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あの日、耳元で砕けた恋の音を、僕はまだ覚えている

作者: 赤城一
掲載日:2026/06/14

あの日、耳元で砕けた恋の音を、僕はまだ覚えている


第1話 まぶしさに負けた最初の恋

四月の風はまだ少し冷たかった。

今の高校生なら信じられないかもしれないが、あの頃は入学前にクラス名簿を見ることもできなかった。携帯電話もなければSNSもない。誰と同じクラスになるのかは、当日の掲示板を見るまで分からない。

だから高校生活の最初の日は、ちょっとした運命の日だった。

都立赤城高校の正門をくぐったとき、僕の頭の中には一人の少女の姿しかなかった。

入学手続きの日。

体育館へ向かう渡り廊下で見かけた少女だ。

色白だった。

それだけなら珍しくない。

でも、その横顔には妙な静けさがあった。

周囲がざわついているのに、その子だけ別の時間を生きているように見えた。

友達と騒ぐわけでもない。

誰かの気を引こうとするわけでもない。

ただ春の光の中に立っていた。

たったそれだけなのに、僕は目を離せなかった。

名前も知らない。

声も聞いていない。

それでも高校生活が始まる前から、その子のことばかり考えていた。

――もう一度会えたらいいな。

そんなことを思いながら掲示板へ向かった。

人だかりの中で自分の名前を探す。

一年四組。

赤城 一。

あった。

ほっとしたのも束の間だった。

そのすぐ近くにある別の名前へ視線が吸い寄せられる。

荒木郁恵。

胸がどくりと鳴った。

どこかで見た名前ではない。

なのに、なぜか気になった。

教室へ向かう。

期待しないようにしながら。

でも期待してしまいながら。

教室の引き戸を開けた瞬間だった。

窓際の席に、その子がいた。

思わず立ち止まった。

あの日の少女だった。

春の日差しを受けながら、静かに文庫本を読んでいる。

周囲では自己紹介が始まり、席替えの話で盛り上がっている。

なのに彼女だけは落ち着いていた。

まるで長い間ここにいた人のように。

――同じクラスだ。

胸が熱くなった。

高校生活の運を全部使い果たした気がした。

席についてからも、何度も視線を向けてしまった。

かわいい。

もちろんそう思った。

でも今振り返ると、それだけではなかった。

彼女は高校一年生に見えなかったのだ。

いや、年齢ではなく空気が。

僕たち男子は新しい制服に浮かれ、新しい友達づくりに必死だった。

僕もその一人だった。

なのに荒木郁恵だけは違った。

自分がどう見られるかを気にしていないように見えた。

その落ち着きがまぶしかった。

僕にはなかったものだった。

昼休み。

何度も話しかけようと思った。

「その本、面白い?」

たったそれだけでいい。

でも立ち上がれない。

もし迷惑そうな顔をされたらどうしよう。

もし変な奴だと思われたらどうしよう。

今なら笑ってしまう。

たった一言だ。

話しかければよかっただけだ。

でも十五歳の僕には、その一言が富士山より高かった。

放課後。

教室の前で靴を履き替えていると、後ろから声がした。

「赤城くん?」

振り向く。

荒木郁恵だった。

頭が真っ白になった。

「同じクラスだね。よろしく」

彼女はそう言って軽く笑った。

大げさではない。

愛想笑いでもない。

本当に自然な笑顔だった。

「あ……うん。よろしく」

それしか言えなかった。

本当は聞きたいことが山ほどあった。

何の本を読んでいたのか。

どこの中学だったのか。

好きな音楽は何か。

でも全部消えた。

彼女は軽く会釈して帰っていった。

残された僕は、廊下の真ん中でしばらく動けなかった。

帰り道。

神田川沿いの桜が風に揺れていた。

僕は何度も今日の出来事を思い返した。

今なら分かる。

あのときの僕は、嫌われるのが怖かったわけではない。

本当は違う。

彼女の前で、自分の小ささを思い知らされるのが怖かったのだ。

荒木郁恵は特別なことを何もしていない。

ただ自然にそこにいただけだった。

でも僕には、その自然さがまぶしかった。

だから近づけなかった。

僕の高校生活最初の恋は、

「言えなかった恋」

ではなく、

「まぶしさに負けた恋」

だったのだと思う。

そのときは、まだ気づいていなかったけれど。


第2話 指揮台の白いブラウスと、卑怯な僕

高校生活が始まって一か月ほど経った頃だった。

五月の風はまだ爽やかで、校舎の窓を開けると若葉の匂いが流れ込んできた。

その頃の僕には、ひとつだけ困ったことがあった。

荒木郁恵のことが気になりすぎていたのである。

教室に入るたびに探してしまう。

授業中も横顔を見てしまう。

話しかけようと思ってはやめる。

そんな毎日だった。

もちろん進展など何もなかった。

今思えば、進展させようという努力すらしていなかった。

そんなある日。

担任が教壇を叩いた。

「来月の合唱祭な。指揮者を決めるぞ」

教室がざわつく。

すると後ろの方から声が上がった。

「森がいいんじゃない?」

「あー、森な」

「確かに」

みんなが一斉に振り向いた。

窓際の席にいた女子が驚いたように顔を上げた。

森今日子だった。

肩まで伸びた髪。

少し大きな瞳。

派手ではない。

けれど目を引く。

そんな女子だった。

「えっ、私?」

「森、ピアノ習ってるんだろ?」

「指揮できそうじゃん」

押し切られるようにして、森は指揮者に決まった。

「うまくできるかな……」

不安そうに笑う姿を見て、僕は少し驚いた。

もっと自信のある人だと思っていたからだ。

◆指揮者の苦労

合唱祭の練習が始まると、森は予想以上に苦労していた。

「男子、もう少し声出して!」

「そこ、音が違う!」

何度言ってもまとまらない。

特に男子はひどかった。

ふざける奴もいる。

歌わない奴もいる。

森は毎日必死だった。

ある日の放課後。

教室に忘れ物を取りに戻ると、森が一人で楽譜を見ていた。

夕日が差し込む教室。

誰もいない。

話しかけるなら今だった。

「大変そうだね」

たったそれだけでいい。

でも僕は教室の入口で立ち止まった。

森は真剣な顔で楽譜を見ている。

その横顔は思った以上にきれいだった。

そして同時に、近寄りがたかった。

