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~ 参ノ刻   篭女 ~

 その夜、九条照瑠は胸元に何かが圧し掛かってくるような感覚に、思わず目を覚ました。


 夏の夜は寝苦しい。だが、それにしてもこの胸苦しさは異常だ。安っぽいプレハブ小屋にでも寝泊まりしているのであれば話は別だが、ここは伝統的な造りの日本家屋である。


 昼間、外はかなりの暑さであったにも関わらず、沙耶香の部屋を始めとした君島家の中はそれなりに涼しかった。しかし、今はまるで何か見えない力に全身を押さえつけられているかのような、不快な寝苦しさしか感じない。


(なんだろう、この感じ……)


 額を脂汗が伝うのが分かり、照瑠は思わずそれを拭おうと手を伸ばそうとする。が、その時、まるで示し合わせたかのようにして、彼女の耳に奇妙な音が聞こえてきた。



――――ピシッ!!



 何かが軋むような、いやに耳障りな音だった。何事かと思い身体を起こそうとするが、ここに来て、照瑠は自分の四肢が自由を奪われているのに気がついた。


(えっ……!? どうして、身体が動かないの……!?)



 金縛り。それが分かるのに、数秒の時間を要した。意識ははっきりしているのに、身体はまったく動かない。それこそ、見えない縄で手足を床に縛り付けられてしまっているかのような感じである。



――――ピシッ……ピシッ……!!



 音のする感覚が、徐々に短くなっていった。それと同時に、明らかに何かが自分達のいる部屋に近づいて来ているのがわかった。


 なんだか分からないが、このままでは危険だ。そう判断した照瑠は全身に力を込めて手足を動かそうとしたものの、やはりまったく動かない。頭では動かしているつもりなのに、実際には力が全然入らないのだ。


 照瑠の心の中で、次第に恐怖が醸成されていった。今までも奇妙な体験や恐ろしい怪異に遭遇したことはあったものの、今回のこれは別格だ。


 今、この場には、彼女を助けてくれる存在はいない。そうしている間にも、得体の知れない何かが確実に照瑠の側へと迫ってくる。


 もう、我慢の限度はとっくに過ぎていた。成り行きから幽霊の正体を確かめるなどと言ってしまったが、この状況では、最早それどころではない。


 犬崎紅と関わることによって自らもまた霊現象を体験したことにより、自分は霊を甘く見ていたのではないだろうか。本当は何もできないのに、妙な依頼を安請け合いなどしたばかりに、取り返しのつかないところまで入り込んでしまったのではないだろうか。


 そう、照瑠が思った時、今まで鳴り響いていたラップ音が唐突に鳴り止んだ。ほっとして安堵のため息をつく照瑠だが、それも束の間のこと。恐怖は再び、より目に見える形で彼女の前に姿を現した。


 部屋の窓も襖も閉まっているというのに、照瑠は自分の顔を生温かい風が撫でたような気がした。同時に、襖を一枚挟んだ向こう側から、何やら声のようなものが聞こえてくる。


(今度はなに? これは……歌?)


 照瑠の耳に響いてきたのは歌だった。子供か、それとも女性が歌っているのか。どちらのものかはわからないが妙に高く、それでいて感情のこもっていない歌い方だった。



――――かごめ かごめ ……



(この歌は……!?)



 身体が動かなくても、記憶だけは鮮明だった。甘味屋で、沙耶香が話していた童謡の歌詞と同じだ。



――――かごの なかの とりは ……


――――いついつ でやる ……



 歌詞が進むにつれて、なにやら黒い塊が部屋の中に入り込んでくるのが分かった。いや、入り込んで来るという言い方は、少々語弊があるだろう。


 壁や襖と問わずあらゆる壁面から、黒い影が列をなして現われてくる。それは部屋に入ってくるというよりも、壁の中から湧き出てくると言った方が正しいような気がした。



――――よあけの ばんに ……


――――つると かめが すべった ……



 今や、影達は照瑠の眼にもはっきりとその姿を確認できるまでになっていた。細部まではわからないものの、影には手足と頭のような部分があることだけは確かだった。


 それらは一様に列を成し、空中を漂うようにしてひたすら歩いてゆく。そして、照瑠の頭の上を通り過ぎ、そのまま襖の向かい側にある壁に、吸い込まれるようにして消えてゆくのだ。



――――うしろの しょうめん だあれ ……



 最後の歌詞が終わった時、照瑠の背中を今までにない寒気が襲った。影の列が部屋に現われた時の比ではない。明らかに、強い力を持った何かが部屋にいる。


 横に何者かの気配を感じ、照瑠はそれを目だけ動かして追った。自分の横には沙耶香が寝ているが、彼女は無事なのだろうか。


 硬直したままの頭を震わせながら、照瑠はそっと沙耶香の方へと視線を移す。が、すぐにそれは、沙耶香の枕元に佇むある物・・・を見たところで制止した。


(あれは……!?)


 照瑠の視界に飛び込んできたのは、白い服に身を包んだ女性だった。首をだらりと下に垂らし、それに合わせて前髪もまた目元を覆うようにして下がっている。


 始め、照瑠はその女性が単に項垂れているだけなのだと思っていた。ところが、その考えは間違っていたということに、すぐに気がついた。


 その女性は微動だにせず、ただ沙耶香の顔を覗き込んでいたのだ。真上から見下ろすようにして、無言のまま沙耶香の枕元に立っている。


「あ……あぁ……」


 なんとか沙耶香の名前だけでも呼ぼうとした照瑠だったが、口から出たのは息が漏れてかすれるような音だけだった。その間にも、影達は次々に襖の向こう側から湧き出ては、反対側の壁へと消えてゆく。その一方で、白装束の女性は、じっと沙耶香の顔を覗き込んだままだ。


 このままにしておいて、良いはずがない。確証はなかったが、照瑠は直感的にそう判断した。全身全霊の力を込め、なんとか右手だけでも動かそうと身体を震わせる。動かない身体を無理やりに動かそうとしているため、指先にしびれるような痛みが走る。


 ずっ、ずっ、という布の擦れるような音がして、照瑠は少しずつではあるが、その指先を布団の中から這いださせていった。そのまま隣に寝ている沙耶香の方に手を伸ばし、なんとかその手を握ろうと試みる。


 自分でも、なぜそのような行動に出たのかは分からなかった。ただ、なぜか無性に、そうしなければならないような気がしたのだ。


 布団を隣り合わせて寝ているため、照瑠と沙耶香の間は数十センチと離れていない。手を伸ばせば簡単に届く距離なのだが、それでも照瑠には途方もなく遠い距離に感じられて仕方がなかった。


(もう少し……もう少しで、沙耶香さんの手に届く……)


 身体を締め付けるような感覚がますます強くなり、目の前がぼんやりとかすんできた。頭の中がぼうっとして、今にも夢の世界に意識を引き込まれてしまいそうになる。


 このままでは、沙耶香に手を伸ばす前に自分がまいってしまう。そう思い、照瑠が諦めかけた時、その指先が沙耶香の指に触れた。先端と先端が触れるだけの軽い接触だったが、それでも沙耶香には救いの手になったようだった。


 布団を跳ね上げるようにして、沙耶香が突然起き上がった。その瞬間、部屋にいた影達と女の幽霊も、まるで煙のように消え失せた。部屋中に溢れていた、重く締め付けるような空気もなくなっている。


