恵とフルールは爽やかな声で返す。瑞帆と通学途中で会うことはわりとよくあることなのだ。
「ねえ、昨日新しい管理人さん来たんやろ。信部先輩とフルルンとマユちゃんのとこって、すごくこぢんまりとした寮やから賑やかになったんじゃない?」
「いや、ほとんど変わってないわ。助野俊平さんっていうお方なんだけど、おしゃべりな感じでもなかったので」
「そっか。身長はどれくらい?」
「一六〇センチ台半ばくらいかな」
「ワタシ一六四やからいっしょくらいかぁ。お歳は?」
「十五歳で高校一年生よ」
「そうなんや。信部先輩と同学年なんやね。肉食系か草食系かでいうたら、やっぱ草食系になるんかな?」
「まあ草食系ね」
好奇心旺盛に尋ねてくる瑞帆の質問に、フルールは淡々と答えていく。
「なんか純粋な人っぽい」
瑞帆は目をきらきら輝かせた。
「当たってるよ。俊平くんはとても純粋な人だよ」
琴恵はにこにこ顔で言う。
「お会いしたいなぁ」
瑞帆は二人のお顔を交互に見つめ要求してくる。
「もちろんいいよ。ぜひ会いに来てね」
「わたしはべつにいいんだけど、俊平お兄さんがどう思われるかな?」
快く承諾した琴恵に対し、フルールは少し躊躇いがあった。
「やったあっ! おめかししていこっかなぁ」
それをよそに瑞帆は大喜びする。行く気満々な様子だ。
☆
八時五〇分頃、鵙池寮。
脱衣場の洗濯機からピー、ピー、ピーと、終了を知らせるアラームが鳴り響く。
「俊平ちゃん、これをハンガーにかけてくれないかい?」
愛子さんは蓋を開けると寮生三人の下着類を中から取り出し、俊平の目の前にかざす。
「おっ、おばあちゃん、それは、ですね……」
俊平はとっさにそれから目を背けた。
「本当に純粋な子だねぇ。でも俊平ちゃん、これが触れないようじゃ、ここの寮の管理人は務まらないよ。気にせず触ってごらんよ」
愛子さんは俊平の目の前に近づけ、笑顔で勧めてくる。
「わっ、分かり、ました」
俊平は強い罪悪感に駆られながらも、恐々と手に掴んだ。
「――っ!」
瞬間、彼の心拍数は急激に上がった。ここの管理人候補になるまでずっと女の子とは無縁の人生を歩んで来た俊平にとって、刺激がかなり強過ぎたようだ。
「顔、赤くなってるね」
愛子さんは笑顔のまま指摘する。
「そりゃ、なりますって」
俊平は機敏な動作でそれらをハンガーに吊るしていった。その間に愛子さんは寮生三人の靴下など他の洗濯物、自分の分と俊平の分をテキパキと吊るし終えていた。
このあと裏庭の物干し竿に掛けていく。もちろん茉佑と愛子さんも手伝ってくれた。
「今日はいい天気だねぇ」
愛子さんは澄み切った青空を見上げながら柔和な表情で呟く。
「そうですね。それに、けっこう、暑いですね。わっ! 桜餅そっくりな形になってるのがありますけど、あれは物置でしょうか?」
俊平は見つけた瞬間ちょっぴり驚く。
「その通りさ。物置小屋は五年くらい前にこの形に改装したんだ」
愛子さんは楽しげに伝える。
「そうでしたか。昨晩は暗くて気付けませんでした。少し透けて見える餡子の色合いや餅の粘り感も見事に再現されてますね」
俊平は近寄って周囲をぐるっと一周して触ってもみたりした。
餅が玉状な道明寺型となっていて、高さは二メートルくらい。餅の両側はしっかり見えるように巻かれた、桜の葉の塩漬けを模った部分が出入口となっていた。
「あっ! そろそろ始まる時間だ」
茉佑はスカートポケットから携帯電話を取り出すや否やそう呟いて、裏庭からロビーへ駆け寄る。ソファーに座り込むと、座卓上に置かれてあったリモコンを手に取りテレビのスイッチを入れ、お目当てのチャンネルに合わせた。
テレビ画面左上には、8:59という表示。何かの番組のEDが流れている最中だった。それが終わり九時ちょうどになると、今度は乳幼児向けの教育系番組が始まった。
茉佑は瞬きもほとんどせず、熱心に見入る。
「あのう、桝谷さんは、こういう番組が好きなのかな?」
「うん! 大好き♪」
ロビーへ戻って来た俊平がやや緊張気味に話しかけると、茉佑はえくぼまじりの笑みを浮かべ、嬉しそうに答えてくれた。
「そっか。俺はこういう系の番組見たの、十年振りくらいかも」
俊平もソファーに腰掛け、視聴してみることにした。
*
たまには、こういうアニメもいいな。最近は萌え系の深夜アニメばっかり見てて、こういう幼い子ども向けの絵柄のやつは見なくなってたし。
十五分の番組を見終えて、俊平はそんな心境に陥る。先ほどやっていた番組は、擬人化された果物や野菜やお菓子などが登場するクレイアニメだった。
「ねーえ、俊平お兄ちゃん」
「!! なっ、何かな?」