結局、何も言わずに引き返した。

廊下を歩きながら思った。

――何やってるんだ。

でも戻れなかった。

◆本番前日

合唱祭の前日。

森はクラス全員を集めた。

「お願いがあります」

いつもより小さな声だった。

教室が静かになる。

「私、指揮なんてやったことないし、たぶん下手です」

みんなが顔を見合わせた。

「でも、せっかくならいい合唱にしたいんです」

少し間があった。

「だから協力してください」

深々と頭を下げた。

その瞬間だった。

教室の空気が変わった。

誰かが拍手した。

それが広がった。

僕も拍手した。

森は顔を上げて笑った。

その笑顔を見て胸が熱くなった。

きれいだからじゃない。

頑張っているからだった。

◆合唱祭当日

体育館には緊張が漂っていた。

森は指揮台に立っていた。

いつもの制服ではなく、白いブラウス姿だった。

でも印象に残ったのは服ではない。

表情だった。

怖そうだった。

逃げ出したそうだった。

それでも立っていた。

僕たちの前に。

タクトが上がる。

演奏が始まる。

森は必死だった。

腕を振り。

目で合図を送り。

全身で音楽を引っ張っていた。

その姿に僕は見入った。

荒木郁恵を見ている時とは違う。

もっと苦しくて、もっと温かい感情だった。

演奏が終わる。

最後の音が消えた瞬間、体育館に拍手が響いた。

森は小さく息を吐いた。

そして安心したように笑った。

その笑顔を見た時。

僕は恋をしたのだと思う。

◆終わったあと

結果は入賞だった。

クラスは大騒ぎだった。

森はみんなに囲まれていた。

「森、ありがとう!」

「指揮よかったぞ!」

「泣きそうになったわ」

笑顔があふれていた。

僕も近くまで行った。

言おうと思った。

「お疲れさま」

たったそれだけ。

でも言えなかった。

森の周りには人がいた。

違う。

本当は違う。

人がいたからじゃない。

勇気がなかっただけだ。

また逃げたのだ。

◆帰り道

夕焼けの中を歩きながら、僕は妙に落ち込んでいた。

森と付き合いたかったわけではない。

告白しようと思ったわけでもない。

それでも胸が痛かった。

なぜだろう。

四十年以上経った今なら分かる。

あの時の痛みは失恋ではなかった。

後悔だった。

話しかけられる場面があった。

近づける瞬間もあった。

それなのに僕は、自分から逃げた。

森今日子は、僕を振ったわけではない。

僕が勝手に諦めただけだった。

だからこの恋は、

「言えなかった恋」ではなく、

「自分の卑怯さを知った恋」

として今も記憶に残っているのである。



第3話 静かな図書室と、麦茶の紙コップ

二年生になった。

クラス替えの季節だった。

春休みの間は少しだけ期待していた。

新しいクラスになれば、

何かが変わるかもしれない。

高校生とはそういう生き物である。

だが実際は、

人間は簡単には変われない。

森今日子のことがあってから、

僕は少し臆病になっていた。

もちろん告白したわけではない。

振られたわけでもない。

何かが始まったわけですらない。

それでも僕の中には、

小さな敗北感だけが残っていた。

彼女は明るく、

誰とでも自然に話せた。

一方の僕は、

遠くから見ていることしかできなかった。

その差を勝手に思い知らされた気がしていた。

だから二年生になった僕は、

好きな子ができても、

どうせ無理だろうと思う癖がついていた。

傷つかないための予防線だったのかもしれない。

そして新しい教室で、

新治玉江とに出会った。


高校一年の夏が近づいていた。

合唱祭が終わり、クラスの空気も少し落ち着いてきた頃だった。

僕は相変わらずだった。

荒木郁恵のことが気になったり、

森今日子のことを思い出して落ち込んだり。

忙しいようで何も起きていない毎日だった。

そんなある日。

担任が言った。

「図書委員、一人足りないな」

教室が静まり返る。

誰も手を挙げない。

当然だ。

放課後を潰してまでやりたい仕事ではない。

すると担任が僕を見た。

「赤城、お前どうだ?」

突然だった。

断る理由も思いつかない。

「……いいですよ」

そう答えた。

今思えば、その返事が一つの出会いにつながった。

◆新治玉江

放課後。

図書室へ向かうと、すでに女子生徒が一人来ていた。

「よろしくお願いします」

先に頭を下げたのは彼女だった。

新治玉江。

同じ学年だったが、クラスは違う。

小柄で、髪は肩の少し上。

派手さはない。

廊下ですれ違っても気づかないかもしれない。

そんな印象だった。

「赤城です。よろしく」

それだけの挨拶だった。

でも不思議だった。

話しやすかった。

初対面なのに緊張しない。

荒木郁恵の時のような胸の高鳴りもない。

森今日子のような眩しさもない。

ただ落ち着いた。

◆図書室の午後

昭和の図書室は静かだった。

エアコンもない。

扇風機がゆっくり回り、

窓の外から野球部の声が聞こえてくる。

僕と新治は貸出カードを整理していた。

「赤城くんって野球部なんだね」

「うん」

「大変そう」

「まあね」

会話は短い。

でも不思議と途切れない。

新治は人の話を聞くのがうまかった。

相づちが自然だった。

自分の話ばかりしない。

だから話していて楽だった。

ある日。

僕が野球部の練習で疲れ切って図書室に行くと、

机の上に紙コップが置かれていた。

「麦茶?」

思わず聞いた。

新治が少し笑った。

「顔が疲れてたから」

「ありがとう」

たったそれだけだった。

でも胸の奥が温かくなった。

◆誰かが見てくれている

高校生の僕は単純だった。

部活では怒られる。

家では勉強しろと言われる。

背も低い。

顔にも自信がない。

そんな劣等感ばかり抱えていた。

だからだろう。

誰かが自分を気にかけてくれることが嬉しかった。

新治は特別なことをしない。

でも気づく。

暑そうなら窓を開ける。

重そうなら荷物を持つ。

落ち込んでいれば声をかける。

それが自然だった。

ある日、

僕は図書室の本棚で足をぶつけた。

「痛っ」

情けない声が出た。

すると新治が駆け寄ってきた。

「大丈夫?」

本気で心配そうな顔だった。

その時だった。

胸が少しだけ鳴った。

――あれ?

