第4話 白い傘の記憶
雨の音が、天井から静かに落ちてくる。
古い事務所の屋根はところどころ傷んでいて、ポタリ、と机の上の灰皿に雫が落ちた。
時計の針は止まったまま。
依頼もなく、ただ雨だけが時間を刻んでいた。
そんな午後、高峰修二はひとりの来客を迎えた。
若い刑事だった。まだ二十代、真っ直ぐな目をしている。
「高峰さん、警察時代のことを教えてもらえませんか」
その言葉に、高峰の手が止まる。
煙草の火が小さく弾けた。
「なんだい、懐かしい話を聞いてどうする」
「……あなたの名前が、昔の捜査資料にありました。“誤認逮捕の責任を取って辞職”と」
空気が、少しだけ重くなった。
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十年前のことだ。
当時、高峰は捜査一課の刑事だった。
小さな町の連続空き巣事件。
現場近くで見つかった青年を、彼は“決めつけた”。
証拠は曖昧だったが、上司の圧力と世間の焦りに押され、逮捕。
ところが後日、真犯人が別に現れた。
青年は釈放されたが、世間の好奇の目に晒され、数日後、線路の上で命を絶った。
――その日も、雨が降っていた。
駅のホームに残されたのは、一本の白い傘。
その傘に「T・S」と刺繍があった。
彼のイニシャル。高峰修二の、だった。
青年が、取り調べの帰りに「これ、借りていいですか」と笑って差した傘だった。
その笑顔が、十年経っても消えない。
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「あなたは、あの件で上司を庇ったと聞きました」
若い刑事の言葉に、高峰は静かに首を振った。
「庇ったんじゃない。俺が見抜けなかっただけだ。人の嘘も、真実も。
あの時の俺には、“渋柿”ほどの渋みもなかったんだ」
若い刑事はしばらく黙っていたが、やがて封筒を差し出した。
「その青年の妹さんが、あなたにこれを渡してほしいと」
封筒の中には、短い手紙。
『兄はあなたを恨んでいませんでした。最後まで“あの人は正しい”と言っていました。どうか、自分を責めないでください』
高峰はしばらく読み返し、そっと目を閉じた。
雨の音が遠くでやわらいでいく。
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夜になり、事務所を出ると、路地裏に雨上がりの匂いが漂っていた。
古道具屋の前の傘立てに、一本の白い傘があった。
取っ手の部分に、小さく“TS”の文字。
「……まさか、な」
笑いながら傘を取り上げる。
白いビニールはくたびれて、骨も少し歪んでいた。
でも、差すと不思議とあたたかかった。
空にかすかな星が滲む。
高峰は、そっと呟いた。
「渋柿も、雨に濡れりゃ甘くなるかもしれんな……」




