~ 四ノ刻 霊道 ~
君島邸。
高級そうな骨董品と、昔ながらの古びた書棚の置かれた部屋で、君島邦彦は独り煙草をふかしながら考えていた。
数日前に行われた鬼剣舞。今年もまた、自分が白面の鬼を演じて舞台に立つことになった。一年に一度、君島家の晴れ舞台ともいえるその場では、何も問題なく事が運んだ。
だが、その一方で、邦彦には常に一抹の不安がつきまとってもいた。
鬼剣舞に登場する鬼は、大きく分けて二つある。一つは邦彦が演じていた、白面の鬼を中心とする集団。これは、仏教でいうところの仁王や明王などを現しており、そのためか角にあたる突起がない。
それに対し、もう一種類の鬼には角がある。黒い、いまにも観客の人間を取って喰らいそうな形相をした面で、こちらは見ての通り悪鬼を現している。
鬼剣舞の主役は、当然のことながら白面の鬼が指揮する集団だ。黒面の鬼と取り巻きは、舞台の上ではやられ役に過ぎない。
鬼剣舞の舞台に立てるのは男のみ。君島家の慣習に基づき、邦彦もまたそれを守り続けてきた。白面の鬼は自分が演じ、黒面の鬼は弟である敏幸が演じる。それ以外の鬼は、全て男だけで固められた門下生達に演じさせている。
鬼剣舞の主役である白面の鬼。それは単に舞台の上での主役でなく、君島流鬼剣舞の家元としての象徴でもある。白面の鬼の役を手に入れることは、君島家の戸主として家を治めることと何ら変わりないのだ。
家元の名を継ぐのは、自分の息子である宗也以外の者であってはならない。邦彦はそう考えていたが、現実とは残酷なものである。
志津子との間に産まれた第一子は、不幸なことに女であった。妻に似て美しく育ったものの、邦彦には沙耶香に対し、そこまでの興味は抱けなかった。だからこそ、四十を過ぎていることなど承知の上で、志津子に宗也を産ませたのだ。
その一方で、邦彦にとっては弟の敏幸の息子が邪魔だった。
君島晴樹。宗也が産まれる以前は、彼が後の君島家を継ぐ最有力候補だった。なんとか無事に宗也が産まれてくれたからいいものの、それまでは家元の座を弟の家に奪われるのではないかと気が気でなかったのは事実だ。
それにしても、あの晴樹。あれは、随分と悪運の強い人間だ。本来であれば流産してしかるべきところを、母親が亡くなったにも関わらず生き延びた。
「ったく……。まさに鬼子ってやつだな……」
晴樹がいなければ、自分はこうまでして不安に駆られることはなかったはずだ。君島家の慣習では長男の息子が後を継ぐとなっているものの、今のままでは宗也が確実に君島家の戸主となれる保証はない。
晴樹の方が先に鬼剣舞の全てを会得してしまえば、慣習を破ってでも彼に後を継がせようとする者が出てくるだろう。敏幸の考えなどは知る由もないが、少なくとも自分が同じ立場なら、好機とばかりに家元の座を奪いにかかる。
邦彦にとって晴樹は、この君島家の中でしぶとく生き続ける憂いに他ならなかった。母親の生き血をすすり、その命を犠牲にして産まれ出でた鬼の子ども。邦彦からすれば、晴樹の存在は妖怪のような化け物じみたものにしか見えなかった。
「それにしても、あのガキもしぶとい奴だ。まったく、なんであの時に、敏幸の女と一緒に死ななかったんだろうな……」
既にフィルターの近くまで迫った煙草の火を灰皿に押しつけて、邦彦は乱暴に火を消した。部屋に残った紫煙の匂いが、微かに鼻腔をついてくる。
君島家を継ぐのは、当然のことながら自分の息子である宗也なければならない。弟の息子が君島家を継ぐなど、間違ってもあってはならないことだ。
邦彦がそんなことを考えていると、彼の部屋の襖が唐突に開かれた。思わず振り向いたその先には、彼にとっては見慣れた女性の姿があった。
「なんだ、志津子か。どうした、思いつめた顔をして」
君島志津子。邦彦の妻であり、沙耶香と宗也の母でもある。いつもは邦彦につき従うだけの彼女が、自分から邦彦の部屋を訪れることは珍しい。
「あの……。昨晩のことなんですけど……」
「そのことは、既に話が済んでいるはずだが」
「でも、やっぱりあまりにも気味が悪いものですから……。その……お継母様に言って、これをもらってきたんです……」
そう言って、志津子が取りだしたのは、一枚の札だった。赤い紙に梵字で何かが書かれており、素人である邦彦にも、それが魔除けの護符であるということは明白である。その明らかに手の込んだ作りから、商売繁盛や家内安全を謳ったものとは一線を画していることがわかった。
「まったく……。何を言い出すかと思ったら、そんなことか。あれは、ただの悪い夢だよ。ここのところ、祭りの準備で忙しかったからな。その疲れが、まだ完全に抜けていないんだろう」
「で、でも……。鬼剣舞の終わった日から、二人とも同じ夢を見続けるなんて……。やっぱり、何かあるんじゃありませんか?」
