一枚壁で隔たれた名も知らないどうし
住宅街の中をひたすらに走っていた。
喉に焼けるような痛みが走った。
足は棒のようで、動く意思に反発し、力が入らない。
ただ走っているだけ、しかし走るという行為は自身の体を蝕む行為でもある。
いや、どんな行動も体のエネルギーを消費する。ならこれは代償という言葉が似つかわしいだろうか。
そんな馬鹿みたいな無駄な考えを頭に思い浮かべながらも僕は走った。
中学生の自身のこんな醜態を、世間は恐らく中二病と呼称するのだろう。
でも僕が走っているのには理由がある。
これはただの逃避行動だ。
「はぁはぁ……うぅ、ここまで……来れば」
走り疲れた僕は適当な場所を見つけ、壁に背中を預けてその場に座り込んだ。
逃げという行動の理由を走馬灯のように思い浮かべたい気持ちはある。けど今はそんなことよりも状況分析が先だ。
「あ、これ見つかったら……万事休すだ」
走ることにだけ執着していたからか、見回せば僕の左右と後ろにはコンクリートで出来た壁があった。
わかりやすい話が袋小路。開いている空間は目の前という完全な一本道が出来上がっていた。なんで僕はこんな場所に逃げ込んだんだろう。
まさかとは思うけど、こんな場所が一番の安全地帯だとでも判断してしまったのだろうか。
そうだとしたら、僕の頭はどれだけ愉快で平和なお花畑なんだろう。
「こんなところ、一刻も早く離れないと」
すぐにそう判断すると、息を切らしている状態で立ち上がろうとした。
そう判断したんだけど
「あれ、ダメだ……もう足が」
足が言うことを聞いてくれなかった。限界に達していたんだ。
まるで生まれたての子鹿。立ち上がろうと踏ん張ろうとしてもすぐにその場に崩れ落ちてしまう。
こんなところ、すぐに出て行きたいのに……。仕方なく僕はその場で体力が回復するのを待った。
時間が惜しいけど仕方がない。
『……そっちに誰かいるのかな?』
「え」
一瞬、後ろの壁に話しかけられたと思った。けどすぐに一枚の壁で隔てられているだけで、その向こうにも道があるのだと気がついた。
つまり、後ろの壁の向こうには人がいるというわけだ。僕と同じように壁を背にしているかは知らないけれど。
ここらへんの地形を把握しているわけじゃないから、まさかそんな地形になっているとは思わなかった。
『あ、声が返ってきた。なんだか声が聞こえると思ったけど、どうやらビンゴみたい』
「え……あの、どなたでしょうか……」
いきなりの問いかけに僕は唖然としながらもそう返した。向こうの人はすごく気さくな感じみたいだ。
『なんか息切れしてるみたいだけどどうしたの、なにか揉め事でもあったのかな?』
「質問に答えてくださいよ」
会話のキャッチボールが成立しない。いきなり壁の向こうから話しかけようとするような人だし仕方ないかもしれないけれど。
まあ今は体力がなくて動けないから、いっか。僕は「はあ」と溜息をつくと質問に答えることにした。
「揉め事、ですね。ちょっと今追われていて」
『君も? 奇遇だね~、ちょうど同じ目に遭ってる』
「あなたもですか……まあどんな人に追われているのかは聞きませんけど」
『そうだね~、聞かないほうが身のためになるかな?』
一体どんな危険なことになっているんだあっちの人は……。あれかな、マフィアか893の方々かな。
『君、声質からしてまだまだ子供……中学生くらいかな? だとしたら喧嘩で追われてると推測』
「……まあ似たようなものです」
あくまで本当のことは話さない。なんでこんな見知らぬ人、というか顔もわからない人に話さなきゃならないんだろう。
一応、本当に似たようなことであって喧嘩ではない。
中学生の部分は否定しなかったから断定されたかもだけど、そっちはどうでもいいことだからバレてもいい。
『う~ん、うん。友達との喧嘩なら若い内にしとくといいよ。君も相手も自己主張が激しいだろうし、それに喧嘩しないとわからないことが多い。でも、一度でも友達になったのなら気は合うはず。だから絶対に仲直りするといいよ。生涯の友になるかもしれないんだから』
「あの、勝手に話を進めないで下さい」
『違った?』
「違います!」
この人、なんでズケズケと勝手に人の中に踏み入ろうとするの?
