第9話 逃げ道なんてどこにもない!
リーネがその言葉を発した瞬間、室内の温度が一段下がった気がした。
アルミリアとノア、そしてシリウスの視線が、刺さるんじゃなくて縫い止めてくる。
逃げ道がない―――そう思ったのは、間違いなくあたしだった。
記憶が確かなら、リーネはあの夜、あたしに裏の聖女をやってくれと頼んだはず。
リーネが表で剣の聖女として振る舞い、聖剣が必要な案件の時は、あたしが動く。そうやって、あたしが聖剣を抜いてしまったことを隠そう、そういう約束だった。
なのに、リーネはあえてそれを崩した。
……そうか、もう、決めたんだね。
嘘を抱えたまま守ってもらうんじゃなくて、最初から全部背負って、頭を下げて、それでも前に進むって。
クレストリアの王女としてじゃなく、剣の聖女として。
先に言うしかないんだ。
ここで言えば取引材料として使える。後からバレたらそれは隠し事……裏切りになるから、弱みになる。
相手は聖都を守護する武装組織。情報の扱い方も、その価値も知っている。
そうだよね、リーネ。
「もう一人……?」
とはいえ、その意図があの一言で通じるとは思えない。
ほら言わんこっちゃない、アルミリアが訝しんでるじゃんか。
でも、この空気の中リーネの発言を訂正できるだけの勇気はあたしにはなくて、黙ることしかできなかった。
「はい。少々、複雑な事情がありまして」
リーネは王女としての余所行きの態度を崩さないまま続ける。
「まず、私たちを助けていただいたこと、感謝します―――その上で、確かめたいことが」
視界の端で、ノアとシリウスが目を細めるのが見えた。
心臓がバクバクと喧しく鼓動する。緊張で思考がまとまらない。
「……続けてくれ」
アルミリアの声が一段階低くなった。
唯一、イルセナリアだけは困惑を隠せないといった様子。
味方のはずの顔が、知らない顔に見える。あたしだけが場違いだ。
「一つ教えてください。あなた方が私たち……いえ、『剣の聖女』に何を求めるのか」
アルミリアの口の端が僅かに上がるのが見えた。
試すように静かに観察している。怒りがない分、冷静に、合理的な判断を下せるのが何よりも怖い。
「剣の聖女の目覚めを示した神託に従った―――それで済むのなら、とても敬虔で従順な信徒でしょう。ですが、あなた方は違う」
そう語るリーネの声音から、僅かな焦りを感じる。
アルミリアの圧が、怖い。
「では『保護』はただの過程ではありませんか? あなた方の真の目的は、保護の先にある」
シリウスが腰の鞘に指を触れかけて、アルミリアが手を伸ばし制止。
もう一触即発だよ……せめて、残火守が敵対することは避けないと。
「リーネフォルテ殿の推測を聞こう」
「『剣の聖女を救世主にする』……それが、あなた方の目的では?」
顔の前で組んだ両手の向こうで、アルミリアが目を細めた。
え、あたしら殺される? いや、そんな……リーネ、これどうしよう。
そんなアルミリアの静かな威圧に屈することなく、リーネは続ける。
「世界は未だ闇の中にあります。全てを取り戻すには、ただの英雄では足りない。そうでしょう?」
「それは自惚れではないかね。カノン殿がもう一人の聖女だという君の話が真実なら、その実力は先程のゴーレムとの戦闘を見る限り、救世主には程遠い。君の言うただの英雄にも、遠く及ばない」
ただの英雄、と言いながら、アルミリアはシリウスに視線を向けた。
比較されているのを感じて、胸の奥に靄がかかる。
二人の言葉は半分もわかんないけどさ、あたしが軽く馬鹿にされてるんだなってことは、よーくわかるよ。
言い返したい。でも、言い返せる材料が何ひとつない。
事実だからさ。
確かにあたしの実力はシリウス以下だ。世界を救います、なんて言っても、信じてもらえないくらいクソザコだ。
だからムカつくんだよ。自分が弱いことくらいあたしが一番知ってるっての。
「ですが、私たちには聖剣があります」
リーネは腰のベルトから鞘ごと外し、聖剣を机の上に置いた。
こつん、という乾いた音が、やけに響いて、全員の視線が、ただの精巧な儀礼剣にしか見えないレーヴァ=ルクスに向けられた。
「それが、北の伝承にある聖剣―――レーヴァ=ルクスか」
アルミリアがぽつりと呟いた。
声は落ち着いているのに、部屋の空気だけが妙に重い。
「私は、この剣を抜くことができません」
リーネが言い切った。
