~ 弐ノ刻 確執 ~
照瑠が沙耶香と待ち合わせをした駅前についたのは、五時を少し過ぎた頃の時間だった。待ち合わせの時間に間に合うよう家を出たつもりだったが、どうやら時間の計算を少しだけ誤ってしまったらしい。
「すいません、沙耶香さん。遅くなりました……」
「いいわよ、別に。もともと、変なことを頼んだのはこっちなんだから。九条さんも、あんまり気を使わないで、いつも通りにしていてくれればいいわ」
てっきり怒られると思っていた照瑠は、その言葉を聞いてほっとした。やはり、沙耶香は色々な意味でできる女性である。名家の威光を振りかざしてお高くとまっている、女王様のようなタイプの人間ではない。
「それじゃあ、今から私の家に行きましょうか。もっとも、場所だけだったら、九条さんも知っているとは思うけど」
「はい。でも……私のことは、お家の人にどう説明するつもりなんですか?」
「それなんだけど……私の大学の後輩ってことじゃ駄目かしら? あなた、見た目は結構大人っぽいから、一年生って言えば通じると思うわよ」
「そうですか? まあ、沙耶香さんがそう言うんなら、大丈夫なんでしょうけど……」
そう言って、照瑠は自分の格好を改めて見つめた。
名家のお屋敷に出掛ける以上、適当な普段着で行くわけにもいかない。そう思って、一張羅のワンピースをクローゼットの奥から引っ張り出してきたのだ。駅につく時刻が遅れたのは、服を探すのと着替えに時間がかかってしまったというのもある。
だが、それにしても、まさか自分が大学生を演じることになるとは思わなかった。同じ一年生でも、照瑠は高校の一年生。周囲からは大人っぽいと言われてはいるが、三つも上の年齢の人間を演じるようなことが、果たしてそう簡単にできるものだろうか。
慣れない服に身を包み、思わず不安そうな表情を浮かべる照瑠。そんな彼女の気持ちを察したのか、沙耶香は軽く笑いながら照瑠に言った。
「そんなに意識しなくても大丈夫よ。今の大学生なんて、あなたが思っている以上に子供っぽい人も多いんだから。私服で街を歩いていたら、高校生なんだか大学生なんだか、見分けがつかない人もいるくらいだしね」
「そうなんですか? だったら、なんとかなるかも……」
「まあ、あくまで私の家の人に説明する時の話だから、それ以外は普通にしてくれて構わないわ。後は、あなたの呼び方だけど……さすがに、家に上げるような相手に九条さんって言うのは、ちょっと他人行儀よね……」
「そうですね。私は別に、呼び捨てでも構いませんけど?」
「それもなんだか、しっくりこないわね。自分から言っておいてあれなんだけど、身内以外の人の名前を呼び捨てにするのも、私は好きじゃないのよ」
「だったら、どうします? いっそのこと、偽名でも作りますか?」
照瑠は本気で言ったつもりだったが、沙耶香はそれを冗談と受け取ったようだった。
「そんなに変なことしなくても大丈夫よ。呼び捨ても、さんづけも駄目なら……照瑠ちゃんって呼んでもいいかしら? 仲のいい後輩なら、そういう呼び方をするのも普通よね?」
口元を少しだけ手で隠して笑うと、沙耶香はそのままの顔で照瑠に言った。何気ない一言ではあったものの、照瑠はそれを聞いて、少しだけくすぐったい思いがした。
もともと、同年代の人間からも頼りにされることの多い照瑠である。見た目だけでなく精神的にも大人な部分を持っているため、クラスメイトからは≪九条さん≫の呼び名で呼ばれ慣れている。後は、亜衣のように人懐こい人間が、名前で呼び捨てにするくらいだ。
神社の娘というどこか神秘的な生い立ちも相俟って、昔から照瑠は他人行儀な呼ばれ方をする事の方が多かった。そのため、間違っても≪照瑠ちゃん≫などと呼んでくる者はおらず、沙耶香の言葉に思わぬ反応を見せてしまったのだ。
「照瑠ちゃん、ですか……。ちょっと、くすぐったい呼ばれ方ですけど……なんとか、ボロを出さないように頑張ってみます」
「ありがとう。それじゃあ、そろそろ行きましょうか」
「はい! よろしくお願いします!!」
駅前の大通りに向かって歩き出した沙耶香の後を、照瑠が追いかける形でついてゆく。これから幽霊の出る家に向かうというのに、照瑠の心の中は恐怖よりも楽しさの方が勝っていた。
(照瑠ちゃん、か……。なんだか、急に仲のいいお姉さんができたみたいだな……)