「いいかげんにしないか、志津子。お前まで母さんに影響されて、変な迷信に振り回されたらたまらんよ」
志津子の差し出した札を、邦彦はうんざりした顔をして突き返した。
もとより、邦彦は母である松子の話をまともに相手にしていない。志津子に何と言って札を渡したのかはわからないが、いちいち妙な迷信にこじつけて話をされては、こちらとしては迷惑極まりない。
「悪いが、その札は母さんのところに戻しておいてくれ。お前が気にしているような変なことなど、この君島家で起こるはずがない」
「そうですね……。そうだと……いいんですけど……」
口では納得した素振りを見せながらも、志津子はまだどこか心の奥に引っかかるものがあるようだった。その様子が、邦彦の苛立ちを更に助長させる。
「いったい、お前は何が不満なんだ! 宗也のことで色々と忙しいのは分かるが、そんなに疲れるなら、子育てなんぞ時枝にでも任せておけ! 由緒ある君島家の者が、下らん妄想にいつまでも振り回されているんじゃない!!」
思わず、邦彦は志津子の事を怒鳴りつけていた。
確かに、ここ数日の間、邦彦自身も妙な夢にうなされることはあった。自分の頭の上を、黒い影のようなものが列を成して浮遊している夢である。
だが、そんな夢を見たからと言って、やれ護符だのなんだのと騒ぎ出すつもりなど毛頭ない。志津子が気味悪がる気持ちもわからないではなかったが、それでも母の松子が用意した護符を部屋に張るようなことだけは、絶対にしたくないと思っていた。
「まったく……。母さんの迷信好きにも、ほとほと困ったものだ……」
志津子が部屋からいなくなると、邦彦は再び煙草に火をつけてそれを銜えた。
この家には鬼が住んでいる。それが松子の口癖だったが、まさかあの影が鬼の正体というわけでもなかろう。それをいうならば、母体を殺してでも生にしがみついて産まれてきた晴樹の方が、よっぽど鬼というにふさわしい。
所詮はくだらない、老人の妄想だ。
どうにも収まらない苛立ちを強引に静めるようにして、邦彦は煙草の煙を大きく吸い込んだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
鳴澤皐月が九条神社に到着したのは、穂高が連絡を入れてから間もなくのことだった。駅前辺りをうろついていたというのは本当らしく、時間にして三十分とかかっていない。
「さて、そっちのお嬢さん達には、初めてお目にかかるわね。私は鳴澤皐月。こう見えても、自分のジュエリーショップを開いているのよ」
部屋に入るなり、皐月は勝手に自己紹介をして話を進め始めた。その姿を見た照瑠達は、思わず目を点にして皐月の姿に釘づけとなる。
確かに、初対面の相手に向けるにしては、皐月の態度はややもすると横柄に受け取られかねないものだ。しかし、問題なのは、そこではない。
モデルと見紛う程に均整の取れたスタイルと、大きく張り出した胸。上品で、それでいて怪しげな輝きを放つアクセサリーを身にまとい、目鼻立ちも日本人離れしたものを持っている。
加藤詩織に初めて君島沙耶香を紹介された時も、照瑠は素直にきれいな人だと感じていた。皐月に対してもそれは同様なのだが、なんというか、沙耶香に比べて妙に近寄り難い印象を受ける。
沙耶香は気取らない気さくさの中にも、上品な雰囲気を漂わせる女性だった。その一方で、皐月はどちらかというと、悪女のようなオーラを漂わせている。
怖いほどの美しさという言葉があるが、今の皐月を表現するならば、まさにそれが相応しい。悪人というわけではないのだろうが、沙耶香と比べると、やはりどこか話しをし難い雰囲気のある美女である。
いったい、自分の父は、どこでこんな人と知り合ったのだろうか。まさかとは思うが、夜の店で知り合ったというわけでもあるまい。父である穂高が下戸なのは、照瑠もよく知っていることだったからだ。
では、目の前の女性と父の関係はなんなのか。色々と考えてはみるものの、皐月の妖しげな魅力を放つ外見も邪魔をして、どうしても良くない方向でしか考えが浮かばない。
「ねえ、照瑠。あの女の人、照瑠のお父さんの知り合いなの?」
「さあ。私だって、初めて合う人よ」
「そうなんだ。でも、すっごくきれいな人だよね。もしかして……お父さんの愛人とか?」
返事をする代わりに、照瑠は亜衣の頭を容赦なくどついた。よりにもよって、本人を目の前にしてなんということを言うのだろう。亜衣とは親友と呼べる仲ではあるものの、時折、こうしたデリカシーのなさにうんざりする。
「ちょっと、お二人さん。なにか、勘違いしているようだけど……」
照瑠と亜衣のやりとりを見ていた皐月が、見かねて間に割って入った。
「私は別に、あなたのお父さんの愛人なんかじゃないわよ。ただ、紅ちゃんに言われて代わりに仕事をしに来ただけの人間だから、安心して」
