第34話 ぶん殴ってでも止めてやる!
街の移動だけで魔力を使うのは、魔竜騒動以来だった。
通行人の間を掻い潜るようにして大通りを駆け抜けて、屋根を伝ってショートカット。カテドラルから烽火院まで、十分とかからず到着する。
屋敷の中ですれ違う残火守の兵士たちの表情はひどく沈んでいた。
それは多分、アルミリアが倒れたからではないと思う。
だって、アルミリアは自分が倒れたからといって、それを公にするような人ではないから。
きっと、彼らも不安なんだ。
もう三日が経った。
やれるだけのことはやっているけれど、それでも、ヴァールゾルグのような大国に勝てる保証なんてどこにもない。
それを心のどこかで理解しているからこそ、楽観的にはなれない。
「アルミリアっ!!」
直感が働いて、あたしは彼女の執務室の扉を開け放った。
何故ここなのかは、自分でもわからない。ただ、ここにいるという予感がした、それだけ。
リーネ、ノア、シリウス……部屋の中にいた三人が、一斉にあたしに視線を向ける。
だけどあたしの視線は、目の前の執務机―――椅子に腰をかけて書類と睨み合うアルミリアに吸い寄せられた。
「あぁ、カノン。ようやく来たか」
「……え?」
あたしの口からは、思わず素っ頓狂な声が出ていた。
倒れた、って聞いた。
それなのにアルミリアの様子はいつも通りだった。
いつも通り椅子に腰をかけ、執務机に向き合い、書類に目を通し、的確な指示を出す。何一つ変わらない、残火守の長としての仕事の姿。
「なんで……?」
「何で、とは?」
「いや、あたし、ノアからアルミリアが倒れたって聞いて、急いで来たんだけど」
戸惑いながらあたしがそう言うと、窓際に寄りかかってタブレット端末らしき機械を操作していたノアが、深いため息をこぼす。
「倒れたのは本当。数秒だけ意識が飛んで、すぐ起き上がって、仕事するってうるさくて」
「え、だ……大丈夫、なの?」
「あぁ、問題はない。ただの過労だ」
「いや、それは問題なんじゃ……」
アルミリアは一瞬だけ左手に視線を向けて、真っ直ぐにあたしを見る。
「問題ないと言っている。私の身を案じるな。これは命令だ。逆らうのなら君であろうと斬る」
言い切ったアルミリアの瞳は、いつも通り深い青色だった。
いつも通りのはずなのに……よく見たら、目の下のクマと血色のない唇を化粧で隠した跡がある。
全然大丈夫じゃないじゃん。
「……いやだ」
気付けば、あたしはそう呟いていた。
部屋の空気が一瞬だけ凍る。
リーネが小さく息を呑み、シリウスの視線があたしとアルミリアを交互に見る。
ノアは相変わらず壁際で興味なさそうに端末を操作しているけど、指先の動きがほんの少し止まった。
「ほぅ、従えないと?」
アルミリアが眉を上げた。
怒ってはいない。怒気がない方がかえって怖いこともある。
漂ってくるのはどちらかと言えば、無理やりにでも放っている殺気。
「だって、倒れたってことは、限界だってことじゃん。疲れすぎてると、死ぬことだってあるんだよ」
「知っている。だがその上で問題ないと私が判断した」
「それが問題大アリだって言ってんの!」
勢いに任せて、執務机を両手で強く叩いた。
書類の山が崩れて、雪崩のように紙の束が床に落ちる。インク瓶とその隣に置かれた見覚えのある薬瓶がぶつかって、カランと鳴る。
あたしが強い感情をあらわにしても、アルミリアは動じない。
海のように深く青いその瞳が、揺らぐことなくあたしを見据えている。
「命令違反だ。……一度だけチャンスをやる。頷け、了承しろ。私に従え」
淡々と告げられて、背筋がぞくりと冷えた。
怒鳴られた方がまだマシだったかもしれない。
あたしは今、一度死んだ。アルミリアが猶予をくれたのは、きっとあたしへの情けとか、借りとか、そういう、今までの積み重ねのおかげだと思う。
―――もう、チャンスはない。
「お断りだね」
アルミリアの眉が、ピクリと動いた。
もう後戻りはできない。でも、ここであたしが何とかしないと、アルミリアは考え方を変えてはくれない。
そう、それこそ、あたしが死んで後悔するような、もっと大きなショックがないと……アルミリアの意志は崩れない。
逆に、あたしが死んで目を覚ますかも―――なんて考えは、自惚れかもしれないけど。
「カノン、待ってください、それ以上は―――」
「絶対に従わない……従ってやらない! 斬るなら斬りなよ。ここでアルミリアの無理を見逃すのだけは、死んでもごめんだ!!」
言い切った瞬間、あたしの背中を冷汗が伝った。