と思った。

◆夏の終わり

図書委員の仕事は夏休み前で終わった。

最後の日。

返却された本を棚に戻しながら、

僕は妙に寂しかった。

新治も同じだったのかもしれない。

「なんだか終わると早いね」

そう言った。

「うん」

僕は頷いた。

窓の外では蝉が鳴いていた。

夕方の光が図書室を赤く染めている。

「赤城くん、野球頑張ってね」

新治が言った。

「新治さんも」

それ以上の言葉は出なかった。

帰り際、

新治は軽く手を振った。

「じゃあね」

「うん」

それだけだった。

本当にそれだけだった。

◆四十年後に分かったこと

あの頃の僕は、

新治玉江のことが好きだと思っていた。

たぶん本気でそう思っていた。

でも今なら少し違う見方もできる。

僕は恋をしていたのだろうか。

それとも、

優しくしてくれる人に救われていただけなのだろうか。

答えは今でも分からない。

ただ一つだけ分かる。

あの夏、

僕は新治玉江という少女のおかげで少しだけ自分を好きになれた。

だから今でも覚えている。

彼女の笑顔を。

麦茶の入った紙コップを。

静かな図書室の匂いを。

この恋は、

「告白できなかった恋」ではない。

「優しさを恋だと思い込んだ恋」

だったのかもしれない。

そしてそれは、

十五歳の僕には必要な恋だったのである。



第4話 夕焼けの片付け、いちばん惜しかった一言

高校二年の春。

クラス替えの掲示板を見たとき、僕は少しだけ期待していた。

荒木郁恵とは別のクラスになった。

森今日子とも会わなくなった。

新治玉江とも図書委員が終わって以来ほとんど話していない。

高校生活は思った以上に人との距離が変わる。

だから新しいクラスに何を期待していたのか、自分でもよく分からなかった。

ただ、そこに神原恵美がいた。

◆誰とでも仲良くなる子

「赤城くん、おはよう!」

最初に話しかけてきたのは恵美だった。

まだ四月だ。

席も近くない。

なのに昔からの友達みたいに話しかけてくる。

「お、おはよう」

「野球部なんだよね?」

「うん」

「すごいね!」

屈託がない。

裏表もない。

誰に対しても同じだった。

男子とも女子ともすぐ仲良くなる。

今なら分かる。

恵美は特別に優しいのではない。

人との距離を作らない人だったのだ。

でも当時の僕には分からなかった。

だから勘違いする。

もしかしたら僕に気があるのではないか、と。

◆文化祭準備

文化祭の準備が始まった。

放課後になると教室には木材や絵の具の匂いが広がる。

スマホもない時代だった。

放課後こそが青春だった。

みんなで残って作業する。

それだけで特別だった。

恵美は中心にいた。

「男子ー! ちゃんと働いてー!」

「赤城くん、その板持って!」

「ありがとう!」

誰よりもよく笑った。

誰よりもよく動いた。

そして誰よりもみんなに好かれていた。

ある日の帰り道。

駅までの道が偶然一緒になった。

「赤城くんってさ」

恵美が言った。

「優しいよね」

「そんなことないよ」

「あるよ」

即答だった。

「私、ちゃんと見てるもん」

その言葉が胸に残った。

たぶん初めてだった。

自分を見てくれていると思ったのは。

◆勘違い

それから僕は恵美のことばかり考えるようになった。

笑顔。

声。

仕草。

教室のどこにいるか。

気づけば探していた。

でも同時に怖くなった。

なぜなら恵美は人気者だったからだ。

男子はみんな彼女を好きだった。

少なくとも僕にはそう見えた。

だから思った。

どうせ僕なんか選ばれるわけがない。

そうやって勝手に予防線を張った。

傷つく前に諦める。

僕の悪い癖だった。

◆文化祭の帰り

文化祭当日。

無事に終わったあと、

クラスのみんなで片付けをしていた。

日が暮れ始めていた。

教室には僕と恵美だけが残った。

窓の外が赤く染まっている。

不思議なくらい静かだった。

恵美が机に腰掛けながら言った。

「終わっちゃったね」

「うん」

「楽しかったなあ」

僕は頷いた。

すると恵美が笑った。

「赤城くんと一緒だったからかな」

心臓が止まりそうになった。

冗談だったのかもしれない。

何気ない一言だったのかもしれない。

でも僕には特別に聞こえた。

いや。

本当は分かっていた。

恵美がそういう子だということも。

誰にでも優しいことも。

それでも期待してしまった。

◆言えたはずの日

駅までの帰り道。

夕焼けの中を並んで歩いた。

何度も言おうと思った。

好きだと。

今なら言える。

そう思った。

でも言えなかった。

振られるのが怖かったのではない。

違う。

もし今の関係が終わったらどうしようと思ったのだ。

教室で笑い合う時間。

帰り道の会話。

名前を呼ばれること。

それがなくなるのが怖かった。

だから僕は沈黙を選んだ。

◆四十年後に知ったこと

卒業してしばらく経った頃だった。

共通の友人から聞いた。

「神原、赤城のこと好きだったらしいよ」

最初は冗談だと思った。

でも友人は真顔だった。

胸の奥で何かが音を立てた。

驚きではない。

後悔でもない。

もっと静かな痛みだった。

あの日。

夕焼けの帰り道。

もし一言だけ勇気を出していたら。

人生は少し違っていたのだろうか。

今でも分からない。

ただ一つだけ分かる。

神原恵美との恋は、

叶わなかった恋ではない。

振られた恋でもない。

僕自身が壊れるのを恐れて、

手放してしまった恋だった。

そしてそれは、

高校時代でいちばん惜しかった恋だったのである。


第5話 冬の席替え、終わらないでと願った距離

冬が近づいていた。

