~ 壱ノ刻 依頼 ~
その日、火乃澤町の公園は、いつもとは少しだけ様相を異にしていた。
噴水のある中央広場は、いつもは数人の散歩客の姿しかない。夕方ともなれば人影もまばらとなり、夜になると完全なる闇と静寂に支配される。遊具のない単なる広場故に、子ども達が集まるようなこともないのだ。
しかし、その日に限っては、夜の中央広場は多くの人で賑わっていた。辺りには様々な屋台が立ち並び、浴衣姿の男女が他愛も無い話をしながら店を回っている。噴水も水を抜かれ、その横に建てられたやぐらの上で、数人の男達が太鼓を叩いているのも見える。
夏の風物詩、盆踊り。この火乃澤町においても、盆の季節になれば街のあちこちで開催されている。
もっとも、火乃澤剣舞のような伝統芸能は、このような小さな盆踊りで踊られることはない。あれは、あくまで町全体が大々的に執り行うものであり、小さな町内会レベルの盆踊りでは用いられることはないのだ。
町内会で行う盆踊りは、至って平凡でごくありふれたものである。やぐらの上とその周りで、曲に合わせて参加者が踊る。広場には様々な屋台が立ち並び、綿菓子やラムネといった馴染みのあるものを売っている。
屋台に並ぶ人の列をかきわけながら、九条照瑠は広場の隅にあるベンチに歩を進めた。時折、自分の髪型が崩れていないかを気にしながら、手にしたうちわで顔を仰いでベンチに腰掛ける。
「ふう……。ようやく抜けられたわ……」
友人との待ち合わせ場所であるベンチに座ったまま、照瑠は火照った体を冷ますようにして呟いた。
祭りはまだ始まったばかりだというのに、この人ごみと熱気である。正直なところ、ここに来るだけでもかなりの体力を消耗してしまった。踊るにしても、屋台で何かを買うにしても、またあれだけの人の波をかき分けて行かねばならないことを考えると、少々気が滅入ってしまうのも事実だ。
やはり、もう少し人が減った、終わり頃の時間帯を狙って来ればよかったか。ふと、照瑠がそんな事を考えそうになった時、彼女の横から聞き覚えのある甲高い声がした。
「やっほー! お待たせ、照瑠!!」
やけに高いテンションと、小学生ぐらいの子どもの声としか思えないハスキーボイス。そして、自分のことを苗字ではなく名前で呼んでいる数少ない人物。
間違いない。この声の主こそが、照瑠を盆踊りに誘った張本人、嶋本亜衣だ。高校生にもなって、その身長は小学生ほどの背丈しかない。
亜衣は都市伝説オタクで有名だが、同時に底抜けの明るさから極めて広い交友関係を持っていた。それ故に、最近では≪人脈の亜衣ちゃん≫という自称を使っているほどである。
「お待たせ、じゃないわよ、もう……。なんだって、こんなにも人の多い時間帯に、わざわざ狙ったようにして待ち合わせするわけ?」
「何って……そりゃ、お祭りを二百パーセント楽しむために決まってるじゃん! この人ごみと、屋台から発せられる熱気……。そして、やぐらの上から響く太鼓の音……。これらが絶妙なバランスで合わさったスペシャルハーモニーな空気こそが、このパーフェクトなお祭りゾーンを作り上げているのだよ、照瑠どの」
「何がパーフェクトなお祭りゾーンよ……。私は、お祭りって言ったら、もっと風情のあるものだと思うんだけど……」
「まあ、確かに伝統の鬼剣舞なんかと比べたら、そうかもしれないけどさ……。でも、こういった皆でワーッと楽しむようなお祭りも、たまにはいいと思うんだけどなぁ」
そう言って、亜衣は少しわざとらしくむくれて見せた。本人は至って真面目なのだろうが、その低い身長と童顔な容姿から、どう見ても小学生がふてくされている様にしか映らない。
「もう、しょうがないわね。分かったわよ……」
「えっ!? じゃあ、やっぱり一緒につき合ってくれるの?」
「当たり前でしょ。それに、折角あなたが誘ってくれたのを、無下に断るのも悪いしね。あんまり疲れるほど屋台めぐりするのは気が引けるけど……空いているところを狙って、ゆっくり楽しむんならいいかな?」
「やったぁ!! それじゃ、そうと決まれば、さっそく出発進行!!」
照瑠が最後に言った言葉は、亜衣の耳には届いていないようだった。照瑠がベンチから立ち上がるや否や、その手を引いて人ごみの中へと舞い戻ろうとする。
先ほどはつき合うと言ってしまったものの、どうやら今日は、亜衣に振り回されるだけで終わってしまいそうだ。そう照瑠が考えた矢先、亜衣の足がピタリと止まった。
「ねえ、どうかした?」
急に歩を止めた亜衣に、照瑠が怪訝そうな顔をして尋ねる。
「いや、大したことじゃないんだけど……犬崎君はどうしたの?」
「犬崎君? 彼だったら、この数日は実家の方に用があるとかで、四国に帰ってるわよ」
「なぁんだ……。まあ、この町にいないんじゃ、照瑠にはどうしようもないよね」
「そうね。でも、どうして亜衣は、犬崎君なんて誘って欲しかったわけ?」
梅雨時にやってきた、一風変わった転入生の名前を出され、照瑠がは思わず亜衣に尋ねた。
犬崎紅。外人と見紛うような白金色の髪と、多くの女性が羨むであろう雪の如く白い肌を持った少年。その瞳は燃える炎のように赤く、なんとも言えぬ神秘的な雰囲気をまとっている。
彼が先天的なアルビノであることは、その容姿から容易に想像がつく。しかし、問題なのはそこではない。