沙耶香の決めた照瑠の呼び方は、他人から見れば特に変わったことのないものだっただろう。だが、照瑠のとってのそれは、自分の事を初めて年少者として扱ってくれた言葉に他ならなかった。
その性格から人から頼られることが多かっただけに、照瑠のことを年少者として扱ってくれた人間は少ない。部活の先輩からも、後輩としてというよりは、一人の自立した人間として扱われることの方が多かった気がする。それはそれで構わないのだが、あまりに続くとさすがに疲れる。
自分は人から頼られる人間であるからして、いつも自分がしっかりしなければならない。そんな気持ちが常にどこかにあり、兄や姉のいる友人のことを羨ましく思ったこともあった。
今回の外泊は、沙耶香の頼みを聞く形で幽霊の正体を探る事が目的である。本当に幽霊の姿を目撃し、その正体を見破れるかどうか、正直なところ、自信はない。沙耶香も神社の巫女としての照瑠を頼りにしているわけであり、大学の後輩としての扱いは、あくまで演技だ。
だが、例えどんな理由であっても、自分に対して初めて一人の後輩として接してくれた沙耶香の対応は、照瑠にとっては実に新鮮なものだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
九条神社。
その日に限り、照瑠の実家でもあるその神社は妙に閑散としていた。いつもは境内の掃除をしている照瑠が、今日は沙耶香の家に外泊するために出掛けてしまったからだ。
日没までにはまだ少しの時間があったが、それでも人気のない神社の境内は、既に日が落ちてしまったかのような静けさに包まれていた。日中はあれだけやかましく鳴いていたアブラゼミの鳴き声も落ち着き、今ではヒグラシの声がそよ風に乗って時折響いてくるだけである。
夏の間、ことお盆の時期は、参拝客などそういない。根っからの神道を信ずる者であれば別だが、この季節は皆、どこも墓参りのために寺に赴くのが普通である。
山間に沈む夕日を眺めながら、神主である九条穂高は独り境内の掃除を進めていた。いつもであれば娘の照瑠が自らやってくれるのだが、今日は彼女の代わりに自分が掃除をしなければならない。
カサカサという音がして木々の梢が揺れ、夕陽を背景に飛ぶカラスの鳴き声が聞こえた。
今日はもう、この辺りで社務所も閉めようか。そう思った穂高だったが、ふと石段を登る足音を耳にして、思わず音のする方に振り向いた。
夕日に照らされた石段の上を、こちらに向かって一人の女性が歩いてくる。その格好は、およそ東北の閑静な田舎町でしかない、火乃澤町の住人には似つかわしくないものだ。
上から下まで紺色のスーツに身を包み、石段を登るにはおよそ不釣り合いなヒールを履いている。スーツの下に見えるブラウスの上からでも、その胸の大きさが日本人の平均を超えるだけのものであるということは、容易に想像がついた。
彼女の首元に光るネックレスの先についているのは、紫色に輝くアメジストだ。指にはめられた白銀のリングは飾り気こそないものの、高貴な輝きを放っている。耳元で光るピアスにはめられた赤い宝石もまた、高価でありながら決して下品ではない造りをしていた。
「ねえ、ちょっといいかしら?」
鳥居をくぐったところで、女性が穂高に向かって訪ねた。その外見からある程度の予想はしていたが、艶っぽい声である。
「九条神社っていうのは、この場所でいいの?」
「はい、そうですよ。ですが、申し訳ありませんね。本日は、もう社務所を閉めようかと思っていたところなんです」
「別に構わないわ。こっちも、そんなに長居するつもりはないしね。ただ、紅ちゃんの言っていた神社がどんなところなのか、ちょっと確かめたかっただけよ」
「紅ちゃん? あなた……もしかして、犬崎君の関係者の方ですか?」
「察しがいいわね、神主さん。紅ちゃんはあなたのことを、お飾りの神主にしておくにはもったいないなんて言っていたけど、まんざらでもなさそうね」
女性が穂高の方を見て、ふっと笑みを浮かべた。どこか人を食っているような、それでいて妖しさの中にも悩ましげな魅力を感じさせる笑いである。
「あの……。それで、この神社に何か御用ですか? 見たところ、参拝というわけではなさそうですが……」
穂高が訝しげな顔をして女性を見つめる。犬崎紅の関係者とはいえ、こんな時間にわざわざ参拝するためだけに立ち寄ったとは考えにくい。
「あら、ごめんなさい。そういえば、紹介がまだだったわね」
女性は一枚の名刺を取り出し、それを穂高に手渡した。薄紫色の紙に印刷された、少々お洒落な雰囲気の漂うものだ。