まさかとは思うけど、この人ただただ面白がっているだけだったり……。
『まあ違ってたとしても今の言葉は本心。もし友達と喧嘩したなら今の言葉を覚えていて損はないかもだよ』
「……今の僕には全部はわからないです。大人になって気がつく大事なことは多いとは父さんの言葉です」
『面白そうなお父さんだね。子供の内に知った言葉の本当の意味を知るのは大人になってからだとは親友の言葉だ』
「真似しないで下さいよ、馬鹿にしているんですか?」
『ごめんごめん。似た言葉を知っていたから言いたくなっちゃったんだ。でも、そのお父さんの言葉は本当だよ』
「……今の僕にはまだ、わかりません」
『うん若い若い。うん青い青い』
この人は本当に何が言いたいんだろう。ふらりふらりと揺れているみたいで柳に風、糠に釘だ。
僕が真面目に話そうとしても、この人は笑ってそれを躱してると感じてしまう。でも馬耳東風というわけではない、真面目さに欠けているみたいだ。
……て、なんで僕は真面目にこの人と会話しようなんて考えているんだ!
向こうにいる人はまったく知らない人で信用できない人以前の問題があるというのに……。
「もう僕行きますね」
『え、もっと話そうよ。面白くない』
「あなたを楽しませるためにここにいるわけじゃないんですよ」
『それもそうだね、君には君の都合がある。うん』
本当に……この人は何を考えているんだろうか。
『君と仲良くなるには……どうすればいいのかな』
「……顔くらい合わせればまともな会話はできるかもしれませんね」
『その先、会話以上、仲良くなるには?』
「わかりませんよ! というかなんで仲良くなろうとするんですか」
『誰かと仲良くなりたいのに理由なんているのかな』
「……」
さすがに、言葉が出てこなくなった。
なんで顔も合わせたこともない人と仲良くなろうだなんて考えるんだろうか。
全ッ然この人の考えがわからない。
『君もいないかな。理由もなしに仲良くなりたいって子は』
「……ノーコメントでお願いします」
『OK』
はあ、もうやだこの人。会話するのに体力を使うよ。
価値観が違うんだろうね、価値観が。うん、多分そうなんだろう。多分だけど。
「それじゃあ僕はこれからやることがありますので、失礼します」
『はいは~い、行ってらっしゃい。話をしてくれてありがとうね~』
顔はわからないけど一つだけわかることがある。
今向こうの人は絶対に手を振っている。絶対だ。
「んっしょ……ふう、今日は一段と面白い出会いがあったね~」
「それが最後の良い出会いである可能性があるけれど」
「おや君は……。珍しいね~君が出てくるなんて」
「はい、ワタシもまさか貴方に会えるとは思っていなかった」
とある青い少年と別れてからしばらくして、ナイフの手入れを終えて立ち上がると、そこには知り合いの少女が佇んでいた。
金糸のように綺麗なブロンドの髪、水底のように神秘を宿した群青色の瞳。
ライダースーツのような肌にぴっちりと吸い付くような服に身を包んだ令嬢のような彼女は無表情でこちらを見ている。
「今日はみんな出払っている。そのためワタシも貴方を探しておりました。それでも貴方と出会う確率は限りなくゼロでしたでしょうね」
「それじゃあこれは奇跡に近い確率の出会い、ってことかな? いい出会いだ」
「お覚悟を」
ポケットからコンパクトナイフを取り出し、くるりと一回転。陽光を浴びて銀色にギラつく鋭利な刃は殺意の表れか。
細められた彼女の瞳は覚悟に満ちていた。
「覚悟はまだまだできてないよ。なんたって、まださっきの子の名前を聞いてないからね!」