照瑠の知る限り、犬崎紅はただの高校生というわけではなかった。四国に古来より伝わる憑き物、≪犬神≫を操り、様々な悪霊や祟神と戦うことを生業とする列記とした退魔師である。もっとも、彼の真の顔を知る者は火乃澤町においても一握りしかおらず、故に紅は、周囲からは単なる変わり者としか見なされていないのだが。
そんな紅のことを誘って欲しいとは、いったい亜衣は何を考えているのか。まさか、また得体の知れない奇妙な事件にでも巻き込まれたのではあるまいか。
そう思った照瑠であったが、そんな彼女の予想とは裏腹に、亜衣の口から出たのは実に下らない理由だった。
「女だけで楽しむのもいいけど、やっぱり男の人がいたほうがいいじゃん」
「はい……?」
思わず、間抜けな声を上げて聞き返してしまう照瑠。まあ、確かに紅はどこか普通の少年とは違った魅力があるのも事実だが、それでも祭りに同伴するのを快く引き受けるようなタイプではない。
まさか、亜衣は紅のような男が好みだったのか。それとも、噂好きで悪戯好きな亜衣のこと。紅と自分の関係を変に誤解して、あわよくば、この祭りでくっつけようとしているのだろうか。
「不思議そうな顔してますねぇ、照瑠どの。でも、こんな時こそ、男の人の存在は大きいものなんだよ」
「それ、どういう意味?」
「どういう意味もなにも……こんなに大勢の人がいるんだもん。人ごみの中、痴漢がうろついていないとも限らないし、性質の悪いナンパ師だっているかもしれないじゃん。後は、プロのスリとかね。そんな奴らをまとめて成敗できるのって、犬崎君くらいだと思ったんだよね」
「成敗って……。犬崎君には、そんな力はないと思うけど?」
「いやいや、わかってませんなぁ……。なんたって、犬崎君は犬神なんてものを飼ってるくらいなんだよ。下心丸出しの男連中を、近づく前に呪い殺すくらい朝飯前でしょ」
なるほど、そういうことか。しかし、それにしても、なんという発想だろう。
亜衣が紅を誘って欲しかった理由は理解したが、呪い殺すなどというのは、いくらなんでもやり過ぎだ。それ以前に、紅は犬神を飼っているわけではない。どちらかといえば、ああいう類のモノに関しては、憑かれているといった方が正しいのではないか。
「まったく……何を考えているのかと思えば、そんなことだったの? 悪いけど、あいつは人付き合いの悪さでは有名だからね。たぶん、四国に帰っていなくても、こんなに人の多い場所に自分から来ることはないと思うわよ」
「うぅ、やっぱり……。でも、照瑠が頼めば、もしかしたらって思ったんだけどなぁ……」
「まあ、今ここにいない人のことを言っていても仕方ないでしょ。それより、折角来たんだし、とりあえずどこかの屋台で何か買わない? 早くしないと、品切れになっちゃうかもしれないわよ?」
「そうだね。それじゃ、気を取り直して屋台めぐりに行くとしますか」
再び拳を振り上げて、亜衣が人で溢れる屋台の並びに向かってゆく。その後ろ姿を眺めながら、照瑠は彼女の底抜けな前向きさが少しだけ羨ましく思えた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
楽しい時間は終わるのも早い。どこかで聞いたことのある言葉だが、実際にそれは当たっていると照瑠は思う。
亜衣に引っ張られる形で屋台を回ってみたが、思いの他に楽しいものだった。確かに疲れもしたが、それでも存分に楽しめたのだから文句はない。数日前に、町の中央で開催された鬼剣舞とは、また違った楽しさがあった。
「ふぅ……。ちょっと、その辺で休憩しようか、亜衣?」
「そうだね。さすがに私も、今日はちょっとハッスルしすぎちゃったよ」
もう、全力で笑う元気も残っていないのだろう。表情こそ未だ興奮冷めやらぬ様で笑顔を作っているものの、亜衣の声にはまったく力が入っていない。
再び、待ち合わせの場所であったベンチへと戻ってきた。照瑠は躊躇うことなくそこへ腰掛けると、屋台めぐりでのことを頭の中で思い出してみた。
盆踊りといえば踊りがメインなのだろうが、亜衣にとってそれはオマケでしかなかったらしい。彼女は比較的空いている屋台を目敏く見つけると、そこへ素早く移動しては照瑠と一緒に買い物を楽しんだ。
まず、綿菓子やソース煎餅、水飴など、お約束のものを買っては食べ歩く。どこか安っぽい味であるものの、こういう場所で食べると何故か美味しく感じるから不思議である。
その後、亜衣に引かれるままに、照瑠は金魚すくいにも手を出してみた。だが、経験こそあるものの、そこまで上手いわけではない。案の定、照瑠は早々にタモを破いてしまい、露店のおじさんから≪残念賞≫として棒つき飴をもらっただけだった。
それに対し、亜衣は手馴れたタモさばきで金魚をすくい、実に十匹近くを捕まえたのだから物凄い。最後に欲を出して特大のデメキンを狙ったことでタモを破いてしまったが、あれがなければ更に多くの金魚を捕まえていたのではないか。
まあ、年甲斐もなく真顔で金魚と格闘する亜衣の周りに、地元の小学生たちが集まってギャラリーとなっていたのは、さすがに少々恥ずかしいものがあったが。
その後、亜衣はヨーヨー釣りやら射撃やらにも手を出して、そのどれにも優れた腕を示した。結果、彼女の手には金魚すくいで捕った金魚の他に、赤と白の二つのヨーヨーまでぶら下がっている。腕には露店で買った暗闇で発光する腕輪をはめ、小脇には射撃で得た巨大なネコのぬいぐるみが抱えられていた。
そんな中、照瑠は亜衣が腕輪を買った店で、最後に小さな指輪を買うことにした。貴金属の類など使われておらず、安っぽい金属に装飾を施しただけの簡素なリングだ。
