三十二話 一路、秋津洲公国へ
大規模な魔法で巨大な化け物を殲滅した信雄は、飛行魔法で空中を舞い、航空巡洋艦『鳴神』の甲板へと舞い戻った。
着地するやいなや、駆け寄ってきた広子が彼を力強く抱きしめる。
「信雄さん、おかえりなさい!」
「ああ、ただいま……」
信雄は穏やかに応じると、愛おしそうに広子を抱き寄せ、その頭を優しく撫でた。
しかし、広域重力魔法の代償は大きく、膨大なマナを消費した信雄の足元がふらりと揺れる。すぐさま広子と、後から駆けつけたジェイムズが両脇から彼の体を支えた。
「お前はたまに本当に無茶をする。魔力枯渇で倒れたいのか?」
「……はは、まあ、そう言うなよ」
苦笑しながらも、信雄は確かな仲間の温もりに安堵の息をつく。艦の守りへと身を預けながら、彼は静かに、艦内へと歩みを進めた。
椅子に深く腰を下ろした彼は、休む間もなく腕輪のデバイスを操作した。避難民の受け入れ状況を確認し、死力を尽くした騎士たちへ労いの言葉を贈る。次なる目的地を秋津洲公国へ定め、全ての指示を終えた彼は、ジェイムズに一時的な指揮を委ね、広子の案内で私室へ向かった。
扉が閉まったその瞬間、張り詰めていた見えない糸がぷつりと切れた。信雄は崩れ落ちるように、広子の膝へとその身を預けた。
彼が贈ったサイバーパンクな衣装。その硬質な質感とは対照的な、タイトスカート越しに伝わる柔らかな温もりが信雄を包み込む。近頃の満ち足りた食卓が育んだ、女性らしい豊潤な太股の感触。それは、死線を描くような極限の緊張に晒され続けた彼にとって、唯一許された絶対的な安息の地だった。意識はまたたく間に、抗いようのない深い眠りの淵へと沈み込んでいく。
「おやすみなさい、信雄さん……」
広子の慈愛に満ちた囁きに応えるように、信雄の穏やかな吐息が彼女の肌を揺らした。
「ひやぁっ……!?」
不意に触れた吐息の熱に、広子が小さく身を震わせる。どこか悪戯っぽく、彼女は寝顔を覗き込んだ。
「……もう、信雄さん? 起きているのでしょう?」
しかし、返ってくるのは規則正しい、赤ん坊のような寝息だけ。
「寝たふりなら、イタズラしちゃいますよ?」
試すような言葉も、静寂の中に溶けて消える。信雄は指先一つ動かさず、深い眠りの海の底にいた。
「……ふふ、でしたら、こうです」
愛おしさが込み上げ、広子はいたずら心に微笑むと、彼の高い鼻をそっと指先で摘まんだ。
「ふがっ……!」
苦しげな声を漏らし、わずかに眉間に皺が寄る。だが、重い瞼が開くことはない。
「うふふ、本当に……。本当に、泥のように眠っていらっしゃるのですね」
その確信を得た瞬間、広子は彼を覆っていた「陰陽師」の鎧が、音を立てずに解けていくのを感じた。彼女はそっと、乱れた髪を梳くように撫でる。その手つきは、壊れものを扱うかのようにどこまでも優しい。
「頑張りましたね、旦那様。……本当にお疲れ様でした」
薄暗い部屋、遮断された外界の喧騒。そこにはただ、安らかな寝息と、愛する者を慈しむ広子の指先の感触だけが、甘やかな静寂を刻んでいた。
一路、秋津洲公国へと機首を向ける航空巡洋艦「鳴神」。その艦内は、死線の中を彷徨ってきたオーロラ号の生存者たちにとって、まさに天国とも呼べる安らぎの場となっていました。
湯気の立ち込める風呂でこわばった体を解きほぐし、温かな食卓を囲む。それは単なる休息や空腹を満たすための行為ではなく、極限の飢えと恐怖、そして絶望によって摩耗し、剥き出しになっていた彼らの心が、人としての輪郭を取り戻していくための「儀式」でもあった。