いきなり茉佑に甘えるような声で話しかけられ、俊平は少し動揺した。
「あたしのお部屋に来て」
茉佑は服をぐいっと引っ張ってお願いしてくる。俊平は招かれるままに茉佑のお部屋へ足を踏み入れた。
出入口引き扉側から見て一番奥、窓際に設置されてある学習机の上はきちんと整理されていて教科書やプリント類、ノートはきれいに並べられていた。サンタクロースのお人形さんやビーズアクセサリー、クマやウサギ、コアラ、リスといった可愛らしい動物のぬいぐるみもたくさん飾られてあり、カーテンはピンク系の水玉模様。女の子のお部屋らしさが琴恵のお部屋以上に感じられた。本棚には幼稚園児から小学生向けの少女漫画誌や少女コミック、児童図書、絵本、アニメ雑誌、ラノベなどが合わせて二百冊以上は並べられてある。普通の女子中学生が好みそうなティーン向けファッション誌は一つも見当たらなかった。
「桝谷さんは、読書が好きなんだね?」
俊平はお部屋を見渡しながら尋ねてみた。
「うん。読むのも大好きだけど……じつはあたし、趣味で小説を書いてるんだ。あたし、ちっちゃい頃から物語を作るのが大好きで」
茉佑は俯き加減で、照れくさそうに打ち明けた。
「そっ、そうだったんだ」
俊平は意外に思ったようだ。
「おかしいかな?」
「いやいや、そんなことないよ。じつは、俺も……」
「えっ!? 俊平お兄ちゃんも小説書いてるの?」
茉佑は目を大きく見開いた。
「うん、時々気が向いたら書いてる。ラノベの新人賞にも中学の頃一度だけ応募したことがあるよ。一次であっさり落選したけどね」
俊平が苦笑いして打ち明けると、
「そうなんだ。あたしの書いた小説、ちょっとだけ見せてあげるね」
茉佑は満面の笑みを浮かべて、マイノートパソコンを立ち上げた。
「これ、先月の童話賞に投稿したやつ。エビさんと、天敵のタコさんが、仲良くなっていくお話なんだけど……」
マイドキュメントに保存されていたテキストデータを開き、照れくさそうに伝える。
俊平は全文に目を通してみて、
「素敵なお話だね。とっても面白かったよ」
率直に感想を述べてあげた。
「ほっ、本当? お世辞じゃない?」
茉佑は上目遣いで尋ねてくる。
「うん、俺にはこんなに良い作品は書けないから。桝谷さんはすごい文才があるよ」
「ありがとう、俊平お兄ちゃん。あたしが小説書いてること、褒めてくれて嬉しい。学校ではバカにしてくる子も多かったから。俊平お兄ちゃんは、あたしの書いた小説を褒めてくれた小学校の時の先生に似てるの」
茉佑はそう打ち明け、俊平の背中に抱きついた。
「そっ、そうなんだ」
俊平はちょっぴり焦る。
「あたし、お絵描きも大好きだよ」
茉佑は続いて学習机の本棚からB4サイズのスケッチブックを取り出し中身を見せてくれた。ライオン、ゾウ、キリン、ウサギ、リスといった動物さんの絵を中心に、メルヘンチックに描かれていた。
「とっても上手だよ。俺よりも上手だよ」
俊平はじっくり見て褒めてあげる。
「ありがとう、俊平お兄ちゃん」
茉佑は急に照れくさくなったのか、スケッチブックをパタリと閉じた。
「俊平お兄ちゃんも絵、描くの好き?」
そのあと照れ笑い顔で質問してくる。
「うん、めっちゃ好きだよ」
俊平は爽やか笑顔で答えた。
「ますます嬉しいな♪ あたし、今度はラノベの新人賞に初めて応募するつもりなんだ。長編小説に初挑戦するの。まだ四百字詰め原稿用紙換算で、三百枚以上も書ける自信は無いけど。俊平お兄ちゃん、何かいいアイディアない?」
茉佑は興奮気味に問いかける。
「うーん、ラノベにおいて学園物やファンタジーバトル物、退魔物、VRMMO物、異世界転移転生チーレム物はありふれ過ぎてるし、吸血鬼、ゾンビ、ドラゴン、ゴーレム、妖精、勇者、魔王魔女、亜人獣人、神様、生徒会、執事、探偵、メイド、アンドロイド、異星人美少女キャラなんかが登場するってのもまた使い古されてると思うし、主人公の設定も俺TUEEEな男子中高生で、ツンデレ風の幼馴染ヒロインと、やたらからんでくる男友達がいるっていうのは、定番過ぎると思う」
「確かにそうだよね。そういう設定は使わない方が無難だよね」
「いやぁ、そういうのがダメってことはないけど、似たタイプの作品が多いってことだから受賞するにはかなりハイレベルなクオリティが求められると思うなぁ。俺は独自性を強く出すことが重要だと思う。今までのラノベには見られなかったような、新しいタイプの作品を生み出すことが新人賞では有利になるんじゃないかな。主人公に関しても中高生向けだからといって中高生を主人公にしなきゃいけないって決まりはないと思うよ。まあ、その場合も読者が感情移入しやすい、共感を持てる、憧れを抱けるキャラクター像であることが大切だろうけど」