窓から差し込む陽射しは柔らかくなり、

朝の教室には少し冷たい空気が流れていた。

二年生の二学期も終わりに近づいていた。

そして席替えの日がやって来た。

教室中が落ち着かない。

誰の隣になるのか。

好きな相手の近くになれるのか。

高校生にとって、

席替えは小さな運命だった。

僕も例外ではなかった。

そしてその結果を見た瞬間、

思わず心臓が跳ねた。

神原恵美だった。

また隣だった。

________________________________________

前回の席替えで隣になった時も驚いた。

だが今回は違った。

もう神原は遠くから眺めるだけの存在ではなかった。

話す。

笑う。

冗談を言う。

一緒に帰ることもある。

そんな相手になっていた。

だから嬉しかった。

嬉しすぎた。

________________________________________

授業中、

神原はよく話しかけてきた。

「この問題分かる?」

「赤城くん、ノート見せて」

「それ先生に見つかるよ」

そんな何気ない会話だった。

だが僕にとっては特別だった。

神原の声が聞こえるだけで、

その日の気分が変わった。

単純だったと思う。

でも高校生の恋なんて、

案外そんなものだ。

________________________________________

昼休みになると、

神原の周りには友達が集まった。

笑い声が絶えない。

僕は少し離れた場所からその様子を見ていた。

そして思った。

やっぱり違うな、と。

神原は明るい。

誰からも好かれる。

僕とは違う世界の人間だ。

そんな考えが、

時々顔を出した。

________________________________________

ある日、

クラスメイトに冷やかされた。

「赤城と神原、仲いいよな」

何気ない一言だった。

周囲が笑う。

僕は慌てた。

顔が熱くなった。

すると神原も笑った。

「何それ」

そう言って軽く受け流した。

教室はまた笑いに包まれた。

それだけのことだった。

本当に、

それだけのことだった。

________________________________________

だが僕はその夜、

なかなか眠れなかった。

神原が否定しなかったこと。

笑っていたこと。

その表情ばかり思い出していた。

期待してはいけない。

そう思った。

でも期待してしまう。

そんな年頃だった。

________________________________________

冬は少しずつ深まっていった。

席が隣であることは、

いつしか当たり前になった。

朝、

神原が来る。

「おはよう」

と言う。

授業が始まる。

休み時間に話す。

放課後になる。

また明日。

その繰り返しだった。

________________________________________

今思えば、

あの頃の僕は勘違いしていた。

幸せは手に入れるものだと思っていた。

違った。

本当に怖いのは、

手に入らないことではない。

失うことなのだ。

________________________________________

神原と話せることが嬉しかった。

隣に座っていることが嬉しかった。

笑い合えることが嬉しかった。

だからこそ、

怖くなった。

もし何か言ってしまったら。

もし関係が変わってしまったら。

もし今の時間が終わってしまったら。

そう考えるようになっていた。

________________________________________

もちろん当時の僕は、

そんなことを自覚していない。

ただ、

このままでいたいと思っていた。

ずっと。

できるなら、

この席替えが終わらなければいいとさえ思っていた。

________________________________________

やがて冬休みが近づく。

二年生も終わりへ向かっていた。

神原との距離は、

少しずつ縮まっていた。

たぶん、

今までで一番近かった。

それなのに僕は、

近づくほど言葉を失っていった。

________________________________________

四十年以上経った今なら分かる。

あの冬、

僕は恋をしていた。

そして同時に、

恋が終わることを恐れ始めていた。

だからあの時の幸せは、

後になって思い返すと少し切ない。

それは、

手を伸ばせば届く場所にあったのに、

自分から立ち止まってしまった恋の、

静かな始まりだったのである。


第6話 氷の上の温もり、立ち止まった分岐点

高校二年の冬だった。

神原恵美が隣の席になってから数か月が過ぎていた。

毎日のように話した。

授業中も。

休み時間も。

帰り際も。

今思えば不思議だった。

それまで遠くから見ているだけだった相手が、

いつの間にか一番身近な存在になっていた。

それなのに、

僕は何も言えなかった。

言わなかった。

その違いを知るのは、

もっと後になってからだった。

◆スケート場へ

ある日、

クラスの仲間たちと代々木スケート場へ行くことになった。

昭和の高校生にとって、

スケート場は少し特別な場所だった。

携帯電話もない。

SNSもない。

だから誰かと出かけるというだけで、

それは立派なイベントだった。

待ち合わせの駅で、

神原恵美を見つけた。

制服ではない私服姿だった。

胸が高鳴った。

今まで何度も見てきたはずなのに、

まるで別人のように見えた。

「おはよう」

神原が手を振る。

僕はぎこちなく手を振り返した。