怖くないわけがない。つかくっそ怖いよ。
だってあたし、今この国の最高権力者に逆らっているわけだし。
なのに、ここで「うん、わかった」って言うのだけは、あたしのプライドが許さなかった。
退かない、退けない。退いたら負けだ。
ここであたしが手を差し伸べなかったら、アルミリアはまた自分を削って、原作通り最悪の暴君として処刑される。
そんなの、絶対に嫌だ。
「……そうか」
アルミリアがおもむろに椅子から立ち上がる。
机の向こう側にいるのに、圧が違う。ゆっくり歩いてくるだけなのに、息が詰まる。
「シリウス」
名前を呼ばれて、シリウスが自分の腰に下げた剣を引き抜いた。
アルミリアはそれを右手で受け取り、あたしの二歩前に立った。
「君は、私の命令に逆らうのだな」
命令―――またそれか。
アルミリアの声は今まで聞いたどの声よりも低くて、冷たかった。
身体の内側が勝手に縮こまる。
あたしとそれほど背丈は変わらないくせに、ずっと上から見下ろされているような圧があった。
でも、退かない。
「逆らうよ」
「最後に理由を聞いておこう」
「アルミリアに……死んで欲しくないから」
「我儘で、感情論だな」
切って捨てるみたいに言われて、胸が痛んだ。
わかってる。エゴだし感情論だよ。
でもあたしはそれを貫くって決めたんだ。
オタクのエゴで、この世界のみんなを救うって約束したんだ!
「エゴだからなに!? それを言うならアルミリアの行動だってエゴじゃん!!」
アルミリアの瞳が一瞬揺らいで、細められた。
「違う。これは私が出した、この聖都と人類を救うための最適解だ」
「それを誰が決めたのさ! 誰がそれを最適解だって言ったんだよ!!」
「私だ」
アルミリアは一歩も退かない。
怒鳴りもせず、反論もせず、ただ“正しさ”だけであたしを見下ろす。
「世界は一人の感情で動くものではない」
アルミリアが淡々と言った。
「君のそれは子供の我儘だ。現実を知らない夢物語に過ぎない」
夢物語。
その言葉が、胸の奥を鈍く殴った。
違うって言いたいのに、言葉が詰まる。
アルミリアが正しくて、言い返す言葉が見つからない。
世界はあたし一人の感情で動かない。
救いたいから救えるなんて、そんな都合のいい話じゃない。
でも―――
「……夢物語でいいよ」
小さく呟くような声が、あたしの口から漏れ出た。
「それでも―――あたしはアルミリアも、世界も、全部救いたいんだ」
「……そうか」
アルミリアの目が細められた。
左手の手袋がぎゅ、っと握り締められる。
アルミリアは目を瞑り、しばらく沈黙していた。
壁にかけられた時計の秒針の音が、やけにうるさく鳴って。
一際強く吹いた風が、執務室の窓を揺らす。
それはきっと、彼女が覚悟するための時間だったんだと思う。
即決することのできない問題を前に、彼女なりの答えを出そうとしていた。
だからアルミリアは小さく息を吐いてから、あたしの名前を呼ぶ。
「カノン」
息を呑んだ。
「最後のチャンスだ。私に従え」
その声にはこれまでの親しみがなくて、他人を相手するみたいに低く冷たかった。
「やだ」
短く、はっきり。
あたしの答えを聞いて、アルミリアの目がほんの一瞬だけ揺れた。
「……残念だ」
ゆっくりと、両手で剣を握る。
躊躇い、奥歯を噛み締めて、小さく踏み込み―――
「隙だらけなんだよ……!!」
剣を振るよりも早く、あたしの右の拳がアルミリアの顔面を捉えた。
鈍い衝撃―――剣を手放して、吹っ飛んだアルミリアは執務机に激突する。
紙の山が粉のように宙を舞って、インク瓶が床に落ち、割れた。
なんでこんなことをしたのかは、正直わからない。
ただ、左手が一瞬、痺れたみたいにピクリと動いて、隙がなかったはずのアルミリアに初めて隙が生まれた。
そこを突け、殴れ、差し込めって、あたしの中の一周目の失意がそう言っていた。
「なぜ……」
アルミリアは殴られて赤くなった自分の左頬に触れている。
目の前で起きた事実が理解できない、と言いたげな驚愕の表情を浮かべていた。
「カノンッ!!」
一拍遅れて、シリウスが背中の大剣に手を伸ばす。
「動かないでください、シリウス!」
「リーネフォルテ……!!」
リーネが右の掌を向けて、シリウスを牽制する。
魔法陣の展開は既に終わっていて、銃口を突きつけていた。
目の前で起きた聖都の最高戦力同士の仲間割れに、ノアは一ミリも動かない。
割れたインク瓶が床に黒い水溜まりを作って、紙の束がその上に落ちて汚れていく。
うっわぁぁぁ……やっちゃった……!!