「紅ちゃん? それじゃあ、あなたは犬崎君の知り合いなんですか?」
「そういうこと。あの子、今はちょっと野暮用で、四国の方に帰ってるからね。その入れ替わりってわけじゃないけど、妙なことが起きたらなんとかして欲しいって頼まれたのよ」
「そうだったんですか。友達が変なこと言って、すいません……」
照瑠の前に現われた謎の美女、鳴澤皐月は、犬崎紅の知り合いだった。事実を知ってしまえばあっけないものだが、それでも皐月に対する照瑠の見方は変わらない。
なにしろ、あの犬崎紅を≪紅ちゃん≫と呼ぶくらいである。あんな堅物で無愛想な男でさえも、軽く手玉に取ってしまうような言い方をする辺り、やはり皐月の持っている年上のお姉様独特の気は本物だ。
「それで、本題だけど……。あなた達の内、どっちが奇妙な体験をした方かしら? 私を呼んだってことは、それなりの理由があるはずよね」
「あ、それは私です。成り行きで、友達のお兄さんの彼女の家に泊まることになったんですけど……その家に、幽霊が出たんです」
皐月の問いに、照瑠は言葉を濁しながら答えた。
沙耶香と自分の関係を詳しく説明するには、それなりの時間もかかってしまう。今は、余計なことは言わないで、早く本題に入った方が賢明だろう。皐月もそれはわかっているのか、それ以上の事を照瑠には追求してこない。
「友達のお兄さんの彼女か……。なんだか複雑そうな話だけど、まあ、それは置いておくとして……。相手は、どんな幽霊だったの?」
「はい。最初は床が軋むような音が聞こえて、金縛りに合ったんです。その後、かごめの歌と一緒に黒い影が列を成して現われて……」
「黒い影ねぇ……。それ、どんな姿をしていたのかしら?」
「あれは、たぶん人間だと思います。動物とか、そういった感じの幽霊ではありませんでした。それに、かごめの歌が終わった時、影の列から女の幽霊が出てきたんです」
「女の幽霊か……。それが誰なのかは、あなたやその家の人で、わかっている人はいない?」
「私には女の人の髪の毛の色までわかったんですけど、沙耶香さんにはわからないようでした。たぶん、霊感とか、そういった力の強さの違いなんでしょうけど……」
「なるほどね。それじゃあ、女の幽霊の正体までは、あなたもわかっていないってことでいいかしら?」
「そ、それは……」
晴樹の部屋で見た写真と、沙耶香の部屋に現われた女の幽霊の姿。それらの奇妙な一致点を思い出し、照瑠は思わず言葉を飲み込んだ。
亡くなった晴樹の母親が、沙耶香の部屋に現われる幽霊と決めつける証拠は何もない。しいて挙げるとすれば、髪型が似ていることと、亜衣の語ったかごめの歌の都市伝説くらいだ。
いくらなんでも、それだけで幽霊の正体を決めつけるわけにはいかないだろう。それに、話を聞いたところでは、照瑠よりも皐月の方が、こういった事に詳しいのは明らかだ。ここは、下手なことは言わないで、素直に皐月に任せてしまった方がよい。
「あの……。とりあえず、沙耶香さんに連絡を取ってみますね。もしも、向こうから除霊みたいな事をお願いされたら、その時はお願いします」
自分の携帯を取り出して、沙耶香から教わった番号に電話をかける照瑠。いきなり電話などしても繋がらないのではないかと思ったが、思いのほか早く、沙耶香は照瑠の電話に出た。
「あっ、沙耶香さんですか? 九条です」
≪照瑠ちゃん? もしかして、例の件で何か分かったの?≫
「いえ、幽霊の正体については、まだ何も……。ただ、除霊みたいなことができる人に協力してもらえそうなんで、とりあえず連絡しようと思いまして」
≪そうだったの。わざわざ悪いわね≫
「そっちは、何か分かった事とかありますか?」
≪そうね……。影みたいな幽霊を見たっていう人は、私や照瑠ちゃんの他にも何人かいたわよ。使用人の人達を中心に、もう一度詳しく当たってみたんだけど……時枝さんとか、庭師の源蔵さんっていう人も、あの影は見ているみたいね。全部合わせたら、七人から八人くらいにはなると思うわよ≫
「そんなに多いんですか!? だったら、明日にでもそちらに向かいます」
≪ありがとう。お父様の方は、私がなんとか言いくるめておくわ。照瑠ちゃんは、明日の一時ぐらいに、私の家に来て頂戴≫
「はい、明日の一時ですね。分かりました」
手近にあった紙に素早く時間だけを書き記し、照瑠は沙耶香との電話を終えた。その一部始終を見ていた皐月は、無言のまま照瑠達の前で席を立つ。どうやら、今日の自分の役割が終わったと判断したようだ。
「それじゃあ、私はこの辺で失礼させてもらうわ。明日は十二時くらいにここへ来るけど、それで大丈夫かしら?」
「たぶん、それで大丈夫です。沙耶香さんの家まで行くのに、一時間はかからないはずですから」
「分かったわ。じゃあ、また明日、ここで会いましょう」