こんなもの、所詮は小学生のする玩具に過ぎない。普段であればそう思ったかもしれないが、この日ばかりは、何故かそれが欲しくて仕方が無い気持ちにさせられた。祭りの熱気に当てられたこともあったのかもしれないが、照瑠はなぜだかその指輪が、妙に可愛らしく感じられたのだ。
実家は神社であり、趣味は古典文学を中心とした読書。およそ世間一般の女子高生が好みそうな、色恋やファッションの世界とは縁がない存在。それ故に、照瑠にはこの気取らないリングが可愛げに映ったのかもしれない。
あれこれと悩んだ末、照瑠はそのリングを買うことにした。露天のおじさんは親切で、照瑠にもう一つだけ、同じリングをオマケしてくれた。彼の言うには照瑠が美人だからだそうだが、まあ、これはお世辞の一つだと思っておく。
右手の小指に嵌めた指輪を眺めながら、照瑠は手にした団扇で首元を扇いだ。祭りも終わりに近づき、辺りには人もまばらになっていたが、身体の方はまだ熱気が残っている。
ふと顔を上げると、近くのベンチには浴衣姿の男女が揃って座っている姿がいくつか見て取れた。恐らく、祭りにやってきた恋人たちだろう。
向こうはいかにもといった甘い雰囲気になっているようだが、こちとらは女二人組み。特に意識する必要はないとわかっていても、やはりこの空気は少々気まずい。それに、どこか寂しいと思ってしまうのは気のせいか。
「ねえ、そろそろ行かない?」
身体を冷ますだけなら、公園の入り口に続く遊歩道を歩いてもできるはずである。
照瑠は亜衣を急かすようにして立ち上がると、そそくさと広場の出口に向かって歩き出した。遊歩道に続く出口の近くにも数人の人がいたが、特に顔見知りがいるわけでもない。それに、植え込みの近くでいつまでもうろうろとしていては、首筋を蚊に食われてしまう。
戦利品を抱えた亜衣に歩調をあわせつつ、照瑠は広場を出ようとした。そんなとき、唐突に後ろから声をかけられて、照瑠と亜衣は示し合わせたように後ろを振り返った。
「あっ、九条さん」
「あれっ……? もしかして……詩織なの!?」
照瑠の振り向いた先にいたのは、彼女と同じ文芸部に所属している加藤詩織だった。しかし、照瑠がそのことに気がつくのには、数秒ほどの時間を要してしまった。
照瑠と詩織は、一年生にしては積極的に活動している部員である。当然、互いに顔を合わせている時間も長いのだが、それでも今日の詩織の姿を見たら、一瞬で本人と気づくのは難しかった。
ここ最近まで、照瑠の知る詩織の姿は文学少女という言葉がよく似合うそれであった。今時の高校生にしては珍しく、メガネと三つ編みというマンガに出てくる学級委員長のような格好だったのだ。
ところが、今の詩織はどうだろう。後ろ髪は短く切ってショートにまとめ、メガネも外している。恐らく、コンタクトレンズに変更したのだろう。浴衣という普段とは違った服装も相俟って、声をかけられるまでは完全に別人だと思っていた。
「どうしたの、九条さん? 私の顔に、何かついてる?」
「いや……そんなことはないんだけど……。なんていうか、変わったよね、詩織」
「うん、ちょっとね。今までは、あんまり外見とか気にしなかったけど……。この頃は、気にしないといけない事情ができたから……」
「事情?」
視線をやや斜めに逸らすようにして話す詩織の様子から、照瑠にもその事情とやらが何なのか、大方の予想はついていた。詩織の顔が少しだけ赤くなっているのは、祭りの熱気に当てられたという理由だけではないはずだ。
「私ね……長瀬君と、つき合うことになったんだ」
「えっ!? 長瀬君って……うちのクラスの、あの長瀬君!?」
「そうだよ。だから、長瀬君のためにも、少しはお洒落にも興味を持たなくちゃって思ったの。自分の彼女の格好がダサいなんてのは、長瀬君も嫌だと思うから……」
「そうなんだ……。まあ、何はともあれ、よかったじゃない。ずっと好きだったんでしょ、長瀬君のこと」
「うん……」
照瑠の言葉に、詩織はそう言って小さく頷いた。
詩織の言っている長瀬君とは、照瑠のクラスにいる長瀬浩二のことである。バスケ部に所属し、少々悪っぽい雰囲気を持った少年だ。
もっとも、根っからの不良というわけではなく、実際には単に悪を気取って格好つけているだけだった。容姿もよく、女子生徒の間ではそれなりに人気もある。
そんな浩二と詩織がつき合うきっかけになったのは、少々複雑な経緯がある。何を隠そう、あの犬崎紅が火乃澤町にやってくることになった、とある事件に由来するからなのだ。
紅に追われる形で四国から火乃澤町に逃げ込んだ怪物は、そこで血も凍るようなおぞましい猟奇殺人事件を引き起こした。その際、警察や紅の目を撹乱するために、浩二を操って照瑠や詩織を襲わせたのである。
怪物に操られた浩二は紅の力によって呪縛から解放されたが、その身体は衰弱しきっていた。浩二はすぐに救急車で搬送され、それには詩織が同伴した。
もともと、詩織は浩二のことが気になっていた。それ故に、彼女は事件が解決した後も、浩二の入院している病院に顔を出していたのだ。それがきっかけで二人は友人となり、徐々にその距離も縮めていった。
詩織の話によれば、彼女が浩二に自分の想いを告げたのは、夏休みに入ってからということだった。部活の練習が終わる時間を見計らって、詩織から浩二に近づいたらしい。そして、その場に他の部員がいなくなるのを狙って、詩織の方から告白したのだ。