やっちゃったけど、後悔はしてない。
いや、嘘。めちゃくちゃ後悔している。怖いもん。普通に怖い。
正直ブチ殺されても文句言えない。ムリ、必死に「あたしキレてますけど」みたいな顔してるけど、その裏では小型犬みたいにビビってますから……!!
「カノン……」
アルミリアがあたしを見た。睨みつけた。
深い青が怒りに揺れている。そう、怒っていたんだ。
さっきまでの冷たい殺意を引っ込めて、冷徹で冷酷な人間に徹している機械のような彼女は、そこにはいなかった。
「あたしが最初に言ったこと、覚えてる?」
「……覚えていないな」
嘘だ。絶対に忘れない。忘れないはずだ。
初対面の時、あたしが張り詰めた空気の中で滑らせたあの言葉は、あなたの本質を的確に見抜いてんだから。
「世界のために自分すら駒にした、冷酷非道な為政者を演じている少し抜けた女の子って言ったんだ。それがあなたの本質なんだよ!!」
あの時は、思わず飛び出てしまった言葉だった。
だって急に目の前の人間が死ぬ未来を見せられて、一周目のあたしから「これだけは阻止しろ」って感情だけをインストールさせられたから。
あれは確かに、あたしの本心じゃなかった。
だけど今は、今だけは―――本心で言える!
「怖いんでしょ。アルミリア」
言った瞬間、あたしの心臓がドクンと跳ねた。
だってこれは、アルミリアにとって地雷中の地雷。
一番触れられたくない、彼女の内心だ。
「……戯言を。私が怖い? そんなはずがあるか」
「嘘だね。あたし、わかるから!」
「何を言うか。私は―――」
「表立って怖いって言えないから、その恐怖を隠すために命令で相手を殴るんでしょ? 正しさだけはあなたの得意分野だもんね。いつも正論と合理を振りかざして、自分の感情も想いも後回し!!」
アルミリアの瞳が大きく揺らいだ。
図星を突かれた、って顔をしている。
「そんなだから人の心がわからないんだよ! 人の心がわからないから、正しさで人を従えることしかできないんだよ!」
ほんと、自分でも何を言っているのかさっぱりわからなかった。
でも、考えるよりも先に感情が口を動かしていて。
あたしはアルミリアの胸倉を掴んで、思い切り引き寄せていた。
軽い―――すごく軽い。その辺の剣より軽いんじゃないかってくらい。
いや、さすがにそれは軽すぎか。でも、そう錯覚するくらいには、アルミリアの身体は小さくて、細くて、軽かった。
「怖いなら怖いって言いなよ。助けて欲しいなら助けてって言いなよ。自分の本心はずっと押し殺して、世界のためだとか、人類のためだとか、そんなくっそどうでもいい未来のために自分削って―――」
明かすつもりはなかったのに、あたしは自然と叫ぶように続けていた。
「あなたが死んで、みんながどれだけ苦労したと思ってんだ……!!」
空気が凍った―――ていうか、もはや死んだ。
時間が止まったみたいに、誰も動かない。
秒針の音だけがやけに大きく響いて、あたしの心臓がそれに張り合うみたいにドクドク鳴っている。
アルミリアの瞳が揺れていた。
困惑とほんの僅かな恐怖が伝わってくる。
「……何を、言っているんだ」
掠れた声だった。
さっきまでの機械みたいな冷たさはなかった。
感情がある。色がある。熱がある。
人間としての困惑が、そこにはあった。




