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 何も光源のない地下で水が揺れていた。

 一粒、一粒が仄光る水雫。沢山の水雫の一塊。

 周囲が打ちっぱなしのコンクリート壁でなければ、幻想的な、或いは非現実的過ぎる泉のようなその中央に、少女が立っていた。

 水面から立ち上る柔らかな光に撫でられた榛色の長い髪は艶やかな天使の輪を浮かべ、くっきりとした二重の瞳は黒目がちで夢と現を繋ぐように。襟ぐりの開いたシンプルな白いワンピースは、磨り硝子を通して蝋火を望む乳白色の肢体に絡み付くでもなく自由に水を泳ぐ。

 夢見るように何かを待ち望むように頭を反り上げて、水面が綾を描く天井を見ていた少女の喉が不意に蠕動した。

 呼吸を求めて喘ぎながら嘔吐する寸前めいた声が何度も、何度も薄珊瑚色の唇から毀れる。

 聴く者があれば歌のように聞いただろう。

 粘液や溶けかけた食餌の残滓を振りまくのではなく、新たな誕生を迎えるための無伴奏歌。

 双眸は閉ざされ絵筆で描くように一筋、二筋と流れ、落ちる涙滴は、水へと捧げられる聖餐。

 やがて少女の小さな頤がゆるゆると下がり、透明を内包する細い蟲が、口腔からでようと唇に脚をかけた。

 波打つ沢山の触手を備えた後頭。

 前頭には大粒の眼が2つあり、つんと尖った部位の下には薄紅に色づいた口頭。

 前脚の先の四つに別れた触覚部が、更に前へい出んと宙を足掻き、少女は応えて柳のように俯く。

 勢い、少女の口内から、半分溶解したままの蟲の、腹部から臀部にかけてが跳び落ちた。

 臀部の先には前脚と似たような後ろ脚がついており、水に浸かると同時に背中の割れ目から、水面がコンクリートの天井に差し出すのに似た綾模様を持つ透明な翅が緩やかに開いて、光り続ける水を掻き泳ぎ初める。

「ああ、また、お降りになった。天使さま。私の天使様がた。疾く大きくなあれ。私が世界に帰るために。おおきく、おおきくなあれ」

 まだ涙を流す少女は新しいそれに指を差し伸べた。

 口角を開かせた『天使』がざらついた舌で少女の指先と戯れる。

 ざわりと水面が騒いで、跳び出してきた幾匹もの『天使』の頭が彼女とそれの交感を見ていた。


 ―――――― 頭蓋骨は眠れない午後の 

        アムス・テル・マギナが欺瞞は美しく鏡面の如く映し出す 

        忘却の川を進む君を手に取り掌ごと握りつぶす 

        三千の騒音が緩やかに歪


 双方の舌を這いい出て。

 歌は畏み畏み世界へと奏上する。



 *



 百足夢路(むかでゆめじ)は転校生だ。

 転校の理由は『両親の海外赴任に伴う事ができない為』。

 運良く、全寮制の先司館学園高校へ転入できたのだ。

 学校が機能していないような開発途上国へ両親共に赴任するのであればしょうがないと、二年の一学期から通っている。

 ショートカットに切れ長一重の双眸で、少年とも少女ともつかない容姿と、特徴的過ぎる名前からクラスメイトにすんなりと覚えて貰えたが、自分がフルネームを覚えているのは隣の席と寮の同室の生徒だけ。苗字を覚えているのが数名、顔を覚えてるのは半数。後は朝、挨拶してくれれば同じクラスだと分かる程度。 

 窓際から二番目の最後列の席で、一学期が始まって一週間と数日、転校してから一週間ではそんなものだろう。

 その、顔を覚えていない誰か――最後列廊下側の誰かの頭が、がくん、と天井を向くと破裂した。

 口が大きく裂けて舌は耳元から垂れ下がり、圧力で跳び出したのか、瞼のかからない両眼は真円。頭蓋は弾け飛んだパズルのーピース。化学系の展示会でしかそうそう目にしない脳味噌の皺まで見て取れる。