「どれどれ……。ええと、名前は鳴澤皐月さん。ご職業は、宝石店の店長さんですか?」
「せめて、ジュエリーショップって言って欲しいわね。だけど、まあ、それは表の顔よ。本当の職業は、こっち」
そう言って、皐月と名乗った女性は再び別の名刺を取り出した。今度は黒字の高級そうな紙に、赤い文字で名前が書かれていた。
どことなく、禍々しい気を放つ札のような作りの名刺。それを手にした穂高の顔つきが、彼女の職業を目にした途端に鋭く変化した。
――――退魔具師 鳴澤皐月
名詞に書かれていた女性の職業と名前である。
穂高は無言のまま名刺をしまうと、妙に真剣な面持ちで皐月の方へと顔を上げた。その顔に、いつもの穏やかな雰囲気は一切ない。
退魔具師。護符を始めとした様々な悪霊を退散させるための道具を作り、それを売ることを生業とする者。
犬崎紅のような闇と戦う者を戦士と例えるならば、皐月の仕事はその戦士に武器を供給する武器商人だ。無論、武器といっても基本的には霊的な存在に対して用いられるものだが、悪意を持った使い方をすれば、それは一転して呪いの道具と化す。
向こう側の世界を知る者の中でも、特にマージナルな存在であると言われる武器商人。退魔具師の中には闇に堕ちて呪殺師となる者もいると聞いたことがあるだけに、穂高の顔から緊張の色が消えることはない。
皐月は紅の知り合いということではあるが、それでも、そんな者がいったいこの神社に何用か。まさか、自分の作った道具を直々に売り込みに来たというわけでもないだろう。ここは一つ、率直に聞いてみた方がよさそうだ。
「あなたは犬崎君の知り合いと言っていましたね。いったい、どのようなご用件で、この神社に?」
「そんなに警戒しなくても大丈夫よ。別に、私はあなた達に何かしようってわけじゃないんだから。ただ、紅ちゃんに頼まれて、しばらくあの子の代わりを務めるだけよ」
「代わり、ですか……?」
「ええ、そうよ。紅ちゃんは今、ちょっと野暮用で四国まで帰ってるのよね。だから、その間は私が、彼の代わりに仕事を引き受けることになったのよ。当然、あなたから依頼された仕事も含めてね、神主さん」
そう言って、皐月は前髪を少しだけ後ろにかき上げるような仕草をした。何気ない動きの一つ一つが、妙に色っぽい。向こうに他意はないのだろうが、その行動がいちいち男を挑発しているようなものに思え、穂高は複雑な気持ちだった。
「なるほど、話はわかりました。では、もしも娘に何かあれば、その時はよろしくお願いしますよ」
「まあ、そこの辺は任せて頂戴。私は紅ちゃんみたいに犬神なんてものを使えるわけじゃないけど、それでもテレビに出ているインチキ霊能者なんかよりは、よっぽど役に立つと思うから」
「それは心強いですね。私のように大した力も持っていない者からすれば、本物の力を持っているというだけでも十分ですよ」
「じゃあ、そういうことで決まりね。今日は私もこれで帰らせてもらうけど、何か妙なことがあったら連絡を頂戴。そっちの黒い方の名刺に、私の携帯番号が載っているはずだから。そこにかければ繋がるわ」
再び、皐月が前髪をかき上げる。意識せずにやっているところを見ると、どうもこれは彼女の癖らしい。
鳥居をくぐって石段を下りてゆく皐月の後姿を横目に、穂高は改めて皐月から手渡された黒い名刺に目をやった。
悪霊や祟神から人々を守るための道具を作る退魔具師。皐月のような若い人間にどれほどの力があるのか、穂高は少し不安になった。が、すぐに首を横にふり、今しがた自分の頭に浮かんできた考えを振り払う。
向こう側の世界に通じる力の強さは、年齢とは直接比例しない。あの犬崎紅がいい例だし、それをいうなら娘の照瑠もまた同じことだ。なによりも、紅が直々に代理を頼む辺り、皐月の力が決して弱くはないことを物語っている。
西の空を赤く染め上げていた夕日は、いつの間にか半分以上が山の後ろに隠れてしまっていた。ヒグラシの鳴き声も静まり、辺りは夜に向けてその顔を変えようとしている。
夕方と夜の間であり、魔に遭遇しやすいとされる時刻、逢魔が時。陰の気が流れ込みやすい土地柄である火乃澤町において、それは決して迷信などで済まされるような話ではない。
先祖の霊が戻ってくるお盆の時期と重なっていることも相俟って、この時期の逢魔が時は、特に怪異に遭遇しやすい時間であると言えた。それだけに、穂高は娘の照瑠が何か妙な事件に巻き込まれているのではないかと心配だった。