俊平は生き生きとした表情で楽しそうに長々とアドバイスしてあげた。
「つまり、斬新なアイディアを出して、今までに無いようなタイプの作品を書くことが、受賞への近道なんだね。九月末締切りのやつを目指して頑張るぞぉーっ!」
茉佑は投稿用次回作に向けて考えを廻らせる。
「じゃ、邪魔にならないように、俺はこれで……」
「見ててもいいんだけど、気を遣ってくれてありがとう」
「いやいや、どういたしまして。頑張ってね」
俊平はエールを送って静かに茉佑のお部屋から出て行き、自分のお部屋へ。
桝谷さん、こういう一面もあるんだな。俺のこと嫌ってなくてよかったよ。俺と趣味も合うし、今後も嫌われないように気を付けなきゃな。
ホッとした気分で机に向かい、英語の課題プリントを片付け始める。
数分のち、彼のスマホ着信音が鳴り響いた。
「母さんからか」
俊平は三回目で通話アイコンをタップする。
『俊ちゃん、管理人のボランティアは楽しくやれとう?』
「うん、管理人さんはとても良い人だし、寮生もみんなすごく良い子達ばかりだったから、めっちゃ楽めてるよ」
『この弾んだ声の調子だと、本当に楽しめとうようね』
母はホッと一安心して喜んでいるようだった。
☆
正午過ぎ。
「茉佑ちゃん、俊平ちゃん。お昼ご飯出来たよ。食べに来なー」
一階から愛子さんの声がかかると、自室にいた俊平と茉佑は同じようなタイミングでロビーへ降りていく。
ダイニングテーブルに、親子丼が三皿並べられていた。
向かい合って座った俊平と茉佑、
「ではおあがり」
「いただきまーすっ!」
「いただきます」
愛子さんからの合図でお箸を手に取り、食事を進める。
「あっ、桝谷さん。ほっぺたにご飯粒が」
「あっ、いっけない」
俊平に指摘されると茉佑は照れくさそうに呟き、自分の手で取った。
「茉佑ちゃん、いつも以上にいい笑顔だね。俊平ちゃんのこと、好きかい?」
「うん! 大好きぃーっ!」
愛子さんの問いかけに、茉佑はとても嬉しそうに答えた。
「うぐっ……ケホッ、ケホッ」
俊平はむせてしまったようだ。
「俊平お兄ちゃん、大丈夫?」
茉佑は俊平のお顔を覗き込んで、心配そうに尋ねる。
「だっ、大丈夫です」
俊平は苦しそうに答える。
「ハッハッハ」
愛子さんは微笑ましく俊平を眺めた。
ちょうどその時。ピロピロピロリン♪ ピロピロピロリン♪ と、茉佑の携帯の着信音が鳴り響いた。
「凛々菜からメールだ」
件名を見て、茉佑は嬉しそうに叫ぶ。
「お友達?」
俊平は尋ねてみる。
「うん!」
「茉佑ちゃんと、中学入った頃から仲の良い子だよ」
愛子さんは加えて説明してくれた。
茉佑はわくわくしながらメールの中身を開く。
《やっほー、マユちゃん (^_^) 元気? 今日、調理実習でカスタードプリン作ったよ♪》
画像も添付されていた。
《元気だよ、リリナ(*^_^*)》
茉佑はすぐに返信した。
凛々菜は毎日のように、茉佑に学校であった出来事とかを伝えてくれるらしい。
《プリントけっこう溜まってるよ。渡したいから、今日遊びに行っていい? 新管理人さんにもお会いしたいし》
十数秒後、その子からまたメールが届く。
《もちろんオッケー(*^。^*)》
またすぐに返信した。
それからさらに数分後、
ルルルルルルルルゥ♪ ルルルルルルルルゥ♪
今度はロビー壁際設置の固定電話の着信音が鳴り響く。
「茉佑ちゃん、先生からだよ」
ディスプレイに表示された電話番号を見て、愛子さんは伝える。
「はーい」
茉佑は嬉しそうに駆け寄り、受話器を手に取った。
「もしもし」
『あっ、桝谷さん。先生よ、元気にしてる?』
「はい。とっても元気です」
『なんだかいつもよりいいお声してるね。そういえば確か昨日、新しい管理人さんが来たんでしょ?』
「はい。すごくいい人でした」
『それはよかったわね。先生もそのお方にご挨拶したいから、今日お伺いしてもいいかな?』
「はい。もちろんいいですよ」
『楽しみにしてるわ。じゃあね、桝谷さん』
電話の相手は茉佑の担任、上垣先生だった。
「俊平お兄ちゃん、今日の夕方、凛々菜と担任の上垣先生が来るって」
受話器を置いたあと、茉佑は俊平に向かってこう伝えた。
「なんか気まずいなあ。制服に着替えた方が良さそうだ」
「学校内じゃないんだから、そんな堅苦しい格好する必要は無いさ」
愛子さんはにこにこしながらアドバイスした。
「普段着のままの俊平お兄ちゃんでもじゅうぶん格好いいよ」
「そっ、そうかなぁ」
茉佑に称えられ、俊平は照れくさそうな表情を浮かべた。
*
昼食後、俊平は愛子さんに呼ばれ談話室へ。