 何よりも、どろりと鼻孔に蟠る血臭が、凄惨ながら突然過ぎて現実味の無い光景を『現実』だと教えてくれた。

 夢路にとっての『現実』だと。

 状況に心が追いついた瞬間、夢路は立ち上がろうとして、脚と膝が立てない程震えていることに気付いた。

 視界が揺らぎ足が縺れた椅子を蹴倒す。

 挙動と椅子のパイプ部が立てる高い音に、クラス中の視線が夢路へ集中する。

 最後尾で死んでいるクラスメイトではなく、夢路を見ている。

「えっと、百足君だったか。どうした? 気分が悪いのか?」

 ああ、悪いとも。だってそこに死体があるのだ。突然破裂した頭の死体が。肉と血を伴った匂いがするのだ、見えるのだ。

 どうして皆、私を見るんだ。

 私じゃなくて死体を見るべきじゃないのか。

 医者は、養護教諭は呼ばないのか手遅れだとしてもそれくらいはすべきじゃないのか警察は呼ばないのかどうしてみんな私を見てる死体じゃなくて私を私を私を。

 一言でも漏らせば嘔吐しそうで、古典の教師に一つ頷くと夢路は一目散にトイレと走った。転んで、走って、走ろうとして転んで。

 悪夢のようにもどかしく自在に動かない手足。

 ようやく便器にたどりつくと、胃の中のものを全て吐き出した。

 溶け切りそうなサンドイッチの残滓と胃液が広がり、その匂いでまた吐いた。

 吐くものが無くなっても水を飲んで吐き気が続く限り吐いた。

 酷い風邪をひいた時のようだ。

 吐き気が無限に続くような気がし、吐きすぎて自分が裏返ってしまうのではないかと錯覚し、トイレの床の冷ややかさに細やかな癒やしを得て。

 やがて吐き気が引いても体の震えは止まず、嘔吐で体力を消耗して一歩も動けないまま、蓋をしめた洋式便器に座り込む。

 手洗いの水を呑みに行けたのが不思議なぐらいだ。

 施錠した個室の壁に後頭部を預けてぼんやり思った。

 遠くにそれぞれ教室から授業の声音が聞こえる。

 トイレの涼しさと相まって、眠ってしまいそうだ。

 夢路はうつらうつらと意識を手放しそうに船をこぎはじめる。

 ある種規則正しい雑音へ身をまかせようとしたそこへ、足音が紛れ込んだ。

 隣の個室が開かれて、嘔吐する音が聞こえる。

 何かを飲む音と嘔吐。

 少し前の自分の姿と重なって、夢路はぱちりと覚醒した。

「よかった、ね。ヨモツヘグイになる所だった。あなた」

 唐突な声。

 誰が隣に入ったのか確認しようとドア鍵に掛けかけた指を弾かれたように引き寄せる。

 隣にから響いた、淡々とした口調なのに、綿菓子を柔らかく千切るようなような声音は確かにどこかで聞いた事があった。

 夢路が記憶を手繰ろうとする間に、「次に見た時も、吐いた方がいい、と思う」と言い残して隣室の誰かは去っていった。

「次見た時って……次があるのかよ……」

 ドアを開いて項垂れる。

 夢路そのまま教室には戻らず、保健室へ向かう。

 アレを2度も3度も見たくはない。

 その前に、アレを見たのは本当だったのか、どこかで夢と混濁したのではないか。

 だとしたら、忠告してきたトイレの少女は何なんだ。悪戯だろうか。

 死体が?

 少女が?