 額に大量の汗を残したまま、沙耶香はしばらく肩で息をしながら目の前の壁を見つめていた。謎の力の呪縛から解かれたとはいえ、まだ身体に力が戻っていないのだろう。


 もっとも、しばらくすると沙耶香はすぐに正気に戻り、隣にいる照瑠のことを揺り動かした。


「照瑠ちゃん、起きて! 大丈夫!?」


「あ……はい……」


 沙耶香の方は完全に平時の調子を取り戻していたが、一方の照瑠はかなり消耗しているようだった。金縛りにあった状態で、無理に身体を動かしたことが災いしたのかもしれない。


「あの、沙耶香さん……。あれは……」


「照瑠ちゃんにも見えたのね……。そう……あれが、私の話していた幽霊よ。いつも、今日みたいな調子で金縛りになって……それから、女の幽霊が私の枕元に立つのよ……」


「それは、私も見ました。でも、あの幽霊……なんだか変な感じでしたね」


 沙耶香の顔を覗き込んでいた女の霊の姿を思い出し、照瑠はふっと自分が感じたことを口にした。


 女の霊が現れた時、照瑠は確かに恐ろしいまでの寒気を感じた。しかし、実際に現われた幽霊は、特に沙耶香や照瑠に危害を加えようとしたわけではない。ただ、じっと沙耶香の顔を覗き込んでいただけだ。


 そんな女の幽霊の姿に、照瑠は恐怖と同時に悲しさのようなものを感じていた。確かに女の霊や影の行列を見たときは恐怖に覆われたが、あの幽霊が放っていた独特の気のようなものだけは、忘れようにも忘れられない。


 今まで、犬崎紅と共に対峙してきた悪霊とは違う、どこか物悲しげな気配。獲物を求めて人間の血肉や魂を欲するようなものではなく、様々な感情が複雑に入り混じったような、なんとも形容しがたい奇妙な気。


 あの幽霊は、単なる悪霊の類などではない。霊的なものに対し、ややもすると過剰に反応する照瑠の直感が、そう告げていた。


「沙耶香さん……。あの幽霊に、何か心当たりはないんですか?」


「それが、私もよく分からないの。幽霊が女の人の姿をしているっていうのはわかるんだけど、それ以上は、よく見えないのよ。髪型とか、顔の細かい部分とかね……。だから、あの幽霊が誰なのかは、私にも分からないわ」


「そうなんですか? でも、私には、はっきりと見えましたけど……」


「本当に? それって、どんな人だった?」


 あまり思い出したくはなかったが、それでも照瑠は沙耶香の顔を覗き込む女の霊の姿を思い起こしてみる。


 死者に着せるような白装束に身を包み、前髪をだらりと垂らした女の幽霊。後ろ髪は短く、あまり古風な雰囲気は感じられなかった。髪の色も真っ黒ではなく、少しだけ栗色がかっていたような気がする。後ろ髪も短めで、怪奇映画に出てくるような日本古来の幽霊の姿とは、少しずれていた。


 思い出そうとすれば、自分はそこまで思い出せる。ところが、霊に見つめられていた当の沙耶香には、照瑠ほど鮮明にその姿が見えていないようなのだ。


 照瑠は、これは霊に対する感覚の違いなのではないかと思った。神社の巫女という自分の立場がどこまで影響しているかは不明だが、少なくとも自分は、沙耶香よりは強い霊感を持っているらしい。


「私が見たのは、白い服を着た髪のあんまり長くない女の人でした。髪の毛も真っ黒じゃなかったし……。たぶん、あまり古くに亡くなった人ではないと思いますけど……。顔は、私の方からじゃ見えませんでした」


 自分の見解を、照瑠は遠慮がちに沙耶香に述べる。プロの霊能者でもなんでもない以上、下手な先入観を持ったまま得意顔をしながら霊のことを語るのも気が引けた。


「そっか……。まあ、肝心の顔がわからないんじゃ、仕方ないわね。でも、今回は本当に助かったわ。照瑠ちゃんが私に手を伸ばしてくれなかったら、もっと長い間、私も金縛りになっていたと思うから」


「えっ……? それ、どういう意味ですか?」


「あなた、自分で気づいていないの? あなたの指が私の指に触れた時、身体を押さえつけている変な力がふっと抜けたのよ。だから、私はてっきり、照瑠ちゃんが助けてくれたんだと思ったんだけど」


「そんな……。私、別に何にもしてませんけど」


 そう言いながらも、照瑠は顔の前で自分の両手を広げ、それをしばし眺めてみる。


 神の右手。嶋本亜衣が勝手に思い込んで命名した、照瑠が持っているという不思議な癒しの力。


 今までは、単なる友人の思い込みとしか思っていなかった。が、こうも都合よく沙耶香の金縛りが解けたことを考えると、まんざら嘘とも言い切れない部分があるのではないか。


 そう言えば、犬崎紅に初めて会った時、彼は照瑠が強い力を持った人間だと評していた。また、以前に降霊術に失敗して意識不明になった人物の手を握ったことで、不思議な声を聞いたこともある。


 亜衣の腹痛や頭痛を治してきたことに関しては、今さら言うまでもないだろう。今は亡き自分の祖母や母には不思議な力があったとされているが、その力の片鱗が、照瑠自身にも備わっているのだろうか。


「どうしたの、照瑠ちゃん?」


 自分の掌を眺めたまま黙ってしまった照瑠を見て、沙耶香が訝しげな表情をしながら言った。


「あっ……なんでもありません。それよりも、今日はもう寝ませんか? これ以上、ここで幽霊について考えていても、答えなんて出そうにないですし」


「そうね。また、変なことが起こらないとも限らないけど、やっぱり徹夜は身体によくないわよね」


 乱れてしまった浴衣の胸元を治しつつ、沙耶香がほっと安堵のため息をついた。


 影の行列や女の霊がいた時の、あの奇妙な空気は既にない。沙耶香の様子を見る限り、今夜はこれ以上の怪異は起こらないと考えた方がいいだろう。


 再び部屋の灯りを消し、二人は布団の中に戻る。夜中に金縛りで目覚めることにはなってしまったが、今日は昨日よりも、朝まで安心して眠れそうだ。


 ふと、沙耶香がそんな事を考えた時、布団の中にある彼女の手に何かが触れた。思わず隣にいる照瑠の方へ顔を向けると、照瑠は布団に顔の半分をうずめるような格好で、少し恥ずかしそうにしながら沙耶香に言った。


「あの……沙耶香さん……」


「なにかしら? まだ、気になることがあった?」


「そうじゃないんですけど……。その……少しだけ、手を握ってもらっていても、いいですか?」


「えっ……!? まあ、別に私は構わないけど……」


「あ、ありがとうございます……。なんだか、また急に怖くなってきちゃって……。本当は沙耶香さんの力になるために来たのに、駄目ですよね、私……」


 はにかんだ顔を布団の奥に隠しながらも、照瑠はちょっとだけ甘えたような視線を沙耶香に送った。それを見た沙耶香は何も言わず、軽く微笑んで照瑠の手を握る。


 高校生にもなって年上の、しかも出会って日も浅い相手の手を握る。さすがに年甲斐もなく甘えすぎだとは思ったが、それでも沙耶香に手を握ってもらうと、照瑠は不思議と安心な気持ちになれた。


 夜の帳が、再び君島の家を包む。沙耶香の手を握ったまま、照瑠は今まで自分があまり味わったことのない種類の安らぎに包まれていた。


 幼くして母と死別し、物心ついた時は既に父親と二人暮らし。他には兄弟さえもおらず、常に自立することを求められる環境にあった照瑠。そんな彼女にとって沙耶香の存在は、いつしか束の間の姉と呼べるようなものになっていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 翌日、障子越しに差し込む朝日を受けて、照瑠は静かに目を覚ました。