ここも和室だった。十畳の広さで、大きな漆塗り長方形ちゃぶ台と、それを囲むように座布団が八つ敷かれてある。ちゃぶ台の上には比較的新しいノートパソコンが一台。
「俊平ちゃん、パソコンで家計簿を付けてくれないかい? 今までずっと手書きでやって来たけど、パソコンの方が便利だと思って、家計簿ソフトをインストールしてたんだよ。先月分と今月分だけでいいから、写してくれないかね」
愛子さんは機嫌良さそうに、これまで使っていた家計簿手帳を俊平に手渡す。
「それくらいなら、一応、出来ると思います」
俊平は自信なさげに答え、パソコン前の座布団に腰掛けた。
起動中のソフト表示画面に、家計簿手帳の数値を見ながら水道光熱費や日用品費、通信費、交際費、食費、寮生から徴収した家賃などの収入支出額を慎重に入力していく。最近はずっと黒字が続いている。提携寮にしたことで、学校などから助成金や寄付金などが支給されるようになったためだ。鵙池寮では、寮生が一人でも入寮してくれれば黒字となり運営は十分成り立つらしい。
「おう、ばっちりじゃないか。やるねえ俊平ちゃん」
愛子さんはとても喜んでいた。
「いえいえ、それほどでも。俺の高校、普通科なので簿記の知識全くないですよ」
俊平は謙遜の態度を示した。
「こぢんまりとした寮だからお金もあまり動かないし、簿記の知識は特に必要ないさ。家計簿の記入は、これから俊平ちゃんに任せるよ」
「えっ! いいんですか? 高校生の俺なんかがこのような、寮にとって非常に重要な業務に携わってしまって」
「もちろんさ。俊平ちゃんはとっても優秀な子なんだから、もっと自分に自信を持ちなよ。次はトイレ掃除と裏庭の草むしりをしてくれないかね?」
「はい、分かりました」
愛子さんから次の作業を頼まれると、俊平は快く引き受けた。彼が入居したことで男女共用となったトイレに入ると、ウォシュレット機能付き洋式便器後ろの棚に置かれたウェットティッシュを手に取る。
「そんなに汚れてないな。俺もきれいに使わないとな」
便器周りを拭いていると、
「……これは、触らない方が絶対いいよな?」
扉側隅に置かれた白色のサニタリーボックスが否応なく視界に入ってしまう。
それは無視しておいて、引き続き便器周りの清掃作業を進めていく。便器の中へ洗剤スプレーをシュッシュとふりかけ、ブラシで黄ばみを擦って水を流した。
そのあとは台所の戸棚から軍手とゴミ袋を取り出し、裏庭へ。
「ん?」
雑草を抜いている最中、俊平はぴくりと反応した。木の陰からガサゴソガサゴソと物音がして来たのだ。
どっ、泥棒?
俊平はびくびくしながら、林へと恐る恐る歩み寄る。そこにいたのは、全身がブラウンヘヤーに覆われ、四本足、扁平なお鼻をしていた野生動物。
「イッ、イノシシ!?」
正体が分かると俊平は仰天した。
成獣のイノシシは俊平の声に反応したのか、ピクッと反応し俊平の方を向いた。
そしてトコトコ追いかけて来たのだ。
「うわぁっ!」
俊平は時折後ろを振り返りながら、必死に逃げ惑う。
イノシシはフゥフゥ鼻息を荒げながら、俊平を追いかける。
俊平は大浴場を通り抜け、廊下を駆け抜けロビーの方へ。イノシシもあとに続く。
「おや、俊平ちゃん」
ロビーの掃き掃除をしていた愛子さんは、俊平の方を振り向いた。
「おばあちゃん、イッ、イノシシが……」
俊平は逃げ惑いながらすぐ後ろにいるイノシシを手で指し示す。
「おやまぁ、また遊びに来たのかい」
愛子さんは爽やかな笑顔だった。
「あっ、あの、おばあちゃん。なんとかして、いただけないでしょうか?」
俊平とイノシシはダイニングテーブルの周りを何週も走る。
「おらに任せな」
愛子さんは冷静に、竹箒をイノシシのお鼻目掛けて突きつけた。
イノシシはビクッと反応し、ピタッと動きを止めた。
「山へ帰りな」
愛子さんがそう命令すると、イノシシは理解出来たのかくるりとターンし、大人しくロビーから出て行き裏庭の方へ向かっていった。
「ハァハァハァ……あっ、ありがとう、ござい、ました。まさかイノシシが、出るとは」
俊平は息を切らす。彼の目は点になっていた。
「ここではイノシシなんて日常茶飯事さ」
愛子さんは豪快に笑いながら言う。
「条例でイノシシにはエサをあげちゃダメみたいだよ。あたし、中庭の鯉さんみたいにあげたくなっちゃうけどな」
茉佑は残念そうに呟く。
六甲山地の麓にあるこの場所では、イノシシの出没は珍しくないらしい。
俊平は、次に任された花の水遣りと風呂掃除も快くこなしていく。
全ての作業を終えた頃には午後四時を少し回っていた。
「俊平ちゃん、すまなかったねぇ。重労働させ過ぎてしまって」
