序章2 職業安定局 「甲種職業訓練課程 新世界国際共同管理区域合同ビジネススキル向上研修」
都内某所、職業安定局。
今日も、虚ろな目をした失業者・求職者たちが、スマホを片手に長蛇の列を作っている。
彼ら、彼女らはみな失業者であり、もう数十年に及ぶ不況により、就職が困難な者たちである。
IT技術の革新に伴い、企業側の労働者に求めるスキルの要求水準はかつてないほど上昇した。技術の進歩はあらゆる分野を自動化し、人々はより高度で快適な生活を享受することができるようになった。人々の私生活まですべてのぞき見できるようになるまで。
本来、高度な情報化により、個人のプライバシーが常に脅かされかねない状態になったことや、就職に必要なスキルがかつてないほど高度化したこの時代には、それらの発展や問題の発生を見越して国全体でしておかなければならないことがあった。
プライバシーを含めた個人の権利の用語、権利を主張する意識の醸成、専門的な法律の知識の伝授、新たな技術がもたらす正と負の両方の正確な教育、新たな技術を教育する職業訓練体制の拡充。
これらは、拡大と暴走の一途をたどって、ついには各個人の私生活の領域まで犯し始めた時代の暴走に歯止めをかけるため、心のある人々はその必要性を主張していた。
しかし、現実にこれらが本来の意味で達成されることはなかった。
権利に関する教育の貧弱さと、職業訓練体制の旧態依然とした質の悪さを改革する機運は、何故か政治レベルで議論らしい議論をされることもなく、改革という名のもとに、ただ政治の息のかかった業者に利益を供与する形のみで終わってしまった。
公共の職業訓練の質は貧弱そのもの。やる気のない外部委託業者の収入のためだけのもので、終了した人が得る者は虚無のみという悲惨なシロモノである。
失業者には失業保険があることはあるが、自己都合退職者は半年間の給付制限が課せられ、簡単に受給できない。
しかも、自己都合退職をして失業保険給付を申請すると、政府のパーソナルカードに記録された勤労冒涜率が上昇してしまう。
これが上昇するたびに各人の年金受給、海外旅行のためのパスポート取得、株式取引の際の口座開設などに制限が課せられる。
各企業のブラックリストにリスクとして登録され、再就職に著しく不利になるなど、数多くの不利益を被ることになってしまう。
このため、自己都合退職による失業保険給付申請者は驚くほど低い。生活保護申請者も同様だ。失業者はブラック企業と分かっているところでも就職せざるを得なくなっている。
政府はこれにより社会福祉費の大幅削減と、失業率の改善に成功した。
政府の財政状況は極めて健全である。
しかし、そんな倒錯した空気に覆いつくされている職業安定局の中で、唯一明るい雰囲気に満ちた部署があった。
「甲種職業訓練課程 新世界国際共同管理区域合同ビジネススキル向上研修 相談課」
お役所特有の息苦しい、無機質なブースが立ち並ぶ職安内部で、ひときわ異質な部署。
名称こそ仰々しいが、その部署のブースは拡張高いシックな光沢のある木の枠で飾られ、そこから一人一人奥の個室に案内されるようになっている。奥の個室も同じように洒落た造りであり、相談者には無料で飲み物がサービスされ、さながら銀行の投資コンサルタントの相談室のような豪華な造りだ。
この部署の目的は、その名の通り異世界での職業訓練の研修を3カ月受け、現実世界のビジネスで通用するスキルを向上させ、短期間で一流のビジネスパーソンを養成することである。
「新世界」には、人の限界を超えることができる磁場があるとされており、そこで滞在しながら訓練をすると、現実世界では一部の才能のある者しかできないとされていた一流のスキルが手に入るということが、数年前から各国の研究者が「新世界」に行った人への研究から判明してきた。
これを利用し、一流の人材を促成栽培で養成できる理想的環境として、各企業がこぞって研修を「新世界」で行うようになったのだ。
職業安定局のこの課程も、それに倣って創設され、公共の職業訓練ながら民間の大企業も出資する、半官半民の一大事業となっている。
それ故、待遇もほかの職業訓練とは全く違う。
研修期間中の衣食住の費用はすべて国が負担。
課程履修中から国内外の一流企業のインターンシップが受けられる。
大抵インターンシップを受ければ、修了後、そのままその企業か、それと同等以上の企業への就職が保証される。
この別格ともいうべき待遇。
そして、ブラック企業という奴隷労働から解放され、自己実現のできる一流社会人へとやっと脱出できる。
辛酸をなめてきた失業者、中でも若年層は本課程にたちまち殺到し、受講には連日受付が回ってくるまで各人約5時間待ちの長蛇の列ができている。
本課程に進むには、「新世界」での注意事項が書かれた注意書き兼契約書に署名・押印し、併せて現地の風土病対策のための予防接種を受けることが義務付けられている。
※「異世界」とは、一般国民による漠然とした俗称であり、政府および公式文書における全世界共通の名称は「新世界」。公式の場で異世界と口走ると、常識のない人間とみなされやすいので注意が必要である。
「皆さん、騙されてはいけません。「新世界」に行くと洗脳されて大変なことになります。行ってはいけません!!!!」
突然、マスクとサングラスをした中年の男性らしき人が、大きなカバンに隠し持っていた拡声器を片手に、職業安定局前で演説を始めた。
「皆さん。「新世界」に行って帰ってきた人がどのような状態になっているか知っていますか?「新世界」で素晴らしい能力が手に入るなら、なぜ「新世界」帰りの人の中に、家族との関係が断絶したり、人としてのモラルを無視した行動をとる者が後を絶たないのですか?皆さんそれを知っていますか?それは・・・・・!!!」
演説の途中でその男は、駆け付けた警察に即座に取り押さえられた。そのまますぐに近くに止まっていた護送車に連れ込まれる。
彼は最後までもごもごと口を動かしていたが、聞き取れない声だった。
そして、最後まで、その場にいた誰も彼の発言を真に受けようとする者はいなかった。