 昨晩、沙耶香の部屋に現われた無数の影と女の霊。あれがいったいなんだったのかは、未だ持ってしてわからない。


「あら、起きたのね。昨日はあれから、よく眠れた?」


 横を見ると、沙耶香は既に起きて着替えを済ませていた。時計に目をやると、既に朝の八時近い。どうやら少し、寝すぎてしまったようである。


「すいません、沙耶香さん。私、少し寝過ごしちゃいましたか?」


「大丈夫よ、そんなに心配しなくても。別に、早起きしなきゃいけない理由なんて、あなたにはないんだから」


「それは、そうですけど……」


 確かに沙耶香の言っていることは正しいが、人の家に泊まった際に、その家の者よりも遅く起きたということが、照瑠にはどうにも恥ずかしかった。


「それじゃあ、私は先に時枝さんのところに行ってくるわ。朝食は、この部屋に運んでもらうように頼んでおくから」


「えっ……? どうしてですか?」


「どうしてって……そんなの当たり前じゃない。昨日の夕食の時みたいなものを、朝からあなたに見せるわけにはいかないもの」


 最後の方は、少し言葉の切れが悪くなっていた。


 昨日、夕食の際に照瑠の前で見せた君島家の実態。実の兄弟同士であるにも関わらず、まるで互いに相手を陥れんばかりに嫌味を混ぜた言葉の応酬をする邦彦と冴子。同じ食卓を囲みながら、なんとも気まずい雰囲気で食事を進めたことは記憶に新しい。


 沙耶香の言わんとしていることがわかり、照瑠もそれ以上は何も言わなかった。あんなものを朝から見せられるくらいなら、確かに沙耶香の部屋で、二人だけで朝食をとった方がいいだろう。


 沙耶香の姿が襖の向こう側に消えたのを見て、照瑠は持ってきた鞄の中から着替えを取りだし素早く身につけた。


 服の袖に腕を通そうとして伸ばすと、妙に肩がこっているのに気がついた。どうやら、昨晩の事があってから、随分と緊張したまま眠っていたらしい。首を二、三回ほど回して、大きく伸びをして肩も回す。


「なんか、疲れが取れてないなぁ……。枕が違ったから、よく眠れなかったのかも……」


 あの後、沙耶香の部屋に影や女の幽霊が現れた気配はない。そのため安心して眠れたと思っていたが、精神的な部分はともかく、肉体的な部分の疲れは残ってしまったようだ。


 鞄から洗面道具を取り出して、照瑠は寝ぼけ眼を擦りながら風呂場へと向かった。部屋を出る前に手鏡でも顔を見てみたが、髪の毛に寝癖が残ってどうにもしまりがない。照瑠は決してくせ毛というわけではなかったが、直毛なだけに、少しでも寝癖がつくと目だって仕方がない。


 板張りの長い廊下を抜けて、中庭を横目につき当たりの角を曲がる。使用人達の部屋が並ぶ廊下を更に抜けると、そこが洗面所になっていた。


 木製の扉を開け、照瑠は脱衣所の洗面台の上に持ってきた道具を並べてゆく。扉を開けた際、木の軋むような妙に耳障りな音が響いた。鏡の中に写る自分の顔を見てみると、やはり少し寝癖が気になる。


 手櫛を入れて髪の様子を確かめると、照瑠は気を取り直して水道の蛇口をひねった。顔を洗い、髪をとかし、両脇に伸びている髪はピンで軽く留めておく。


 高校生ではあったが、化粧道具の類は持ってきていない。もとより、そういったものに関しては同年代の女子よりも疎かったし、なにより照瑠は素のままでも十分に魅力的な少女だった。


 いつも通りの身支度を整え、照瑠はふっと顔を上げる。そして、髪型を確かめようと改めて鏡を覗き込んだその時、彼女は思わず小さな悲鳴を上げて息を飲み込んだ。


 鏡に写った照瑠の顔の、更にその後ろ。調度、彼女の右斜め後ろに、一人の老婆の姿があったからだ。老婆の背は低く、なんとか頭だけが鏡に写りこんでいる程度ではあったが、それでも突然の来訪者は照瑠を驚かせるのに十分だった。


「おやおや、驚かせてしまったようだねぇ……」


 突然、照瑠の後ろにいる老婆がしわがれた声で言った。


「は、はい……」


 振り向きざまに、照瑠は老婆の姿を改めて眺めてみた。背丈は照瑠の胸元ほどまでしかなく、老人というよりは子供に見える。が、顔に刻まれた深い皺と、白髪一色の毛髪は、紛れもなく目の前の女性が年老いた老婆であるということを物語っていた。


「いや、すまないねぇ。昨日、ちょっと風呂場に忘れ物をしてしまってね。歳をとると、物忘れが激しくなっていけないよ、まったく……」


 そう言って、老婆は目を細めながら照瑠に向かって笑った。本人にしてみれば愛想笑いつもりなのだろうが、傍から見ている側としては、不気味の一言につきる笑顔だ。なんというか粘着質で、ねちゃっという音までもが響いてきそうな感じがする。


 また、それ以上に不思議だったのは、老婆が部屋に入ってきた時の音がまったく聞こえなかったということだ。恐らく、身支度に気を取られていたからだろうが、それでも脱衣所の扉が開く音がしなかったのは薄気味悪い。木製の扉が開けば、必ず木の軋んだような音が聞こえたはずである。


 場の雰囲気にのまれて立ち尽くしている照瑠をよそに、老婆は洗面台の端に置かれた櫛に手を伸ばした。どうやらこれが、老婆が昨晩、脱衣所に忘れて行ったというものらしい。


「それじゃあ、私はこれで失礼させてもらうよ。それと……」


 扉の前で急に立ち止り、老婆が照瑠に背を向けたまま言い淀む。


「あんた、沙耶香の友達かえ?」


「はい。沙耶香……先輩とは、大学が一緒なんです」


「おや、そうかい。最近の大学生ってのは、随分と子どもらしい感じの人もおるもんだねぇ」


 一瞬、老婆の言ったその言葉に、照瑠は自分の心臓が激しく鳴り出すのを感じた。


 照瑠が沙耶香の大学の後輩などというのは、当然のことながら、君島邸に入り込むための方便だ。沙耶香は照瑠の大人っぽい容姿から見抜かれないと踏んでいたが、それでも、この老婆は気づいているのではないだろうか。


 普通に考えれば、事の経緯を何も知らない初対面のこの老婆が、照瑠の本当の身分を知っているとは考え難かった。が、それでも、あの能面のような笑みを向けられると、まるでこちらの心の中を全て見透かされてしまうような気がして恐ろしい。


(この人、いったい何者なんだろう……)


 目の前の老婆に言い知れぬ畏怖の念を感じ、照瑠はただその場で固まっているしかなかった。その間にも、老婆は脱衣所の扉に手を伸ばし、照瑠に背を向けたまま部屋から外へと出てゆこうとする。


 ぎぃっ、という音がして、木製の扉が開かれた。湿気を含んだ脱衣所の空気が廊下に抜け、一瞬だけ涼しい風が入り込む。その向こう側に見える廊下に姿を消そうとしたその時、老婆は思い立ったように、こちらに再び顔だけを向けてきた。


「あんた、この家に何をしに来たか知らんが……くれぐれも、気をつけおった方がええぞ……」


「き、気をつける……ですか?」


「そうじゃ。この家には、昔から鬼が住んでおるからの。この、君島の家に住む者もまた、鬼に憑かれておるのじゃよ……」


「鬼……」


 代々、この火乃澤町で鬼剣舞の演者を務めてきた君島家。その君島家の者たち自身が、鬼に憑かれているとはどういう意味なのか。


 照瑠はその先を聞こうとしたものの、既に老婆は脱衣所から姿を消した後だった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 照瑠が脱衣所から沙耶香の部屋に戻ると、そこには既に朝食を乗せた膳が運ばれていた。膳の前に座っている沙耶香が、照瑠を手招きして呼び寄せる。