「いえいえ、とても充実した作業でした。楽しかったです」
申し訳なさそうにしていた愛子さんに、俊平は満足げな表情で伝えてソファーに腰掛ける。
その時、茉佑もソファーに腰掛けていて、教育系の子ども向け番組を楽しそうに眺めていた。
愛子さんからおやつに振る舞ってもらった高級芋羊羹を、俊平は茉佑といっしょに味わいながらしばしくつろいでいると、ピンポーン♪ と玄関チャイムが鳴らされた。
「はいはい」
愛子さんが玄関扉を開け、対応する。
「こんばんは」
「桝谷さん、来たわよ」
二人の来客に、
「おやおや、いらっしゃい」
愛子さんは笑顔で出迎えぺこりとお辞儀した。
「いらっしゃーい!」
茉佑はすぐさま立ち上がり、嬉しそうに玄関へ駆け寄る。来客は、上垣先生と凛々菜だった。
「俊平ちゃん、こちらが上垣先生だ。もう一人がお友達の凛々菜ちゃん」
「ワタクシ、二年三組担任の上垣加奈子と申します。はじめまして」
「はじめまして、アタシ、胸永凛々菜です」
上垣先生と凛々菜は俊平の方を向いて自己紹介し、ぺこりとお辞儀した。
「はじめ、まして。俺、この度、この鵙池寮の、新しい管理人を短期のボランティアで勤めさせていただくことに、なりました。助野俊平と、申します」
俊平は舌を噛みそうになりながら挨拶し、深々と頭を下げた。
「かなり若いお方で、とても誠実そうなお方ですね」
上垣先生は俊平のことを褒めてくれる。四〇歳くらいの女性。小顔でぱっちりした瞳、濡れ羽色に美しく輝く髪をフリルボブにし、とてもお淑やかそうな感じのお方だった。
「いえいえ、そんなことは……」
俊平はいつもの癖で謙遜してしまう。
「このお方が新しい管理人さんかぁ」
凛々菜は俊平のお顔をまじまじと見つめる。凛々菜は茉佑より五センチほど背が高く、丸っこいお顔をしていて、後ろ髪は水色地白の水玉ダブルリボンでお団子風にまとめられていた。
「あっ、どうも」
俊平は軽く一礼する。
「クリエイターさんっぽさを感じます!」
凛々菜は興奮気味に彼の第一印象を伝えた。
「そっ、そうかな?」
「そう思うでしょ? 俊平お兄ちゃんはあたしや凛々菜と同じで小説や絵、描いてるもん」
茉佑は嬉しそうに伝える。
「そうなんですか! 趣味が合いますね」
「そっ、そうだね」
屈託ない笑顔でしゃべる凛々菜を眺め、めちゃくちゃかわいいな。と俊平は思った。凛々菜から感じられる初々しさに惚れてしまったのだ。
「小説や絵の創作は先生もとても素晴らしい趣味だと思うわ。先生も何か書いてみようかしら。ところで桝谷さん、課題はちゃんと仕上げてるかな?」
「はい。当然出来てます」
上垣先生からの質問に、茉佑は笑顔でそう答えると一旦自分のお部屋へ向かい、言われた物を取りに行った。
「宿題を提出させてるんですね」
俊平はちょっぴり感心していた。
「はい。公立校とは違い、中学でも退学処分となってしまいますので」
上垣先生は不登校の茉佑のために、各教科の問題集や課題プリントを提出させているとのこと。そのため茉佑の学力は特に問題ないらしい。技術・家庭科、美術、音楽といった副教科の課題もさせており、定期テストは保健室で受けさせているとのことだった。
「はい、先生。どうぞ」
茉佑は戻ってくると、上垣先生に言われた提出物を手渡す。
「ありがとう。桝谷さん、一時限だけでもいいから、出席してくれたら嬉しいな」
「教室内には、入りたくないです」
上垣先生がそう伝えると、茉佑は暗い表情を浮かべてしまった。
「そっか。ごめんね。それじゃ、先生はそろそろお暇致するね」
上垣先生はちょっぴり寂しそうに挨拶して帰っていく。
凛々菜はこのあと二十分ほど、ロビーで茉佑といろいろおしゃべりしてから帰った。
それからさらに一時間ほどして、
「俊平お兄さん、ただいま」
「俊平兄さん、はじめましてーっ。ワタシ、フルルンの親友の、南中瑞帆でーす」
フルールが、瑞帆を連れて帰って来た。
「あっ、どっ、どうも」
元気よく挨拶され、俊平はまたも緊張気味になった。
「おう! 俊平兄さん、さほどイケメンじゃないところがまた親しみやすいわ~」
瑞帆は目をきらきら輝かせながら俊平のお顔を見つめる。
「そうか?」
俊平は思わず視線を床に逸らした。
「瑞帆、失礼なことは言っちゃダメよ」
フルールは軽く注意する。
「分かってまーす♪ 信部先輩やフルルンの言ってた通り、すごく誠実でええ人そうやね。あのう、俊平兄さん、似顔絵描いてもよろしいですか?」
瑞帆は通学鞄からB4サイズのスケッチブックを取り出し、お願いする。
「べつに、かまわないけど……」
「よっしゃっ!」
俊平がちょっぴり戸惑いつつも承諾すると瑞帆は大喜びし、4B鉛筆も取り出した。スケッチブックを開き、4B鉛筆を走らせる。