右手の指にはまった指輪を見せるようにして、皐月は軽く手を上げて照瑠達への挨拶代わりとした。今日は話を聞くだけだったが、明日はいよいよ本番だ。
魔を祓うための道具を作り、それを売ることを生業とする退魔具師。本来、除霊などは専門外のはずであったが、きちんとした道具を用いれば不可能ではない。
君島邸に現われる幽霊の正体こそ掴んでいなかったものの、照瑠の一連の話から、皐月は幽霊の現われる理由に大方の目星をつけていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
鳴澤皐月と話をした翌日、照瑠は彼女を連れて、再び君嶋沙耶香の家を訪れていた。既に二度目になるものの、やはりいつ見ても立派な屋敷である。
「なるほど。ここが、あなたの言ってた友達のお兄さんの……彼女の家だっけ?」
「は、はい。なんだか、わかりにくい関係ですみません」
別に謝る必要などないのに、照瑠は妙に恐縮した気持ちになって皐月に頭を下げた。
どうも昨日から、心のどこかで皐月に対する畏怖の念があるような気がしてならない。協力してくれるという相手に失礼だとは思うが、なんというか、皐月の全身から危険なお姉さまのオーラが漂ってくるのだ。
そうこうしている内に、屋敷の奥から沙耶香が姿を現した。時計を見ると、約束の時間よりも少し早い。どうやら沙耶香は、予定の時間よりも早めに動く事を常とする人間らしい。
「あら、照瑠ちゃん。もしかして、門の前で待たせちゃった?」
「いえ、大丈夫です。私達も、さっき着いたばかりですから」
「そう。それで、お隣の人が、昨日の電話で言っていた人かしら」
「はい。一応、私の友達の知り合いって事なんですけど……」
それ以上は、言葉が出てこなかった。出会って間もないということもあるが、照瑠はまだ皐月の事に関して殆ど知らないのだ。紹介するにしても、目の前にいる怪しげな雰囲気の美女について、どう説明すればよいのか。こういうことには慣れていないため、どうにも上手い言葉が見つからない。
だが、そんな照瑠の心配を他所に、皐月は尻込み一つせず沙耶香に自分の右手を差し出した。
「鳴澤皐月よ。よろしくね、お嬢さん」
「こちらこそ。ところで……つかぬ事をお聞きしますが、皐月さんは、どんなお仕事を?」
「副業で宝石店もやってるけど、本業は霊能者みたいなものね。昨日、ここにいる九条さんから話を聞いたけど、たぶん私の力だけでも何とかできると思うわ」
「そうですか。それだったら、本当に助かります」
皐月の右手を取ったまま、沙耶香がほっと安堵のため息をついた。
思えば、沙耶香は数日前より例の影や女の霊に悩まされ、まともに眠ることもできていないのだ。それを考えれば、皐月の何気ない言葉に安心するというのも納得できる。
沙耶香は照瑠と皐月の二人を門の中へと招き入れ、玄関の戸を開けた。先日、照瑠がここを訪れた際には、その場に居合わせた時枝が彼女を迎え入れてくれた。
ところが、今日に限っては、時枝の姿は見当たらなかった。代わりに玄関先で顔を合わせたのは、沙耶香の父である君島邦彦である。
あの、夕食時のやりとりを思い出し、照瑠は思わず邦彦と目を合わせるのを避けてしまった。成り行きから鬼剣舞についての話を聞かせてはもらったが、それでも邦彦という個人については、やはり好きになれそうもない。
「おや、君は確か、沙耶香の友達の照瑠さんだったね。ところで、もう一人の方は、どなたかな?」
沙耶香の連れに見慣れない顔が混ざっていたため、邦彦が尋ねてきた。何と言おうか迷った照瑠だが、彼女が何か言うよりも先に、沙耶香の方が口を開いた。
「この人、私が呼んだ霊能者の人よ。名前は鳴澤皐月さんって言うの」
「霊能者……。なんだって、またそんな人を……」
沙耶香の言葉を聞いた邦彦の顔が、とたんに険しくなる。こと、幽霊や妖怪などといった類のものは、迷信として嫌悪している邦彦のことだ。沙耶香の口から出た霊能者という言葉に、過剰な反応を見せるのも無理はない。
しかし、そんな邦彦の気持などお構いなしに、沙耶香は靴を脱ぎながら淡々とした口調で話を続けた。その顔には、およそ感情というものが感じられない。いつもの気さくな雰囲気は消え失せて、口調もいささか冷たいものに変わっている。
「お父様が迷信を嫌っているのは、私も知っていることよ。でも、最近になってこの家で、変な夢にうなされる人が増えているのも事実なんだから」
「変な夢だと? だからと言って、なぜ霊能者などに話をした。この、由緒正しい君島家の人間が、よりにもよって、そんな如何わしい者に……」
「そうは言っても、このままじゃ、使用人の人達が可哀そうよ。家政婦の中には怯えて仕事を辞めようとする人もいるみたいだし……。それこそ、このまま放って置いた方が、君島家の名に傷がつくことになるわよ」
