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そしてついに、自分の席の右隣のクラスメイトが死んだ。
死んだ筈だった。黄みがかった脳漿も鮮烈な赤も白くぶよぶよした脳味噌の断片だって直ぐに思い出せる間近で、少年が死んだ。
死が近づいて来ている。
その事実に夢路は恐怖する。
自分の主観的には死んだ筈のクラスメイトが生きて動いている事に以上に、恐怖していた。
夢を見たくない。
強く思う。
もう悪夢を見たくはない。
願い縋り祈る。
けれど。
余りに間近で起こった死に、常ならぬ吐き気を覚えてトイレでドアも閉めず何もかも胃液すら吐き出し尽くして披露した体は睡眠を求め、心も体も睡魔に絡め取られて便座に顔を伏した。
睡魔は喜び勇む声を上げ、黒々とした大きな翼を広げて夢路を包み込む。
まるで眠りが意思を持ち、悪夢という卵を百足の脳髄に孵化させんばかりに。
落ちる。
抗いようもなく夢のかいなに落ちてゆく。
人工的で明確過ぎる光を感じて、百足は夢の中に在る事を知った。
台の上にいて動けず、見る限り4つの大きなふいごがあった。
ふいごから伸びる管は赤く、夢路の四肢に繋がっている。
シュー、パタン。
ふいごが大きく沈むと、無理やり血を流し込まれる感触がした。
シュー、パタン。
圧縮されて流し込まれる血液は、蚯蚓めいた管虫が這いずる幻覚を呼び起こす
シュー、パタン。
ふいごが大きくなる。
血管に、もっと大きく刺々しい、例えば自分の名字のような、蜈蚣が捩り入る感覚。
シュー、パタン。
ふいごはさらに大きくなる。
夢の理不尽さで、瞼を閉ざしても光景が暗闇に消えることはない。
シュー、パタン。
広すぎて隅々まで鮮明に過ぎる、白熱灯がコンクリートを照り出した部屋で、ただ、ふいごが動く。
動く度に血管が膨れ上がる。
夢の音はいつも鮮やか。
四角く白い台の上で動けない自分の、制服のブレザーの網目も、濃紺のスカートのプリーツも、黒のソックスに刺繍された校章も、緩く巻いたネクタイの結び目も、シャツの皺ですら、鮮明に見えて。
だから、蚯蚓が薬剤にまみれてのたうつように、膨張した血管が皮膚を盛り上げ、時折びくりと歪み撓むさまもありありと視界に映る。
ふいごという血袋は、踏むものもいないのに淡々と己の勤めを果たす。
整脈も動脈も心臓もそれぞれ好き勝手に、薄皮を隔ててどくりどくりと踊り踊る。
意思とは関係なく肥え太りつつある腕の血管から目を離せない。
首筋でぐにゃりと変形した血管に吐き気を覚えても手足は動かず何もできない。
何もできないまま血は尚もふいごによって注がれ、毛細血管へ巡る巡る。
巡る血液にピィピィと嫌な音を立てて弾ける毛細血管。
腕を足を喉を蟀谷を這いまわり頭蓋を圧迫する血管が、今にも爆発しそうに体を締め付ける。
痛みはなく、けれどいつ自分が膨れすぎて爆発するかわからない恐怖。
恐怖を理解しない無機質なふいご。
ふいごが動いて動いて動いて、血は押し込まれ、血管は限界まで膨れ、動けない頭はそのままに、目の毛細血管はピィピィと膨らみすぎて千切れ、視界は真っ赤。
どろりと血涙が眦から零れ。
内側からの圧力に破裂した耳殻に血塊が溜まっている筈なのに、止まらないふいごの音だけは勤勉で鮮明。
「嫌だ――! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろやめろヤメロ!」
助けて!!