◆氷の上

リンクの上は混雑していた。

僕はスケートが苦手だった。

何度も転びそうになる。

周囲の友人たちは笑っている。

その時だった。

「大丈夫?」

神原が隣に来た。

そして自然に手を差し出した。

僕は一瞬ためらった。

しかし次の瞬間、

その手を握った。

冷たい冬の日だった。

けれど、

神原の手は温かかった。

その温もりは、

四十年以上経った今でも覚えている。

◆二人だけの時間

友人たちはいつの間にか先へ行ってしまった。

僕と神原だけが、

ゆっくりリンクを回っていた。

神原は何度も笑った。

転びそうになる僕を見て笑う。

僕も笑った。

ただそれだけなのに、

幸せだった。

本当に幸せだった。

たぶん高校時代で一番幸せだった日だと思う。

◆帰り道

スケート場を出たあと、

みんなで代々木駅へ向かった。

途中で自然と列がばらけた。

気づくと、

神原が僕の隣を歩いていた。

冬の夕暮れだった。

吐く息が白い。

「今日楽しかったね」

神原が言った。

「うん」

「また行きたいな」

その言葉に、

胸が大きく鳴った。

また行きたい。

その言葉は、

スケートのことだけではないように聞こえた。

もちろん、

今なら分かる。

高校生の自意識かもしれない。

勘違いだったかもしれない。

けれどあの日の僕には、

十分すぎるほどの希望だった。

◆選べたはずの日

駅に着く少し前だった。

神原が言った。

「赤城くんってさ」

「ん?」

「一緒にいると安心する」

僕は言葉を失った。

今でも覚えている。

その瞬間の空気を。

夕暮れの色を。

駅前の雑踏を。

神原の横顔を。

人生には、

あとから振り返ると分かる分岐点がある。

あの日は、

間違いなくその一つだった。

もし僕が、

あと一歩踏み出していたら。

もし僕が、

「僕もだよ」

と言えていたら。

何かが変わっていたかもしれない。

◆逃げたのは僕だった

だが僕は笑っただけだった。

「そうかな」

そう言ってごまかした。

神原も笑った。

会話はそこで終わった。

それ以上進まなかった。

いや、

進ませなかった。

僕が。

今なら分かる。

僕は振られるのが怖かったのではない。

神原との関係が変わるのが怖かったのだ。

今のままでも幸せだった。

だから壊したくなかった。

好きだからこそ、

失いたくなかった。

そして結局、

何も選ばなかった。

◆四十年後に思うこと

人生には、

失敗した恋がある。

叶わなかった恋もある。

でも神原恵美との恋は、

少し違う。

あれは失敗ではない。

叶わなかっただけでもない。

僕自身が立ち止まった恋だった。

進める道が見えていた。

相手もこちらを見ていた。

それでも歩かなかった。

だから今でも覚えている。

代々木スケート場の氷の感触を。

あの温かい手を。

そして、

「一緒にいると安心する」

という言葉を。

高校時代の僕が、

最も自分の弱さと向き合うべきだった日の記憶として。



第7話 進路希望調査票と、桜の終わり

高校三年の春だった。

校庭の桜は満開だった。

けれど二年生の時とは少し違って見えた。

あと一年。

その事実を誰も口にはしない。

でもみんな薄々気づいていた。

高校生活には終わりがある。

◆最後のクラス替え

掲示板の前は相変わらず騒がしかった。

誰と同じクラスか。

誰と離れたか。

悲鳴や歓声が飛び交う。

僕も自分の名前を探した。

そしてすぐに見つけた。

三年二組。

その瞬間、

最初に探した名前は神原恵美だった。

なかった。

別のクラスだった。

胸の奥が少しだけ沈んだ。

もう毎日会えるわけではない。

それだけのことなのに寂しかった。

その時だった。

近くで声がした。

「赤城くん?」

振り返る。

樋口ひろみだった。

◆真面目な子

樋口ひろみは派手な女子ではなかった。

成績が良い。

真面目。

時間を守る。

先生から信頼されている。

そんな印象だった。

でも実際に話してみると、

少し違った。

笑う時はよく笑う。

冗談も言う。

そして意外なほど負けず嫌いだった。

「受験勉強やってる?」

と聞かれた。

「まだ全然」

そう答えると、

「だと思った」

と笑われた。

失礼だなと思ったが、

その笑い方が妙に自然だった。

◆受験生

高校三年になると空気が変わる。

進路希望調査。

模擬試験。

大学案内。

将来という言葉が急に現実になる。

ある日の放課後。

教室には樋口と僕だけが残っていた。

彼女は参考書を開いていた。

僕は野球部の引退試合を終えたばかりだった。

「偉いね」

思わず言った。

「何が?」

「ちゃんと勉強してる」

すると樋口は首を振った。

「怖いだけ」

少し意外だった。

樋口は何でもできる人だと思っていた。

「私ね」

彼女は窓の外を見ながら言った。

「将来どうなるか分からないのが怖いの」

その言葉が妙に心に残った。

みんな同じなのだと思った。

強そうに見える人も。

しっかりして見える人も。

未来が怖い。

◆帰り道

その日、

駅まで一緒に歩いた。

春の夕暮れだった。

樋口は大学の話をした。

将来の話をした。

仕事の話をした。

恋愛の話は一度も出なかった。

でもそれが心地よかった。

高校に入ってから僕は、

誰かを好きになることばかり考えていた。

荒木郁恵。

森今日子。

新治玉江。

神原恵美。

そのたびに胸を焦がしてきた。

でも樋口との会話は違った。

少しだけ未来を見ていた。

◆気づいたこと

春が終わり、

初夏が近づく頃。

僕はふと気づいた。