「ふん、何を言うかと思えば馬鹿らしい。霊能者だかなんだか知らんが、そんな得体の知れない者に、この君島家に出入りされるのは迷惑だ」
「迷惑って……。お父様こそ、君島家の戸主であるのなら、その家に暮らす者や勤める者のことを考える義務があるはずよ。例え気休めでも、私はこのまま自分の家がお化け屋敷扱いされたままなんて、絶対に嫌なんだから!!」
「そうか……。だったら、もう何も言わん。お前の勝手にしなさい……」
それ以上は、話を続ける空気ではなかった。
邦彦は踵を返して家の奥に引っ込むと、乱暴に襖を閉めて照瑠達の目の前から姿を消した。一部始終を見ていた照瑠は、思わず沙耶香の方に見とれながら呟いた。
「はぁ……。沙耶香さんって、見かけによらず気の強いところもあるんですね……。あんなに気難しそうなお父さんなのに、言い負かしちゃうなんて……」
「別に、こんなの今に始まったことじゃないわ。相手のプライドに関わる話に持っていけば、なんだかんだと言っても、最後は私の言っていることを認めざるを得なくなるんだから」
「でも……後で、お父さんに怒られたりしないんですか?」
「それも大丈夫ね。お父様、あまり私のことには関心がないみたいだから。弟の宗也が産まれてからは、特にそうなの。女じゃ君島家の後継ぎになれないから、私が産まれた時も、全然喜んでくれなかったみたいだし……」
「そんな……。いくら後継ぎになれないからって……それでも、沙耶香さんは実の娘なのに……」
この世には、産まれることを望まれなかった子どももいる。そんな話を聞いたことはあったが、実際に似たような話を知り合いから聞くと、やはりショックは大きかった。増してや、沙耶香のような人間の口から語られれば尚更だ。
最初、この君島邸に来た時に感じた家族の中における歪み。それは、照瑠が思っていた以上に大きなものなのかもしれない。
照瑠は無言のまま脱いだ靴を揃え、沙耶香の後に続く形で応接間へと向かった。その後を、皐月も追う。
先ほどから、皐月はあくまで傍観者としての立場を取り続けていた。彼女自身、沙耶香の話に色々と思う事がなかったわけではないが、下手に感情移入をしては事が上手く運ばなくなる。向こう側の世界の住人と関わる際に皐月が用いる能力は、彼女の持つ感情にも影響されやすいからだ。
応接間へと案内された皐月は、まず持っていた鞄から一枚の紙を取りだした。続けてペンも取りだし、それらを沙耶香に押しつけるような形で渡す。
「それじゃあ、悪いけど、まずはこの紙に家の見取り図を描いてくれるかしら?」
「見取り図、ですか?」
「ええ、そうよ。下手でも構わないから、部屋の数や場所を間違えないようにしてね」
「わかりました」
白い無地の紙を広げ、沙耶香はそこに大きな四角を描いた。どうやら屋敷を覆う塀らしく、その中に小さな部屋や廊下を次々と描き込んでゆく。
沙耶香の描いた見取り図は決して上手いものではなかったが、それでも彼女が極めて丁寧に図を描こうとしていることだけはわかった。なんというか、わかりやすいのである。余計なものは一切描かずに、ただ廊下と部屋、それに部屋の名前だけを描いているのがよかったのかもしれない。
沙耶香が全ての図を描き終えたのを見て、皐月はそれを受け取った。次いで、鞄から何やらケースのようなものを取りだすと、その中に入っていた銀色に光る鎖をつまみ上げる。鎖の先には三角錐の形をした錘のような物体がついており、皐月の手の下でふらふらと揺れていた。
「あの……それ、なんですか?」
見慣れない道具を目にして沙耶香が尋ねたが、皐月はそれを軽く制した。
「悪いけど、今はちょっと集中したいの。説明は、後にさせてくれるかしら?」
鎖の先端をつまんだまま、皐月は目をつぶり大きく息を吸い込む。沙耶かが描いた見取り図の上で鎖を下げ、そのまま一つずつ、それぞれの部屋の上を移動するような形で手を動かす。
いったい、これは何の意味がある行動なのか。悪霊退散の儀式にしては、やけに地味だ。どちらかというと、何かを探しているといった方が正しいか。そう、まるで鎖の先端についた錐を道標に、何かを感じ取ろうとしているようにも思われた。
皐月の指先からのびた鎖は、微かに揺れながら不規則な動きを繰り返している。一見して何の決まりもなく動いているように見えるそれだったが、照瑠はその動きにちょっとした法則を見出すことができた。
鎖の先についている錐は、気まぐれにふらふらと揺れている。しかし、ある特定の場所の上に来ると、決まって反時計回りに回転を始めるのだ。まるで、錐そのものに意思があるかのようにして、傍から見てもわかるほどに美しい円を描いて回るのである。
(あれ、何の意味があるんだろう……)
照瑠の意識が鎖の先端にある錐に集中した時だった。
「ふぅ……。とりあえず、一通りの調査は終わったわ」