「なるほどね。まさか、詩織がそんなに大胆な行動に出るとは思わなかったけど……。まあ、長瀬君が詩織の告白を断る理由もないか」
「もう、やめてよ。私だって、自分の気持ちを伝える前は、断られるんじゃないかって心配だったんだから」
「なに言ってんの。今の詩織だったら、長瀬君は絶対に手放したりしないって」
下手なお世辞に聞こえてしまったかもしれないが、これは照瑠の本心だった。
今の詩織は、以前とは見違えるほどに可愛くなっている。やはり女は恋をすると、普段の数倍は美しく変貌するということか。以前、クラスの女友達が言っていた言葉を思い出し、今更ながらに納得する。
「ねえ、九条さん。話は、ちょっと変わるんだけど……」
「なに?」
「九条さんの家、神社だったよね。それを見込んで、頼みたいことがあるの」
「頼みたいこと? 何か、長瀬君のことで不安でもあるの?」
照瑠の家は、この火乃澤町に古くからある神社だ。この町が小さな村だった頃からある神社で、彼女の友人達の間では、照瑠が巫女の仕事をしていることも比較的有名である。
そんな照瑠に、詩織の方から頼みごとをしてくるとは何事か。実家が神社であるという事を持ち出してきたということは、やはり何か神頼みしなければならないような悩み事なのだろうか。
「実は……頼みってのは、うちのお兄ちゃんのことなんだ」
「お兄ちゃん? そういえば、詩織にはお兄さんがいたっけ」
「うん。もう、大学は卒業して働いているけどね。その、お兄ちゃんの彼女の家に……≪出る≫らしいんだ……」
「出るって……まさか、幽霊!?」
「詳しくは、よくわからないの。でも、九条さんだったら、もしかして何かわかるんじゃないかと思って……」
「そういうことか。でも、私だって、何でもできる霊能者ってわけじゃないのよ。除霊とか、そういった類のものは、お願いされてもできないわ」
「それも知ってるわ。だけど、九条さんのお父さんは神主さんなんでしょ? 九条さんが無理なら、九条さんのお父さんにお願いしたいんだけど……」
「まあ、確かに気持ちは分かるけど……。でも、うちのお父さん、役に立つかなぁ……」
詩織の言葉を聞いて、照瑠は思わず渋い顔をして言葉を詰まらせた。
確かに自分の父は九条神社の神主だが、所詮はお飾りの神主である。神霊に通じる力など殆どなく、実際は形式だけの神事を執り行っているだけに過ぎない。増してや、除霊の類などできるはずもないのだ。
本気でこちらを頼っている詩織には悪かったが、照瑠は彼女の力にはなれないと感じていた。ここで安請け合いして、下手にぬか喜びさせるのはよろしくない。
照瑠の頭に、ふっと犬崎紅の姿がよぎる。こんな時、彼であれば、万事問題なく解決できるだけの力を持っているはずだ。
しかし、紅の性格を思い出した照瑠は、心の中で今しがた浮かんできた考えを打ち消した。
無口で無表情で無愛想。おまけに口が悪く、金にも少々意地汚い。それが、紅が周囲に見せている彼自身の印象だった。本当は優しいところもあるようだが、普段の彼はそうした部分を決して人に見せない。故に、敵を作ることはあっても友人を作ることは殆ど無い。
そんな紅であるからして、詩織の頼みを無条件で聞き入れるとは思えなかった。それに、彼は今、実家のある四国へ帰ってしまっている。どちらにせよ、詩織の悩みを解決するのに紅の力は使えないのだ。
やはり、ここは自分がなんとかするしかないのだろう。頼みの綱である紅は町におらず、詩織が期待しているほどに、父は役立ちそうも無い。
「仕方ないわね。どこまで役に立てるかわからないけど、まずは私が話を聞いてみるわ。それで、力になれそうだったら、お父さんに相談してみる」
「本当!? ありがとう、九条さん!!」
詩織が照瑠の手を取って喜んだ。
もともと、幽霊がどうしたという類の話など、他の人間に話しても馬鹿にされるだけである。実際に神霊の関わった事件に巻き込まれた照瑠や亜衣、それに詩織自身であれば話は別だが、それ以外の人間にとっては単なる与太話として笑われるだけだ。
それだけに、詩織にとっては自分の話を真面目に聞いてくれる人間の存在が嬉しかったのだろう。そのことは、詩織が何も言わずとも照瑠にはわかった。
格好や髪型は変わっても、中身までが変わるわけではない。目の前にいる詩織は、文芸部で一緒に作業をしていた時の、あの詩織のままだ。何に対しても真面目に向き合い、自分の身内や好きな人のことになると、思わぬ行動力を発揮するところも変わっていない。
結局、その日は詩織と明日の昼に駅前の甘味屋で会う約束をして別れることになった。
去り際に彼女を迎えに来た浩二の姿を見て、照瑠は彼にもまた、今までとは少し変わった印象を受けた。彼女ができたことで、今までよりもどこか柔らかくなった雰囲気がある。この調子なら、二人の仲は当分の間安泰だろう。
友人の恋愛が上手くいったことを嬉しく思いながらも、照瑠は公園を出てゆく詩織と浩二の後姿を目にし、どこか寂しい気持ちを覚えた。来年は、自分も詩織のように、一緒に祭りに遊びに出かけるような恋人ができているのだろうか。
学校の中で格好良いとされる男子生徒の顔を思い浮かべてみるものの、照瑠は頭の中で、その顔を一つずつ消していった。確かに容姿が優れている者は何人もいるが、本気で好きになれるほどの人間は未だいない。
そんな中、最後に紅の顔が浮かび、照瑠はそれを慌てて否定した。
(なっ……。どうしてこんな時に、あいつの顔が浮かんでくるのよ……!!)