「あら、遅かったわね。照瑠ちゃん、朝の支度には時間をかける方なのかしら?」


「すいません。そんなこともないんですけど……ちょっと、お婆さんにつかまってしまって……」


 脱衣所で会った老婆の顔を思い出しながら、照瑠は申し訳なさそうに言った。それを見た沙耶香は、何やら独り合点した表情を浮かべている。


「照瑠ちゃん、松子さんに会ったのね」


「松子さん?」


「昨日、私がこの家の人を紹介した時のこと、覚えてないかしら? 松子さんは、私のお父様や冴子さんのお母様……つまり、私の祖母に当たる人なの」


 そういえば、そんな人がいるという話を聞かされたような気もする。もっとも、昨晩の夕食の席にさえ姿を見せていなかったため、すっかり忘れていた。


「松子さん、ちょっと変わった人でね。いつも食事は独りで食べるようにしているし、私達とも、あまり関わろうとしないのよ。自分は既に隠居した人間だ、とか言ってね」


「へぇ……。随分と、気難しそうな方なんですね」


「そうね。確かに、少し変わったところのある人ではあるわね。お父様の話だと、ちょっと痴呆が始まっているってことらしいけど」


「痴呆って……。でも、私と話をした時は、そんな雰囲気はありませんでしたけど……」


 確かに、照瑠のいる脱衣所を松子が訪れたのは、置き忘れた櫛を取りに来たからだ。しかし、その程度のことであれば、別に痴呆といって騒ぎ立てる程のことでもない。


「松子さん、昔の人だからね。お父様からすれば、迷信としか思えないようなことを未だに気にしている松子さんのことを、鬱陶しい母親としか思っていないのかもしれないわ」


 迷信。その言葉を聞いた時、照瑠の頭の中に松子の言った言葉が響いた。



――――この家には、昔から鬼が住んでおるからの。


――――この、君島の家に住む者もまた、鬼に憑かれておるのじゃよ……。



「鬼……」


 箸を持つ手を止め、照瑠は思わず口にした。それを見た沙耶香が、訝しげな表情で照瑠の顔を覗き込んで来る。


「どうしたの、照瑠ちゃん?」


「い、いいえ、なんでもありません。ちょっと……考え事をしていただけですから……」


 君島松子の言っていた、君島邸に巣食う鬼。それは果たして単なる迷信なのだろうか。昨晩の奇妙な金縛りと幽霊のこともあり、照瑠はどうしても松子の言葉を迷信として片づけることができなかった。


 程なくして食事を終え、照瑠は沙耶香の家を出るための身支度を始めた。


も とより、幽霊の存在を確かめるために宿泊させてもらったようなもの。これ以上の長居は、何かとボロを出すことにも繋がりかねない。


 自分の荷物を小さくまとめ、照瑠は忘れ物がないかと部屋の中を見回した。もともと、そこまで多くの荷物を持って来てはいないものの、それだけに何かを忘れてしまうと、取りに来るのも面倒だ。


 そう思って部屋の中を見ていると、照瑠の視界に一冊の本が飛び込んできた。それは沙耶香の机の上に置かれており、薄い紙のカバーがかかっている。どうやら、何かの文庫本らしい。


 何気なく手に取って見ると、それはどこにでもありそうな小説だった。内容からして外国の推理小説のようだが、そういった類の本に詳しくない照瑠にとっては、この本がどんな本なのかの見当がつかない。


「あら? もしかして、その本に興味があるの?」


 本を手にしたままページをめくっていると、沙耶香が後ろから声をかけてきた。


「あっ、別にそこまでは……。ただ、沙耶香さんが、どんな本を読んでいるのか気になって……」


「どんな本って……それ、普通の探偵小説よ。もしかして、もっと固くて難しい本でも読んでるかと思った?」


「いえ、そんなことはありません。古典とか、そういった本が好きなのは、むしろ私の方ですし……」


「へぇ、古風ね。今時、そういうの珍しいんじゃない?」


「はい。友達からも、よく言われます」


 名家の令嬢から古風などという言葉をもらい、照瑠は少し照れくさそうにして言った。


「でも、沙耶香さんも探偵小説なんて読むんですね。私、こういう本、全然わからなくて……」


「そう? でも、読んでみると、意外と面白いものもあるわよ。もっとも、これは私の本じゃなくて、晴樹から借りたものなんだけどね」


「晴樹君から? 確か……沙耶香さんの従姉弟の子でしたよね」


 そういえば、昨日照瑠の下を訪れた晴樹が、本を返してもらいたいというようなことを言っていた気がする。沙耶香にその旨は伝えておいたが、どうやらまだ本を返していなかったらしい。すると、目の前にあるこの探偵小説が、晴樹が沙耶香に貸した本ということだろうか。


「これ、晴樹君から返してくれないかって頼まれていたやつですよね。よかったら、私が返してきましょうか?」


「悪いわね。だったら、私は時枝さんに頼んで、照瑠ちゃんの見送りの準備をさせるわ」


「見送りだなんて……。普通に御挨拶だけさせていただければ、結構ですよ」


 そうは言ってみたものの、沙耶香は頑として家の者に照瑠を見送らせると言い譲らなかった。無理な頼みごとをして怖い目に合わせてしまったのに、素気なく家を出すのは気が引けるというのだ。


 仕方なく、照瑠は沙耶香の好意を受けることを承諾した。向こうは向こうで気を使ってくれたのだから、それに応えないというのも失礼だ。


 左手に鞄を抱え、右手には文庫本を持ち、照瑠は沙耶香の部屋を出た。廊下に沿って歩いてゆくと、突き当たりに高級そうな花瓶の置かれた棚がある。その右横に位置する襖の奥が、沙耶香の従姉弟である晴樹の部屋だった。


「晴樹君、いる?」


 さすがに、扉のように襖を叩いて確認するわけにもいかない。照瑠は外から声だけかけると、襖に手をかけてそっと開いた。


 襖が開き、廊下に少しだけ畳の香りが漂ってくる。中を覗いてみると、晴樹は自分の机に向かい、なにやら作業をしているようだった。どうやら、夏休みの宿題を片付けている途中らしい。


「誰? あっ、沙耶香姉さんの友達の人か……」


「ごめんね、忙しい時に邪魔しちゃって。これ、昨日言ってた文庫本でしょ? お姉さんに代わって、私が届けに来たんだけど……」


「そうだったんですか。わざわざ、すいません」


 正座をしたままの体勢で首だけこちらに向けながら、晴樹は照瑠に軽く頭を下げた。


「本だったら、そこの本棚に適当に突っ込んでおいてくれればいいですよ。後で、僕が整理しておきますから」


 晴樹に言われた通り、照瑠は部屋の隅にある本棚へと歩を進める。棚に収まっている本には全てカバーがかけられているが、どれも似たような大きさのものばかりだ。どうやら、そのほとんどが文庫本らしい。中身を推察するに、やはり探偵小説なのだろうか。


 まだ見ぬ本の世界に少しだけ興味を持ちつつも、照瑠は沙耶香の部屋から持ってきた本を書棚の開いている場所に押し込んだ。ふと見ると、棚の一角には写真立てに入れられた一枚の写真が置いてあるのに気がついた。


(誰の写真だろう……)