失われていた「人間としての尊厳」を、温もりと滋養によってひとつひとつ丁寧に修復していく。
鳴神の喧騒は、彼らの人間性を回復させていた。
奇跡は、一度では終わらなかった。死に別れたとばかり思っていた両親が、命がけで逃げ延びた紫苑の前に、再び現れたのだ。ジョンたちが客室のバリケードから救出した、極限の死線をくぐり抜けてきた男女――彼らこそが、紫苑の生き別れた両親だった。
「お父さん! お母さん!」
「紫苑……! 生きていたのね、よく無事で……!」
運命の再会は、三人の心からの叫びで始まった。周囲の視線も忘れ、互いの体温を確かめるように強く、強く抱きしめ合う。頬を濡らすのは、長い孤独と恐怖から解放された喜びの涙だった。
喧騒に包まれていた食堂は、静まり返った。荒くれ者揃いの兵士や騎士たちも食事の手を止め、その光景を温かく見守る。三人はしゃくり上げながら、命の恩人たる彼らへ、万感の思いを込めて感謝を伝えた。その健気で胸を打つ姿に、幾多の戦場をくぐり抜けてきた強者たちの目元さえも、熱い涙で滲んでいた。
そんな中、紫苑はジェイムズ少佐、トーマス准尉、そしてパラディンのジョンのもとへ駆け寄ると、涙で濡れた顔を上げ、子供ながらに精一杯の敬意を込めて言った。
「私の……お父さんとお母さんを助けてくれて、本当に、本当にありがとう!」
その言葉と純粋な感謝の瞳に、頑強なジョンたちも心を震わせ、胸に熱いものが込み上げるのを隠せなかった。
その言葉と純粋な感謝の瞳に、頑強なジョンたちも心を震わせ、胸に熱いものが込み上げるのを隠せなかった。
「怖い思いしながらでも……救助できて、本当によかったな!」
ジェイムズはそう言って紫苑の頭を優しく撫で、ジョンとトーマスも、こみ上げる涙を堪えながら力強く頷いた。食堂全体が、彼らの奇跡的な絆と感謝の温かさに包まれていた。
其から4時間後
航空巡洋艦『鳴神』。その鋼鉄の艦内にあって、信雄の自室だけは外の喧騒を忘れたかのような静寂に包まれていた。
「……ん、あれ? ここは……?」
意識の混濁から這い出した信雄が、微かな光の中で最初に感じたのは、頬に伝わる柔らかな温もりと、どこか懐かしい石鹸のような淡い香りだった。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、自分を見守る広子の慈愛に満ちた眼差し。どうやら彼は、彼女の膝を枕にして深い眠りに落ちていた様だった。
三十代半ば、荒波を越えてきた自負のある信雄だったが、わずか十六歳の妻――しかし、ここ最近で驚くほど女性としての輝きと包容力を増した広子に、無意識のうちに「母性」を求めていたのかもしれなかった。
その柔らかな感触に抗う術もなく、彼は赤子のように身を委ねていた。
「……あっ、信雄さん。目が覚めましたか?」
鈴の音のような澄んだ声が、静かな部屋に響き、広子の少しはにかんだような、それでいてすべてを包み込むような微笑みに、信雄の胸の奥が熱くなった気がした。
「……起きられます?」
気遣わしげに覗き込む彼女に、信雄は本来なら「すまない」と背筋を伸ばすべきところだが、どうしてもその温もりを手放すことができなかった。
「……もう少し、このままでいさせてくれ」
年甲斐もない甘えだと自覚しながらも、信雄は縋るようにそう呟き、再び静かに目を閉た。
しかし、物語の紡ぎ手たる作者は、このあまりに「うらやまけしからん」光景を許しはしない。