向こう側の世界に一度でも関わった者は、その世界の住人と互いに引き合う関係となる。穂高の予感は的中し、照瑠は正に、自ら闇の巣食う家へとその足を踏み入れようとしているところであった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
沙耶香の案内で彼女の家に到着した照瑠は、その大きさに改めて驚いた。沙耶香自身は大きいだけで古臭い日本家屋などと言っていたが、やはり豪邸には違いない。
沙耶香の家は、敷地だけでも並みの住宅の数倍はあるだろう。辺りは立派な塀でぐるりと囲われ、入口には守衛と思しき男が立っている。なんというか、絵にかいたような御屋敷なのだ。
「さあ、ついたわよ。遠慮しないで、上がって頂戴」
「はい……。でも、やっぱり沙耶香さんの家ってすごいですね……。私も五丁目に大きな御屋敷があるのは知っていましたけど、こんなに近くで見たのは初めてです……」
「そんなに自慢できるものでもないわよ。この土地も家も、ご先祖様からもらったもので、私達はその遺産にあやかっているだけなんだから」
まだ屋敷の中に入ってもいないのに言葉を失ってしまった照瑠を見て、沙耶香が苦笑しながら言った。
「それじゃあ、まずは私についてきてくれる? 一応、形だけでも、家の人に挨拶しておかないとマズイから」
「そうですね。それじゃあ、お邪魔します……」
門の前に立つ守衛の男に軽く会釈して、照瑠は沙耶香の後に続く形で君島家への入口をくぐった。その先に続く石畳を歩くと、やがて大きな木製の引き戸が見えてくる。沙耶香がそれを開けると、そこは玄関になっていた。
「おや、お帰りなさいませ、沙耶香様」
玄関先では家政婦と思しき女性が花瓶の水を取り替えていた。沙耶香と比べると、少なくとも親と子くらいに離れた年齢だろう。
沙耶香の後ろにいる照瑠に気付いたのか、その視線を沙耶香から照瑠に向けて尋ねてくる。
「沙耶香様、そちらの方は……」
「私の大学の後輩よ。照瑠ちゃんっていうの。今日は、私が誘って家に呼んだのよ」
「それは、それは。しかし、お嬢様が自分から家にお友達をお呼びになるなど、珍しいこともあるものですね」
「まあね。でも、照瑠ちゃんは鬼剣舞にも興味があるみたいだし、詳しく話も聞きたいって言ってたから、調度いいかなと思ったのよ」
「なんと。お若いのに感心なことですね。お友達が鬼剣舞に興味を持たれている事をお話になれば、沙耶香様のお父様も、さぞお喜びになると思いますよ」
「そうね。じゃあ、私はもう行くから。照瑠ちゃんに、家の中も案内しなくちゃならないし」
そう言うと、沙耶香はさっさと靴を脱ぎ、そのままスタスタと廊下の奥へと歩いていってしまった。その後を、慌てて照瑠も追う。
気のせいか、照瑠にはその時の沙耶香が、やけに苛立っているような感じがしてならなかった。駅前の甘味屋で話していた時のような雰囲気はなく、全身から棘のあるオーラを発している。
「あの……さっきの人は……?」
背中からでも分かる刺々しい気に押され、照瑠は恐る恐る声をかけた。
「ああ、あの人ね。彼女は時枝さんって言って、この家の家政婦長をしている人よ。私が生まれる前から、君島家にずっと住みこみで働いているの」
「そうなんですか……」
それ以上は、何も聞けなかった。沙耶香の体から放たれる苛立ちを伴った気は弱まることはなく、照瑠は無言のまま彼女の後ろを追いかけてゆく他になかった。
長い廊下を抜け、いくつかの部屋の前を通り過ぎ、照瑠はやがて沙耶香の自室と思しき部屋に通された。部屋の造りは正に由緒正しい日本家屋といったもので、ほのかに木の香りが漂っている。
「さあ、ここが私の部屋よ。とりあえず、その辺に適当に座っていて頂戴」
「はい。それじゃあ、お言葉に甘えて……」
沙耶香にあった先ほどの棘々した雰囲気は、いくらか落ち着いているようだった。それでも、どこか物怖じしてしまい、照瑠は遠慮がちに近くにあった座布団に腰を下ろした。
「ごめんなさいね、変なところ見せて。照瑠ちゃんのこと、ちょっと怖がらせちゃったかもしれないわね」
「えっ……!?」
心の中を見透かされているような気がして、照瑠は思わず声を出して顔を上げた。
この家の玄関をくぐってから感じた、沙耶香の放つ棘のある空気。照瑠は無意識の内に出ているものだと思っていたが、どうやら沙耶香にも自覚はあったらしい。