右手をポケットに突っ込み、さっき手入れが終わったばかりのジャグリングナイフを取り出すと彼女の覚悟に負けない目的意識を表明し、地を蹴った。
彼女も同時に動き出し、横に振り払ったナイフに自分のナイフを重ね、その場に踏み留まり力強く前に押し込んだ。
金属が織りなす甲高い音は、鋭利な表面を擦り潰し鈍らへと変えていく。
「シャアッ!」
少女は一息吐くと同時に片手で持っていたナイフを両手で握りしめ、振り払った。
男はその力に押されると分かるやいなや、地面を蹴って後ろへ逃げた。
「逃がさない」
その一瞬の飛び退る挙動を少女は見逃さなかった。
男が地面を蹴ると同時に少女も前に飛び出し追撃、片手をナイフから離し左手だけで持つと、その切っ先を男の喉元へ向け突き出した。
その素早い行動をまるで男の行動を全て脳内に記憶しているかのよう。
「いや、Welcome、だ」
しかし、男は満面の笑みで彼女を懐へと向かい入れた。
ガキリという、硬質的な音が誰もいない空間に響き渡り、少女は信じられないようなものを見るような、驚愕によって目を見開いた。
少女の持つコンパクトナイフは男の血を一滴すらも流させることができず、その攻撃的な刃を失った。
後方でキン! という音が鳴ったが、それが自分の持っていたコンパクトナイフの刃だということに気付くことには時間入らなかった。
目の前で自分のナイフを『素手』で叩き折られる光景を見ていたからだ。
男はナイフの側面に手刀を叩き込み、軽々とその刃を折った。
「嘘……」
「嘘じゃないさ」
少女の呟きに男は現実であると返しながら、ジャグリングナイフの切っ先をお返しとばかりに少女の喉元へと突き出した。
そのナイフは少女の喉を抉り、鮮血を噴出させ、なかった。
「あれ」
確実に刺し入れた、かと男は思ったが、目の前に少女の姿はなかった。
パッと消えるように、手品を見せられたように少女の姿は目の前から掻き消え、数m前方に下がっていた。
男はそれを確認すると、薄く笑みを浮かべ震えるように口を開いた。
「くっ……いつも通りにインチキをしてくれやがりますか」
喉元から血を流し、深くはないが浅くもない傷に手を触れると男を罵倒した。
「どう考えても、君のほうの方がインチキっぽいけど」
「ワタシはただ狂わせるだけ、手品と言われる方が正しい」
「面白い力だよね~」
「君の『センス』」
声は少女の後ろから届いた。
少女が振り返った瞬間、自分の腹部を貫く男の右手を目にした。
その手を掴もうとするも、それよりも早く手が横に振り抜かれ、内蔵や骨を斬り裂かれる。
激痛。体の中に手を突っ込まれ臓器や骨をグチャグチャに掻き乱されたような最上級の痛みが襲い来る。
その痛みは神経を休ませず、常に緊張が張り巡らせたかのように微細に現在の状況情報を脳へと送り込む。
警報。警報。
これ以上の行動は不可能。指を一本でも、体を震わせるだけでも生命の危険が発生する。
言われなくてもわかるような情報が脳内を埋め付くし、少女は今自分の身の危険を一回呼吸するごとに思い知った。
酸素が痛い。空気を肺に取り込むだけで、体中にエネルギーを通わせるとともに痛みが走る。
「アハハ、さすがにこの速さには無理かー。もう少し楽しめるかと思ったけど、残念だ」
男が地面に崩れ落ち、体をビクビクと震わせ痛みにもだえ苦しむ少女を見下ろしながら笑う。
恐怖からくる震えではなく、痛みからの逃避によって起こる原始的な反射行動からくる震えだ。決して、生命の危険や男への恐怖から来ているものではない。
しかし、それを口にしようとも男にとってはどうでもよいことだ。
男はただ、楽しければそれで良い。
それが少女にとっての、男を見た最後の光景。あまりの痛みに目の前が暗転し、少女は気絶した。