高校生活は永遠ではない。

好きな人も。

友達も。

教室も。

全部終わる。

それは悲しいことだった。

でも同時に、

だからこそ大切なのだとも思った。

樋口ひろみは、

僕の人生を変えた恋人ではない。

けれど、

高校生活が終わりに向かっていることを

最初に実感させてくれた人だった。

◆四十年後に思うこと

若い頃は、

恋だけが青春だと思っていた。

でも違う。

青春には終わりがある。

その終わりを知った瞬間もまた、

青春の一部なのだ。

樋口ひろみを見ると、

今でも思い出す。

三年生になった春。

桜。

進路希望調査票。

未来への不安。

そして、

少しずつ近づいてくる卒業の日を。

この思い出は恋というより、

青春が終わり始めた日の記憶なのである。


第8話 舞台裏のシンデレラが隠した不安

高校三年の秋だった。

受験の話が増え始め、

卒業という言葉も少しずつ現実味を帯びてきた頃だった。

それでも文化祭だけは別だった。

みんなが受験生であることを忘れようとしていた。

高校生活最後の文化祭。

もう二度と戻らない時間だった。

◆シンデレラ

三年二組の出し物は演劇だった。

演目は『シンデレラ』。

そして主役に選ばれたのが山本きりこだった。

教室中が納得した。

反対する者はいなかった。

それほど似合っていた。

僕も同じだった。

名前を聞いた瞬間、

「ああ、山本だろうな」

と思った。

それくらい自然だった。

◆彼女の笑顔

山本きりこは人気者だった。

派手ではない。

だが人を惹きつける。

誰かが困っていれば声をかける。

男子にも女子にも分け隔てなく接する。

だからクラスの中心にいる。

それでも偉そうなところがない。

不思議な人だった。

ある日の放課後。

教室では劇の練習が行われていた。

シンデレラ役の山本は何度も台詞を繰り返していた。

「もっと感情を入れて」

演出係に言われる。

「もう一回」

再びやる。

「ごめん、もう一回」

また最初から。

さすがに疲れているはずだった。

それでも山本は笑った。

「はい、頑張ります」

その姿が妙に印象に残った。

◆知らなかった顔

練習が終わった後だった。

僕は忘れ物を取りに教室へ戻った。

誰もいないと思っていた。

だが窓際に山本がいた。

一人だった。

机に肘をつき、

小さくため息をついていた。

その顔を初めて見た。

疲れていた。

笑っていなかった。

僕は少し驚いた。

山本きりこにも、

そんな顔をする時があるのだと。

「お疲れさま」

思わず声をかけた。

彼女は驚いて振り返った。

そしてすぐ笑った。

「あ、赤城くん」

いつもの笑顔だった。

でも少しだけ無理をしているように見えた。

◆夕焼け

窓の外は夕焼けだった。

教室の中が赤く染まっている。

「大変そうだね」

僕が言うと、

山本は苦笑した。

「ちょっとね」

珍しく弱音だった。

「みんな期待してくれてるから」

そう言って窓の外を見た。

「失敗したくないんだ」

その言葉が胸に残った。

僕はそれまで、

山本きりこを明るい人だと思っていた。

何でもできる人だと思っていた。

でも違った。

彼女も不安だった。

怖かった。

それでも笑っていた。

◆文化祭当日

体育館は満員だった。

照明が落ちる。

幕が上がる。

シンデレラが現れる。

山本きりこだった。

教室で見ていた山本とは別人だった。

堂々としていた。

美しかった。

台詞も自然だった。

客席から笑いが起きる。

拍手が起きる。

物語が進む。

僕は舞台を見ながら思っていた。

きれいだな、

ではなかった。

すごいな、

だった。

初めてだった。

誰かを見てそう思ったのは。

◆終演後

劇は大成功だった。

拍手が鳴り止まない。

カーテンコール。

山本は笑顔で頭を下げた。

クラスメイトたちが駆け寄る。

「最高だった!」

「泣きそうになった!」

「さすがシンデレラ!」

みんなが口々に言う。

山本は笑っていた。

でも僕は知っていた。

あの笑顔の裏に、

努力と不安があったことを。

だから目が離せなかった。

◆四十年後に思うこと

高校時代、

僕は何人もの少女に恋をした。

でも山本きりこだけは少し違っていた。

最初に惹かれたのは顔ではない。

明るさでもない。

その奥にある強さだった。

期待に押し潰されそうになりながら、

それでも笑って前に立つ強さだった。

文化祭の日。

僕は初めて知った。

人を好きになるというのは、

その人の笑顔だけではなく、

弱さや不安まで含めて見つめることなのだと。

そして、

その恋はまだ始まったばかりだったのである。



第9話 池袋ロサ会館、耳元で砕けた恋の音

文化祭が終わった翌週、

クラスの空気はどこか浮ついていた。

成功した劇の余韻がまだ残っている。

教室には写真が貼られ、

「シンデレラ最高だったな」

という声が何度も聞こえた。

そして打ち上げが決まった。

場所は池袋ロサ会館の「青春の館」。

今思うと名前まで出来すぎている。

でもあの頃の僕たちには、本当に“青春”そのものに見えたのだ。

◆池袋の夜

休日の池袋は人であふれていた。

西口の雑踏を抜け、ロサ会館の階段を上がる。

薄暗い照明。

タバコの匂い。

大人ぶった高校生たちの笑い声。

昭和の打ち上げは、少し背伸びした世界だった。

店に入ると、

「赤城くーん!」

と声がした。

山本きりこだった。

白いニットに紺のスカート。

制服ではない彼女を見るのは初めてだった。

一瞬、言葉を失った。

「どうしたの?」

彼女が笑う。

「いや……似合ってるなって」