胸を張っているのに、それが誇りじゃなくて覚悟で成り立っているのがわかる。
「ほぅ、抜けないと」
アルミリアが眉を上げる。
シリウスは動かない。でも、呼吸のリズムが変わった。『警戒度が一段階上昇した』ってテロップが画面に出るような、そんな緊張感。
イルセナリアだけが、困惑したように目を瞬かせている。
……まぁ、そりゃそうだよね。神託で定められた剣の聖女本人が「聖剣抜けません」って言い出したらさ。
いや、あたしも困惑してるけどね。急に暴露するんだもん。
「正確に言えば、私に許されているのはこの剣の声を聞くことだけです。剣を振るう担い手としての資格は、私にはありません」
リーネは淡々と、でも丁寧に言葉を選んで続ける。
王女としての礼節、聖女としての誠実さ。
その二つで、今の爆弾発言を包んで投げてきてる。
「我々が、そんな馬鹿な話を信じるとでも?」
アルミリアが低く言った。否定というより、確認だ。
嘘なら……わかってるな? と、無言の圧が滲む。
「事実です」
リーネは一歩も引かない、視線も逸らさない、誠実な態度を決して崩さず、信じろ、と瞳で語る。
「私は、剣の聖女として“半分”だけの力を授かりました。聖剣の意思を聞き、導きを受ける権利。ですが―――剣を振るう資格は、別の者に与えられていました」
瞬間、全員の視線があたしに刺さる。
状況からして、そりゃあたしを疑うのは当然だよね。
「それが……カノン殿か」
アルミリアの声が、静かに落ちてくる。
彼女の深い海のような瞳が、あたしの目を真っ直ぐ見つめる。
逃げ道がふわって、蜃気楼のように消えた。
「あ、えっと」
何か言わなきゃ。
否定の言葉が出なかった。
机の上の剣が、ルクスからの圧が、「嘘を吐くな」と言っているようで。
「……はい、その通りです」
リーネが、あたしの前に立つみたいに言った。
庇ってくれたおかげで、少しだけ息ができる。
「真に聖剣の担い手たる人物はカノンです。私は、聖剣の声が聞けるだけに過ぎません」
そっと指先で聖剣に触れ、リーネはどこか諦めたように笑った。
「この剣が選んだのは、他でもない、カノンなのですから」
リーネのその顔に、あたしの胸の奥がきゅっと締め付けられる。
そうだよ。何故かあたしが抜いちゃったんだ。
本当なら、リーネが抜くはずだった聖剣。
それを奪ったんだから、あたしも、逃げるわけにはいかないよね。
「君たちの事情は、よく理解した」
アルミリアが手を挙げて、リーネの説明に割って入る。
疑いは消えない。でも、今はそれよりも優先すべき問いがある―――そんな目だった。
「答え合わせをしよう。我々の目的は、リーネフォルテ殿の想像通り、剣の聖女を戦の旗印に……そして、闇を断つ剣にすることだ」
予想が当たっていても、リーネは少しも喜ぶことはなかった。
むしろ逆に、ここからが本番だと言わんばかりに息を呑む。
それにつられて、あたしの胃もきりきりと痛む。
「その上で、リーネフォルテ殿に問いたい。何故、我々にそこまで打ち明けたのか」
きた。
そう、隣に座るあたしにだけ聞こえるほど小さく呟いて、リーネは少し、座る位置を前に移す。
自信に満ちた横顔が、なんだかとても嬉しそうだった。
「あなた方を信用しているからです。―――少なくともあなた方は深淵領域の奥にある滅びた国に、危険を冒して踏み込んだ。たかが『剣の聖女』という、北の小国の伝承の中でのみ、世界を救うと語られる存在のために」
リーネはそこで言葉を切って、机の上の聖剣に視線を落とした。
「……その行動は、信仰心だけでは説明がつきません。あなた方の世界を救わんとする意志は本物だと、そう判断しました」
「利益のために命を賭ける者もいるのでは?」
「可能性は否定しません。ですが、利益のためなら使いを寄越せば事足りるでしょう。祈の聖女本人が危険を冒して出迎える理由にはなりません」
アルミリアの隣で、イルセナリアが控えめに一度だけ頷いた。
味方だといいな。今は、そう思わせてくれた。
リーネは顔を上げて、ハッキリと言い放つ。
「取引をしませんか?」
取引。
その言葉に、あたしの心臓が嫌な跳ね方をした。
怖い。でも、今のリーネの言い方は怖いのに、強い。
「戦いとなればいずれ、カノンが聖剣の担い手だと嫌でも露見してしまうでしょう。後から発覚したら、それは協力ではなく、裏切りになってしまう」
リーネの横顔が、一瞬だけ祈るみたいに柔らかくなる。