錐のついた鎖をしまい、こともなさげに皐月が言った。もっとも、納得しているのは彼女だけで、残された照瑠と沙耶香は、ただただ呆然とするだけだ。
「あの……。調査って、いったい何をしていたんですか?」
「あら、ごめんなさい。あなた達には、まだ説明していなかったわね」
照瑠に言われ、皐月はようやく気づいたようだった。この妙な儀式を始める前に言ったことなど、すっかり忘れている様子だ。きっと、それだけ儀式に集中していたということなのだろう。
「さっき、私が使っていたのはフーチ、もしくはダウザーなんて呼ばれるものよ。人間の潜在能力に働きかけて、物事の正否なんかを明らかにするためのものなの」
「物事の正否って……。そんな、超能力みたいな事ができるんですか!?」
「超能力とは、ちょっと違うわね。フーチは自動書記の一種で……まあ、簡単に言えば、こっくりさんの仲間みたいなものよ。その人が潜在的に感じている物事の正否に反応して動くものだから、あくまで本人が知っている事しか探れないわ。だから、これを使って埋蔵金なんかを探そうとしても無駄よ」
「そうなんですか。なんだか、納得できるような、できないような……」
この場に嶋本亜衣がいたならば、きっと肩を落として落胆した事だろう。都市伝説マニアの彼女からすれば、徳川埋蔵金も立派なネタの一つだからだ。まあ、どちらにせよ、上手い話というものは、なかなか無いものである。
「今回、私がフーチを使って調べたのは、この家にある霊的な何かの存在よ。紅ちゃんほどではないけど、私にもそれなりに力があるからね。私が潜在的に感じている、この家に巣食う闇みたいなものを探ろうとしていたってわけ」
「へえ、凄いですね。なんだか、幽霊探知機みたいで」
「そんなに便利なものじゃないわよ。特定の場所に縛られて動けない地縛霊ならともかく、あっちこっちをふらふらと動かれたんじゃ、私だって捉えきれないわ。沙耶香さんの部屋に出る幽霊は、屋敷の中をうろついている感じなんでしょ?」
皐月の言葉に、沙耶香は無言でうなずいた。自分の他にも数名、あの列を成す影を見ている者がいるのだから、それは間違いない。
「とりあえず、今から私が何かを感じた場所に行かない? そうすれば、そこに幽霊が出る謎を解く鍵があるかもしれないわ」
「分かりました。沙耶香さんも、それでいいですよね」
「ええ、問題ないわ」
沙耶香の描いた見取り図を片手に、皐月はすっと席を立つ。照瑠と沙耶香もそれに続き、三人は応接間を後にした。
玄関からのびる、君島の屋敷の長い廊下。皐月は見取り図と辺りの様子を見比べながら、どんどん先へ歩いてゆく。
「ねえ、この先は突き当たりみたいだけど……。そこに、何か飾っていたり置いていたりしないかしら?」
突然、廊下を進む足を止め、皐月は首だけ後ろに向けて沙耶香に尋ねた。
「えっと……。この先の突き当たりには、絵が飾ってあるだけですよ。君島家に昔から伝わる、浮世絵らしいんですけど……」
「浮世絵、ね……。まあ、昔っから置かれていた物が今になって何か起こすわけもないんでしょうけど……。それでも、一応調べてみる価値はあるか」
誰に聞かせるともなく、皐月は沙耶香の言葉を独り反芻しながら呟いた。
程なくして、廊下の突き当たりに浮世絵が見えて来る。鬼剣舞の様子を描いたものらしく、仮面を頭に乗せた男たちが、刀を片手に力強い舞を演じていた。浮世絵が江戸時代の文化であることを考えると、その時代には、君島家の鬼剣舞は既にかなりの名を馳せていたということなのだろう。
「さて……。とりあえず、絵そのものから妙な感じはしないわね」
一通り絵を眺めた皐月は、さも当たり前のように言った。まあ、確かに彼女の言っていることは当然だ。この絵が今回の幽霊騒動の原因なのであれば、もっと以前から怪異が頻繁に起きているはずである。
やはり、裏側を調べてみないことには始まらない。そう思ったが早いか、皐月は何のためらいも見せず、浮世絵の収まっている額に手を伸ばした。
後ろから沙耶香が何か言おうとしていたが、時既に遅し。浮世絵は額ごと壁から外されて、その後ろにある壁の姿が露わになる。
果たして、皐月の予想はやはりというか、正しいものだった。
浮世絵を外すことで、照瑠や沙耶香の前に現われたもの。それは、異様に禍々しい雰囲気を漂わせている一枚の札だったのだ。
「うっ……。な、なんですか、これ……」
札から発せられる異様な気に、照瑠は思わず口を押さえて後ずさった。黒地の紙に赤い梵字で何かが書かれているが、その意味まではわからない。ただ、自分の家で販売している御守りなどとは異なり、なんとも薄気味悪い感じのする札だったことは確かだ。
しかも、それ以上に照瑠を苦しませたのは、札の放っている気そのものだった。
