4th 千尋の谷、燻る炎
小松工務店の棟梁、小松源蔵は不満げな表情で建築途中の家を見ていた。
中学校を卒業してからすぐに大工として働き始めて30年、賢い妻に恵まれ、汗臭い父だというのに慕ってくれる娘、弟子は馬鹿は多いが皆カラッとした性格ばかりで仕事もやりやすい。独立10年目、苦楽もあったが、順風満帆な人生を歩んできていると実感できる。
だがしかし、腕が言っている。こんな小さな家じゃない、もっと出来ると。
脳が言っている。お前の作りたい家はこんなちっぽけで流行にかぶれた面白みのないものか?と。
確かに30年研鑽に研鑽を重ねてきた自身の腕に自負はある。
だが家を作っている最中でこんなにも途中で投げ出したくなったのは初めてだ。
一度取り掛かった仕事に全力を注がない職人など最も恥ずべき者であると弟子たちを日々怒鳴りつけているというのに。
ふと思い出すのは子供の頃の夢。
確か、王様の住むにふさわしい、立派なお城を作るだったか。
昔の純粋ではあるが幼稚な想いに囚われている自分を恥じ、嘆息を漏らす。
遠くに愛する娘の姿を認め今日もまた弁当を届けに来てくれたことに感謝し娘のほうに向かっていく。
娘のもとに行くと黒色の猫が娘と共に戯れていた。娘は顔を綻ばせながら猫を撫でている。対して黒猫はあまり嬉しそうにしていないように見える。可愛げのない猫だ。
ぴょんと娘の腕の中から飛んだその猫と目が合う。目つきの悪い猫だ。
だが、その目からは、私への多少の興味、そしてこの世に対する何らかの不満を秘めている濁りを感じた。
今の私の目もまたこの黒猫と似たような目をしているのではないか。
現状への不満、現在の自身を変容したい、しかしどうにもならないという想い。
この黒猫に興味がわいた源蔵はチッチッチと音を鳴らして猫を呼びつけてみた。
が、猫はふいと興味をなくしたかのように脇を通り過ぎていった。
「チッ」
これだから気まぐれな生き物は。こちらが親近感を感じて歩み寄っても、気分次第で逃げていく。ままならない女のようだなと舌打ちする。
そう心中で愚痴っているうちに、娘がこの黒猫の名付け親となったらしい。
モルタルと名付けるとはまさしく職人の娘だなと笑う。
成る程その名前は確かにこの猫にはぴったりかもしれない。
モルタルとは砂とセメントと水を練り混ぜて作る。
確かに娘の言うように、熱に強く、よく伸びるが扱いの難しい建材だ。
まずコストが高い。施工期間が長く必要で、それだけ長く時間をかけても、簡単に亀裂が入って駄目にしてしまう場合がある。それ故にモルタルを扱うには熟練の職人の技が必要だ。そう私のような。
この気位の高そうな猫と付き合うには長く時間をかける必要がありそうだし、簡単にへそを曲げてしまいそうだ。
職人の矜持が刺激されたかのようで、この生意気な黒猫をなつかせてやろうと娘からもらった弁当からエビフライをモルタルにやる。
モルタルは嬉しそうにエビフライにかじりつくとすぐに平らげ、またそっぽを向いて去っていく。
まぁ気長にやるさ。と源蔵もきびすを返す。すると後ろから眩い光が背中を襲ったかと思うと、源蔵の目の前にも光が覆う。
―その日世界は男の人生の舵を大きく曲げた。
驚いた。
辺りの様子が様変わりしていることにも驚いたが、それ以上にこの目の前の猫が人間の言葉を発したことに。
猫もまた驚いているのか、人間のような動作で、喉に前足を当てて自分の状態を確認しようとしている。
「おっ、おい俺の言葉分かるのか?」
猫に問いかけると、あまり綺麗な発音ではないがちゃんと人間の言葉で「分かる」と返答してくる。
どうなってんだこれは。
寡黙で何事にも動じない昔ながらの職人気質、弟子たちからも鉄の親父として畏敬されている源蔵であってもこの状況には混乱せざるをえない。
見たことのない場所で目が覚めて、傍らにいるのはつい最近知り合ったばかりの、だが人語を話す猫。現実味のない状況に夢ではないかと疑うも、目から入る光景がリアルに過ぎる。
急に心細くなって、弱気な想いが頭をよぎる。もう愛する妻子に会えないのではないだろうか。いまだ、弟子たちに自らの技を全て継承していないというのに。
そうしてウーンと唸っていると、すねの辺りを叩く感触があった。
猫がこちらを見上げている。
相変わらず不安定な発音でこちらに問いかけてくる。
「とりあいず、じゅうみんにはなしかけてみにゃいか?」
猫の目からは最早先刻までの濁った印象はなく、爛々と輝く力強い火が灯っていた。