自分でも驚くほど素直に言葉が出た。

山本は少しだけ目を丸くして、

「ありがと」

と笑った。

その笑顔を見た瞬間、

僕は確信した。

この子が好きだ、と。

◆みんなの中の二人

打ち上げが始まった。

グラスがぶつかる音。

カラオケ。

演劇の失敗談。

笑い声。

その中で、山本は何度も僕の隣に来た。

「赤城くん、シンデレラ役ほんと似合ってたよ」

「まだ言うのかよ」

「だって本当だもん」

からかわれているのに、嫌じゃなかった。

不思議だった。

好きな人にからかわれると、人は簡単に機嫌が良くなる。

高校生の僕は、その典型だった。

◆氷の音

しばらくして、

山本が僕の袖を軽く引いた。

「ねえ、赤城くん」

「ん?」

「ちょっと来て」

店の奥の少し静かな場所だった。

周りの声が遠くなる。

山本はアイスコーヒーのグラスを持っていた。

そして突然、僕の耳元に顔を寄せた。

心臓が跳ねる。

次の瞬間。

カラン。

氷が砕ける音が耳元で響いた。

冷たい感触と、彼女の息の温かさが同時に触れた。

「びっくりした?」

山本が笑う。

僕は何も言えなかった。

顔が熱かった。

たぶん真っ赤だったと思う。

今でもあの音を覚えている。

氷が砕ける乾いた音を。

あれは恋の音だったのかもしれない。

◆言葉の手前

そのあと二人で少し話した。

将来のこと。

受験のこと。

卒業したらどうなるんだろう、という話。

「高校終わるの、やだね」

山本がぽつりと言った。

僕は頷いた。

本当に嫌だった。

なぜなら終われば、この時間も終わるからだ。

教室も。

文化祭も。

打ち上げも。

そして山本きりこと、こうして並んで座る時間も。

僕は言おうとした。

好きだ、と。

今度こそ。

でも言葉が出なかった。

怖かったのではない。

もう遅い気がしたのだ。

高校生活が終わろうとしている。

この時間は永遠ではない。

だからこそ壊したくなかった。

矛盾している。

でも高校生の恋なんて、たいてい矛盾している。

◆帰り道

店を出ると、池袋のネオンが滲んで見えた。

夜風は少し冷たかった。

駅までの道をみんなで歩く。

改札の前で、山本が振り返った。

「今日は楽しかったね」

「うん」

「またみんなで遊ぼうね」

“みんなで”。

その言葉が少しだけ痛かった。

でも同時に、彼女らしいとも思った。

山本きりこは、いつも誰かの輪の中にいる人だった。

僕だけのものにはならない人だった。

そしてたぶん、

だからこそ好きになったのだ。

◆四十年後に思うこと

山本きりこを思い出すと、

まず浮かぶのは笑顔ではない。

池袋ロサ会館の薄暗い照明。

アイスコーヒーのグラス。

耳元で砕けた氷の音。

そして、

「高校終わるの、やだね」

という言葉だ。

あの夜の僕たちは、

恋をしていたのかもしれない。

でも同時に、

終わっていく青春そのものを抱きしめようとしていたのかもしれない。

だから僕は今でも忘れられない。

あの池袋の夜を。

そして、

あと一歩届かなかった最後の恋を。


第10話 人生に答え合わせはないとしても

卒業式の日が来た。

空はよく晴れていた。

三年前、

少し大きく見えた校門は、

今では小さく感じる。

不思議なものだ。

何も変わっていないはずなのに、

変わったのは僕の方だった。

◆最後の朝

教室に入る。

みんな少し浮かれていた。

でもどこか寂しそうだった。

制服姿も今日で終わり。

毎日顔を合わせていた仲間たちも、

明日からは別々の道を歩く。

笑い声が響く。

写真を撮る者もいる。

寄せ書きを書いている者もいる。

その光景を見ながら、

僕はぼんやり考えていた。

本当に終わるのだな、と。

◆少女たち

窓際に山本きりこがいた。

友達に囲まれて笑っている。

少し離れた場所では樋口ひろみが話している。

別のクラスには神原恵美もいるはずだ。

荒木郁恵。

森今日子。

新治玉江。

名前を思い浮かべる。

不思議だった。

三年間で何人もの少女に恋をした。

そのどれもが本気だった。

今でもそう思う。

若かったからではない。

本当に好きだった。

だからこそ覚えている。

笑顔も。

声も。

教室の匂いも。

季節の光も。

全部。

◆最後の時間

卒業式が終わった。

校庭にはたくさんの生徒がいた。

写真を撮る者。

泣いている者。

笑っている者。

僕は校舎を見上げた。

あの教室。

あの廊下。

あの階段。

三年間が詰まっている。

そしてふと思った。

もし僕が、

誰かに告白していたらどうなっていただろう。

神原恵美だったかもしれない。

山本きりこだったかもしれない。

違う誰かだったかもしれない。

答えは分からない。

でも一つだけ確かなことがあった。

◆気づいたこと

僕は振られるのが怖かったのではない。

そのことに、

卒業の日になってようやく気づいた。

終わるのが怖かったのだ。

好きな人と話す時間が。

教室で笑う時間が。

帰り道が。

名前を呼ばれることが。

全部。

告白すれば変わってしまう。

良くなるかもしれない。

悪くなるかもしれない。

でも変わる。

そして僕は、

変わることより、

今を失うことを恐れていた。

だから言えなかった。

◆校門

帰ろうとした時だった。

ふと振り返る。

校門の向こうに春の空が広がっていた。

三年前の僕は、

恋をすれば何かが始まると思っていた。

でも違った。

恋は始まりだけではない。

終わりも連れてくる。

だから怖かった。

だから逃げた。

そして、

それもまた僕だった。

◆四十年後の僕へ

