6
時間は放課後になっていた。
カーテンを通して橙色の光が差し込んでいる。
夢路は、悪夢の中で見たあの光はこの夕暮れの太陽の光なのではないかと思った。
確証は無いが暖かく、全てを柔らかに滲ませる光。
部活動も始まっていて、野球部のものであろう掛け声と、金属のバッドがボールを叩く甲高い音が遠くから聞こえて来た。
「さて、百足も目を覚ました事だし、場所を変えるぞ」
茫とカーテン越しの光景を想像していると、東雲が一方的に宣言した。
彼岸に手を引かれてベットから起き上がると、枕元の小さな机の上には夢路の鞄が置かれていた。
「死人が目覚める時には長い時間眠るからな。彼岸に取りに行かせた。感謝しろよ」
校内履きを履きながら、再び彼岸に目をやると、照れているのだろうか、何故か顔を伏せている。
「ありがとう」
「ううん。いい。それに嬉しいから」
「嬉しい?」
「役に立てて、お礼を言われて嬉しいから」
ぽつぽつ語る彼岸の言葉には覚えがあった。
誰かの役に立ちたい。誰かに喜んで欲しい。礼を言われたい。関係を持ちたい。
全部、自分に当てはまる。
何故忘れた振りをしていたのだろう。
誰かと関わりたい。
夢路も昔はそう思っていたのに。
知らないふりをして、過ごしてきた。
「ありがとう」
もう一度、礼を言う。
「……?」
きょとんと、彼岸がこちらを見た。
「忘れてた事を思い出させてくれたから、だからお礼」
そう言うと、彼岸はとても嬉しそうに、小さく微笑んだ。
「早く行くぞ、奴らも待ってるだろうからな」
東雲に促され、立ち上がる。
彼岸がこくりと頷くのを見て、東雲の後に続いて保健室を出た。
東雲は保健室の扉に掛かった札を裏返して『喫煙中』へと変える。
部活で怪我する生徒がいるかも知れないのにこれでいいのか、と百足はふと思ったが、ごく当然の権利と言わんばかりにごく自然な動作でそうする東雲を見て、追求するのを諦めた。
どこに行くのだろうと言う疑問は直ぐに晴れた。
文化系の部活の部室が入っている旧校舎が窓越しに見えたのだ。
渡り廊下を通ると階段へ。
最上階である四階には入っている部活はほぼ無く、唯一、『フィルム映画研究会』と書かれた教室があった。 躊躇いなく戸を引く東雲。続いて彼岸が入る。百足が足を踏み入れると、古い校舎独特の郷愁を含んだ埃臭さと煙草の匂いが吹き付けてきた。
昔この教室で使われていただろう机と椅子は教室の後方へ乱雑に押しやられ、中央には映画の映写機。
教室の前方に掛けられたスクリーンに白い光を送っている。
窓という窓には暗幕が張られ、映写機の周囲には数個の机と椅子が適当に並べられていた。
席の一つには、六書柊弥が着いており、もう一つの席には、机自体に半ば腰掛けるようにして、微笑んでこちらへひらひらと手を振る少年がいた。
「此岸」
ぽつりと彼岸が言った。
「双子の、兄」
夢路は驚き、全く似ていない二人を見比べる。
二卵性双生児という奴なのだろう。
整った顔立ちをしているが、綺麗という言葉は当てはまらない。
美形とも違うが、整ってはいる容姿に猫めいた笑み。
微笑んでいると言っても穏やかさは皆無で、夢路は人を撥ね付ける印象を持った。
うなじまでの髪の毛は少し癖があり、それがより一層、猫めいていて、人を撥ね付ける印象を強める。
「百足夢路さんだよね。俺は影崎此岸。そこの彼岸の兄だよ。よろしくね」
「もう私の名前を知ってるんですか。夢路でいいですよ。彼岸のお兄さん。よろしくお願いします」
「俺も此岸でいいよ。影崎だと妹と被るしね」
「敬語もいらないだろう。皆、百足と同じ高二だ。それと、私がフィルム映画研究会の顧問、東雲紫苑だ」
東雲は専用のクリスタルの灰皿が置かれた机に浅く腰掛け、煙草に火をつけ吸い始めた。
どうやら、喫煙室代わりにしているらしい。