口腔に満ちた血を吹き上げながら叫ぶ。
喉の血管はあっさりと裂けて、ごぶりごぶりと溢れる血で、言葉まで塞がれて。
眦が裂けんばかりに双眸を見開いたまま、口から涎と血を垂れ流し続ける。
体が膨れ上がって、今にも内側から破れそうだ。
痛みが無いのが余計に恐怖を煽る。
ふと、今まで思ったことのない思考が過った。
死んでしまうかもしれない。
そう、夢路が思いかけた瞬間。
今までに無い苦痛が喉元を襲い、夢路は悪夢の領域から引き上げられた。
眠っていたことを示すように今まで閉ざされていた目に光が刺さり、瞬きを一度、二度。
締まる喉元に指を差し入れて荒い呼吸をしながらゆるゆると襟首の持ち主を振り返ると、何故か少年が立っていた。
「首……離して」
混乱しながらも、息苦しさから逃れようと、絶え絶えに言う。
少年は素直に襟首を解放してくれた。
けほけほと空咳をすると、夢を見ながら歯を食い締めていたのか、唇に痛みが戻り血の赤が便器から床に散る。
「なんで、ここに? ここ……」
言いながら、トイレの床に座り込んだまま少年を見上げた。
きちりと第一ボタンまで締められたシャツの首元には、同じく綺麗に結ばれたネクタイ。
夢路と同学年を示す臙脂色だ。
長い前髪が目元を隠しており、表情は伺えないけれど、紛れも無く彼は少年――男性で。
「うん。ここ女子トイレだよね。来たくて来たんじゃないけど」
「じゃあ……」
「彼岸が言ってたから。死にそうな子がいるって。そしたら本当に死にそうな気がしたから、来た。死ぬと思うと死ぬよ。君が見てるのは悪夢だけど、もっとタチの悪いものだから」
ぼそぼそとテノール色の言葉が紡がれる。
前髪の隙間から僅かにのぞいた片目は髪と同じ赤茶色で、どこか茫洋としていながら、けれど真剣さが伝わってきた。
「じゃあ。当たり前だけどここに長居したくないから行くね。ああ、寮の部屋の電気は点けても大丈夫だから」
少年はそう言うと、夢路を悪夢から引き上げたのと同じぐらい唐突に去って行った。
――部屋の電気のことは彼岸から聞いたのだろうか。
悪夢のことを彼女から聞いたのならば、人工的な明かるさを異様に恐れる自分のことも聞いたのだろう。
悪夢から開放してくれた。
それだけで、夢路は少年を信じた。
普段の夢路ならばもう少し疑念を抱いただろうが、血袋と化して破裂する悪夢とふいごの異音から開放してくれた安堵は深く、疑う気すら起きなかった。
のろのろと身を起こし、女子トイレから出る。
廊下に、少年の姿は無かった。
居たからと言って引き止める程の力は残されておらず、疲弊して冷め切った体を引きずるように寮を目指す。
寮監である人の良さそうな中年女性は、夢路の酷い顔色を見るやすぐに学校への連絡を引き受けてくれた。
伸し掛かるような疲労感に、寮監とろくろく会話もせず自室に戻ると辛うじて制服を脱ぎ、起き抜けのまま乱れたベッドへ身を沈めた。
四月の肌寒さを感じて、足元に蟠る毛布を引き上げ頭からくるまる。
目を閉じれば、あの不思議な少年が自然、瞼の裏に浮かんだ。
名前を聞かないままだった。
礼もしないままだった。
この広い学園で同じ学年であるということ意外なにも――。
そこまで考えてふと、気付く。
「影崎さんから私のことを聞いたって言ってたっけ……」
同室の少女。
そういえば一番最初に悪夢を見る前、彼女もトイレで吐いていた。
ヨモツヘグイ。
聞いたことはあるけれど、意味の分からない。
ベッドのヘッドボードに置きっぱなしにしていた携帯電話を毛布の中に引き込み、インターネットで検索する。
「ヨモツヘグイっと、……黄泉竈食ひ?」
黄泉は確か、死後の世界のような場所のはずだ。
その黄泉で煮炊きした物を食べると、黄泉から常世へは戻れなくなる、それがヨモツヘグイ。
黄泉の竃から何かを食べる事。
だから、黄泉竃食い。
そういえば、彼女は、彼岸は何と言っていたか。
――ヨモツヘグイになる所だった。
食べるとは『行為』であり、人が『なる』ものではない。
なんで。
夢路は思う。
なんで彼女は『なる』と言ったのだろうか。
検索結果には結構な数のサイトが表示され、ひとつひとつ丹念に読んで行く。
その中には、ヨモツヘグイは黄泉で煮炊きされた物、もしくはそれを食べるということ、と書かれたページもあった。
背筋にすうと、なんとも言えない悪寒が走る。
頭蓋が弾けて死んだクラスメイト達。
死んだ筈の、今も学校に通ってくるクラスメイト達。
自分が切り刻まれる悪夢。
あるいは腸詰めのように血を体へと送り込まれて。
――死者に供される食物になる所だったのか?
