結衣の一日
兄が目を覚ます少し前、結衣は部屋の前にそっと立つ。
ドアは、もちろん施錠されていない。
それでもノックはする。「おはようございます、兄さん。朝ですよ」
控えめな声に返事がなかったとしても――中に入る許可と解釈するのは、妹として当然の範囲内だ。
カーテンを開け、光を入れ、布団を優しく揺らす。
「朝ごはん、できてますよ? 兄さん、今日は寝坊すると、駅まで走ることになりますよ〜」
反応が薄い。
「……もう、しかたないですね」
結衣は布団の端をめくり、兄の頬にそっと手を伸ばす。そして、つん、と軽く引っ張る。
「起きてください、兄さん。じゃないと、なでますよ?」
そしてそのまま、なだめるように頭をぽんぽんと撫で始めた。
「んあー……やめろ結衣〜、まだ……ねむ……」
兄のくぐもった声が布団の中から返ってくる。
その呟きに、結衣は小さく微笑んだ。
兄が眠たげに目を開けるその瞬間を、結衣は一番好きだった。
そんな彼が朝食の席につく頃には、すべてが整っている。トースト、ウィンナー、そして兄さんの好物である少し甘めの卵焼き。
妹――白川結衣は、静かにエプロンの紐を外しながら微笑んだ。
両親は海外赴任中で、今この家には兄と結衣の二人きりだ。
結衣は血のつながらない義理の妹──中学生の頃、両親が再婚して出会った。
けれど彼女は、その瞬間にすべてを悟ったのだ。
ああ、この人が、私の運命なんだ、と。
それ以来、彼女の中で“兄”という存在は、誰にも侵されてはならない聖域となった。
ただの家族でも、ただの兄妹でもない。
――未来の夫。その位置づけは、最初から揺らいだことがない。
「おはようございます、兄さん。トーストは焼き加減、少しだけカリッとさせてみました」
兄は「うまそう」とだけ言って、座った。口数は多くないが、文句を言わないのが彼なりの満足の証だ。
ちなみに、今日のお弁当は兄の好きなミートボールと、昨晩から仕込んでいたポテトサラダ入り。(たしか今日は、美術室で作品の仕上げをするって言ってたな…… あ、制服の袖口、またちょっと汚れそう……)
「兄さん、その……制服、ちょっと袖口が乱れてます。直しますね。あ、今日帰ったらベッドのシーツ、替えておきますね」
「いや、シーツは自分で出すから、勝手に部屋に入らないでくれよ……」
「……何ですか、思春期の男の子みたいなこと言って」
「いや実際、高校生だし……」
「……ふふ、高校生って、自分の部屋のシーツひとつでそんなに気にするものでしたっけ?」
小さく屈み込み、兄の袖口に手を添える。
兄が箸を止め、わずかに動きを止めたのを、結衣は見逃さない。
「……将来、こういうのを全部任せてくれる方が現れたら、私は嬉しいです」
上目遣いで告げたその声は、優しく、けれど針のように刺す。
兄が何か言いかけたその瞬間──
「そろそろ、時間ですね」
言わせない。今日も、予定どおり。
◆
その日の授業は、兄と教室の反対側。顔を合わせることは少なかったが、昼休みになると、兄のクラスの動向が自然と気になる。
昼食の前には、兄が誰とどこで食べるのかをさりげなく確認済み。
――今日は男子数人と屋上か。
問題ない。
そのころ結衣は、兄の幼馴染である高木美羽先輩と、美術部の秋月玲奈先輩と一緒に、カフェで楽しそうに談笑していた。
美羽先輩は素朴で明るい性格の持ち主で、玲奈先輩は知的で落ち着いた雰囲気をまとっている。
「えっ、玲奈先輩って、兄さんのことモデルにしたいって言ってたんですか?」
紅茶をひと口含み、微笑む。
「素敵な発想ですね。あの横顔、確かに静かな芸術です」
褒める。敵意は見せない。
会話の流れの中で、美羽が最近、兄とよく話していることを自然に聞き出す。
「へえ、駅前の文房具屋さんで偶然? タイミングが合いましたね」
美羽との会話は、意外なほど自然だった。兄の身近にいる人間として、仲良くしておくのは当然のこと。
話題が広がり、学校のイベントや部活の話へと移っていく。