――ピピピッ、ピピピピッ。
至福の時間は、非情な通信音によって引き裂かれた。信雄の腕輪型デバイスが、緊急の入電を告げる。
「……おう、誰だこんな時に。何だよ」
膝枕という天国から現実に引き戻された信雄が、若干すねながら応答する。
「主殿、寝起きですか? 艦内は騒がしいというのに、お楽しみ中でしたか?」
通信の主はパラディンのジョン。皮肉めいた声が、スピーカー越しにやけに冷たく響く。
「……いや、なんか今、すげえ偉い神様的な存在から『お前だけ良い身分だな、コノヤロー!』って叱咤激励を受けた気がしてな。決して変なことをしていたわけじゃ……」
信雄の口から出たのは、小学生でも言わないような支離滅裂な言い訳だった。ジョンは深いため息をつき、呆れ果てた様子で本題を告げる。
「それは主殿の良心でしょう。さて、お遊びはここまでです。鳴神の針路に関わる重要事案、急ぎ艦橋へ来てください!」
その言葉を最後に通信が切れた。
「くそっ、ブラック職場かよ! ……広子、すまん! 仕事だ、行ってくる!」
信雄は後ろ髪を引かれるどころか、魂の半分をその場に置いていくような形相で立ち上がる。広子はふわりと微笑み、「いってらっしゃいませ、旦那様」と、聖母のような慈愛で見送った。
信雄は未練たっぷりに何度も振り返りながら、艦橋へと走り出した。
「一体、何があった!?」
艦橋に飛び込むなり、信雄は荒い息を整えながら報告を求めた。そこには、すっかり意気消沈したジョンとジェイムズの姿があった。二人とも、避難民たちから相当な剣幕で詰め寄られたのだろう。額には嫌な汗が滲んでいる。
「それが……秋津洲公国の近海に差し掛かった途端、オーロラ号から移ってきた避難民たちの間で、不穏な空気が流れているんだ!」
「彼らは、このまま秋津洲公国に到着したら、無理やり船を下ろされるんじゃないかと疑心暗鬼になっているんだ。あちこちで激しい口論が勃発して……我々だけでは収拾がつかない状態だ!」
信雄はしばし目を閉じ、艦の揺れを感じながら沈黙した。そして、静かに目を開けて言った。
「よし、連中にこう伝えろ。行く先は個人の自由、強制はしない。だが、この艦の最終目的地はガメリカに戻る。それが嫌なら今ここで降りろ、とな」
「待て、信雄! 秋津洲やガメリカ以外の人間はどうする?」
ジェイムズが即座に食い下がってきた。
「他は何処の国の者たちが乗っている?」
信雄の問いに、ジェイムズは頭を抱えながら列挙した。
「ルシア連邦の親を失った小さな兄妹が2人。それに、身寄りのない女性が2人。ウーストラリアからの避難民で、父親を亡くし、母親と10歳前後の姉妹が寄り添う親子……まさに親子連れだ。この化け物だらけの荒野のような世界で、彼らを野に放つのは死刑宣告に等しい」
信雄は窓の外に広がる海を眺め、つぶやいた。
「……厳しいか」
それから、少し冷たい口調で続けた。
「……本人達にどうしたいか聴いてこい。もし、このまま我々と着いてくる覚悟があるなら、食堂の調理や艦内の掃除、どんな小さな仕事でもいい。手を動かして生きる糧を稼ぐならば、寝食は保証すると伝えろ」
ジェイムズは少し驚いたような顔をし、それからフッと皮肉げに口元を歪めた。
「素直じゃないな、まったく……わかった」
そう言い残し、彼は嵐のような避難民達のいる場所へと向かっていった。
「やれやれ、次は何が起こるやら」
信雄はそう吐き捨て、近づく秋津洲公国の本土を艦長席から冷ややかな目で見つめていた。