止まらない想像を、携帯に表示される文字を追うことで押し潰す。
毛布で閉ざした暗闇の中、携帯の液晶画面の人工的な白い光をただただ見つめて、それからどの位の時間が経っただろうか。
カチャリ。
部屋の扉が開く音がした。
絨毯を踏む微かな摺り音。
皮膚の全てで周囲の音を探っている感覚に陥りながら、夢路は我知らず息を潜めていた。
ベッドマットの軋り。
服の衣擦れ。
クローゼットの扉の開け閉め。
またベッドマットが沈む音がして、部屋に静寂が落ちる。
暫くして。
「百足、さん。起きてる?」
同室の少女――彼岸が呼びかけて来た。
彼女とは寮に入った初日に挨拶したきりだ。
親しくなるような努力を夢路はしなかったし、彼女も同様だった。
だからだろう、突然名前を呼ばれて、心臓が痛いほど大きく鳴った。
例えば、何の仕掛けもないぬいぐるみが突然喋ったような驚きと衝撃に襲われる。
口腔が乾いて粘膜がべとつくようで、唾を呑み込んだ。
じっと、此方の返事を待つ気配がする。
沈黙と沈黙。
先に耐え切れなくなった夢路は、自分の身を頭から足先まで覆う毛布に、少し隙間を空けた。
「起きてる」
夕暮れ色に染まる室内。
彼岸の姿は、左右対称に作られた部屋を区切る紺色のカーテンに阻まれて見えない。
「そう」
向こう側の壁に沿って置かれたベッドに座っているであろう彼女の声が、ぽつり、返る。
「カーテン、開けていい?」
彼岸が問う。
夢路と他者の領域に明確な線を引くカーテン。
開けば己を晒すのも同然で。
夢路は躊躇った。
躊躇いは緊張となり、室内に膨れ上がって行く。
まるで空気が帯電しているみたいだ。
夢路の冷静な一部が、他人事のように呟いた。
携帯を握りしめる。液晶に表示される充電残量はあと僅かしか残っていない。
夢路は毛布の中に篭もり湿った空気を大きく吸うと、思い切り吐き出す。
それから勢い良く飛び起きた。
聞きたいことが、あるのだ。
毛布に閉じこもっていても答えの出ない疑問が、ある。
自分で調べても分からない、きっとあの少年や、少年に夢路の存在を教えた彼岸でなければ答えを示しようがない疑問が。
ベッドの隅に脱ぎっぱなしにしていた黒い長袖のTシャツに袖を通すと、その上からグレーのスウェットを着こむ。
「開けていいよ、カーテン。あと、電気も点けていいから」
机の上の充電器へ携帯電話を差し込み、夢路が言う。
ややあってから、部屋に明かりが灯り、部屋を隔てるカーテンが引かれた。
白々とした真新しい電灯の下で、夢路は初めて、意識して影崎彼岸という少女を見た。
ベビーブルーのスウェットに細りとした身体を包み、身長は150cm半ばくらいで、女子としてやや長身の部類に入る夢路より低い。
真っ直ぐな黒の長髪に、可愛いと言うよりも綺麗と評したほうがしっくりと来る顔立ちをしていて。
兎のようだ。
そんな言葉が不意に心に落ちた。
野兎やペットのそれとは違う、小学校で飼育されていた兎の目。
あれと同じだ。
夢路は思う。
狭い飼育小屋の中の兎。
金網の隙間から葉を差し込むと、寄ってきて一心に食んでいた兎の目。
ガラス玉より生々しく、犬猫よりも無機質な目が此方を見返している。
「座る?」
櫛通りの良さそうな髪を揺らして少女が小首を傾げる。