「さて百足――」
「夢路と呼んで下さい。その名字、嫌いなので」
名字の所為で散々からかわれ、苛めにも目に合ってきた夢路は、僅かに顔を顰めて語気も強く東雲を見遣る。 東雲は軽く肩を竦めると、もう一口、煙草を吸った。
「では夢路、死者たちの悪い魔法使いクラブへようこそ」
赤い口紅が塗られた唇の端を擡げ、東雲は軽く両腕を広げてそう宣言した。
口元こそ笑っているが、瞳は笑っていなかった。恐ろしく真剣で、見たものを凍てつかせるような、そんな瞳。
呑まれる。
このままだと何も知らないまま、自分が『死者たちの悪い魔法使いクラブ』とやらの一員にならされる気がした。
夢路は数瞬躊躇った後に、辛うじて声を出した。
「柊弥も彼岸も東雲先生も、死ぬとか死んだとか死者たちとか死人とか言ってますけど何ですか? 私は死んでない。生きてます。結局、生きてここにいます」
嫌な予感はする。
それでも一縷の望みを掛けて問う。
夢路は我知らず、硬く拳を握りしめていた。
座れ、と短く、東雲に言われ、手近な椅子に腰掛ける。
いつの間にか彼岸も、近くの席に着いていた。
「まず世界の死についてお前に教えておく。皆も知っていることだ。この世界には、主観死と客観死がある。主観死とは自分が死んだと感じること。客観死は他人に死んだと思われることだ」
唇からゆるゆると紫煙を吐き出しながら、東雲が続ける。
「主観死と客観視は基本的にセットになる。殆どの場合、死は現実として覆らない。だが、現実として主観死のみをむかえる人間がいる。それを齎す者。我々はソレを『異邦人』と呼んでいる。この世界以外の何処かから来て、常ならぬ死を与える者。彼らは元の世界に帰りたがる。その為の力。主観死をむかえた人間を生かし続ける力。これは共通している。『青春』という力だよ」
主観死。
客観視。
異邦人。
青春。
まるで冗談のようだ。
こんなファンタジーじみたことを真面目に語るなんて馬鹿馬鹿しい。
そう言いたかった。
実際、喉まで出かかったが、それを止めたのは、自分の頭蓋が弾けた瞬間を覚えていたから。
あの生々しい悪夢の数々と、悪夢の先で出会った少女を覚えていたからだった。
夢とは思えない激痛を味わい、目覚めた。
幻覚とも思えないほどはっきりと死を身近に感じた。
何も言い返せず、夢路は押し黙る。
ただ強い瞳を東雲に向けていた。
「歳を取ると思うものさ。青春という目には見えない、けれど膨大な熱量を秘めたエネルギーは何処にゆくのだろうかとね。そして実際にエネルギーとして認識・利用できることを発見した。私達が主観死をむかえても生かし続けるほどのエネルギー。このエネルギーをもって、人は朱夏・白秋・玄冬を越えてゆく。大切な力を掠め取って生きているのだから私たちは悪だ。そしてね、異邦人もまた悪なんだよ」
そこまで語り終えて、東雲は、皮肉げに唇を歪めた。
じりじりと煙草が焼けてゆく。
いつの間にか回転を始めていた映写機がノイズを発する。
夢路は呑まれまい、呑まれまいとしながらも、東雲の言葉を半ば信じ始めていた。
「異邦人たちは膨大な青春のエネルギーを奪い取って行く。放置すれば人は人生の季節を巡ること無く衰弱して死ぬだろう。だからね、私達のような客観死をむかえた人間が重宝されるのさ。お前も悪夢を乗り越えたならばわかるだろう? 悪夢を打ち壊すパワー。それをもって、異邦人をこの世界から強制退去させる。ようは殺す。殺す以外に異邦人を退去させる方法は今のところ黄泉機関でも確認されていないからね」
「黄泉機関って、何ですか?」
乾ききった喉から無理矢理声を押し出す。
「私達のような主観死をむかえてなお力を振るう者達を取りまとめる機関さ」
――私たちは機関の手先。異邦人を殺す悪い魔法使いなんだよ。
煙草を揉み消しながら、東雲はごく軽く、そう言い放った。