確かに紅は、他の男子にはない神秘的な雰囲気がある。が、しかし、その性格を考えた場合、決して恋愛の対象になるような相手ではない。
どうやら自分は、当分は色恋とは無縁の世界で生きることになりそうだ。その間は、せめて女同士の友情に華を咲かせることにしよう。祭りの灯りは赤が多いが、今は辺りがセピアな色に染まって見えるのは気のせいか。
そんなセンチメンタルな空気を打ち破り、今まで照瑠の隣で話を聞いていた亜衣が唐突に口を開いた。
「ねえ、照瑠……。ところで、あの二人……どこまで進んでると思う?」
「えっ……! どこまでって……!?」
「だって、やっぱり気になるじゃん。私の見立てでは、とりあえずAは済ませたって感じだね。もしかしたら、もうBまで進んでるかもしれないけど……。さすがにCは、まだないかな?」
「な、なによ。その、AだのBだのってのは……」
「へえ、照瑠は知らないんだ。まあ、神社の巫女さんは清らかじゃなきゃいけないもんね。それに、今はこんな言い方する人も少ないだろうし……照瑠が知らないのも無理はないか」
「そこまで言われると、逆に気になるんだけど……」
都市伝説マニアであり、その他にも多くの下らない知識を持っている亜衣のことである。きっと、ろくでもない話に違いない。
そうは思っても、ここまで聞かされては気にならない方がおかしいというものだ。とりあえず、ここは久々に、亜衣の講釈を聞いてみることにする。
「一応、照瑠に分かりやすく説明するとね、Aってのは接吻のことだよ」
「別に、古風な言葉を使わなくったってわかるわよ。Aはキスのことだって言いたいんでしょ?」
なるほど。その程度のことであれば、まあ問題ないだろう。調子に乗ったのか、亜衣は更に饒舌になって話を続ける。
「その通り。ちなみにBは、二人でお互いの体を触ってイチャイチャすることだよ。勿論、エッチなところを触ったりするのも含めてね」
「なっ……!?」
行為の場面を想像し、照瑠の顔が思わず赤くなった。照瑠もそういった類の話をまったく知らないわけではなかったが、それでも露骨に口に出して話せるほどの免疫は無い。
やはり、聞かなければよかったと思った時には遅かった。亜衣はますます調子に乗り、既に照瑠の気持ちなどお構いなしである。
「最後にCだけど……これは、ちょっと大声では言えないかな? 具体的には、男の人と女の人が、二人とも服を脱いで裸になって……」
「ス、ストーップ! そこまでよ、亜衣。そんなこと、知らない人のいる前で堂々と話さないでよね!!」
「なんだ、照瑠もわかってるじゃん。だったら、これ以上は言う必要もないね」
「まったくよ……。これ以上言われたら、恥ずかしくてこの場にいられなくなっちゃうじゃない」
同じ高校に通う同級生だというのに、どうして亜衣はこうなのだろう。童顔で低身長にも関わらず、妙な知識だけは人一倍豊富だ。都市伝説くらいならば軽く聞き流せるが、さすがに公衆の面前で下ネタを話すのはやめて欲しい。
亜衣につき合わされて盆踊りに参加してみたが、やはりというか、最後まで彼女に振り回されることとなってしまった。それでも彼女と友達でいられるとは、慣れというのも恐ろしいものである。
明日は詩織の頼みを聞く形で、昼に駅前の甘味屋に行かねばならない。夏休みも半ばを過ぎると退屈してくるなどと言う者もいるが、当分の間、周りは自分を暇にしてくれそうにない。
だが、それでも友人から遊びに誘われたり、あれこれと頼りにされるのは悪い気のするものではなかった。帰り道、戦利品を抱えながら歩く亜衣と別れ、照瑠は妙な充実感を感じていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
翌日、照瑠が駅前の甘味屋についた時には、既に詩織が席を取って待っていた。調度、四人が座れるようになっている、店の中でも一番奥にある席を確保している。
詩織の正面には、長身で気取った感じのない素朴な青年が座っていた。恐らく、あれが彼女の兄だろう。今までも話に聞くことはあったが、こうして会うのは初めてである。
「あっ、九条さん。こっちだよ」
「ごめんね、詩織。ちょっと、遅くなっちゃった」
「別に、それは大丈夫よ。私たちも、今来たばっかりだから」
そう言って、詩織は照瑠を自分の隣の席に座るよう促した。詩織の兄の隣にいる女性と向かい合うような形で、照瑠も甘味屋の席につく。
「それじゃあ、私から紹介しておくわね。こっちが、私のお兄ちゃん。社会人一年目だけど、一応、市内にある大手企業の支社に勤めているの」
「加藤俊介って言います。なんか、妹が変なこと頼んじゃって、すいません……」
年長者であるにも関わらず、俊介と名乗った男は照瑠に申し訳なさそうな顔をして頭を軽く下げた。遠慮がちでありながらも、いやらしさを感じさせない口調だ。素朴で無個性な印象のある外見とは裏腹に、なかなかの好青年である。