 ちょっとした好奇心もあり、照瑠は写真立ての中にある写真を覗き込んで見た。そこに写っているのは一組の男女。男の方は晴樹に似ているが、彼と比べてもかなり年齢が上だ。顔の特徴などから、それが晴樹の父である敏幸であることは容易に想像がつく。


 問題なのは、敏幸の横にいる若い女性だった。沙耶香でも、彼女の母の志津子や叔母の冴子でもない。それらの女性の面影はまったくなく、完全に別の人間であることは照瑠の目から見ても確かだった。


 いったい、この女性は何者なのか。より詳しく見ようと写真立てに手を伸ばしたその時、照瑠の指先が唐突に震えて動きを止めた。


(こ、この人……)


 ほんのりと茶色がかった、肩の辺りまで伸びた髪。写真の中の女性はこちらに向かって大きく微笑んでいたが、それが誰なのかわかってしまった今、照瑠は自分の身体が震えているのを隠す事はできなかった。


 昨晩の出来事が、フラッシュバックするかのように頭の中で再生される。列を成して部屋に入ってくる影達の中から、沙耶香の枕元に現われた謎の女の幽霊。どこか物悲しさを感じさせるような気を身にまとい、じっと沙耶香の顔を覗き込んでいた奇妙な霊。


 霊の顔までは見えなかったが、照瑠はそれでも確信していた。今、目の前の写真立てに飾られた写真の中に写る女性。それこそが、あの女の幽霊と同じ人物であるということを。


「あの……どうかしましたか?」


 本棚の前で立ち止まったままの照瑠を見て、晴樹が尋ねた。


「えっ!? いや、なんでもないのよ。ただ、この写真の女の人、誰なのかなって思って……」


「ああ、そんなことですか。その人は、僕の母ですよ。もっとも、僕が産まれた時に死んじゃいましたけどね」


「亡くなった……」


 昨日、沙耶香が君島家の人間達を紹介した時のことを思い出し、照瑠はそれ以上言葉が出なかった。


 沙耶香の話では、晴樹の母親は既に亡くなっているとのことだった。それを聞いていたにも関わらず、自分はなんと無神経な質問をしてしまったのか。


 思わず晴樹から目をそらしてしまった照瑠だが、そんなことはお構いなしに、晴樹は独りで話を続けた。


「母のことについて、詳しくは僕もわかりません。ただ、僕がお腹にいる時に、なんだか事故にあったらしくて……。流産寸前のところを、緊急入院して僕を産んだみたいなんです。その時のショックで、母は僕の代わりに亡くなったんですよ」


「ご、ごめんなさい!! 話には聞いていたのに、失礼なこと聞いて……」


「いいですよ、別に。僕が知っている母は、写真の中の姿だけです。それは、変えようのない事実ですからね」


 宿題を進める晴樹の手が止まり、その顔に一瞬だけ影が射した。


 既に中学生になっているとはいえ、晴樹はこの息苦しい君島家の中で、母親の愛情というものを全く知らずに育ってきたのだ。それだけに、今も心のどこかで母の愛というものに飢えているのかもしれない。見た目は普通の少年に見える彼もまた、心のどこかに闇を抱えているということだろうか。


 なんだか気まずい雰囲気になってしまい、照瑠はそれ以上、晴樹と話すことはなかった。ただ、一言だけ挨拶を交わし、襖をそっと閉めて部屋を後にする。


 昨晩現われた幽霊と、晴樹の母である女性との関係はなにか。そして、沙耶香の祖母である松子の言った鬼とはなんなのか。様々なことが頭の中を錯綜し、どうにも考えがまとまらない。


 なんとも煮え切らない気持ちのまま、気がつくと照瑠は沙耶香の待つ君島邸の門の前に足を運んでいた。門の前では、既に時枝を始めとした数人の家政婦達が沙耶香の後ろに並んでいる。


「遅かったじゃない。晴樹の部屋で、何かあったの?」


「いいえ、特に何も……。それよりも、すいません。なんだか、随分とお待たせしてしまって……。昨日は、本当にお世話になりました」


「お礼なんていいわよ。私も久しぶりに、色々と気兼ねなく話せる人がいて楽しかったし」


 気取らない、素のままの沙耶香の笑顔が照瑠に向けられた。これだけを見ると、沙耶香がこの君島家の一員であることが疑わしく思えてきてしまうから不思議だ。少なくとも、邦彦や冴子の持っている陰湿な空気は欠片もない。


 出口の前に並んで一礼している家政婦達を横目に、照瑠と沙耶香は君島邸の門をくぐった。門の外には昨日来た時と同じように、守衛の男が無言のまま立ち尽くしている。


「それじゃ、私が見送れるのはここまでだから。駅までの道だったら、覚えているわよね?」


「はい。それじゃあ、また何か分かったら、こちらから報告します」


 それだけ言って、照瑠は沙耶香に軽く一礼した。


 晴樹の部屋で見た写真のことと、昨晩に現われた霊のことに関しては、あえて何も言わないでおいた。確かに髪型や雰囲気は似ていたが、それでも見間違いということもある。変に自分だけで先走って、不必要に沙耶香の不安を煽るような真似はしたくない。


 荷物の入った鞄を持ち直し、君島邸の門の前を去ろうとする照瑠。その、鞄の持ち手を握る照瑠の手に、一瞬だけ沙耶香の視線が向けられた。


「あら、照瑠ちゃん。その指輪……」


「ああ、これですか? 昨日からしていたんですけど……気づきませんでしたか?」


 荷物を持っている手を片方だけ離し、照瑠が指輪を沙耶香に見せる。銀色の金属でできた簡素なもので、装飾も必要最低限。当然、本物の銀が使われているわけでもない。


「これ、友達と盆踊りに行った時、そこの屋台で買った安物なんです。沙耶香さんみたいな人に、あまり見せるようなものじゃないと思いますけど……」


「そうかしら? 私は普通に、可愛いと思うけど」


「えっ……! でも、これ……ステンレスか何かでできた、ほとんど玩具みたいなものですよ……」


「それがいいのよ。いくら大きい家に住んでるからって、特にどこかの式典に出るわけでもないのに、日頃から高級品ばかりで身を固める必要なんてないわ。そんなのはお洒落でもなんでもなくて、ただの嫌味よ」


「そうですか。だったら……」


 再び鞄を地に下ろし、照瑠は自分の手にはめられた指輪を取って沙耶香に差し出した。


「これ、沙耶香さんにあげます。こんな安物、沙耶香さんならいくらでも買えるかもしれませんけど……それでもよければ、どうぞ」


「えっ!? でも、さすがにちょっと、それは悪いかな……」


「大丈夫ですよ。これ、屋台のおじさんがオマケしてくれて、同じものをもう一つもらってますから」


「そう? だったら、ここはお言葉に甘えさせてもらっちゃおうかしら」


 照瑠の掌から指輪を受け取り、沙耶香は嬉しそうな顔をして言った。


 もとより、厳格な君島家の中で育ってきた沙耶香である。きっと幼い頃から、彼女の着る服や装飾品の類に関しては、全て両親を始めとした周りの大人達に決められてきたのだろう。


 当然、年頃になっても同じ年代の少女達が身につけているようなアクセサリーの類などを買うことさえ許されず、親から押し付けられるようにして、高価な品を身につけることを強要されてきたに違いない。


 恋人からの贈り物に関しては言わずもがな。俊介との交際は両親にも秘密にしている以上、迂闊に何かを贈るわけにもいかない。そういった諸々の事情から、沙耶香が照瑠のしていた指輪に興味を持ったのは、ごく自然なことだった。


 照瑠からもらった指輪をハンカチで包み、大事そうにしまう沙耶香。きっと、あの指輪を沙耶香が家の中ですることはないだろう。もしかすると、つける機会はそこまで多くないかもしれない。


