冷酷公爵、猫の恋愛指南を真に受けないでください
冷酷公爵が、私の飼い猫に求婚の相談をしていた。
「彼女を妻に迎えたい」
『なら魚を出せ』
「だが、私を見ると必ず目をそらす。嫌われている可能性が高い」
『話を聞いてほしければ魚を出せ』
「残された時間は三日しかない」
『私の我慢もそろそろ限界だぞ』
庭園の生け垣を挟み、公爵と猫の会話がまったく成立していない。
もちろん、アーヴィン・クロイツ公爵に聞こえているのは「ニャア」という鳴き声だけだ。
動物の言葉が分かるのは、私だけなのだから。
「なるほど」
何がなるほどなのだろう。
公爵は私の飼い猫ノアールの前へ片膝をついたまま、真剣な表情で考え込んだ。
「まずは贈り物をするべきだと」
『一言もそんなことは言っていない』
「彼女は何を喜ぶだろうか」
『魚だ』
「魚か」
『新鮮で大きいものがいい』
「高価な宝石より、皆で楽しめる食材のほうが相手へ負担を感じさせないということだな」
『この男、勝手に話を進める才能だけはあるな』
危うく笑い声が漏れそうになり、私は両手で口を押さえた。
見つかってはいけない。
私には動物の言葉が分かる。そんなことを知られれば、変わり者として避けられるだけならまだいい。人の秘密を動物から聞き出せるかもしれないと考える者が現れれば、穏やかには暮らせなくなる。
家族以外には隠してきた能力だ。
ましてや、今聞いているのは公爵の恋愛相談である。
「彼女は動物に好かれる」
『私の飼い主も好かれるぞ』
「青い瞳が美しい」
『飼い主も青いな』
「私の妹にも、よくしてくれている」
『お前の妹というのは、毎日私の昼寝を邪魔する小娘か?』
「家庭教師としての契約は、あと三日で終わる」
『飼い主の話ではないか』
私もそう思う。
動物に好かれ、青い目をしていて、公爵の妹セシルの家庭教師を務め、三日後に屋敷を去る予定の令嬢。
どう考えても、私だった。
「彼女が帰る前に、少なくとも私の気持ちは伝えたい」
『なら本人に言え』
「しかし、迷惑だと言われたら」
『だから本人に聞け』
「急に求婚すれば、怖がらせるだろうか」
『お前は私の話を聞く気があるのか?』
いつも無表情な公爵の横顔が、今だけはひどく弱々しく見えた。
けれど、信じられない。
アーヴィン公爵は私と顔を合わせても、ほとんど話さないのだ。
朝の挨拶には「ああ」。
セシルの授業について報告すれば「承知した」。
夕食では一度もこちらを見ない日すらある。
用事があっても、必ず執事を通して伝えてくる。
私はずっと、彼に嫌われていると思っていた。
『おい、飼い主』
いつの間にかノアールが生け垣をくぐり、私の足元に来ていた。
『盗み聞きとは趣味が悪いぞ』
「あなたが公爵から相談料を取ろうとするからでしょう」
『私は正当な報酬を要求しただけだ』
「公爵が好きなのは、本当に私なの?」
『人間の雌の区別など、私にはつかん』
「青い目で、動物に好かれて、セシルの家庭教師をしている人よ」
『お前だな』
「やっぱり」
『あの男は、お前を見ると石像のようになる』
「それ、嫌われているのではなく?」
『嫌いな相手との結婚を、毎朝猫に相談する人間がいるのか?』
「毎朝?」
『四日前からだ。相談料を踏み倒されている』
知らなかった。
私の滞在期間が残り一週間を切った頃から、公爵は毎朝ノアールに相談していたらしい。
本人へ話しかける勇気はないのに、猫には毎日話している。
『それで、魚はいつ届く』
「届かないと思うわ」
『あの男は魚と言ったぞ』
「ノアールが魚と鳴いたことは、公爵には分からないでしょう」
『目を見れば伝わる』
「あなた、さっき公爵を見ないで毛づくろいしていたわよ」
『では、動きで伝わる』
「香箱座りしていただけでしょう」
『魚を待つ姿勢だ』
私がノアールを連れて部屋へ戻って一時間後、巨大な魚が届いた。
「こちらを、私に?」
「はい。公爵からのお届け物です」
二人の使用人に担がれた銀色の魚は、私の腰から下ほどの長さがあった。
贈り物というより、大海原から引き揚げた戦利品である。
添えられたカードには、公爵の端正な字で一行だけ記されていた。