「さっき、お父様の話が出たでしょう。時枝さんは立場上、私の前でお父様を立てたつもりなんでしょうけど……正直、私はお父様のこと、あまり好きじゃないのよね」
「そうなんですか? 確かに、詩織のお兄さんの話を聞いている限りでは、私もちょっと頭の固い人なのかな、とは思いましたけど」
「その程度で済めばいいんだけどね。まあ、照瑠ちゃんも会えば分かると思うわよ。私としては、できればあまり顔を会わせて欲しくはないんだけど……」
苦虫を噛み潰したような顔をしながら、沙耶香はそう言って肩をすくめた。
年頃の女の子が父親のことを嫌うというのは照瑠にも理解できる話ではあるが、沙耶香は既に大学の三年生である。小学生のように父親に甘えることはなくとも、それなりに円満な家族関係を築くだけの立ち振る舞いはできるはずだ。沙耶香のような聡明な女性であれば、それは尚更である。
だが、それにも関らず、沙耶香は外の人間である照瑠に対し、父親への嫌悪感を露骨に示していた。
甘味屋で沙耶香と俊介の話にあった、家の名前と金の力でなんでも思い通りに動かそうとする父親の姿が頭をよぎる。どうやら、あの場での話は、決して俊介の誇張が含まれたものではないようだ。
「それじゃあ、私は家の人に、照瑠ちゃんが泊まることを話しておくから。悪いけど、しばらくの間、部屋で待っていてくれるかしら?」
沙耶香の顔が、再び甘味屋で話していた時のそれに戻る。父親の話が出た時の、あの棘々した雰囲気は既にない。
襖が閉まる音がして、照瑠は沙耶香の部屋に独り残された。誰もいない部屋の真ん中で天井に目をやると、思わずほっと溜息がこぼれる。
火乃澤町に古くから存在する名家、君島家。ある程度の予想はしていたが、どうやら沙耶香と父親の間には、かなり深い溝がありそうだ。
幽霊の存在を確かめるために呼ばれてはいたが、照瑠にとっては死者の霊よりも、この屋敷全体を覆う極めて厳格な空気の方が、とても重苦しいものに感じられて仕方がなかった。
「はぁ……。話の流れで沙耶香さんの家に来ることになっちゃったけど、なんだか不安だなぁ……」
誰に言うともなく、そんな言葉が口から零れる。
確かに照瑠も神社の巫女として、それなりに落ち着いた環境で育てられては来た。が、しかし、それでもかなり自由にさせてくれたことも事実であり、君島家のような格調高い雰囲気の中で育ってきたわけではない。
慣れない環境にもどかしさを感じながら、照瑠は普段はあまり見せない落ち着きのない様子で、部屋の中を見回してみた。
木製の箪笥と机、それに書棚が置かれているだけの、実に落ち着いた部屋である。現代風のお洒落な家具一つなく、全てが昔ながらの和を基調とした様式で統一されている。
古風な部屋は苦手ではなかったが、それでも照瑠は沙耶香の部屋に、妙な窮屈感を感じてしまった。自分でも理由はよく分からないが、きっと、この君島家を覆う重たい空気が原因なのだろう。
そんなことを考えていると、照瑠の正面にある襖が唐突に開かれた。沙耶香が出て行ったのが今しがたなだけに、彼女が帰ってくるにしては早すぎる。
「沙耶香姉さん、入るよ」
そう言って姿を現したのは、照瑠とほぼ背丈の変わらない少年だった。歳は十三歳か、十四歳くらいか。少なくとも、中学生くらいであることは間違いない。
「あれ……? あなたは……?」
照瑠と目が合った少年は、しばし驚いた顔をしてその場に立ち尽くした。
無理もない。身内の部屋に、見ず知らずの人間が入り込んでいれば、最初は驚きもするだろう。
「えっと……もしかして、沙耶香さんの弟さん?」
相手の警戒心を解くようにして、照瑠は少年にそっと話しかけた。
「いや、弟ってわけじゃないんですけど……。それより、あなたこそ誰ですか?」
「ごめんなさい。私は沙耶香さ……いえ、沙耶香先輩の、大学の後輩なの。今日は先輩に誘われて、この家に招待してもらったのよ」
駅前で沙耶香と話したことを思い出し、照瑠はとっさに口裏を合わせるような台詞を言った。出まかせに過ぎない言葉だったが、少年は納得してくれたようである。
「そうだったんですか。すいません、勝手に部屋を開けたりして……」
「別にいいわよ。それより、沙耶香先輩に何か用があったんじゃないの?」
「いや、別に大したことじゃないです。ちょっと、貸していた文庫本を返してもらおうと思って来ただけですから」