三〇秒ほどのち、
「はい、完成しました。どうぞ」
瑞帆は描いていたページをビリッと千切り、俊平に手渡した。
「えっ、もう出来たの!? しかもかなり上手い」
俊平は自分そっくりな似顔絵を見て、驚き顔になった。
「瑞帆さんは美術部に入ってるの」
「あっ、どうりで。あの、お礼に、南中さんの似顔絵、描いて、あげよっか?」
「描いてくれるんっすか! ぜひお願いします」
瑞帆は嬉しそうな満面の笑みを浮かべた。
こんなに喜んでくれるとは。とってもいい子だな。中学の頃、休み時間に美少女キャラのイラスト描いてたらキモがって来た教養低そうなビッチ臭の漂う女共とは大違いだよ。さすがルクレールさんのお友達なだけはあるね。
俊平は楽しげな気分で瑞帆のスケッチブックと4B鉛筆を借り、ササッと描いてあげた。
「ワタシそっくりや。俊平兄さんも絵ぇめっちゃ上手いっすね」
「まあ、俺、将来漫画家になりたいなぁっともなんとなく思ってて。新人漫画賞に投稿出来るようなレベルの作品を仕上げれたことは一度もないけど」
「ワタシと同じやね。めっちゃ親近感が湧くわ~。漫研か美術部入ってます?」
「俺、部活は入ってないよ。中学の頃もね。みんなでわいわいやるの苦手だし」
「そうなんすか。まあ気持ちは分かるなぁ。俊平兄さん、ありがとうございました。ほなまたお会いしましょう」
瑞帆は満面の笑みでお礼を言って、ここをあとにした。
「明るい子だね」
俊平は綻んだ表情でコメントする。
「休み時間中はけっこううるさいよ、あの子」
フルールは苦笑いしながら伝えた。
それから少し時間が流れ、午後六時ちょっと過ぎ。
「ただいまぁー。南京町でゴマ団子とシューマイ買って来たよー」
琴恵が帰ってくる。部活動には入っていないが帰りに三宮や元町へ寄ってお買い物をしてくることもたまにあり、その時はいつもこのくらいの時間に帰ってくるらしい。
寮生の三人が帰宅したところで、愛子さんは夕飯を作り始める。
琴恵が買って帰った食材もダイニングテーブルに並べられた。
こうして今日も夕食の団欒が始まる。
☆
夜九時頃。
「俊平くぅん、明日までに提出しなきゃいけない宿題がいっぱいあるの。手伝ってぇー」
琴恵がげんなりとした表情を浮かべながら俊平のお部屋へ押し入って来て、こんな要求をしてくる。
「それは、かまわないけど」
俊平は快く引き受けた。
「私、数学の問題全然分からなくて。27ページの問い六から問い八までが宿題なの」
琴恵は数学ⅡBの問題集の該当箇所付近を指で押さえる。
それほど難しい問題じゃないな。
俊平はそこを眺めてみて出来ると直感した。
図形と方程式に関する問題だった。
俊平はシャーペンを手に取ると、琴恵の数Ⅱ用ノートに問題をすらすらと解いていく。彼にとって基礎から標準レベルの問題を解くことはた易いことだった。
「すごーい。俊平くんは〝数学の達人さん〟だね」
「いやぁ、そんなことはないよ。俺以上に数学出来るやつ同じ学年でも二十人以上はいるし」
「次はこれ、数Bの小テスト、間違えた問題を全部直して提出になってるの。俊平くん、私二問しか合ってないから大変だよぅ」
続いて琴恵はそのプリントと数B用ノートを取り出し、俊平に手渡す。
小テストは一問一点の十点満点だった。分野は数列に関するものだ。
琴恵の取得した点数は、わずか二点。
これは、さっきよりも基礎的で簡単だな。
俊平は、琴恵の使っている数B用ノートにすらすらと解答を記述していく。
「あのう、俊平お兄さん、あまり琴恵さんを甘やかさない方が……」
フルールもお部屋に入って来て口を挟んだ。
「それも、そうだね」
俊平はハッと気付き、手の動きがぴたりと止まる。
「あぁーん、フルールちゃん、余計なこと言わないでぇ~。俊平くぅん、お願ぁーい」
「分かった」
琴恵にせがまれると、心優しき俊平は断り切れず問題の続きを解いてしまう。
「もう、俊平お兄さんったら」
その様子を目にしたフルールは困惑顔だ。
「ありがとう俊平くん。助かったよ」
数学の宿題を完成させたのを確認すると琴恵は礼を言って、俊平の手をぎゅっと握り締める。
「いやぁ、これくらいは……」
俊平の頬は少し赤く染まった。
「琴恵さん、数学が出来ないと後々本当に困るよ」
フルールは困惑顔で忠告するも、
「大丈夫だよ。私、二年生から文系クラスに進むし、大学は受験で数学使わない私立の文系学部行くもん」
琴恵はのほほんとした表情で主張した。
「それでも、数ⅡBまではしっかりと学んどいた方が絶対いいと俺は思うよ。急に進路変更したくなった時にも対応しやすいだろうし」