でもすぐに、凛とした王女の顔に戻った。
「世界を取り戻し、民に故郷を返す。そのために、私たちには命を賭ける覚悟があります」
空気が、しんとした。
重い沈黙って耳が痛いんだな。今、初めて知ったよ。
アルミリアは腕を組んだまま、しばらく何も言わなかった。
怒っているわけじゃない。彼女が感情で揺れることはない。
ただ、頭の中で何かを組み立てている―――そんな目。
「……取引か」
やっと落ちてきたその声は、ひどく落ち着いていた。
値踏みの段階は超えた。今、殺すか、使うかを秤にかけてる。
「では条件を聞こう。君たちは何を求める」
「二つ、あります」
リーネが即答する。
「一つ。私たちを協力者として扱ってください。拘束や監視が必要なら受け入れます。ですが、鎖で縛ることは止していただきたいのです」
アルミリアの眉が、ほんの僅かに動く。
反論じゃない。評価、値踏みの動き。
「二つ。聖剣の真の担い手がカノンであることを、決して外部に漏らさないでください」
「その訳は?」
アルミリアが短く問う。
「あなた方にも敵対する組織の一つや二つはあるでしょう。担い手が露見すれば、あなた方の切り札は狙われます。失えば、戦略が崩れる。だから旗と剣を分け、剣を秘匿すれば、被害は旗で止められる―――合理的でしょう?」
「敵が旗に群がれば剣は温存できると……筋は通っている」
アルミリアの目がほんの少しだけ細くなる。
怒りでも喜びでもない。ただ、盤面を一つ進めた、みたいな目。
でもそれってさ……要するに、リーネがあたしの代わりに矢面に立つってことじゃん。
元々そういう約束だったけど、いざ言葉にすると、何だか複雑だ。
守られて嬉しい、って思う自分がいるのが、いちばん嫌だ。
本当は、あたしがリーネを守らなきゃいけないのに。
「必要であれば、今ここで担い手がカノンであることを証明します」
「いいだろう。やってくれ」
全員の視線があたしに集中した。
冷汗が背中をツーっと伝う。喉が渇いて、思わず息を呑む。
「カノン。お願いします」
リーネが鞘を掴んで、あたしに柄頭を向けた。
大丈夫、大丈夫……だってあたしは一度この剣を抜いているんだから。
恐る恐る柄を握って、目を瞑る。
心臓がバクバクってうるさい。緊張で手が震えて、力が入らない。
ふと……震えるあたしの手に、誰かの手が添えられたような感覚がした。
喧しい心臓の鼓動も治まって、震えがパッと止まる。
温かい。誰もいないはずなのに、そこに誰かがいる気がする。
大丈夫ですよ―――レーヴァ=ルクスから優しい声が聞こえた。
いや、ただの幻聴だ。逃げ場のないあたしが、ルクスに縋ってるだけ。
でもおかげで、うん、落ち着いた。
そっと腕を引く。
きぃ……と小さく、鞘が鳴いた。
刃がほんの一瞬だけ滑り出て、場の空気が凍るように張り詰めた。
「十分だ。証明としてなら、それで足りる」
あたしが抜き切る前に、アルミリアがそう言って止める。
カチン、と音を立て、聖剣が鞘に納められた。
「カノン殿、聖剣を少し借りても?」
「あ、はい。どうぞ」
あたしが聖剣を差し出すと、アルミリアは入口付近に立つシリウスに手招きをする。
「伝承通り、カノン殿以外は聖剣を抜けないのか、確かめさせてもらう。シリウス、これを」
シリウスがこくりと頷いて、アルミリアから聖剣を受け取る。
彼が柄に触れた瞬間、リーネが耳を押さえた。
あたしには何も聞こえないのに、リーネだけが「うるさい」って顔をした。何かが耳元でざわついた、そんな顔だった。
「……どうやら、本物のようだね」
自分では引き抜くことができないと悟ると、シリウスは首を横に振った。
それに、アルミリアが「ほぉ」と声を漏らす。
ほぉ、じゃないよ、こっちは胃がねじ切れそうなのに。
シリウスから聖剣を受け取ると、彼女自身も聖剣を抜こうと試みた。
結果は―――当然、失敗。アルミリアの口角が僅かに上がる。
「面白い。ありがとう、これは返そう」
アルミリアは机に聖剣を置き、そっと手で押してこちらに戻す。
彼女の声音から、警戒の色が薄まった気がした。
ひとまずは、安心できる状況に持ち込めたってことかな。
アルミリアは腕を組んだまま、少し黙っていた。
沈黙が長い。心臓に悪い。お願いだから何か言って。
やがて、彼女は息をひとつ吐いて口を開く。
「要求を受理する」
―――思いの外、あっさりと。