『負担にならず、皆で楽しめるものを選んだ』
『見込みのある男だ』
ノアールは魚の周囲をうれしそうに歩いている。
「あなたの要求が通っただけでしょう」
『公爵はあれだけ私に相談した。半分は私のものだ』
「一口で十分よ」
『横暴な飼い主め』
一人では食べきれないので、魚は厨房へ運んでもらった。
その夜、私は勇気を出して公爵を夕食へ誘った。
もらった魚を一人で食べるのは不自然だから。
あくまで、それだけの理由だ。
「兄上が女性へ贈り物をするなんて、初めてではありませんか?」
食卓でセシルが楽しそうに言った。
公爵の手が止まる。
「食材を届けただけだ」
「食材を贈るにしても、限度があると思います」
「小さいよりはよいだろう」
「贈り物は大きければよいというものではありません」
「そうなのか」
公爵は本気で驚いていた。
やはり猫より先に、妹へ相談するべきだったと思う。
「リディア嬢」
「はい」
「迷惑だっただろうか」
初めて、公爵が私の反応を尋ねた。
「驚きはしましたが、迷惑ではありません。こうして皆でいただけましたから」
「そうか」
公爵が私を見た。
目が合う。
けれど、彼はすぐに顔をそらした。
目をそらしているのは、私だけではなかったらしい。
「魚はお好きなのですか?」
「特別好きというわけではない」
『私は大好きだぞ』
卓の下では、ノアールが厨房から分けてもらった魚を食べている。
「では、なぜ魚を?」
「信頼できる相手からの助言だ」
信頼できる相手は、魚へ夢中で公爵など見ていなかった。
「その方は、恋愛に詳しいのですか?」
「おそらく」
『当然だ』
「そうは思えませんけれど」
「なぜ分かる?」
「なんとなくです」
公爵は私をじっと見た。
私は何も知らない顔でスープを口へ運ぶ。
『味が薄い』
足元からノアールの声がした。
翌日、図書室で本を読んでいると、公爵が入ってきた。
「隣を借りても?」
「もちろんです」
長椅子には十分な空間があった。
それなのに公爵は、私のすぐ隣へ座った。
近い。
肩が触れそうなほど近い。
私は少し横へ移動した。
公爵も同じだけ近づいてきた。
もう一度離れる。
また近づく。
「あの、公爵」
「何だろう」
「少々、近くありませんか?」
「そうだろうか」
「そちらに空間がありますけれど」
「ここで問題ない」
「私には少し問題があります」
公爵が固まった。
「すまない」
即座に離れようとしたので、私は反射的に彼の袖をつかんだ。
「嫌という意味ではありません。ただ、理由が気になっただけです」
「理由」
「はい」
公爵はしばらく黙っていた。
「言葉がなくても、そばにいることには意味があるらしい」
「それも、信頼できる方からの助言ですか?」
「ああ」
棚の下からノアールが顔を出した。
『昨日、あの男が私の昼寝場所を占領していたから、隣の椅子へ移っただけだ』
やはり、一言も助言していない。
公爵が猫の行動を勝手に解釈しただけだ。
「その方は、そばにいればよいとおっしゃったのですか?」
「言葉はなかった」
「では、公爵がそう解釈したのですね」
「何か間違っているだろうか」
私は少し迷った。
「少なくとも、相手が嫌がっていないかは確認したほうがよいと思います」
公爵の表情が硬くなる。
「嫌なのだろうか」
「いいえ」
「では、このままで?」
「どうぞ」
公爵の肩から、わずかに力が抜けた。
私たちは並んで本を読んだ。
会話はない。
けれど、頁をめくる音だけが続く時間は、不思議と心地よかった。
「この距離は、本当に嫌ではない?」
公爵が小さく尋ねた。
「はい」
「そうか」
短い返事だった。
けれど、これまで聞いたどの「そうか」よりも柔らかかった。
その日の午後、公爵から香水が届いた。
蓋を開けた瞬間、落ち着いた樹木と薬草の香りが広がる。
彼が普段使っているものと同じ香りだった。
『昨日、あの男がまた来たぞ』
窓辺で寝ていたノアールが片目を開ける。
「今度は何を相談されたの?」
『自分を覚えてもらうには、どうすればよいかと』
「それで?」
『あの男の上着は手触りがよかったから、私のものにしようと体をこすりつけた』
「公爵は、自分の匂いがするものを贈れと解釈したのね」