 保健室のドアには『喫煙中』と紙が貼られており、開くと誰もいなかった。

 使用ノートに名前と学年、組みを書き込んで、上履きを脱ぎながらベッドに潜り込む。

 注意深く聞き耳を立てても、パトカーの音も救急車の音も聞こえない。

 やはり夢だったのだろう。

 そうやって意識を外に、探りながらも、夢路は本格的な眠りに落ちた。


 先司館学園は、学園校舎を挟んで東側に女子寮、西側に男子寮を有している。

 教室を出て寮の自室に戻るまで、片道20分あれば充分の場所に位置していた。

 しかし、夢路は保健室で目を覚まてから一時間かけてようよう、自室に辿り着く。

 保健室での夢見は最悪だった。

 自分の手足が先端から細かく切り刻まれる悪夢。

 現実のようにリアルで、目を閉ざせば細部まで思い出せる。

 いや、思い出してしまう。

 タン、タン、タン。

 音が思い出される。

 タン、タン、タン。

 恐ろしく大きな長方形の刃を持つ包丁が。

 タン、タン、タン。

 リズミカルに自分を刻んで行く。

 タン、タン、タン

 夢の。

 音。

 痛みは無く、ただ機械的に、包丁が上下する。

 まるで食肉加工工場のベルトコンベアに乗せられた肉塊。

 刃が近づいて来るのを眺めるしかできない。

 体育館ほどの広さの、自分が乗せられた台と包丁以外には何も存在しない場所。

 天井は異常に低く、何の光源も見当たらないのに部屋の隅々まで隅々までくっきりと無機質な光に照らしだされていた。

 そして自分はただ切り刻まれる。

 切り刻まれて切り刻まれて切り刻まれて、抗おうと力の限り四肢を動かそうとしても寸分も思いのままにならない。

 夢路は痛みはもないのに声の限り絶叫していた。助けを求めた。両親の名前を叫び、転校前の担任教師の名前を叫び、昔のクラスメイトの名を叫び、両親の名前を叫び、祖父母の名を叫び、最後には誰でもいいから助けてくれと叫び。

 叫んでも叫んでも意味不明な譫言でも叫んでも、包丁の音は反響して耳を弄するのに、自分の声は真綿に吸われるように残響を残さない不気味さ。

 頭は動かず目は天井にむけられ開かれ続けたまま、それでも包丁と肉屑になった自分の一部は見える不条理さ。

 圧縮され密度を増した恐怖が夢路の内側に生まれては叫びとして放たれた。

 頭部を水平に切り刻まれ口を失ってからは発散させる事もできず心を蝕もうとする恐怖は醸造する。

 そして鼻を失い両目を失い脳を失いそうなところで目を覚ましたのだ。

 飛び起き、体をぐっしょりと濡らす汗の滴りを感じて初めて、夢を見ていたのだと理解した。

 ベッドのシーツには水切りをした水死体を乗せたように、汗の跡が人型にくっきり残っていて生暖かく、それが切り刻まれるために固定された人間めいて感じられる。

 夢路は明確な恐怖にかられて保健室を逃げ出した。

 走って逃げ出したかったが、伸し掛かる披露と足の震えがそれを許してくれず心ばかりが逸り、下駄箱から靴を取り出すといった些細な動作でさえままならないまま、やっと自室へと帰り着いたのだ。