夢路は実家にいた頃でも、自分の部屋に他人を招いたことが無い。
初めて自室を他人に見られた気まずさと戸惑いが綯い交ぜになって喉でつっかえる。
そんな夢路を他所に、彼岸は小さな折り畳みテーブルを部屋の中央に置いて、さっさと座ってしまった。
流されて、夢路も彼岸の対面に座る。
クッションも何もない絨毯の上は腰の座りが悪く、ビーズクッションを持ってくれば良かったと実家の自室を思った。
カーテンを開け放ったことで部屋は一気に広さを増して、どこか寒々しく感じた。
そういえば、最近寮ごとリフォームしたと聞く。
それだけに生活感が薄く、綺麗すぎて逆に落ち着かなかった。
彼岸も物をあまり持たない質なのか、机も備え付けの棚も飾り気が無く、唯一の例外が壁に貼られた一枚のポスターだった。
豊かな雲溢れる青空を背景に、牛か何かの頭骨と花を描いた絵画のポスター。
ただ在るだけなのに意味を探してしまいそうになる絵画に目を奪われていると、「ジョージア・オキーフ」と彼岸が呟いた。
「なに?」
「絵の画家。ジョージア・オキーフ」
「そう。好き……かもしれない」
「わたしは好き」
彼岸はぽつりぽつりと綿菓子を千切って落とすような口調で言って、微かに唇を微笑ませた。
ああ、彼女はこんな風に笑うんだ。
今まで交わした会話は二言、三言。
それでも、そんな少しの言葉だけで、何故か、会話が噛み合う心地よさがあった。
「うん。私も、好き」
もう一度はっきりと言った夢路の前に、彼岸はホットミルクティーのミニペットボトルを置いた。
「あげる」
「え? あ、りがとう、お金払わないと……」
夢路の言葉に彼岸は頭をふるふると振る。
「ついで、だったし。いらない」
彼岸の手元にも同じミルクティーのペットボトルがあった。
何となく無理にお金を支払う雰囲気でもなく、夢路はペットボトルの蓋を開けて口を付ける。
クラスメイトの死と、悪夢と、少年との出会いと。
思った以上に疲弊した夢路の身体に、少し温くなったミルクティーの甘さがじんわり染みこむ。
半分ほど飲んだペットボトルから彼岸に目線を移すと、彼女は変わらず、兎の黒目で此方を見ていた。
金網の向こうでキャベツを食べていた飼育小屋の兎がフラッシュバックする。
ただまっすぐに、此方を見る目。
一心に草に向けていた兎の目とどうしても重なって思えて。
夢路は意味もなく、ペットボトルへ目を落とす。
「今日、前髪の長い赤茶色の髪の毛した男の子と会ったんだけど、あれ、影崎さんの友達?」
再び顔を上げて問いかければ、彼岸はまたふるふると頭を振る。
「仲間。名前は六書柊弥」
「友達じゃないの?」
「仲間。友達じゃなくて、仲間」
彼女の中では、友人と仲間は明確に区別されているらしい。
淡々とした物言いに、夢路はふうと小さくため息を吐く。
どうにもペースが掴めない。
今まで夢路が多少なりとも親しくしていた少女達と比べて、彼岸は明らかに異質だ。
聞き手に回ることが多かった夢路は、自分から相手の内部に踏み込んでいく経験が少なく、会話は直ぐに途切れる。
沈黙が苦手な訳では無いけれど、それでは夢路の抱く疑問に答えが返ることはな無い。
人間は自動販売機ではない。
硬貨を入れれば答えが落ちてくるなんてことは無いのだ。