『私は上着を寄越せと言った』
「伝わっていないのよ」
『猫の意図を読み取れないとは、困った男だ』
それでも私は、香水を手首へ少しだけつけた。
同じ香りを使うことの意味を、公爵は知らないのだろう。
けれど、私は知っている。
社交界では、特別に親しい男女が互いの香りを贈ることがある。
昼食の席で、公爵はすぐに気づいた。
「使ってくれたのか」
「はい。気に入りましたので」
「そうか」
彼の耳が赤くなった。
セシルが私と公爵を見比べ、目を丸くする。
「兄上、リディアさんへご自分と同じ香りを贈ったのですか?」
「ああ」
「その意味をご存じで?」
「自分を思い出してもらいやすいそうだ」
「どなたから聞いたのです?」
「信頼できる相手だ」
『私だな』
ノアールは誇らしげだった。
「兄上。その贈り物が社交界で持つ意味を、あとで私から説明します」
「今ではいけないのか」
「リディアさんの前では、少々」
午後には説明を受けたらしい。
廊下で顔を合わせるなり、公爵は私へ深々と頭を下げた。
「申し訳ない」
「香水のことですか?」
「あの贈り物が示す意味を、私は知らなかった」
「そうでしょうね」
「すぐに処分して構わない」
「気に入っています」
「しかし」
「私が意味を知ったうえで使ったとは、お考えにならないのですか?」
公爵が動かなくなった。
冷酷公爵と恐れられる男性が、子どものように何度も瞬きをしている。
私はそれ以上説明せず、彼の横を通り過ぎた。
振り返ることはできなかった。
真っ赤になっているのは、きっと私も同じだったから。
翌日の午後、従兄のエリオットが屋敷を訪れた。
「久しぶり、リディア」
「迎えは明後日の朝ではなかったの?」
「叔父上に頼まれてね。今夜は町の宿に泊まるつもりだ」
明後日の朝。
予定どおりなら、私はこの屋敷を去る。
公爵から巨大な魚を贈られても。
同じ長椅子で本を読んでも。
同じ香りをまとっていても。
本人から何も言われなければ、それで終わりだ。
「リディア嬢」
背後から低い声がした。
公爵が立っていた。
いつもどおり無表情だが、なぜか空気が冷たい。
「そちらは?」
「従兄のエリオットです。私を迎えに来てくれました」
「エリオット・フェルゼンです。リディアが世話になりました」
「まだ契約期間は終了していない」
「承知しています。今日は挨拶に伺っただけです」
「そうか」
公爵は私とエリオットの間へ立った。
広い玄関広間で、わざわざそこを選ぶ理由はない。
「客室を用意しよう」
「いえ、宿を取っていますので」
「当家の客人を宿へ泊めるわけにはいかない」
「ですが」
「部屋は余っている」
公爵が手を上げると、使用人がエリオットの荷物を受け取った。
公爵の視線は、ずっとエリオットへ向いている。
その足元では、ノアールが窓の外にいる白い雄猫へ威嚇していた。
『また来たな。ここは私の縄張りだぞ』
公爵がノアールを見た。
窓の外の白猫を見る。
次に、私の隣にいるエリオットを見た。
嫌な予感がした。
「エリオット殿」
「はい」
「東部の鉱山へ興味は?」
「ありませんが」
「よい職がある」
「私は職探しに来たのではありません」
「王都から遠く、空気もよい」
「遠ざけようとしています?」
エリオットはあきれたように私を見た。
私は思わず口を挟んだ。
「公爵。ノアールは、ほかの男性を遠くへ追いやれとは言っていません」
沈黙が落ちた。
公爵が私を見る。
ノアールも私を見る。
『ついに言ったな』
「今、何と?」
「いえ」
「この猫が何を言ったか、君には分かるのか」
「まさか」
「魚を贈ったときも、隣へ座ったときも、香水を贈ったときも、君は私の意図を先に知っているようだった」
「偶然です」
『下手な嘘だ』
「リディア嬢」
公爵が一歩、私へ近づく。
「君はいつから、私とこの猫の話を聞いていた?」
逃げられない。
私は小さく息を吸った。
「最初からです」
「最初」
「私があなたを見ると目をそらすので、嫌われているのではないかと相談していたところから」
公爵の顔から、すべての表情が消えた。
片手で顔を覆う。
「忘れてくれ」
「嫌です」
「頼む」