「そっか。じゃあ、私から沙耶香先輩に、あなたが来たことを伝えておくわ。えっと……あなたの名前は?」
「僕、君島晴樹って言います。沙耶香姉さんとは兄弟じゃなくて、従姉弟の関係なんです」
「従姉弟の晴樹君ね。わかったわ。必ず伝えておくから」
「それじゃあ……すいませんけど、よろしくお願いします」
パタンと言う音がして襖が閉まり、晴樹の姿がその向こうに消えた。名家の人間であるにも関わらず、その姿は年相応の中学生のそれに違いはなかった。
沙耶香もそうだったが、どうやら子ども達は、君島家の名前をそれほど意識しているわけではなさそうだ。むしろ大人達の方が、名家の人間という変なプライドに縛られてしまっているのかもしれない。
そうこうしている内に、今度は沙耶香が再び部屋に戻ってきた。照瑠は晴樹と会った事と、彼から聞いた要件を簡単に伝える。
「なるほど。すると、照瑠ちゃんは晴樹に会ったのね」
「はい。従姉弟って言ってましたけど……もしかして、あの子もここに住んでいるんですか?」
「ええ、そうよ。私の家には私の家族の他に、晴樹の家族と……それから私の叔母に当たる人も住んでいるしね」
「そ、そんなに!? 沙耶香さんの家、結構な大家族だったんですね……」
「まあ、それなりに大きい家族構成ではあるわね。この家、無駄に広いから、家族の二つや三つ、簡単にまとめて暮らすことができるのよ」
そんな事を、平気で言ってのけてしまう辺りが物凄い。今のご時世、一族郎党が揃って暮らしている家など、探してもそうあるものではない。
いったい、この君島家には、合わせて何人の人間が住んでいるのだろう。他人の家族関係を詮索するのはよくないと分かってはいるが、照瑠もそこは気になってしまう。
そんな彼女の気持ちを察してか、君島家の構成員に関しては、沙耶香の方から話をしてくれた。もっとも、これから少しでも顔を会わせる可能性のある人間達なのだから、最初に色々と話しておいた方がよいという、沙耶香なりの判断なのかもしれなかった。
沙耶香の話によれば、今の君島家の戸主を務めているのは彼女の父だった。名を君島邦彦と言い、甘味屋での話にもあった通り、自分の権力を振りかざす事に快感を覚えるような人間だという。これでも一応、君島家の長男ということらしい。
沙耶香の家族はこの他に、母である君島志津子と弟である君島宗也の二人がいた。弟の宗也は昨年に生まれたばかりで、まだ一歳になったばかりの幼児である。だが、長男のところに生まれた男子ということで、その期待を一身に集めている存在だった。
その他の人間たちは、邦彦の兄弟とその家族が主だった。邦彦の他に長女の冴子と次男の敏幸がおり、家庭を持っているのは敏幸の方である。
先ほど、沙耶香を尋ねて照瑠と話した晴樹は、この敏幸の息子に当たる。ちなみに、晴樹の母親は彼を産んだ際に亡くなったらしい。
一方の冴子だが、こちらは独身のまま君島家で暮らしていた。特に嫁に出るような気配もないが、かといって婿養子をとる気配もない。沙耶香の話では、気位ばかり高い典型的な女王様だそうだ。そのために、外の男が近寄らないのだとも言っていた。
現在の君島家で暮らしている家族は、大まかに分ければ以上の者たちである。それ以外には住み込みで働いている家政婦や庭師、料理人などがいる他、以前の戸主の妻であり沙耶香の祖母でもある君島松子が暮らしていた。
夫である君島良寛が亡くなった後も、松子だけは残された子ども達を見守るようにして生き続けたらしい。もっとも、古い考えを持つ人間であることは違いないらしく、君島家の中でも迷信を酷く気にする傾向にあるとのことだった。
沙耶香から全ての話を聞き終え、照瑠は何と言葉を返せばよいのか分からなかった。
兄弟達が、自らの家庭を持ったまま実家で暮らし続けているという状況。しかも、住み込みで働く使用人に加え、祖母までいるときたものだ。
これはいよいよ、昼に奥方が見るような連続ドラマの世界になってきた。今の日本において、あんなものはテレビや小説の中の世界の出来事だと思っていた照瑠には、沙耶香の話もどこか現実感がない。まるで自分が、どこか遠くの異世界に飛ばされてしまったような錯覚に陥ってしまう。
「はぁ……。なんだか、色々な意味で物凄いんですね、沙耶香さんの家って……」
「そんなに大したことじゃないわよ。単にたくさんの家族が一緒に暮らしているだけで、別に特別な事でもなんでもないんだから」
「そ、それはそうですけど……」
