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 胸が苦しくなって、呼吸が苦しくなって。

 涙が少なくなって、鼻を少し啜るくらいまで落ち着いた後、夢路は、所在なく絨毯に転がっていたミルクティーのミニペットボトルを拾い上げ、彼岸へ向き直る。

 彼女はやはり此方を見つめていた。

 ふっくりとした唇に小さな微笑みを浮かべて、変わらず両手で包むようにミニペットボトルを持って、まるで夢路が泣いていた時間など無かったように座っている。

 その居住まいに、小学生の頃に飼育当番になった時、抱き上げた兎がふわふわと温かった事を、毛皮の手触りと、人間より速い鼓動を何故か思い出した。

「取り乱して、ごめん」

 夢路の言葉に、彼岸はふるりと頭を振る。

「わたしも、そうだったから。魔法使いになったとき、いっぱい泣いたから、わかる、と思う。百足さんは魔法、信じるんだね」

「クラスメイトの頭が弾けて、それをクラスの誰も気にしなくて――」

 ばらばらになった頭蓋のパズルピース。神経をぶら下げたままの真円の目玉。飛び散った血液。とろとろと赤を侵食する髄液。スライドめいて錯綜する画像。映像。記憶。

 知らずきりと唇を噛み締めて衝動に耐える。

 今日噛み切った唇の、傷口がぴりりと傷んだ。

「あれが例えば、霊現象でも、幻覚でも、魔法でも、名前を付けて共有してくれるなら、何でも信じる。そんな気持ち」

「そっか」

 どことなく嬉しそうに微笑みを深めて、それから彼岸はすうと真顔になった。

 右手は耳に。

 何かを聞き取るように。

 ややして突然立ち上がり、クローゼットを開く。

 彼岸は無駄の無い動きであっという間に、部屋着から制服へと着替えた。

「影崎さん?」

 咄嗟に伸ばした手の行き場を失って下ろしながら夢路が問うと、彼岸はブレザーの襟から長い黒髪をふわりと背中に流して、夢路の方を見た。

「招集。かかったから行くね」

 彼岸の瞳はやはり、ガラス玉より生々しく、犬猫よりも無機質な目で、そして今は、綺麗な――言い表すのならば覚悟のようなものを宿して室内灯を照り返す。

 扉を開いた彼岸は、ふと思いついたように言葉を継ぐ。

「彼岸でいいよ」

 一瞬、彼女が何を言っているか理解できず、遅れて名前の事だと気付く。

「私も夢路でいい――ってまって招集って……彼岸!?」

 どうしてと思う間も無く閉じかけた部屋の扉を押さえ、廊下の足音を追えば駆ける彼岸の背が見え。

 届きそうなその背に向かい、夢路も廊下へ出、走りだす。

 リノリウムの床が靴下越しにひやりと冷たい。

 そういえば。

 これだけ騒いだのに、誰も廊下の様子を見に出てこない。

 単に防音に優れているのか、それとも――。


 ――――わたしたち、魔法使いだから


 そういう事なのか。

 分からない。

 まだほんの取っ掛かり、僅かな部分だけ見せて、それで行ってしまうなんて無責任じゃないか。

 3階から階段を降りて玄関口から黒い夜の寮外へ飛び出した。

 闇を白く切り取る寮の常夜灯。

 その照らす中に彼岸の姿は無かった。

「無責任じゃないか……」

 突然、夢路の領域に踏み入って常識をぐちゃぐちゃにかき混ぜて、訳の分からない言葉で姿を消すなんて。

 魔法使いなんて、言って。

 やっと、理解してくれるヒトに会ったのに。

 理解して貰えると思ったのに。

 明日が来るのがこんなにも怖いのに。

 怖がる姿を知っていたのにカーテン越しにでも知っていたのに置いて。独りで置いて。どこかに、招集って、誰が――。

 死が近づいて来ている。

 教室の扉側からじわじわと。

 一人ずつ。

 一日に一人ずつ。

 死が踏みしだいて此方にやって来る。

 音が聞こえそうな身近に、死がやって来る。

 何事も無く登校して来る死んだはずのクラスメイト。

 死が、死が、死が。

 夢の様な死が。