「魚もうれしかったですし、隣で本を読んだことも、香水も、すべて忘れたくありません」
覆っていた手が、ゆっくり下りる。
「うれしかった?」
「はい」
「では、エリオット殿と帰るのは」
「従兄です」
「親しい男性であることには変わりない」
「私のことを、ノアールへ毎朝相談するほどお好きなのですか?」
公爵は答えなかった。
目をそらす。
猫へはあれだけ話せるのに、私には何も言ってくれない。
胸の奥へ、わずかな寂しさが広がった。
「公爵。ノアールの言葉は、あなたには一度も伝わっていません」
「では、私はずっと間違えていたのか」
「ノアールは魚を要求しただけです。隣の椅子へ座ったのは、そこが暖かかったから。上着へ体をこすったのは、自分のものにしたかったからです」
「ほかの男を追い払えというのも?」
「庭へ来た白猫へ威嚇していただけです」
『あの白い奴は油断ならん』
「ノアールは、あの白猫は油断ならないと言っています」
「そうか」
「そこは納得なさるのですね」
公爵は深いため息をついた。
「私は、猫にすら相談できていなかったのか」
「一方的に話していただけですね」
「最悪だ」
「いいえ」
私は首を横へ振った。
「ノアールの返事は、何一つあなたへ伝わっていません。それでも、あなたは魚を選び、私のそばへ座り、香水を贈った」
「猫の行動を参考にしただけだ」
「本当に、したくないことを猫の仕草だけで実行できますか?」
公爵が黙り込む。
「あなたは最初から、ご自分がしたかったことを、ノアールの助言ということにしていただけではありませんか?」
「私は」
そのとき、庭園から雷鳴が響いた。
ノアールが飛び上がり、開いていた扉から外へ駆け出す。
「ノアール!」
私はあとを追った。
「待て、リディア嬢」
「雷が苦手なんです」
雨が降り始めた。
公爵は追いつくと、自分の上着を私の肩へかけた。
「人を集める」
「知らない人が呼んでも、出てきません」
「では、私も捜す」
「お召し物が汚れます」
「君もだ」
二人で雨の庭園を走った。
茂みの下。
噴水の陰。
庭師の道具小屋。
公爵は私より先に泥へ入り、低木の中を探した。
「ノアール!」
いつも体裁を崩さない彼が、ずぶ濡れになって私の猫を呼んでいる。
やがて、庭園の奥にある古い温室から声が聞こえた。
『早く開けろ。足が濡れた』
「いました!」
温室の扉は風で閉まり、外側の壊れた鉤が引っかかっていた。
公爵が扉を開ける。
ノアールが飛び出し、私の腕へ収まった。
『遅いぞ』
「心配したのよ」
『私は少し雨宿りをしようとしただけだ』
「閉じ込められたのでしょう」
『不可抗力だ』
安堵した途端、足から力が抜けた。
公爵が私の肩を支える。
「無事でよかった」
「ありがとうございます」
「何と言っている?」
「遅い、と」
「生意気な猫だ」
『聞こえているぞ』
「ノアールも聞こえているそうです」
「それは困る」
私たちは顔を見合わせた。
公爵の前髪から、雨粒が落ちる。
「君の力を知ってしまった」
「はい」
「公表するつもりはない」
「よろしいのですか?」
「君が隠してきたものを、私が明かす理由はない」
「ありがとうございます」
「ただし」
公爵は腕の中のノアールを見た。
「今まで猫へ話したことも、忘れてほしい」
「それはできません」
「なぜ」
「本人の口から聞くまでは、忘れることも信じることもできませんから」
公爵の表情が固まる。
「あなたがノアールへ話していた相手は、本当に私ですか?」
答えを知りながら尋ねた。
猫を通した答えではなく、彼自身の言葉が欲しかった。
「私が屋敷を去ることを、寂しいと思ってくださっていますか?」
公爵は口を開き、閉じた。
ノアールがあくびをする。
『本人へ言えと、最初から教えてやったのに』
「ノアールが、本人へ言えと最初から教えた、と言っています」
「そこだけ通訳するのか」
「重要ですので」
「君は、私に残酷だな」
「冷酷公爵に言われるとは思いませんでした」
「その呼び名は好きではない」
「では、別の呼び名を教えてください」
「アーヴィンと」
雨音の中でも、その声だけは明瞭に聞こえた。
「私を、アーヴィンと呼んでほしい」