「それにね、一緒に暮らしているからと言って、全員が全員、仲がいいってわけでもないのよね。うちみたいに、やれ後継ぎだなんだと言っている家って、兄弟同士でも仲が悪いこともあるし……」
その瞬間、今まで話していた沙耶香の顔に、ふっと影がさしたような感じがした。それを見た照瑠は、この君島家を覆う重苦しい空気の正体が、なんとなくつかめたような気がした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その日の夕食は、照瑠を君島家の人間の食卓に加える形で始まることになった。もっとも、食卓といっても巨大な洋式のテーブルなどがあるわけではない。
座布団の置かれた座敷に、家政婦達が膳に乗せられた料理を運んでくる。調度、和風の高級ホテルで出される夕食のような形式を取っている。
「いやあ、しかし驚いたよ。まさか沙耶香が、こうも突然に大学の後輩を連れてくるとは思わなかったからね」
全ての料理が運ばれた後、すぐに口を開いたのは長男の邦彦だった。剣舞の演者であるが故に決して太っているわけではないのだが、それでも全てにおいて、妙に大きく構えている節がある。
「確か、照瑠さんだったかね。鬼剣舞に興味があるとかで、わざわざこの家まで出向いて来たとか……。若いのに、実に素晴らしい心がけだな」
「あっ……はい。私、大学で民俗学を専攻していまして……。それで、沙耶香さ……いえ、沙耶香先輩のお家が鬼剣舞の演者を務められていると聞きまして、どうしてもお話を伺いたいと思ってしまったんです」
途中、言葉を噛みそうになりながらも、照瑠はなんとか沙耶香との打ち合わせ通りの設定で話を進めた。内心では疑われるのではないかと冷や汗ものだったが、邦彦の態度を見る限り、どうやら疑われずに済んだようだった。
「なるほど、民俗学をね。では、鬼剣舞も、君の研究の一つということかな?」
「はい。その……ゆくゆくは、卒業論文にでも載せられれば、と……」
「それは願ってもないことだよ。私としても、鬼剣舞と君島家の名前を広めてくれるのは結構なことだからね。もしも君が良ければ、私が直々に、鬼剣舞の手解きをしてあげようか? それこそ、手取り、足取りね」
まだ、酒がまわっているわけでもないのに、邦彦が照瑠にいかにも作り物じみた笑みを向けた。どう見ても下心丸出しの、いやらしい中年男の顔である。
隣にいる沙耶香には失礼だったが、邦彦のそんな顔を見た照瑠は、背中を毛虫が這ったような感じがして言葉に詰まった。
自分の妻が同席している食事の席で、娘よりも年下の女に遠まわしに迫るような態度を示す。これでは、沙耶香が父親のことを嫌うのも無理はないというものだ。
そんな邦彦の振る舞いを見て、横やりを入れたのは長女の冴子だった。沙耶香の話にもあった通り、少々きつい感じのする女性である。
「あら、お兄様。家庭のある身で、それも自分の妻のいる横で、娘よりも年下の女に手を出そうなんて……。いつになってもお盛んなことですわね」
「な、なにを言っているんだ、冴子。お客様の前で、失礼だぞ」
「私は、ただ自分の思ったことを言っただけよ。それに、お兄様にも、下心が全くなかったというわけではないでしょう?」
「どういうことだ」
「鬼剣舞の演者を務められるのは、代々男だけというのが君島家のしきたりでしょう? それなのに、女性に……しかも、外から来た人間に気安く鬼剣舞の手解きをしようなんてのが、ちょっと気になっただけよ」
「まったく、何を言い出すと思えばそんなことか。それは、とんでもない誤解だな。何をどういう風に捻じ曲げれば、そんな考えに辿り着くんだ?」
「捻じ曲げる? でも、お兄様がお盛んなのは、紛れもない事実でしょう。なにしろ、四十を過ぎた志津子さんを孕ませて、宗也ちゃんを産ませたくらいなんだから」
邦彦の言葉に対し、冴子は鼻で笑いながら言ってのけた。どう見ても嫌味を言っているのは冴子の方なのだが、彼女は邦彦を完全に黙らせてしまっている。話の内容云々ではなく、冴子自身の体から発する何か見えない力で、強引に黙らせたと言った方がよい。
「いいかげんにしてくれよ、二人とも! なにも夕食時に……それも、お客さんの目の前で、君島家の恥を見せなくてもいいだろう!!」
冴子の言葉に沈黙してしまった邦彦に変わり、声を上げたのは次男の敏幸だった。その、あまりに大きな声に、座敷にいた全員の視線が敏幸の顔に集中した。
