番外編「ユリウス=ヴェルシュタイン」
放課後の図書室。
夕陽が長い影を差し込む頃合い。
高い天井、静けさ。微かに本の香りと紙の擦れる音だけが満ちている。
分厚い魔導書を机に広げ、リリアナは一人、ペンを走らせていた。
題名は『応用魔素構造論・実践編』――通常は上級課程の研究者が扱うような専門書だ。
少女の白い指先がページをめくるたび、淡い金の髪が揺れた。
その表情は静かで冷静――だが、目には明らかに「焦りに似た熱」が宿っている。
(……これはもう、完全に“個人研究”の領域ね)
そう思いながら、離れた棚の影からユリウス・ヴェルシュタインはそっと見ていた。
彼はリリアナがこの本を借りた日から、なんとなく様子を見ていた。
かつては貴族の花として、誰かの横に並ぶのが当然だった彼女が、今はひとり、黙々と魔導の根本を掘り下げている。
(あいつ……やっぱり、“何か”を始めてる)
一歩、静かに近づき、彼は手に持ったノートを見下ろす。
それは彼自身が、かつて学年トップを争っていたときにまとめた――いわば**「自分用の完全ノート」**だった。
彼女の机に影を落とさないよう、そっと横に立つ。
「……その本、読むの? “魔素構造論”なんて、選ぶ人少ないのに」
リリアナは顔を上げた。
一瞬、警戒と驚きが交錯する瞳。だが、すぐに口元がわずかにゆるむ。
「……あなたも、興味があるの?」
「うん。少し前に勉強してた。これは、その時のまとめノート」
そう言って、ユリウスは一冊の手帳を机の上に置いた。
革張りのカバー、書き込みは細かく美しい。文字には癖がなく、図や注釈まで丁寧だ。
「……ずいぶん整ってるのね。まるで教本みたい」
「君が、昔“綺麗なノートは思考の鏡”って言ってたろ? ……覚えてるよ」
その言葉に、リリアナの指が止まる。
彼女は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「そんな昔の言葉まで……覚えてるのね、あなたは」
ユリウスは少し微笑んだ。
「覚えてる。だって、君の言葉はいつも、理屈以上に“芯”があったから」
沈黙が流れる。
図書室の高窓から、夕陽が差し込んで、彼女の横顔を柔らかく染めていた。
その影のなかに、わずかに“ほころび”が見えた。
リリアナは、ふっと笑うように息をついた。
「ありがとう。……ほんとに助かるわ。最近は特に、基礎から積み直す必要があるの。過去の“評価”だけで進むのは、危ういから」
ユリウスの視線が、彼女の横顔を捉える。
その言葉の奥にあるのは、自分の力を試したいという――まっすぐな渇望。
(……やっぱり、そうなんだな)
彼女は、ただの“失脚した令嬢”じゃない。
“自分の力”で立とうとしている。
誰にも頼らずに、誰の名声にも寄りかからずに。
それが、ユリウスにはどうしようもなく眩しかった。
「……君は、変わったな」
「いいえ。むしろ“戻った”のよ。もともと、私はこうだったのかもしれない。――ただ、それを誰も見ていなかっただけ」
「違うよ。見てた奴は……ちゃんと、いたよ」
リリアナが驚いたように、ユリウスを見た。
真っ直ぐで、優しい瞳。
それは“好意”という言葉だけでは済まない、長い時間の積み重ねだった。
「……見ていたのなら、教えてくれればよかったのに」
「君が見ようとしなかった。……でも、これからはちゃんと伝えるよ」
言葉が消えたあと、図書室は再び静寂に包まれた。
だがその沈黙のなかで、心の距離がほんの少し、確かに縮まった。
彼女は、ノートを胸元に引き寄せながら、囁くように言った。
「……あなたのノート、すごく丁寧ね。まるで、私が読むって知ってたみたい」
「知ってたから。……君にだけは、見てほしかったから」
そして、ユリウスはそれ以上、何も言わなかった。
彼はそれが――
「焦らずに、少しずつ隣に立つための一歩」だと知っていたから。