浮世絵を外した事で、裏に溜まっていた気が一度に解放されたのだろうか。路地裏の湿気と腐った油を混ぜたような臭いが鼻をつき、思わず吐き戻しそうになる。
その上、なにやら粘着質な空気がべったりと身体にまとわりついてくるような気がして、とてもではないが立っていられない。腐った油を全身に塗りたくられているような感覚にとらわれ、すっぱいものが内臓の奥から逆流してくるのを感じた。
あまりのことに耐えきれず、照瑠はとうとう胸を抱えてその場に座りこんでしまった。ただごとではないと感じたのか、すかさず沙耶香が駆け寄って照瑠の背をさする。
「照瑠ちゃん!? ちょ、ちょっと、大丈夫!?」
「す、すいません、沙耶香さん……。なんか、この御札を見たら、急に気分が悪くなって……」
「まずいわね……。このままじゃ、彼女、本当に身体を壊しかねないわ」
横で見ていた皐月もまた、険しい表情で照瑠のことを見ながら言った。
照瑠は皐月の目から見ても、霊的なものに対する感受性の極めて強い人間だ。それだけに、この黒い札から放たれる毒気のようなものを、まともに浴びてしまったのだろう。死に至る呪いのようなものではないにしろ、やはり、この場にいつまでも留まり続けるのは身体にもよくない。
「とりあえず、あなたの部屋に運んで休ませてあげて。この札に関しては、私の方で処理しておくから」
「分かりました。それでは、失礼します」
しきりに口元を押さえて吐き気を堪えている照瑠を連れて、沙耶香はその場を後にした。背中をさすりながら顔を覗き込むと、今までは何事もなかった顔が真っ青である。目頭には涙が溜まり、自分でも気持ちを抑えるのに精一杯のようだった。
「やれやれ……。それにしても、これはとんだ大物ね。こんな厄介な物を作れるなんて、相当に力のある人間だわ……」
去りゆく照瑠と沙耶香の背中を目で追いながら、皐月は溜息交じりに呟いた。自分は魔を祓う道具を作る事を生業としているが、それ故に、この札の力の強さも分かるのだ。素人が悪戯で作った物などではなく、本当にその道に通じたプロが作ったものであると。
それでも、仕事は仕事できちんとこなさなければならない。幸い、このくらいの札であれば、自分の力でも効果を消す事はできるだろう。
皐月は足元に置いた自分の鞄から、一本の筆を取りだした。そして、その筆先に白い顔料のようなものを溶かした水をつけると、札の上から新たに別の梵字を書き込んでいった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
九条照瑠が次に気がついた時、そこは沙耶香の部屋だった。
あの後、沙耶香に連れられて仕方なく皐月の前から去ったものの、全身を覆う吐き気を伴った気持ち悪さは消えることはなかった。そればかりか、最後は強烈な頭痛に襲われて、とうとう廊下で倒れてしまったのだ。
「あら、気がついたのね、照瑠ちゃん」
「沙耶香さん……。私……」
「あの後、私の部屋に入る一歩手前で、照瑠ちゃん倒れちゃうんだもの。時枝さんに頼んで、なんとか私の部屋に運んでもらったけど……。ほんと、びっくりしちゃったわよ」
「そうだったんですか……。すいません、なんだか迷惑ばかりかけて……」
「気にしないで。照瑠ちゃんの紹介がなければ、あの皐月さんって人も呼べなかったんだし。とりあえずは、気分が良くなるまで寝ていたら?」
「はい。でも、もう大丈夫ですよ」
布団をはいで起き上がり、照瑠は少し大げさに笑って見せた。完全に大丈夫かと言われれば嘘になるが、少なくとも吐き気や頭痛の類は引いている。
それにしても、あの札はいったい何だったのだろう。誰が、何の目的で、この屋敷にあんなものを持ちこんだのだろうか。しかも、まるで人に見つかるのを避けるようにして、あんな絵の裏側に貼り付けておくとは。
事件は解決に向かっていると思ったが、謎はむしろ深まるばかりだ。そう照瑠が思った矢先、沙耶香の部屋の襖が唐突に開かれた。
「あっ、皐月さん……」
見ると、そこには皐月が立っていた。その手には、先ほどの黒い札と思しき紙が、合わせて四枚ほど握られている。
「その調子なら、もう大丈夫みたいね。それより、これが今日の収穫よ。私が上から書いた文字で力は封じてあるから、もう近づいたり触ったりしても平気でしょうけど」
「い、いや……。それでも、ちょっと遠慮しておきます……」
「そう? まあ、無理に触れとは言わないけどね。それよりも……」
照瑠から目をそらし、今度は沙耶香に視線を移す皐月。手にした札を束ねて団扇代わりにし、パタパタと胸元を仰いでいる。
「沙耶香さん、だったわよね。あなた、この家に恨みを持っている人とか、誰か思い当たらないかしら?」
「恨み、ですか……?」
皐月に尋ねられ、すぐに浮かんできたのは、父である邦彦の顔だった。なにしろ、父は傲慢の塊のような男である。表向きは君島家の戸主として、君島流鬼剣舞の家元として持てはやされているが、裏では何を言われているかわかったものではない。
