第10話 うちの猫を返せ!
その日は、やけに騒がしい朝だった。
高峰探偵事務所の前で、怒号にも似た声が響く。
「高峰さん! あんた、うちのタマ返しなさいよ!!」
声の主は、近所の古本屋を営む伊藤サチ。
腰に手を当て、怒りで髪が逆立つほどの迫力で叫んでいる。
高峰はというと――ストーブの前で湯気の出る渋柿茶をすすりながら、
「ああ……その、猫か。今、寝てるから静かにしてくれ」
と、申し訳程度の返事。
サチはカバンを叩きつける勢いで怒鳴った。
「寝てるからじゃないのよ! なんであんたんちで寝てんのよ!」
長谷川が階段を駆け下りてきた。
「高峰さん、また何かやらかしたんですか!?」
「やらかしてねぇよ。勝手に入ってきただけだ」
その言葉と同時に、事務所の奥から“のそのそ”と現れたのは――
茶トラ猫のタマ。
見事な腹を揺らしながら、高峰の足にすり寄ってくる。
サチは顔を真っ赤にした。
「タマはうちの子なの! なんであんたの足にすり寄るのよ!」
「知らん。聞いてみろ」
「言葉が通じるわけないでしょ!」
すると高峰は真顔でタマを持ち上げ、言った。
「タマ、お前はどっちの家が居心地いい?」
「猫に選ばせるな!!」
長谷川は腹を抱えて笑っていた。
「高峰さん、それもう誘拐の常套句ですよ!」
しかしサチは怒りよりも、どこか不安げな表情に変わった。
「……実はね、タマ、最近私の顔を見ると逃げるようになっちゃって」
「虐待したのか?」
「してないわよ!」
サチは手を握りしめた。
「仕事が忙しくて、構ってあげる時間が減ったのよ。
そしたら……なんか、距離ができちゃって」
長谷川はふと真顔になり、
「猫って、ちょっとした変化に敏感ですからね」
「俺も同じだな。ほら、甘やかしてくれる方の肩に寄っていく」
「高峰さん、それ人間の話でしょう」
軽口を叩きながらも、タマは高峰の膝に乗って眠り始めた。
サチは少し寂しそうに言った。
「……タマ、もう私よりこっちがいいのかしら」
高峰はそっとタマの背を撫でた。
「……こいつ、背中が少し冷えてるな」
「え?」
「たぶん、ストーブの近くにいたくて、あったかい場所を求めてうちに来てたんだ」
長谷川が頷く。
「猫って、温度が一番の理由で家を替えることありますよ」
「じゃあ、私が嫌になったんじゃなくて……?」
「お前の部屋、冷えるだろ。古本屋って紙が多いから湿度の調整も難しいしな」
サチはホッとしたように涙ぐんだ。
「タマ……戻ってきてくれる?」
高峰は猫に囁くように言った。
「タマ。あったかいストーブは、あっちにもあるだろ」
タマはゆっくりと目を開け、サチの方へ歩いていった。
その瞬間、サチは泣き笑いのような顔をした。
帰り際、サチはふと立ち止まり言った。
「高峰さん……ありがとう。
あなた、猫には優しいのね」
「人には?」
「渋すぎてよく分からないわ!」
長谷川が大笑いする。
「高峰さん、今日は完全に“猫専門探偵”でしたね」
「うるせぇ。
だがまぁ……猫に好かれるのは悪い気分じゃねぇ」
その夜、タマが去った事務所は妙に静かだった。
高峰は渋柿を一つ、そっとストーブの上に置き、呟いた。
「……渋柿も、猫の温もりも、たまにない方が味わい深い」
長谷川はコーヒーを飲みながら言った。
「それ、名言っぽいようで全然意味分からないですよ!」
また笑い合う二人の声が、冬の夜に溶けていった。