 それでも照瑠には、沙耶香が自分のしていた指輪を受け取ってくれたことが嬉しかった。気遣いなどではなく、本心から喜んでくれた沙耶香の顔を見ると、照瑠は晴れやかな気持ちになって君島の家を後にした。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 東北の夏は、冬の寒さが嘘のように暑い日が続くことがある。冬と違い、夏場は山を越えて乾燥した季節風しか吹かないため、猛暑日になることも多かった。


 自宅へ戻る途中の道で、照瑠は額に流れる汗を拭きながら恨めしそうに太陽をにらみつけた。


 街路樹の上では幹にはり付いたアブラゼミやミンミンゼミが、まるで下手な楽器をぶち鳴らしたかのように鳴いている。一匹、二匹なら風情のあるものなのだろうが、こうもまとまって鳴かれては、騒音以外の何物でもない。


 うだるような暑さの中、照瑠は自宅も兼ねた九条神社の社務所へと続く石段を上っていった。いつもであれば通り慣れた道なのだが、今日は柄にもなくよそ行きのヒールを履いている。沙耶香の家に泊まるということで靴箱の奥から引っ張り出してきたものだが、こうも石段を歩きにくいとは思わなかった。


 石段を一つ上がるたびに、バランスを崩して転びそうになる。こんなところで転んで頭でも打ったら、怪我の一つや二つでは済まないだろう。


 その上、照瑠の着ているのは袖のあるワンピース。せめて、袖のないノンスリーブにすればよかったとも思ったが、今さらである。昨日、でかけた時は既に夕方に近かったため、帰りがここまで暑くなるとは思っていなかったのだ。


「うう……。ただいま……」


 ようやく社務所の前につき、照瑠は力なくその扉を開けた。


 家の中に入れば少しは涼しいと思ったが、どうやらそれは大きな間違いだったらしい。冬になると肌を突き刺すような寒さに襲われる板張りの廊下も、今は熱気と湿気に支配されて灼熱地獄と化している。


 このままでは、自分の部屋に辿り着く前に溶けてしまう。我ながら馬鹿らしい比喩だとは思ったが、この暑さには耐えられそうになかった。


 仕方なく、照瑠は応接間の襖を開けて、そこで一休みしようと考えた。とにかく今は、静かな部屋で涼むことを優先したかったのだ。


 頭を下に向けたまま、照瑠は応接室の襖を開けた。すると、その部屋の中から、涼しい空気と共に聞きなれた声が飛んでくる。


「あっ、照瑠じゃん! お帰りなさーい!!」


 嶋本亜衣だ。今は夏休みだというのに、学校の友人である彼女が、なぜこんなところにいるのだろうか。


「ちょっと……。なんで、あなたが私の家にいるわけ?」


「いやあ、それがねぇ……。実は、私の家の冷房が昨日から壊れちゃってね。あまりに暑くてやってられないんで、おじさんに頼んで涼ませてもらってるんだ」


「なっ、あなたねぇ……。言っておくけど、私の家は避暑地じゃないんだからね。人の家に来る時は、連絡くらいよこしなさいよ」


「そんなの仕方ないじゃん。照瑠、昨日から泊まりがけでどこかへ出かけてたみたいだしさ。もしかして、加藤さんに言われた霊の出る家の調査とか?」


「そういうところだけは、妙に勘が鋭いわね。まあ、そんなところかしら」


「そっか。それじゃあ、詳しい話は後で聞かせてね」


 そう言って、亜衣は目の前に置いてあるコップの中に入っていた麦茶を一気に飲み干した。恐らく、照瑠の父である穂高が亜衣に出したものだろう。


「うぅーっ! やっぱ、夏場に冷たい麦茶を飲むと生き返るよね!!」


 照瑠の言葉など、亜衣はてんで気にしていない様子だった。厚顔無恥というか何というか、まったくもって神経の図太い人間である。それでいて、どこか憎めないところもあるから不思議なものだ。


 そうこうしている内に、応接間の襖が再び開かれた。見ると、そこには照瑠の父である穂高が、切り分けたスイカを盆に載せたものを持って立っている。


「おや、照瑠も帰ってたのかい。調度良く、スイカを切ってきたところだよ。よかったら、お前もお友達と一緒に食べたらどうだ」


「やったぁ!! おじさん、超サイコー!!」


 穂高が盆をちゃぶ台に置くよりも先に、亜衣は盆の上からスイカの切れ端を持っていった。呆気に取られている照瑠を他所に、独り先に真夏のスイカを堪能している。


 口の周りに種をくっつけたままスイカをほうばる亜衣を見て、照瑠はなんだか急に肩の力が抜けてゆくような気がしてならなかった。あの君島邸の空気から解放され、急激に日常へと引き戻されたからかもしれない。


 しかし、こうしていつまでも不抜けているわけにはいかないのは、照瑠自身にもよく分かっていることだった。


 亜衣のいる前で話すのも気が引ける部分はあったが、それでも沙耶香の家であったことを父である穂高に話さないわけにはいかない。自分の父親には何ら不思議な力などないと分かっていたが、今頼りに出来るのは、彼くらいのものである。


「ねえ、お父さん」


「なんだい、照瑠。早く食べないと、スイカがぬるくなるよ」


 スイカの乗った盆をちゃぶ台に置いて、穂高が言った。もっとも、勧めてくれるのはありがたいのだが、今は目の前にあるスイカに無心で手を出す気にはなれない。


「スイカのことは、今はいいのよ。それより、ちょっと聞いてもらいたいことがあるんだけど……」


「なんだい。照瑠から話があるなんて、随分と珍しいこともあるものだね」


「うん。実は、昨日私が泊めてもらった家のことなんだけど……」


 それから照瑠は、昨晩に君島邸で起きた一連の出来事を穂高に語りだした。謎の金縛りから始まり、次いで聞こえてくるラップ音。そして、かごめの歌と共に現われる列を成して浮遊する影と、その中から出てくる女の幽霊のことである。


 本当は亜衣のいる前ではなく、どこか別室で話をしたかった。しかし、こういった話には鋭い勘を働かせる亜衣のことである。きっと、こっそり後をつけた上で、盗み聞きするに違いない。


 亜衣が帰るまで待つにしても、それでは穂高に相談するまでの時間がかかりすぎてしまう。沙耶香にしてみれば、今すぐにでもあの亡霊たちをなんとかする術を知りたいことだろう。そして、それは同じ体験をした照瑠にとっても同様だった。


 君島家の名前を伏せたまま、照瑠は事の全てを穂高に語った。沙耶香の家の名を伏せたのは、亜衣が無用な噂を立てるのを防ぐためでもある。詩織の兄の彼女の家とでも言っておけば、本人達に聞きでもしない限り、家が特定されることはない。


「なるほど。それで、お前はその人の家で、奇妙な女の霊を見たと言うんだね」


「そうよ。でも、なんで沙耶香さんの家に出るのかっていうのは、私には分からなかったわ……」


 全てを話し終えた時、照瑠は昨晩に現われた霊の姿を再び思い起こしてみた。


 肩までしかない、短く切りそろえられた栗色の後ろ髪を持つ女の霊。その姿は、やはり晴樹の部屋で見た写真に写っている女性に似ているような気がした。


 あれは、本当に晴樹の亡くなった母親の霊だったのか。では、なぜそれが沙耶香の部屋に現われるのだろう。そして、あの影のような者が成す行列と、かごめの歌にある意味はなんなのだろう。