ただ、父を恨んでいる特定の人間となると、そう簡単に思いつかなかった。知人だけでもかなりの人数に上るが、その誰もが怪しく、また誰もが怪しくないとも言える。
「申し訳ありませんけど……ちょっと、見当もつかないです。お父様を恨むような人だったら、探してみると、沢山いそうで……」
「そう。まあ、別に、あなたのお父様を恨んでいる人じゃなくてもいいんだけどね。そもそも、今回の件が本当に怨恨を原因としているのかも、私には分からないから」
「だったら、どうしてあんな事を聞いたんですか?」
「可能性の問題よ。この札は、明らかに誰かが意図して屋敷に持ちこんだ物みたいだからね。君島家の人間に恨みの一つでもなかったら、こんな札を家のあちこちに貼らないわよ」
団扇代わりにしていた札を一つにまとめ、皐月が沙耶香に改めて札を見せつけた。札に書かれた赤い字は、その上から書かれた白い字で隠されているものの、やはりどこか禍々しい物を感じてしまう。
「あちこちにって……。もしかして、それ、全部私の家に!?」
「そうよ。骨董品の裏に隠すようにして、色々なところに貼ってあったわ。しかも、これはただの御札じゃないの。本来であれば護符になるようなものなんだけど、それにちょっとした細工をしてあるのよね。しいて言うならば、霊的な催涙ガスって言ったところかしら?」
こともなさげに沙耶香は束ねた札をしまいながら言った。彼女にしてみれば当然の事なのだろうが、照瑠や沙耶香は今一つ話が飲み込めていない様子で皐月の手元だけに目をやっている。
「もう少し、わかりやすく説明してあげようかしら。この御札なんだけど、魔除けにしては効果が少しきつすぎるのよ。だから、幽霊の種類は問わずに追い払うし、霊的なものに敏感な人が触れれば、気分を悪くするかもしれないの」
「それじゃあ、照瑠ちゃんがこれを見て気持ち悪くなったのも……」
「当然、この札から出ていた陰の気のせいね。仕事柄、私はこういった類のものも、ある程度は受け流す訓練ができているけど……単に敏感な人にとっては、さぞ苦痛だったでしょうね」
皐月の言葉に先ほどの廊下で起きたことを思い出し、照瑠は思わず身震いした。
確かに自分は、他人と比べても霊感の強い方ではある。しかし、それがこのような形で災いするなど、思ってもいないことだった。近づいただけでもあれだけ気持ちが悪くなったのだから、もしも札に直接触れていたらと思うとぞっとする。
「あの……。それで、その札を持ちこんだ人は、いったい何の目的で沙耶香さんの家に……」
「いい質問ね、九条さん。この御札、貼る場所を上手く考えて使えば、幽霊を自分の思うがままに誘導することも可能なの。霊道って言って、幽霊には幽霊の通り道があるんだけど……それを塞ぐようにして貼れば、霊道を歪めてしまうことも可能だわ」
「じゃあ、沙耶香さんの部屋に現われた幽霊は……」
「あなたの考えている通りよ。たぶん、この札で霊道を歪められた霊たちが、仕方なしに普段は使わない道を通らざるを得なくなったのね。しかも、性質の悪いことに、この札はこの家の、霊にとっての出口を塞ぐような形で貼られていたわ」
「出口を塞ぐ? だったら、幽霊たちは、この家に閉じ込められていたってことですか!?」
「そういう事になるわね。時期的にもお盆だし、調度、先祖の霊が大挙して屋敷に戻ってきていたんでしょ。でも、この御札で帰り道を塞がれちゃったから、お盆が過ぎても帰るに帰れない。結局、夜な夜な家の中を徘徊しながら、出口を探して彷徨う他になかったんじゃないかしら?」
「なるほど。それじゃあ、あの行列を作っていた影は、沙耶香さんのご先祖様達だったわけですね……」
そこまで言って、照瑠はふと、ある事に気がついた。
先祖の霊といえば、亡くなった君島家の人間ということになる。沙耶香と直接の関係はなくとも、君島家の人間であれば、お盆の時期に帰ってくる事は普通だろう。
照瑠の脳裏に改めて、晴樹の部屋で見た写真の女性と沙耶香の枕元に立った幽霊の姿が重なった。幽霊の正体が亡くなった君島家の人間だとすれば、やはりあれは晴樹の母親だったのか。
今となっては、事の真相は照瑠にもわからない。だが、とりあえず、沙耶香を悩ませていた幽霊事件がひとまず解決した事には違いない。札の出所も気になるところではあったが、それはまた別の話である。
その後、完全に体調が回復するのを待ってから、照瑠は皐月と共に君島の屋敷を後にした。色々と恐ろしい体験もしたが、結果として沙耶香の悩みを解決できたのは幸いだった。
友人の頼みごとを聞いたがために巻き込まれた、奇妙な幽霊騒ぎ。この時、照瑠は事件の全てが完全に終わっていないことに、まだ気がついてはいなかった。