 煩わしいと思っていた一室をカーテンで区切って2人で使用するという部屋割りすら有り難く思えた。

 同室の生徒が帰ってくれば少なくとも、悪夢のように『独り』にはならずに済むのだ。

 幾ばくか安堵すると同時に無性に喉が乾いていた事に気付き、寮生には無料で配布されるミネラルウォーターを二リットル、殆ど一気に飲み干す。

 ふと窓を見る。

 窓硝子には夢路の姿が微かにだが映り込んでいる。

 元々夢路は、男とも女とも取れる中性的な顔立ちだった。

 印象的な切れ長一重の双眸が、夢路の性をさらに曖昧にさせる。

 それが今はショートカットの髪は乱れ、瞼は疲労か恐怖か厚ぼったく浮腫み。元々色の薄い唇からは更に血の気を引いていた酷い有様だ。

 自分の容姿には無頓着な夢路だったが、あの悪夢が硝子に映しだされそうな気がして、淡藍色のカーテンを乱暴に引く。

 急いで部屋の電気を点けようと思ったが、結局窓に面して置かれた備え付けの学習机のデスクライトのみを点けた。

 ベッドに這い上がり毛布を外套のように頭から被って壁に背を凭せ掛け、考える。

 暗闇が怖い。

 同様に光が――夢の中のどこまでも照らし出す白熱灯に似た無機質な光が怖い。

 夢路は小さな、それこそ物心を付いた時から暗闇を怖いと思った事は一度も無かった。

 夜の暗がりの危険性を知らなかった訳ではない。

 小さな頃から安全、危険は理解できても、暗所を恐ろしいと言う同年代の子供達の事が理解できなかった。

 だから今はじめて知ったのだ。

 暗闇が齎す暴力的なまでに理不尽な恐怖を。

 そして光が暗闇に取って代わり同じように齎す恐怖を。

 毛布の端を握りしめなければ今にも、夢の中でそうしたように叫び出しそうなのだ。

 小刻みに震える体を毛布で覆っても、皮膚を皮膚の内側を脳を心臓を恐怖に小突き回される。

 叫ぶ代わりに泣いた。

 押し殺した嗚咽は噛み締めた毛布に吸われる。

 泣いて泣いて泣き疲れた頃、ドアが開く音がした。

 殆ど無音の部屋では轟音に等しいそれに、反射で叫ぼうとしたが、噛んでいた毛布を吐き出すだけで済んだ。

 じっと気配を伺う。

 部屋に光が灯されたら。

 何をするか分からない。

 自分で自分が理解できない。

 仕出かす事の推測すらできない。

 力の加減も分からない。

 気がついたら、裁ち鋏を握りしめていた。

 学習机の引き出し周りに針山や巻糸が散らばっているのをぼんやりと知覚する。

 家庭科で使用する裁縫箱を仕舞ってあった。

 それを開けたのだろう。

 

 ―――― そうか。これで刺すんだ。


 光が点いたら仕切りのカーテンに影が映る。

 影の大きさから位置を特定して、刺して、光を消す。

 それだけでいい。

 光が点いて動けなかったら自分は死ぬのだ。

 切り刻まれて。

 切り刻まれて。

 切り刻まれて。

 夢路は息をするように納得した。

 納得して待ち受ける。

 サバンナの木の上で獲物を待つ豹のように。 

 そうして。

 光の代わりに落ちてきたのは、教室で死を見た後、トイレで聞いた少女の声であり。


「夢、みたのね、あなた」


 同室で生活を共にする少女――影崎彼岸(かげさきひがん)の声だった。

 彼女は何故か部屋全体の電気を点けず、彼女用の学習机のデスクライトのみを灯した。

 夢路の記憶はそこまでで、目を覚ましたら朝だった。

 いつ寝たのかは覚えていない。

 ただ、一晩中裁ち鋏を握りしめていたらしく、数日は残るだろう痣が手のひらにできていた。

 寮の朝は忙しい。

 朝食の時間は午前七時から八時までと決められており、全寮生は基本的に揃って朝食を取る。

 食べ終わった後は、始業時間に間に合えば自由時間になっていた。

 悪夢の恐怖は、まだ根強く心に残っていたものの、朝食を無理やり詰め込んで教室へと向かう。

 夢路は後に思う。

 ああ、ほんの始まりに過ぎなかったんだなと。


 教室に。


 前日までのように、死んだ筈のクラスメイトが何事もなかったかのように登校し。

 前日と違って、死んだはずのクラスメイトの隣の席の少女の頭が吹き飛んで。

 前日のように、トイレへ逃げ込んで朝食を吐き戻し。

 前日とはくらべものにならない、濃密な悪夢を、夢路は見た。


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