私は彼を見上げた。
「アーヴィン」
「ああ」
「私は明後日、この屋敷を去ります」
「帰ってほしくない」
「なぜです?」
「君が好きだ」
猫へ話していたときより、ずっと短い。
けれど、その一言だけで十分だった。
「君に好かれる方法を知りたかった。だが、話しかければ失敗する。迷惑だと言われるのが怖かった。それで猫に相談した」
『相談料はまだ足りんぞ』
「ノアールは、相談料が足りないそうです」
「魚ならいくらでも用意する」
『やはり見込みのある男だ』
私は笑った。
アーヴィンの緊張した顔が、少しだけ緩む。
「リディア。君の言葉も聞かせてほしい」
「私も、あなたが好きです」
「本当に?」
「はい。ただし、あなたのことをまだ十分には知りません」
「それは私も同じだ」
「ですから、すぐに結婚のお返事はできません」
「分かった」
あまりに素直に引き下がるので、私は彼の袖をつかんだ。
「ですが、もう少しこの屋敷にいたいと思っています」
「それは」
「あなたのことを知るために」
アーヴィンは、しばらく何も言わなかった。
「猫に相談したい」
「駄目です」
「今のは冗談だ」
「冗談を言えるのですね」
「君の前では、これから練習する」
彼は私の手を取った。
「まず、何をすればよい?」
「私を見たら目をそらさないでください」
「努力する」
「用事は執事ではなく、ご自分で伝えてください」
「分かった」
「贈り物は、何が欲しいか尋ねてください」
「ああ」
「魚は、もう少し小さくしてください」
「魚は必要なのか?」
「ノアールには」
『毎日でもよいぞ』
「毎日ほしいそうです」
「用意しよう」
「甘やかさないでください」
『余計なことを言うな』
アーヴィンは私の手を持ち上げ、指先へ触れるだけの口づけを落とした。
「明後日、君を帰さなくてもよいだろうか」
「家庭教師としての契約は、明日で終わります」
「別の契約を用意する」
「どのような?」
「婚約者として」
「気が早いです」
「では、交際を申し込む」
「それなら、お受けします」
アーヴィンが微笑んだ。
その顔を見られただけで、猫への相談を盗み聞きした罰は十分に受けた気がした。
翌朝、アーヴィンは執事を通さず、自分で私の部屋を訪れた。
「朝食に誘いに来た」
「ありがとうございます」
「それと、セシルへ説明したい」
「私も一緒に参ります」
「昨夜のことを、どこまで話せばよいだろう」
「猫へ四日間も恋愛相談をしていたことから、すべてでは?」
「それだけは避けたい」
「では、ご自分でお考えください」
「厳しいな」
「アーヴィンのためです」
名前を呼ぶと、彼は少しうれしそうにした。
たった一日で、ずいぶんな進歩だった。
「ところで、アーヴィン」
「何だろう」
「後ろの猫たちは?」
廊下には、十匹以上の猫が並んでいた。
白、黒、灰色、茶色。
屋敷で見たことのない猫までいる。
先頭にはノアールがいた。
『連れてきた』
「なぜ?」
『この男について歩けば魚が出ると教えた』
アーヴィンは猫の大群を見下ろした。
「私が猫に好かれるようになったということだろうか」
「少し違うと思います」
「何と言っている?」
「ご自分でお考えください」
アーヴィンはしばらく真剣に考えた。
「魚を用意すればよいのか」
『正解だ』
「正解だそうです」
「では、厨房へ頼もう」
アーヴィンが歩き出すと、猫たちが一斉についていく。
冷酷公爵と恐れられる長身の男性が、十数匹の猫を引き連れて廊下を進んでいた。
私は笑いながら、その隣へ並ぶ。
彼は私を見た。
今度は、目をそらさなかった。
「リディア」
「はい」
「君が笑ってくれるなら、魚で済むのは安いものだ」
『今のは私の助言ではないぞ』
「分かっています」
「ノアールは何と?」
「秘密です」
これからは、彼が猫へ一方的に相談する必要はない。
私に聞けばいい。
そして私も、分からないことは彼に聞こう。
もっとも、魚に関する相談だけは、今後もノアールへ任せたほうがよさそうだった。
長編も投稿しています。
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