そのうち、美羽と玲奈が盛り上がりはじめ、結衣は少し離れて紅茶を口に運んだ。
――静かに観察し、状況を整えるのも、大事な事だ。
◆
放課後、兄は美術部で部室に向かい、結衣は一足先に帰宅する。
この日常の流れが、結衣にはとても都合がよかった。
兄が帰宅するまでの数時間、部屋には自由に入れる。 もちろん、何かを荒らすことはない。ただ、配置が崩れていないか、衣類の畳み方が変わっていないか、誰かの気配が混じっていないか。
一つひとつ、丁寧に“確認”するだけだ。
当然、ゴミ箱に“あれ”が残っていることはない。
結衣が日頃から部屋に出入りしていることは、兄も承知している――。
私が勝手に掃除しているのも、きっと気づいているだろう。
その流れで、結衣は兄のベッドに手をかける。
洗いたてのシーツと枕カバーを取り出し、いつもの手順で静かに交換する。
――三転方式。兄のものを自分の部屋に、自分のものを洗濯機へ、そして予備を兄の部屋へ。
特別な意味はない。ただ、清潔に保つための、ごく自然なサイクル。
そういうことにしておく。
それが終われば、少しだけ勉強の時間。 受験のためではない。兄さんを攻略するために必要な、実用的な学習。 最近は、非破壊解析と中華料理の勉強を並行して進めている。 どちらも、兄さんを支えるうえで無駄にはならないはずだ。
勉強を終えると、夕飯の支度に入る。今日は鍋だ。多少頻度が高くても不自然ではないし、野菜もしっかりとれる。季節ものという一点だけが悩みどころだが……
一緒に箸を伸ばし、同じ鍋をつつくというあの距離感がたまらなく良い。しかも、兄さんはずぼらなところがあるので、直箸をためらわない。 その事実ひとつが、結衣にとっては何よりも価値があるのだ。
兄さんと今日あったことを楽しく会話しながら夕食を食べた後は、お風呂の時間。
順番は兄さんが先だ。
はじめの頃は「先に入れ」と勧めてきていたが――結衣が「私が入った後のお風呂に、そんなに入りたいんですか?」と返したところ、以来なにも言わなくなった。
もちろん、結衣が後に入りたい理由は明確だ。兄さんが入った後のお風呂に入りたいから。それだけの話である。
お風呂から上がった兄さんは、結衣の部屋の前で「空いたよ」とだけ言って去っていく。 結衣はその声を聞いて立ち上がると、あらかじめ用意しておいた自分の着替えと──兄さんの“着替え”を手に取り、部屋を出た。
脱衣所に足を踏み入れると、ほんのりと兄さんの使った後の湯気と石鹸の匂いが残っている。
結衣はゆっくりと服を脱ぎ、湯船の温度を確かめてから、そっと浸かった。
兄さんの気配が残るお湯に体を沈めるたびに、不思議と心が落ち着く……///
十分に温まったあと、お風呂から上がると、結衣は洗濯籠の中を一度確認する。
兄さんの洗濯物をそっと取り出し、用意しておいた替えの衣類と入れ替えて洗濯籠に戻す。
こうしたことは毎回行うわけではない。今日は少し、高ぶっていた――だから、やった。 同じ柄のときにしか手を出さないし、兄さんが気づくようなことはない。
部屋に戻ると、結衣はそっと衣類を抱えたまま、しばらく目を閉じていた。
胸の奥がじんわりとあたたかくなる……///
――ほんの一瞬、それだけで、十分だった。
――自分でも、大体の行動がきもいことは自覚している。
けれど、かわいいは正義だ。兄さんも、昔そう言っていたし
――それに、私のこともかわいいって言っていた。だから問題ない。
ベッドに潜り込むと、ふと明日の予定を思い浮かべる。
天気予報では快晴らしい。早起きして、洗濯物を干そう。
兄さんのシャツとタオル、そしてわたしのもまとめて。
しかも明日は、兄さんの部活がない日だ。帰りは一緒に買い物に寄って、晩ごはんの材料を選ぼう。
なにが食べたいって聞けば、きっと「なんでもいい」って言うから――だからこそ、わたしが選ぶ意味がある。
そう思いながら、結衣はゆっくりと目を閉じた。