「俊平くんがそう言うんなら……私、数学も頑張る!」
「神高生の俊平お兄さんのご意見は説得力がありますね」
フルールから褒められ、
「いや、俺、ごく当たり前のことを言っただけと思うけど……」
俊平は照れくささからか少し俯き加減になる。
「ねえ、俊平くん、次は古文の宿題やって。徒然草を現代語訳にするの」
琴恵は国語総合の教科書と、古文用のノートをそんな俊平の目の前にかざした。
「こらこら琴恵さん」
フルールはニカッと笑って注意する。
「古文は、ちょっと……俺、国語は苦手科目だし」
琴恵のこの要求には、俊平は表情を曇らせた。
「あーん、困ったよぅー」
「ごめんね。役に立て無くて」
「俊平お兄さん、謝る必要は全く無いですよ。琴恵さんがご迷惑お掛けしてすみません。わたしがちゃんとやらせますから」
「わぁーん、俊平くぅーん」
琴恵はフルールに腕を引っ張られ、フルールのお部屋へと連れて行かれた。
☆
それから一時間ほどが経った頃、
「やっと解放されたよう。なんとか出来てよかった。俊平くん、いっしょに寝よう」
琴恵はくたびれた様子でフルールのお部屋から出て来て、フルールといっしょに自分のお部屋へ。昨日と同じ配置で四枚のお布団を敷いた。
「眠い、眠い」
ほどなくして茉佑がやって来て、お布団に潜り込んだ。
「フルールちゃんは、まだ寝ないの?」
「わたしはまだ、やることがあるので」
「じゃ、先におやすみフルールちゃん」
「おやすみー、フルールお姉ちゃん」
「おやすみなさーい」
フルールは笑顔でそう言い残し、自分のお部屋へ戻る前に、
「俊平お兄さん、ちょっとだけわたしとお付き合いしてくれませんか?」
俊平のお部屋へ立ち寄った。
「いいけど」
俊平は快く引き受けてあげる。彼がフルールのお部屋へ足を踏み入れたのは今回が初めてだ。学習机の上はきちんと片付いていて、備えの本立てと本棚には動物・昆虫・恐竜・乗り物・天体・植物・日本の妖怪などの図鑑や学習参考書、教養系の読み物が多数並べられてある。ヤスミンが学業優秀な理由が頷けた。机棚には折り紙で作った鶴や蟹や猿の他、日本固有種として知られるオオサンショウウオ、ムササビ、ニホンザル、ニホンカモシカ、ニホンイシガメ、ニホンザリガニ、モリアオガエル、ニホンライチョウ。計八体の精巧なフィギュアも飾られていた。本棚上や箪笥上には姫路城、京都、雷門などの観光提灯や凧。窓際には黒竹や浜木綿などの和風なミニ観葉植物もいくつか飾られていて、中央付近に置かれた漆塗り座卓上にはテレビゲーム機も。二四V型液晶テレビもそれと向かい合わせに配置されていた。
フルールはテレビ下にある収納ケースを引き出す。中にはゲームソフトが五〇本くらい詰められていた。テレビゲーム機用と携帯型ゲーム機用両方あり、RPG、アクション、音ゲー、学習用、パズルなどなど様々なジャンルが揃えられてあった。
「こちらへどうぞ」
フルールに招かれ、俊平はテーブル横に敷かれてある座布団に腰掛ける。
「ルクレールさんはゲームが好きなんだね」
「はい。日本のゲーム、特にアクションとRPGが大好きです。愛子お婆さんも時たまテレビゲームをプレイされますよ」
「へぇ。意外だ。あのお齢で」
俊平は少し驚いたようだ。
「ボケ防止に最適だからだっておっしゃられてたよ。俊平お兄さん、これ、いっしょにやりましょう。先週発売されたばかりのやつなんです」
フルールが取り出したゲームソフトのジャンルはアクションだった。テレビゲーム機にセットし、電源を入れる。
「いいけど」
俺こういうファミリー層向けのゲームやるの、小学校の時以来だな。
俊平は快く引き受けてあげ、コントローラを握る。
「難しいな」
5‐4面の半分くらい進んだ所で落とし穴に落ち、ミスしてしまった。
「わたしもこの面、全然クリア出来ないんですよ。でもそれが魅力的です」
このゲームを三〇分ほど楽しんだあと、フルールは別のソフトに取り替えた。
セーブデータを選択すると、和菓子店内の画面が表示された。
「これは、RPGかな?」
「はい」
「なんか、変わってるね。和風だ」
「普通RPGって架空の世界を舞台にするものですけど、このRPGは現代日本が舞台で、町の名前や山とか川とか駅とかの名前なんかも実在のと同じですよ。敵キャラもご当地に関連したのが登場してて、わたし今、名古屋市内を旅してるんですけど、ういろうとかエビフライとかひつまぶしとかがモンスター化されてたわ。手に入る回復アイテムも八丁味噌プリッツとかきよめ餅とかカエルまんじゅうとか、ご当地ならではの実在するものになってます。魔王とかドラゴンとか、エルフとか騎士とか亜人獣人とかゴーレムとか定番のものも出て来ないですよ。魔法も召喚獣も一切使えません」