「それで、隣にいるのが、お兄ちゃんの彼女の沙耶香さんよ」
「君島沙耶香よ。あなたが九条神社の神主さんの娘さん?」
「はい。九条照瑠っていいます」
「そうなんだ。悪いわね、妙なことに巻き込んじゃったみたいで」
自分の目の前に座る、髪の長い女性。その顔を見た照瑠は、しばし彼女の姿に見とれることになった。
(綺麗な人……)
君島沙耶香と名乗った女性は、女の照瑠でも惚れてしまいそうになるほど美しかった。同年代の少女たちにはない、大人の雰囲気を持っている。
照瑠もクラスメイト達からは大人っぽいと言われるが、それでも沙耶香の美貌には敵わない。その上、詩織の兄の恋人ということから考えると、沙耶香は恐らく二十代前半だろう。未だ子供っぽさが抜けない大人が増えていると言われているが、沙耶香からはそういった類の空気は感じられない。
「どうしたの? 私の顔に、なにかついてる?」
「い、いえ……! なんでもありません!!」
怪訝そうな顔で沙耶香に言われ、照瑠は慌てて答えた。思わず見とれてしまった恥ずかしさから、その頬が一瞬だけ赤く染まる。
(やだ、私ったら……。相手は、女の人なのに……)
初対面の相手に見とれてしまうなど、照瑠にとっては初めてのことだった。それだけに、恥ずかしさもまた倍増してしまう。
「あの……。それで、詩織から聞いた話の件なんですけど……」
見とれてしまったことを悟られてはいまいか。そう思って、照瑠は少々遠慮がちに沙耶香に尋ねた。
「ああ、そうだったわね。簡単な話は詩織ちゃんから聞いていると思うけど……もう一度、詳しく話した方がいいかしら?」
「はい。お願いします」
よかった。どうやら、こちらの考えていたことを悟られている様子はないようだ。
気を取り直し、照瑠は沙耶香の家に出るという幽霊の話を聞くことにした。詩織の口からは幽霊が出るということだけしか聞いておらず、それがどんな霊なのかまでは照瑠も知らない。
「それじゃあ、どこから話したものかしらね、九条さん」
「えっと……。とりあえず、幽霊が出るようになったのは、いつ頃からなんですか?」
「そうね。私が初めて幽霊を見るようになったのは、三日前の夜からなの。火乃澤剣舞を見たその日の晩から、私の寝室に変なものが出るようになったのよ」
そういえば、三日前は火乃澤剣舞が演じられていた日でもある。照瑠も父と一緒に、その剣舞を見に行ったことは記憶に新しい。
「それで……いったい、どんな幽霊なんですか、それは?」
「最初は、金縛りに合って目が覚めるの。どんなに熟睡していても、必ず夜中の二時から三時の間に、目が覚めてしまうのよ」
「夜中の二時から三時……。丑三つ時ですね」
丑三つ時。古来より鬼門の開く時刻とされ、常世と現世が繋がる時間といわれている。そんな時間に決まって金縛りになるとは、早くも話が怪談じみている。
「金縛りになった後は、必ず歌が聞こえてくるわ。童謡で……ほら、なんて言ったかしら。≪後ろの正面だあれ≫って歌詞の……」
「かごめの歌じゃないのかい?」
沙耶香が言葉に詰まったのを見て、俊介が横から代わりに言った。
「そう、それよ。金縛りの後、必ずその、かごめの歌が聞こえてきて……その後、私の頭の上を、何かがぞろぞろと列を成して飛んでいくのが見えるの。真黒くて、影みたいな何かが……ふわふわと飛んでゆくのよ……」
「影、ですか……。それが、沙耶香さんの家に出る幽霊なんですか?」
列を成して飛ぶ影のような幽霊。照瑠は実際に見たことはなかったものの、それがどんな姿なのかは、なんとなくわかったような気がした。影のような姿をした霊的な存在であれば、彼女の身近にいた男と常に一緒にいたものがいる。
四国地方に伝わる憑き物、犬神。犬崎紅が≪黒影≫と呼んでいたそれは、いつもは紅の影として彼に憑いていた。必要に応じて紅の身体から離れ実体化するものの、その姿は黒い流動的な塊が、かろうじて巨大な犬の姿を保っているようなものである。
沙耶香の話にある幽霊は犬神ではないのだろうが、きっと、似たようなものだろう。何度か命を救われたこともあり、黒影には恐怖を感じない照瑠だったが、それでも沙耶香の話した列を成す影のことを思い浮かべると、思わず背中に冷たいものが走った。
「あの、沙耶香さん。その影に、何か心当たりとかはないんですか?」
「それが、残念ながらまったく見当もつかないの。それに、出てくる幽霊は、影だけじゃないのよ」
今までは割と普通に話していた沙耶香が、ふいに視線を照瑠からそらしたて言った。沙耶香の話を信じるならば、どうやら列を成して現れる影も、単なる前座に過ぎないようだ。
「その、列になって現れる影なんだけど……かごめの歌が終わる時、その列の中から女の人が出てくるの。その人が、私の顔をじっと見つめてくるのよね……」
「女の人? それは、影じゃないんですか?」