 正直、今回の事件は、照瑠にもわからないことが多すぎた。父である穂高もそれは同じようで、難しい顔をしたまま首をかしげている。


 こんな時、犬崎紅ならば何と言っただろう。こういった類の話に詳しい彼の事だ。きっと、黒影と彼の持つ奇妙な刀の力で、あっという間に解決してしまうに違いない。あのぶっきらぼうな口調で、霊の正体や現れる原因などを一つずつ解説しながら。


 そう照瑠が考えた時、唐突に口を開いたのは、意外にも側で話を聞いていた亜衣だった。先ほどまで食べていたスイカの種を口の周りにつけたまま、照瑠の服の袖を軽く引っ張る。


「ちょっとよろしいかな、照瑠どの。私からも、意見を言わせてもらっても……」


「なによ、急にかしこまって。まさか、あなたに沙耶香さんの家に出る霊の正体が分かるとでも言うの?」


「そうじゃないんだけどね。ただ、照瑠の話にあった、かごめの歌……。それが、ちょっと気になっただけだよ」


「かごめの歌が? それって、今回の事件に何か関係あるの?」


「さあ、そこまではわからないよ。ただ、かごめの歌に限らず、童謡ってやつには色々な都市伝説もあるからね。参考までに、ちょっと聞いてみる?」


「嫌って言っても、どうせ話すんでしょ。いいわよ。久しぶりに、あなたの講釈も聞いてあげる」


「やったぁ! それじゃあ、早速説明させてもらうとしますか」


 照瑠の言葉に、亜衣が満面の笑み浮かべながらはしゃいだ。霊の正体について少しでも参考になる話が出ればと思ったが、どうやら最初から都市伝説と結びつけた話をすることが亜衣の狙いだったらしい。


 呆れ顔の照瑠を他所に、亜衣は急に得意げになって都市伝説の講釈を始めた。こうなると、一度しゃべりだした彼女を止めるのは至難の業だ。照瑠もそれを知っているだけに、ここは黙って聞いてやることにする。


「では、何から話したものかってところだけど……。とりあえず、かごめの歌の意味っていうのは知ってるかな?」


「意味も何も……あんなの、ただの童謡じゃない」


「甘いなぁ……。童謡っていっても歌には違いないんだよ。そして、何の意味も脈絡もない歌なんてのは、昔から長きに渡って語り継がれたりしないものなんだよね」


 ちっちっ、と舌を鳴らしながら、亜衣が人差し指を立てて左右に振った。もったいつけずに早く話せと思うところだが、話をあえて小出しにしながら語るのが、亜衣の癖である。そうやって、周りの人間の反応を見るのもまた、彼女のちょっとした楽しみの一つなのだ。


「かごめの歌っていうのは、実にたくさんの都市伝説があってね。歌の意味一つとっても、親殺しの歌とか子殺しの歌とか、罪人が死刑にされるまでの歌とか、色々なんだよ。後は、徳川埋蔵金の在処を示した歌だとか……。凄いのになると、世界が滅亡しちゃう歌っていう解釈もあるんだよね」


「世界滅亡って……。それ、あまりにも荒唐無稽なんじゃ……」


「まあ、確かに私も世界滅亡予言説は、ちょっと信憑性が薄いと思うよ。でも、中には信憑性の高い解釈もないわけじゃないんだ」


「例えば、どんなもの?」


「そうだなぁ……。例えば、罪人が死刑にされちゃうまでの歌って解釈だけど、そもそも照瑠は≪かごめ≫の意味って分かる?」


「意味って……。そんなもの、考えたこともないわよ」


 幼い頃から耳にしてきた、ごくありふれた童謡。その歌詞の意味するところなど、まともに考えた試しなどない。かごめにしても、鬼の周りを囲んで歌うことから、なんとなく篭のようなイメージがある歌としか考えてなかった。


「かごめの歌の≪かごめ≫だけど、あれは≪篭女かごおんな≫と書いてかごめ。つまり、篭に入れられた女の人の意味だっていう説があるよ」


「篭に入れられた女の人? それが、どうして罪人の話と関係あるのよ」


「うん、そこなんだけど……。昔は罪人を、篭に入れて刑場まで運んだらしいんだよね。だから、篭女は女の罪人ってことで、≪かごのなかのとり≫も同じ罪人を指している言葉だって言われているんだ」


「なんか、強引なこじつけに感じるわね……」


「まあ、そう言わずに最後まで聞いてよ。続く≪いついつでやる≫の部分は、≪いつになったら篭から出られるのか≫ってこと。≪よあけのばん≫ってのは、まだ日が昇り始めるかどうかってくらいの時刻。これが、死刑の執行される時間だね」


「じゃあ、つるとかめってのはなんなの? 縁起のいいものってのは分かるけど、死刑には関係ないじゃない」


「そうだね。そこは、ちょっと難しいけど……照瑠なら、たぶん納得してくれると思うよ」


 まったくもって、根拠を伴わない亜衣の言葉。恐らく彼女は、照瑠のように頭が良くないと分からない、とでも言いたいのだろう。とはいえ、都市伝説の講釈に関して理解を示したことでほめられても、あまり嬉しい気持ちにはなれないが。


「つるとかめっていうのは、ここでは直接の意味じゃないんだ。京都の方の童謡にある言葉で≪つるつるつっぱいた≫っていうのがあるんだけど、これがなまって≪つるとかめ≫になったんじゃないかって言われているんだ」


「へぇ……。で、そのつるがなんとかってやつの、本当の意味はなんなの?」


「まあ、そう慌てなさんなって。≪つるつるつっぱいた≫っていうのは、≪ずるずると引っ張った≫って意味。つまり、刑場に無理やり引きずり出されたってことだね」


「えっ……。だったら、最後の歌詞は……」


「それは簡単だよ。≪うしろのしょうめん≫ってのは、後ろで刀を構えて首を斬り落とそうとしている死刑執行人のこと。斬り落とされた女の人の首は転がって、体は前を向いているのに首だけ後ろを向いている状態になっちゃったんだね。その首が、≪私を殺したのは誰?≫って尋ねているって解釈だよ」


 あくまでいつもの飄々とした態度を崩さずに、亜衣はかごめの歌の意味を一通り語ってみせた。その口調は、普段の彼女が学校で見せるそれと何ら変わらない。が、しかし、話の内容だけ聞けば、随分と恐ろしく物騒なものである。


 今までは、単なる童謡としか考えていなかったかごめの歌。ところが、いざ亜衣の話を聞いてみると、なんだかとても曰くのある歌に聞こえてならない。


 もっとも、亜衣の話した解釈に関しては、今回の事件に役立ちそうなものではなかった。確かに恐ろしく、それでいて興味深い話ではあるのだが、君島邸に現われる女の幽霊と死刑執行の話に接点は感じられない。


「ねえ、亜衣。もっと、他の考え方はないの?」


 死刑執行以外にもいくつかの解釈があるという話を思い出し、照瑠は亜衣に聞いてみた。


 もとより、根拠に乏しき都市伝説。半信半疑ではあるが、その中に少しでも謎を解明するためのヒントが隠されていれば儲けものだ。


「そうだなぁ……。他によく言われている説では、子殺しの話とか有名だよ」


「子殺し? それって、お父さんやお母さんが、自分の子どもを殺しちゃうってこと?」


「それも子殺しの一つだけど、ここではちょっと違う意味かな。かごめの歌で子どもを殺すのは、別の女の人なんだ」


 口調は明るいままに、亜衣がにやりと笑って言った。こういう時は、決まって聞いている相手が少々引いてしまうような内容の話をする時だ。先ほどの斬首の話も相当にグロテスクなものだったが、今度はどんな解釈が飛び出すのだろうか。