フルールは生き生きした表情で楽しそうに伝えてくる。
「それは斬新だね。面白そうだ。俺、地理けっこう好きだし」
「わたし、剣と魔法がメインでファンタジー色の強い架空の世界が舞台な、ありきたり過ぎるRPGはあまり好きではないんです」
「そうなんだ。あの、ルクレールさんが鵙池寮に入った理由って、やっぱ和風な造りに惹かれてなのかな?」
「はい、それが一番の理由です♪ 和菓子を模っている外観は芸術的です。それと、愛子お婆さんの人柄にもとても惹かれました。菖蔭を選んだのも、校舎や中庭が和風だったことに惹かれたからです。今や日本でもほとんど見かけなくなってしまった和式トイレも一部備えられていることにも魅了され、わたし、学校で用を足す時はいつも和式の方を使ってます。ところで、俊平お兄さんは、体育は、苦手ですか?」
「うん、かなり苦手だな。この間のスポーツテストの結果、全部平均以下だったし。通知表も中学時代は5段階の最高で3しか取ったことがないよ」
俊平は苦笑いした。
「そうでしたか。わたしも体育大の苦手なんです。期末の保体のペーパーテストではいつも満点近く取ってますけど、実技はどうしてもダメなんです。気が合いますね」
フルールは嬉しそうににっこり微笑む。
「そっ、そうだね」
俊平は少しだけ照れてしまった。
「中学の頃、体育の授業で日本の習った剣道も全くダメでした。わたし、日本文化は好きですが武道は馴染めないです。相撲とか、見るのは楽しいのですが。琴恵さんと茉佑さんも体育苦手みたいですよ。その茉佑さんのことなんだけど、わたし、学校行ってないこと、すごく心配で。小学校の時にいじめられて、みんなと同じ中学に行きたくないから、私立の菖蔭を受験したってわたしや琴恵さん、愛子お婆さんに泣きながら話してくれたの。けど茉佑さん、そこでもやっぱりクラスに馴染めなかったみたいで、不登校になってしまって」
フルールは困惑顔で話題を切り替えた。
「中学生くらいの年頃の人間関係は複雑だからね。まあ、行きたくなければ、無理して学行く必要は、ないんじゃ、ないかな。勉強は独学でも出来るし」
俊平は若干緊張しているのか時々言葉を詰まらせながら意見を述べる。
「でも、やっぱり行かないよりは、行った方が絶対いいと思うの。わたしも小四の時に日本の学校に転校した時は、やんちゃな男の子にからかわれて、学校行きたくないなって思ってた時期があったから、茉佑さんの気持ちはよく分かるんだけど……月に一、二回程度、二、三時限目の時間帯に保健室に登校して、ちょっとだけ過ごしてるみたいだけど、やっぱり教室でみんなといっしょに授業を受けて、学校行事に参加してもらいたいなって思うの」
「確かに。学校行事はその時しか体験出来ないからね。まあ、でも、胸永凛々菜ちゃんっていう、仲の良いお友達もいるようだし、あまり心配することは無いと思うよ。学校の課題もきちんと仕上げてるみたいだし。俺なんかプライベートでしょっちゅう付き合うような親友なんて一人もいないよ。学校にいる時だけちょっと会話する程度のものだよ。桝谷さんのことだけど、保健室登校の回数を少しずつ増やしていくとかして、やがて教室へ入れるようになれればいいんじゃないかなっと、俺は思う」
「確かにいきなり教室へ入れというのは、茉佑さんには酷ですね。でも、二学期までにはちゃんと教室へ入れるようになって欲しいなって、わたしは思うよ」
二人はそんな会話を交わしたあと、このゲームを一時間ほどプレイしたのであった。
「あっ、もう0時半過ぎてますね。俊平お兄さん、夜分遅くまでお付き合いして下さり、誠にありがとうございました」
「いえいえ、どういたしまして」
二人はゲームとお部屋の電源を切って琴恵のお部屋へ向かい、静かに布団に潜る。
それから三分ほどのち、
「あの、俊平お兄さん。起きてますかー?」
フルールがまた、話しかけて来た。
「うん。何かな?」
俊平はすぐに応答する。
「一つ大事なことを言い忘れてました。愛子お婆さん、俊平お兄さんがここに来てくれたこと、すごく嬉しがってたよ」
「そうか。それは、光栄だな」
「愛子お婆さんにとって、俊平お兄さんは宝物のような存在だとおっしゃってましたから」
「俺なんかが!?」
「はい。それには、ある理由があるからなんだそうです」
「どういった、理由なんだろ?」
「ごめんなさい、わたしも分からないです。でも、今年ももうすぐやって来る、あの日に教えてくれるそうです。では、俊平お兄さん、おやすみなさい」
「おっ、おやすみ」
フルールから暗に伝えられた事、俊平は当然のように気がかりになった。