「い、いやだわ、敏幸ったら。そんなに大声を出さなくても、さっきのはちょっとした冗談よ」
「そうだぞ、敏幸。お前も君島家の人間なのだから、些細なことですぐに動揺するな。この程度の冗談、聞き流せなければ身が持たんぞ」
その場の空気が急に冷めたものになったのを感じ、邦彦も冴子も慌てて自分の身を取り繕うような台詞を言った。しかし、それが本心から出た言葉でないことは、その場にいる誰が見ても明らかだった。
なんとも言えない気まずい空気。部外者の照瑠でさえ、今の座敷を覆う重たい気を感じられずにはいられない。増してや、同じ君島家の人間である沙耶香にとっては、思わず箸を放り出し、この場から逃げ出したくなるようなものだったに違いない。
見ると、沙耶香も晴樹も、無言のまま目の前の膳に並べられたものを箸でつついている。邦彦と妻の志津子、それに冴子や敏幸も、今は互いに牽制し合うような視線を送りつつ、膳の上のものを口に運んでいる。
――――この家は歪んでいる。
君島家に来て半日も経っていなかったが、照瑠は確かにそう感じた。同時に、沙耶香が父親を始めとした自分の家族のことを、決して快く思っていなかった理由もわかったような気がした。
それから先は、何を食べているのか照瑠にもよくわからなかった。
こんな空気の中で食べなければ、きっと一生に一度味わえるか否かといった御馳走だったに違いない。だが、食事中にあんなものを見せられては、料理の味など二の次になってしまうというものだ。
沙耶香の手前、残すのも悪いと思い、照瑠は膳の上のものをなんとか頑張って平らげた。もともと小食なだけに、食事が終わった時には、少々腹のほうが苦しいことになっていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その晩、照瑠は沙耶香の部屋で一緒に寝ることになった。
もとはと言えば、彼女の部屋に現われる幽霊の姿を確かめる目的で、この君島家にやってきたのである。いよいよ本来の役割を果たす時が来たのだが、それにしては、既に疲労困憊してしまっているのは気のせいか。
「ごめんなさいね、照瑠ちゃん。夕食の時、変なものを見せてしまうことになって……」
「いえ、大丈夫です。こんな事で疲れてしまっていては、沙耶香さんの部屋に出る幽霊のことを確かめるなんて、できませんから」
「でも、あの後、お父様の講釈にもつき合ってもらったわけだし……。事前に打ち合わせた設定で話を進めるためだったにしても、あまり面白い話でもなかったでしょう?」
「あ、それも平気です。私、今回の話を抜きにしても、鬼剣舞については個人的に興味がありましたから」
既に寝巻の浴衣に着替えた照瑠が、布団の上で笑って言った。
確かに、君島家の人間には沙耶香の後輩として紹介されていたため、話を合わせるためにも鬼剣舞のことを色々と聞く必要はあった。しかし、それを抜きにしても、鬼剣舞については照瑠も興味を持っていないわけではない。
沙耶香の父である邦彦の話は己の自慢が大半を占めていたが、その要所には、なかなか興味深い話があったのも事実である。邦彦のいやらしい目つきや、その口から出る自慢話を抜きにすれば、それなりに聞く意味のある話となったのかもしれない。
しばらくの間、沙耶香と照瑠は他愛もない話で談笑しながら過ごした。家族の者の前では必要以上に自分を作っている沙耶香も、照瑠の前で話をする時には気立てのよい女性に戻る。名家の気品の中に、確かな親しみやすさを感じさせるものがあるのだ。
恐らくは、こちらの方が沙耶香の本当の姿なのだろう。詩織の兄である俊介が惚れたのも、こちらの姿に違いない。
君島家の令嬢という立場を崩さずに、その一方で、あくまで一人の人間として接してくる沙耶香。こうして話していると、まるで自分に姉ができたような気がして、照瑠は不思議な気持ちにさせられた。
「それじゃあ、そろそろ寝ましょうか。もしも寝ている間に変なものが見えたら、その時はお互いのことを起こすってことでいいかしら?」
「はい。私としては、あまりそんな事にはならない方がいいんですけど……」
「それはこっちも同じよ。私も、昨日までのことが夢で済むんだったら、それに越したことはないわ」
沙耶香の手が部屋の灯りを消し、一瞬にして二人の姿が闇に包まれた。
慣れない豪邸の布団と枕で眠れるかどうか心配だった照瑠だが、思った以上に気づかれもしていたのか、すぐに眠りに落ちてしまった。