「ひっ――」

 夜の黒が、寮の常夜灯に白く染められた場所に対してより暗さを増した黒が、ふいごの夢めいて手足から注がれそうな気がして、夢路はその場にへたり込んだ。

「何が無責任なの?」

 夢路へ唐突に、声。

 悲鳴も上げられず反射的に振り返って見れば、玄関口の脇に、少年が立っていた。

 ざり、と尻の下で土が音を立てる。

 足が言うことを聞かず、靴下の踵がいたずらに土を掻いた。

「考えてたんだ。何が無責任なのか。彼岸が出てきた後、追いかけるみたいに君が出てきたから、多分、『無責任』っていう言葉の対象は彼岸なんだろうけど、何が無責任だったの? それが分からなくて考えてた」

 少年は夢路の姿を意に介さず言葉を続ける。

「彼岸が君に話すって決めて、僕はもう一日、待った方がいいと思ったんだけど、彼岸は頑固だから。強く反対する仲間もいなかったし……」

 顎先を指で支えるようにして、少年は沈黙する。

 夜に黒ずんで見えるが、常夜灯の端に立つ少年の頭髪は夢路が見たことのある赤茶色で。

 その手は、夢路を悪夢から引き上げたそれで。

「あんたは……」

「二度目まして。僕は六書柊弥(りくしょしゅうや)。彼岸の仲間だよ」

 そう夢路を見る目――長すぎる前髪から見える片目は髪と同じ赤茶色をしていた。

 六書柊弥。

 確かに彼岸が言っていた、仲間。

 名前を知ってしまえば座り込んでいる姿が一層情けなく思えて、夢路は萎えかけた気力を振り絞って立ち上がる。

 柊弥は、先に飛び出して行った彼岸と同じく、制服を着ていた。

 対照的に夢路の服はと言えば、土の上に座り込んだせいで土まみれで、せめてもと見える土を払う。

 そんな夢路をじっと見ていた柊弥は、改めて口を開いた。

「それで、何が無責任なの?」

 聞かれ、言葉に詰まる。

 ――無責任とか、馬鹿だ、私は。

 彼岸には負うべき責任なんか初めから無かった。

 ただ怯える夢路を慮って伝えられる事を伝えただけで。

 どんな荒唐無稽な話でも、夢路が見る荒唐無稽な光景を説明してくれた。

 話せない事を謝りもした。

 ただの八つ当たりなのだ。

 夢路は、身勝手な怒りを吐露したに過ぎない。

「いい。私が莫迦だった。彼岸はきちんと話してくれたし、その途中で招集……が何かはわからないけど、それでいなくなっただけなんだ」

「そう」

 納得しているのかいないのか。

 判じ難い声音で柊弥は相槌を吐いた。

「ねえ」

「何?」

「六書は行かなくていいの? それとも六書は魔法使いじゃない?」

 夢路を見返す柊弥の目に何がしかの感情が過る。

 それが何なのかは分からなかったが、痛みを伴うものである事は、夢路にも分かった。

「僕も魔法使いだけど、行けない」

「何で」

「死んでしまうから」

 答えは冷たく淡々とした苦い茶色をしていた。

 ――僕は役に立たない。


 答えは冷たく淡々とした苦い茶色をしていた。

 夢路の足裏が感じる土のように、誤ってそれを食んだように、喉に苦く残る声音で。


「寒いから帰った方がいい。寮監が出てくると面倒だから。そうだ――」


 柊弥は背中を預けていたコンクリートから身を離すと、そっと、人差し指のほんの先で、動けずにいる夢路の額に触れる。

 ちりちりと、額に微かな痛みが走った。


「これで、今夜は悪夢を見ない」


 何でもない事のように淡々と言って、柊弥は女子寮を離れて男子寮の方角へと消えていった。

 ただの気休めなのか。

 それとも何か魔法をかけたのだろうか。

 魔法という物を信じはじめている自分に空笑いしながら、夢路は額を押さえた。

 そして、立ち上がって土を払うと、何事もなかったかのように寮へと戻る。


 結局一睡もできず、柊弥の言葉が本当なのかは分からなかった。

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