「じゃあ、まずはさっきみたいに、順番に解説していこうか。最初の≪かごめ≫だけど、漢字そのものは、さっきと同じ≪篭女≫だよ。ただし、言葉の解釈はちょっと違って、ここでは妊婦さんを指しているんだ」


「妊婦さん? それが、どうして≪篭女≫になるの?」


「妊婦さんのお腹って、赤ちゃんが大きくなってくると、当然膨らんでくるでしょ。それが、篭を抱えたみたいに見えるから、篭女って字を当てているんだ。ちなみに≪かごのなかのとり≫っていうのは、その妊婦さんのお腹にいる赤ちゃんのことだよ」


「妊婦さんが≪篭女≫か……。なんだか、さっきの話とは随分とかけ離れた解釈ね」


 女の罪人も篭女なら、妊婦さんも篭女。言葉とは人によって捉え方も異なるという話を聞いたことはあったが、それにしても実に様々な解釈があるものだ。くだらない話が飛び出すことが殆どとはいえ、こういう話に関しては、時に亜衣の持っている雑学の引き出しに感心する他なくなってしまう。


「その、妊婦さんなんだけどね。もうすぐ赤ちゃんが産まれそうって時に、誰かに突き飛ばされちゃったんだって。その時間が≪よあけのばん≫で、≪つるとかめがすべった≫っていうのは、親子共々に転んだってこと。≪うしろのしょうめんだあれ≫っていうのは、≪私を後ろから突き飛ばしたのは誰?≫ってことらしいね」


「な、なんだか、それも随分と物騒な解釈ね……。それで、その妊婦さんはどうなったの?」


「そこはまた、色々な解釈があるんだよね。親子共々死んじゃったっていう話もあれば、子どもだけ流産してしまったっていう話もあるよ。≪つるとかめがすべった・・・・≫っていうくらいだから、どっちにしろ子どもがお母さんのお腹から滑って落ちたのは変わりないみたいだけど……」


「じゃあ、その突き飛ばした犯人は分かっているの?」


「それも分からないんだよね。話によって姑だったり小姑だったり、後は旦那の愛人だったり……。とにかく、その妊婦さんに子どもが産まれて欲しくないって思っている人が、犯人にされることが多いよ」


「そ、そうなんだ……」


 いつの間にか、照瑠は亜衣の話に細かな突っ込みを入れることさえも忘れていた。


 確かに、亜衣の話した二番目の解釈は薄気味悪いものがある。斬首刑の話も相当にグロテスクだったが、こちらの話はなんというか、人間のどろどろとした嫉妬の感情が塗りこまれているようで恐ろしい。まるで、昼時に一部の奥様方が見ている、粘着質な愛憎劇を描いたドラマの世界のような話だ。


 だが、それ以上に照瑠が気になったのは、その妊婦が流産したという下りだった。



――――僕がお腹にいる時に、なんだか事故にあったらしくて……。


――――流産寸前のところを、緊急入院して僕を産んだみたいなんです。



 照瑠の頭の中で、君島邸で聞いた晴樹の言葉が思い出された。


 晴樹の母親は、彼を産んだ時に亡くなった。彼の話では、何らかの事故に遭ったことが原因らしい。その事故のせいで晴樹もまた、流産の危険があったというのだ。実際に亡くなったのは晴樹ではなく彼の母親だったが、それでも奇妙な一致を感じずにはいられない。


 かごめの歌と共に現われる、晴樹の母親と思しき女の幽霊。彼女は生前に、事故によって流産しそうになった経験を持っている。完全に童謡の通りではないとはいえ、それらの奇妙な共通点が、照瑠にはどうしても偶然の一致とは思えなかった。


「ねえ、どうしたの、照瑠? もしかして今の話、ちょっと刺激が強すぎた?」


「えっ!? いや、そんなことはないけど……。ただ、ちょっと気持ち悪いかなって思って……」


「まあ、そうだろうね。でも、これはあくまで解釈の一例だから。本当の意味なんて、実は私にも分からないんだよね」


 あれだけ話しておきながら、亜衣は最後の最後で話を濁して講釈を終えた。


 所詮、亜衣の話していたのは単なる怪談じみた都市伝説。童謡の中に出てくる篭女と晴樹の母親の共通点は気になったが、いつまでもそれを考えていても仕方がない。


 それよりも、今は沙耶香の家に現われる幽霊をなんとかする事の方が先決だ。沙耶香から連絡がない限りは君島邸を訪れることができないとはいえ、何もせずに連絡を待っているわけにもいかないだろう。


「ねえ、お父さん。亜衣の話は別にしても、沙耶香さんの家に出る幽霊……なんとかできないかな?」


「そうだなあ。でも、なんとかすると言ったって、私には幽霊を追い払うような力なんてないんだぞ」


「神主がそれを言ったらお仕舞いじゃない。お札とか、盛塩とか……簡単なものでいいから、幽霊を追い払えるような道具はないの?」


「幽霊を追い払える道具、ねぇ……」


 娘から唐突に難題を持ちかけられ、穂高は思わず腕組みをして黙りこんだ。


 婿養子として九条の家に入った自分は、あくまでお飾りの神主である。本当に力を持っているのは、今は亡き彼の妻の方だ。


 護符を作るにしても、自分の書いたものなど気休めにしか過ぎない。本物の幽霊を相手にした場合、効果の程は知れているだろう。かといって、除霊のような芸当ができるかというと、そうでもないのが困りものだ。


 自分には、霊を祓う力などない。せめて、何か強力な護符の類でも作ることができれば……。


 そこまで考えた時、穂高は何かを思い出したようにして席を立った。


「ちょっと! どうしたの、お父さん?」


「いや、大切なことを忘れていた。私とした事が……こういう時の頼みの綱に、ぴったりの人がいたんだよ」


 そう言うが早いか、穂高は応接間を飛び出して廊下にある電話の受話器を取った。懐からは黒い名刺を取り出すと、そこに書いてある携帯の電話番号を見ながらボタンを押してゆく。


 程なくして、電話は先方へと繋がった。相手は駅の近くにいるのか、電話越しに電車の走る音が聞こえてくる。


「もしもし。そちら、鳴澤さんの携帯ですか?」


≪その声……もしかして、あの神社の神主さん?≫


「はい、そうですよ。実は、折り入って頼みたいことがありまして……。今、お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」


≪ええ、構わないわ。電話で話すのもなんだから、今からそっちへ向かってもいいかしら?≫


「それは願ってもないことです。では、よろしくお願いしますね」


≪了解よ。何があったのかは知らないけど、まあ任せて頂戴≫


 電話は切れた。穂高は受話器を元に戻すと、再び照瑠達のいる応接間へと戻ってゆく。


 退魔具師、鳴澤皐月。


 犬崎紅の紹介によって火乃澤町へとやってきた、どこか怪しげな雰囲気をまとった謎の美女。


 彼女の力がどれほどのものが、穂高には分からない。が、それでも今は、彼女以外に頼りになりそうな人物も思い浮かばなかった。


 娘の話が本当ならば、沙耶香の家に出る霊と関わることは、決して良いことではない。神社の巫女としての修業を積んでいない照瑠は、単に霊感の強い一人の少女でしかない。そんな状態で向こう側の世界・・・・・・・の住人と関わり続ければ、それは転じて照瑠を闇に落とすきっかけとなりかねないのだ。


 自分には、娘を守るだけの力がない。悔しいが、それは紛れもない事実である。だからこそ、穂高は強い力を持った他の人間に頼ることに躊躇いを見せなかった。それが娘を守ることに繋がるのであれば、神主としての面子など、丸めて捨ててもいいとさえ思っていた。

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