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正と負に分けられた神々の均衡が崩れ、それは人の世をも乱れさせた。多くの国々が、信じる神の意向のもとに版図を拡大せんとする。大いに争い大いに乱れた時代。
――大争乱の時代。
長きに渡る争乱は、多くの負の心を生み出した。愛しい人を失った怒りや悲しみ。繰り返される悲劇を恐れ、厭う。その心がまた負の神の力となり、より世界は乱れていく……。
だが、時代の風潮に逆らうかの如く、多くの争乱から距離を置く国があった。そんな国のとある場所。深き森に覆われた崩れかけた廃墟での出会いにより、この物語は始まるのだった。
「主様! このような場所にいらっしゃったとは……」
真っ黒な艶やかな毛並みの猫は、心配の言葉と共に台座に横たわる男のもとへ駆け寄った。しかし、男はなんの反応も示さず、呼吸すらしていないように思われる。
「やはり、お力のほとんどを失っておられるのですね……。でしたら!」
意思を固めた様子の黒猫は、男の身体の上にそっと乗り、柔らかそうな肉球を男の頬に押し当てた。――眩い光が黒猫から、そして、続くように男の身体からも発せられた。墓室を思わせるように薄暗かった室内は、途端に光に包まれた。
しばらく続いたその光が落ち着き始めた頃、男はむくりと身体を起こした。見事な銀色の髪をなびかせながら、胸元の黒猫を抱きかかえて。そして、周囲を見回した後に呟いた。
「ここはどこだ? 俺は誰だ?」
「ニャーン、ニャ?」
男の問いに答えようとした黒猫は、人語を話せない事に困惑しているようだ。急にジタバタし始めた黒猫を優しく撫でた男は、台座から降りつつ黒猫を足元へと解放した。
「済まなかったな、猫さん。いつまでも抱きかかえていては迷惑だったな」
「ニャーン!」
まるで否定するかのように首を横に振る黒猫だったが、男にはその意図が伝わらなかったようだ。仕方が無いとばかりに、黒猫は男の足に頬をすり寄せながらニャンと甘えた声で鳴いた。
「妙に人馴れした猫さんだ。もしかして……俺の飼い猫だったのだろうか?」
「ニャン!」
「もしや、返事をしたのか? いや、偶然だろう」
男の問いに尻尾をパタパタと振って見せ、男が考えを否定するとへにゃりと尻尾を垂れ下げた。意思疎通を諦めた黒猫は、男を置いて走り出した。そして、崩れ落ちた壁の前で男に向かって振り返る。こっちが出口だと言いたげな様子で。
男は今度こそ黒猫の意図を察したようで、出口に向かって歩き始めた。強い力で破壊された事を窺わせる元壁であった瓦礫の上を進み、先導するように歩を進める黒猫を追いかけた。墓室のようだった部屋を出て細い通路を抜けた先で、男は広い空間へと辿り着いた。
「年季の入った祭壇に朽ちかけている長椅子。ここは……神殿だったようだな」
男は祭壇の奥へと視線を向けるが、そこにあるべき物の姿を見付ける事は出来なかった。
「神像が無いな。盗まれたという事か?」
少し考える素振りを見せる男に、黒猫はニャンと短く鳴いた。考える事を中断した男は、再び歩き出して黒猫の後を追った。そして――
「やっと外に出られたか。それにしても……かなり大きな神殿の割に、いずれの神を祀る神殿なのかが分からないとは」
信仰のよすがとなるべき神像は無く、神殿の名を示す箇所は破壊されていた。その上、百年単位で放置されている風化具合であり、世界から忘れ去られた場所というのが適切な表現だろう。それを裏付けるように、深い森の合間を縫うように通された道には草が生い茂り、人の往来が途絶している事を表している。
「俺は何故、この場所で目覚めた?」
その問いに答える声は無かった。代わりにニャンという鳴き声と共に、黒猫が男へとその身を擦りつけた。男はしゃがみ込むと、黒猫の頭を優しく撫でながら微笑んだ。
「猫さん、案内ありがとう。とりあえず、俺はこの森を抜けるつもりだが……ついてくるか?」
「ニャン!」
元気よく鳴いた黒猫は、男が進もうと考えていた獣道の方向へと向きを変えた。まるで共に行く意思を示すかのように。
「そうか。なら、行くか!」
一人と一匹は、共に森へと分け入っていった。
自身の名すら思い出せぬ謎の男と、人語を解する不思議な黒猫。この旅立ちは、大争乱の時代にどのような影響を与えるのだろうか……?