「ええ、そうよ。最初は他の影と同じなんだけど、列から離れると、少しずつ姿がはっきりしてくるのよ」
「そうなんですか……。それで、その女の人は、沙耶香さんに何かするんですか?」
「いいえ、何もしないわ。あれは、ただじっと私の顔を覗き込んでくるだけよ。それでも、気持ち悪いことには変わりないわね。最初は悪い夢かと思ったけど、三日も同じようなことがあったんじゃ、さすがに私もゆっくりと眠れないわ」
「なるほど……。たしかに、それはそうですね……」
実際に幽霊を見たわけではない照瑠だったが、沙耶香が本気で困っているということだけは理解できた。もし、自分が同じような立場に置かれたら、やはり眠れなくなるに違いない。
睡眠は、人間の疲れを取り除くためにも重要なものである。幽霊の存在に関係なく、三日もまともに眠れていないのでは、ストレスもたまることだろう。
「わかりました。私でお役に立てるかどうかは、正直、自信ありませんけど……できる限り、沙耶香さんの力になりたいと思います。今日のことは、私から、私のお父さんに伝えておきますね」
「本当に? でも……こっちから呼んでおいて、こんなこと言うのもなんだけど……私の家の人が、なんて言うかしら……」
「お家の方、ですか?」
「ええ、そうよ。私の家、変に古臭い考えの持ち主が多いから。それに、妙なところでプライドが高いしね。お父様の許可もなしに神社の神主さんなんて呼んだら、話がこじれるだけかもしれない……」
「お父様……? 許可……?」
照瑠の頭の中で、沙耶香の言った言葉がぐるぐると回りだした。
最初に会った時に感じた雰囲気から、照瑠も沙耶香が育ちの良いお嬢様であることは、なんとなく予想していた。が、しかし、先ほどの沙耶香の言葉から想像するならば、どうやら彼女の実家はかなりの力を持っているようだ。
「あの……。こんなこと聞いて失礼かもしれませんけど……。沙耶香さんのお父さんって、何をされている方なんですか?」
「あら、ごめんなさい。そういえば、私の家のことについて、まだ何も言っていなかったわね」
「はい。あっ、でも、教えていただける範囲で構わないですよ」
「別にいいわ。こっちも、隠すつもりなんてなかったしね。私の家、例の鬼剣舞の演者をやっている家系なのよ。この火乃澤町で君島って言えば、すぐにつながるんじゃないかしら?」
「えっ……! も、もしかして、沙耶香さんの家……あの、五丁目にある大邸宅なんですか!?」
「ええ、そうよ。まあ、大邸宅なんて言っても、実際には広いだけで古臭い作りの日本家屋だけどね」
自分の家柄について、気取ることもなくあっさりと答える沙耶香。それを聞いた照瑠は、しばし言葉を失って茫然としていた。
まったく、今まで話をしていて、なぜ気がつかなかったのだろう。この火乃澤町で君島という名前であれば、あまりに有名な家があるではないか。
いや、きっと、有名だからこそ気がつかなかったに違いない。君島家の名があまりにも大きすぎるが故に、同じ名字を聞いても、すぐにその家と結びつけるような発想が出てこなかったのだ。
「す、すごい……。沙耶香さん、あの君島家の人だったんですね……」
「まあね。でも、別に私はそんなの気にしてないし、あまり恐縮されても困るわよ」
そうは言っても、やはり相手が名家の令嬢となれば、どこか気おくれしてしまうのも事実である。
「なあ、話を戻さないか。幽霊のこと、どうするつもりだい?」
言葉の続かなくなった照瑠に代わり、再び俊介が口をはさんだ。それを聞いて、沙耶香も思い出したように話を戻す。
「ごめんなさいね、変に気を使わせて。それで、幽霊の件なんだけど……やっぱり、実際に見てもらうしかないと思うのよ」
「見てもらう?」
「ええ、そうよ。実は、私の他にも何人か、幽霊を見たっていう人がいるのよね。その人たちの証言と、あなたの証言も合わせれば、さすがにお父様も信じざるを得なくなると思うの。使用人の人達に辞められたら困るのはお父様なんだし、外から来た人間に幽霊が見えたなんてことになったら、妙な噂でも立てられやしないかと心配するわ」
「まあ、確かにそうですね……」
「プライドの高いお父様のことですもの。騒ぎが大きくなる前に、形だけでもお祓いして欲しいって頼むわよ。勿論、外の人には知られないよう、内密にってことになるでしょうけど」
なるほど、大体の話は分かった。どうやら沙耶香の父は、極めて自尊心の高い人間らしい。名家の人間にありがちな、生まれた時から自分が特別な存在だと思い込んでいるようなタイプなのだろう。
「それじゃあ、早速で悪いんだけど……今夜、私の家に来てくれない? 夕方になったら駅前まで迎えに行くから、そこで待ち合わせしましょう」
「わかりました。でも、泊まる準備とかは……」
「ああ、別にそれはいいわよ。私の家、無駄に物が多いから、あなたを手ぶらで一泊させるくらいは簡単よ」