もしあの日の僕に会えるなら、

一つだけ言いたい。

告白しろ、

とは言わない。

勇気を出せ、

とも言わない。

たぶん出せなかったからだ。

でもこう言うだろう。

「その恋は無駄にならない」

と。

言えなかったことも。

叶わなかったことも。

いつか人生のどこかにつながっていく。

あの日の僕はまだ知らない。

十年後に出会う人のことを。

自分が選ぶ未来のことを。

そして、

未完成の恋たちが、

その未来を静かに支えていることを。

◆卒業

校門を出る。

もう高校生ではない。

振り返る。

春の風が吹いていた。

僕は手を振らなかった。

泣きもしなかった。

ただ歩き出した。

たくさんの言えなかった言葉を胸に抱えたまま。

それでも、 少しだけ前を向いて。



第11話 二つの湯飲みと、春の夜の匂い

あの日から十年が経った。

卒業式の日、 校門を出た僕は未来のことなど何も分かっていなかった。

ただ前へ歩くしかなかった。

春の風だけは、 あの日と同じだった気がする。

そして気づけば、 二十八歳になっていた。


高校生だった頃、 二十八歳はずいぶん大人に思えた。

何でも分かっていて、 迷うことなどない人間。

そんな存在だと思っていた。

だが実際は違った。

相変わらず失敗する。

迷う。

将来への不安もある。

人生は思っていたほど簡単ではなかった。

ただ、一つだけ高校時代とは違うことがあった。

僕が帰る家には、 「おかえり」と言ってくれる人がいた。


ある春の夜だった。

特別な日ではない。

誕生日でもないし、

結婚記念日でもない。

夕食を終え、

テレビが静かに流れている。

妻は台所で食器を洗っていた。

僕はソファに座り、

何気なく窓の外を眺めていた。

どこにでもある夜だった。

本当に、

どこにでもある夜だった。


不思議なことに、

人は幸せな時ほど過去を思い出す。

ふと、

高校時代のことを考えていた。

荒木郁恵。

森今日子。

新治玉江。

神原恵美。

樋口ひろみ。

山本きりこ。

みんな遠い昔の人になった。

クラス発表の日。

合唱祭。

席替え。

代々木スケート場。

文化祭。

池袋ロサ会館。

卒業式。

どの場面も、

もう戻ることはできない。

それなのに記憶だけは、

少しも色褪せていなかった。


もしあの時、

誰かに告白していたらどうなっていただろう。

そんなことを考えたことがないと言えば嘘になる。

神原恵美に言えていたら。

山本きりこに言えていたら。

違う人生があったのだろうか。

分からない。

人生に答え合わせはない。

だから想像するしかない。


「どうしたの?」

突然、妻が声をかけた。

気づくと、

湯飲みを二つ持って立っていた。

「難しい顔してるよ」

僕は笑った。

「そうかな」

「そうだよ」

妻も笑った。

そしてテーブルに湯飲みを置いた。

湯気が静かに立ち上る。


僕は湯飲みを手に取った。

そして自然に言った。

「ありがとう」

妻は少しだけ驚いた顔をした。

「どうしたの、急に」

「いや」

僕は笑った。

「なんとなく」

妻も笑った。

それだけだった。

特別な会話ではない。

本当に、

それだけだった。


けれど、

その一言を口にした瞬間だった。

僕はふと思った。

高校時代の僕には、

きっと言えなかった言葉だと。


好きな人ほど言えなかった。

気持ちを知られるのが怖かった。

関係が変わるのが怖かった。

失うのが怖かった。

だから何も言えなかった。

何度も。

何度も。


荒木郁恵にも。

森今日子にも。

神原恵美にも。

山本きりこにも。

僕は自分の気持ちを言葉にできなかった。


けれど今は違う。

言葉は、

相手を失うためのものではない。

相手と生きていくためのものだ。

そのことを、

僕はようやく知ったのだと思う。


もちろん、

それを教えてくれたのは妻だった。

だが、

それを理解できるようになったのは、

あの未完成な恋たちがあったからだとも思う。

言えなかった後悔。

踏み出せなかった弱さ。

失いたくなくて立ち止まった日々。

その全部が、

今の僕につながっている。


窓の外には春の夜が広がっていた。

遠くの街灯が静かに光っている。

あの日の卒業式から十年。

僕はたくさんのものを手に入れ、

たくさんのものを失った。

それでも不思議なことに、

高校時代の少女たちは、

今でも時々記憶の中に現れる。


荒木郁恵。

森今日子。

新治玉江。

神原恵美。

樋口ひろみ。

山本きりこ。


もう二度と会うことはないかもしれない。

会ったとしても、

お互い気づかないかもしれない。

それでもいい。

彼女たちは、

確かに僕の人生の途中にいた。

ただそれだけで十分なのだ。


妻が隣に座った。

何も言わず、

自分の湯飲みに口をつける。

僕もお茶を飲んだ。

温かかった。


もし人生をもう一度やり直せたとしても、

たぶん僕は、

また同じように恋をする。

同じように迷い、

同じように傷つき、

同じように言えずに終わる恋もあるだろう。

それでも構わない。


なぜなら、

あの未完成の日々が、

今の僕を作ったのだから。


僕はそっと目を閉じた。

すると遠い記憶の向こうから、

春の教室のざわめきが聞こえた気がした。

誰かの笑い声。

廊下を走る足音。

名前を呼ぶ声。


振り返る。

そこにはもう誰もいない。


けれど、

春の匂いだけは、

あの日と同じだった。



【終】




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