第2話 消えた猫と約束の夜
雨がやんだばかりの夜だった。
高峰修二の探偵事務所には、湿った空気と古いコーヒーの匂いが漂っている。
事件のない日は、こうしてラジオを相手にぼんやり過ごすのが常だった。
「探偵さーん!」
ドアのベルが勢いよく鳴った。
顔をのぞかせたのは、あの少女――佐伯美咲。前に脅迫事件を持ち込んできた依頼人だ。
「おう、ちびちゃん。どうした、また悪いやつに狙われたか?」
「ちがうの! うちの猫がいなくなっちゃったの!」
猫。
それは事件とは呼べないかもしれない。だが、美咲の目は真剣だった。
「うちのミルク、どこにもいないの。外に出たことなんてなかったのに……」
高峰はため息をつき、ジャケットを取った。
「分かった。探してみよう。俺は“落ちこぼれ”だが、猫探しは慣れてる」
⸻
二人は夜の住宅街を歩いた。
小さな足跡、濡れた段ボール、民家の影。
高峰は懐中電灯を照らしながら、地面にしゃがみこんだ。
「……猫缶、あるか?」
「持ってきた!」
「いい子だ」
猫缶の匂いを風に流す。やがて、物置の奥からかすかな鳴き声が聞こえた。
「いた!」
美咲が駆け寄ろうとしたそのとき――
「こら、勝手に入るな!」と怒鳴り声。
現れたのは近所の老人、頑固で有名な浜野源蔵だった。
「おい、探偵だか何だか知らんが、夜中にガキ連れてうろつくな!」
「すみません、猫を探してまして」
「猫? ああ……それなら、うちの倉庫に勝手に入ったやつか」
浜野は懐から、小さな白猫を抱き上げた。
しかしその手は不自然に震えていた。
猫の首には、古びた赤いリボン――美咲の家のミルクに間違いない。
「すみません、本当に……」と頭を下げる高峰。
だが、浜野の顔はどこか沈んでいた。
「この子、俺の亡くなった孫が飼ってた猫に似ててな……つい、返したくなくなっちまったんだ」
美咲は猫を抱きながら、ぽつりと呟いた。
「おじいちゃん、さみしかったんだね」
その言葉に、浜野の肩が震えた。
⸻
夜風が冷たくなり、三人は商店街の角で立ち止まった。
「探偵さん、ありがとう」
「いや、俺は何もしてないさ。転ばなかっただけでも奇跡だ」
美咲が笑った。
「また困ったら、お願いしてもいい?」
「……報酬が猫缶じゃなければな」
そのとき、浜野が差し出した。
小さな茶封筒。
「これは、お礼だ。金じゃないが……」
中には、古い写真が一枚。
孫と猫と、笑う老人。
「この子が死んでから、ずっと片付けられなかった。だが今日、少しだけ救われた気がする」
高峰は写真を受け取り、静かに頷いた。
「……あんたの孫、きっと今ごろ笑ってますよ」
⸻
その夜。
事務所に戻った高峰は、机の上に写真を立てた。
コーヒーの湯気の向こうで、笑う少年と猫。
薄明の中、心の奥にあたたかい光が差し込んだ気がした。
「転ばずにすんだ夜ってのも、悪くないな……」
そう呟いて、カップを傾けた。