夢路は自分のコミュニケーション能力の低さと直面しながらも、手探りで、言葉を探す。
「私がトイレで吐いてた時、影崎さん、『ヨモツヘグイにならなくてよかった』って言ったよね。あのさ、ヨモツヘグイになるって、何?」
夢路がヨモツヘグイと口にした瞬間、彼岸はペットボトルを両手でぎゅうと握りしめ、何かを考えるように角の部分をぺこぺこと鳴らす。
ぺこ。
音が止む。
ペットボトルをへこませたまま、彼岸はようやく口を開いた。
「死ぬ、こと。普通に死ぬんじゃなくて、普通じゃなく死ぬこと」
死ぬ、という一言に、心臓が一際大きく波打つ。
全身に力が入り、夢路も、手にしたペットボトルが歪ませた。
死ぬのか。
いや、ならなくてよかったと彼岸は言っていた。
クラスメイトは死んで、生きてるようで、あれと同じになるのか。
今日は隣の席のクラスメイトだった。
じゃあ明日は自分の番なのだろうか。
吐けば安全なのか。
現実は無情なのか。
ぐるぐるぐるぐる思考が回る。
夢路は歯をきりと噛み締めた。
いやだ。
それは嫌だ。
「そうなっちゃうこと。そうなっちゃうのを、ヨモツヘグイになるって、言ってる。上手く説明できない、けど。シュウくんとか此岸のほうが上手く説明できる、けど」
「ねえ、私は――」
言いかけて、心臓が速鳴る。
口に出すのが怖いのだ。
本当になってしまいそうで怖い。
毛布の中でヨモツヘグイについて検索している中、言霊という概念を知った。
口にした言葉は戻らない。
なかったことにはできない。
現実になってしまう、一種の呪い。
彼岸は夢路が何を言わんとしているのか察したように、ふると頭を振るった。
「わからない。明日にならないと分からない。でも、どこにいても同じ。何も起きないかも知れない。何か起きるかも知れない。防ぐ方法とか、まだ、分からないから。ごめん、なさい」
ふわふわと綿飴のような声音を少し硬くして、彼岸が謝罪を口にする。
刹那、ばあんと大きな音が立つ。
気が付くと夢路は、ペットボトルを壁に投げつけていた。
何かを知っている風な人間に会って、夢路はどこかで期待していたのだ。
この訳の分からない状況を何とかしてくれるのではないかと。
自分は、自分だけは、助かる、助けて貰えるんじゃないかと。
結局。
どうにもならずに明日まで、恐怖に震えているしかないことが分かっただけで。
のろのろと立ち上がり、壁に叩きつけたペットボトルを拾いに行く。
蓋を閉めていてよかったと場違いな安堵。
明日死んでしまうのならば、部屋がいくら汚れようが関係ないのに。
「ねえ」
彼岸に呼びかける。
きっと彼女はあの兎の目で、此方の背中を見ているのだろう。
「なに?」
視線を感じながら、けれど振り返らず、夢路は言葉を継ぐ。
「影崎さんは何で知ってるの? 私が悪夢を見ているとか」
沈黙は一瞬。
ごとり。
綿飴は硬く堅くなって夢路の耳に届く。
「魔法で分かったの」
泣きながら、彼岸の言葉を理解しようと足掻く。
恐怖に泣きながら、どうにもならない現実に泣きながら、壁に額を預けて泣きながら、夢路はただ、彼岸の声を聞く。
「わたしたち、魔法使いだから」
叫び出したい気持ちを押しこめながら、夢路はただ、泣いた。