そう言って、沙耶香は照瑠に柔らかな笑みを向けた。名家の令嬢であるが故に、その笑顔にも気品が漂って見える。が、決して近づき難い雰囲気を感じさせるものではない。
その後、照瑠達は甘味屋でそれぞれが食べたいものを注文し、幽霊の話は抜きにして楽しく談笑した。詩織のいる手前、聞きづらい部分もあったものの、俊介と沙耶香の馴れ初めについても少しだけ聞くことができた。
俊介が沙耶香に出会ったのは、彼の通う大学のゼミに沙耶香が顔を出したのが始まりだった。その時、俊介は大学三年。沙耶香は一つ下の二年だった。
もともと、ゼミは三年から出るのが普通である。しかし、中には沙耶香のように早くから教授と知り合いになり、足しげく研究室に顔を出す学生も存在する。そういった者は、二年生の終わり頃から一足先にゼミへ顔を出すことも少なくない。沙耶香もまた、そうした学生の一人だった。
もともと沙耶香は、君島家の名前に縛られるのを嫌っている節があった。親の七光ではなく、自分の力で自立した女性になりたい。そんな気持ちが強かった沙耶香は、同年代の学生と比べても、かなり芯のしっかりとした人間だった。
一方、対する俊介であるが、こちらは一見して平凡を絵にかいたような男である。だが、それでも沙耶香には、彼の自分に対する接し方がとても好感が持てたのだ。
俊介は沙耶香のことを、君島家の人間である前に一人の女性として扱ってくれた。それは、沙耶香が今まで体験したことのない、新しい人間関係だった。
ある男は君島の名に恐れをなして自ら遠ざかってゆき、またある男は、君島の名前を利用しようと、下心丸出しで沙耶香に取り入ろうとしてきた。そんな情けない男たちと比べると、俊介はまさに沙耶香の理想とする男性だったのだ。例えその容姿が、極めて平凡で突出したものがなかったとしても、である。
その後、二人は交際するようになり、それは俊介が大学を卒業した今でも続いている。ただし、二人の関係は、君島家の他の人間には知られていない。
沙耶香の父に限らず、君島家の人間やその関係者達の中には、個人の尊厳よりも家の名前を重視するような輩が多い。それだけに、沙耶香と俊介の関係が許されることは、まずないと考えてよいだろう。
仮に二人の関係が父に知れたらどうなるか、それは沙耶香が一番よく知っている。恐らく、俊介のことを一方的に罵倒して、二度と会えなくさせるに違いない。
それだけならまだしも、政治的な部分にまで手をまわし、俊介の家族がこの火乃澤町にいられなくなるよう仕向けるかもしれない。なにしろ、君島家の名前と親から受け継いだ金の力を、全て自分の力と勘違いしているような男だ。自らの権力を振りかざして優越感に浸るためなら、弱者を容赦なくいたぶるようなことも平気でするだろう。
「まあ、そんな理由だから……僕と沙耶香のことは、あまり大声で言わないで欲しいんだ。なにしろ、今までバレなかったのが奇跡みたいなものだからね。君にそのつもりがなかったとしても、ご近所様の噂話から、全てが壊れてしまうかもしれないんだよ」
周囲の目を気にしながら、全てを話し終えた俊介がこっそりと言った。幸い、この時間に客足は少ないようで、奥の席には照瑠達しかいない。これなら、人に聞かれている心配もないだろう。
「な、なんか、物凄いこと聞いちゃったかも……。こんなこと聞いた後に沙耶香さんの家に行って、大丈夫かな、私……」
「ごめんよ。君を怖がらせるつもりはなかったし、沙耶香のお父さんのことを、あまり悪くも言いたくはないんだ。でも……僕だって、沙耶香と別れるのは辛いからね。幽霊の件だって、本当は僕が行ってなんとかしたいんだけど……さすがに今の状況で、僕が沙耶香の家に行くわけにはいかないからさ」
照瑠に申し訳なさそうな視線を送りながら、俊介は拝むようにして頼み込んだ。こうして見ると、やはり馬鹿がつくくらい丁寧な態度をとる青年だと思う。もっとも、そんな生真面目さと優しさを兼ね備えた裏表のない性格だからこそ、君島家の名前に縛られていた沙耶香には新鮮に映ったのかもしれない。
「それじゃあ、そろそろ行きましょうか。九条さんとは、今日の五時に駅前で待ち合わせってことでいいかしら?」
「はい。私は別に、構いません」
その日の集まりは、そこで一旦終了となった。幽霊の出る家に自ら足を運ぶなど、自分でも奇妙な依頼を引き受けてしまったと照瑠は思った。が、今はそれよりも、沙耶香の住んでいる大邸宅に泊まれるということが、妙に彼女の心を落ち着かせなくさせていた。
(沙耶香さんの家……。いったい、どんなすごいところなんだろう……)
友人の相談から始まった、奇妙な幽霊事件。その時は、大邸宅に泊まる口実程度にしか考えていなかった。そのことが、照瑠自身を呪われし闇の入口へと誘うことになろうなど、この場にいる誰もが考えてもいないことだった。