38 大捕り物 2/2
「ケビン様! あの女、逃げましたわよ!?」
「プラン『外堀』開始ですね、ケビン様!」
「はい、ドビアス様。よろしくお願いします。リーンハルト、後は任せた」
「わかりました。まあ、ケビン様もご無理はなさらず」
ひらひらと手を振るリーンハルトを見た後、ケビンは服に隠し持っていた杖を取り出す。
小さな魔法石つきの、万年筆サイズの杖だ。
バニラが持っていた杖と、同じ仕様のもの。
「ケビン様! 私も行きます!」
「ええっ!? デイジー様、ですが」
「行きます!」
「……わかりました。気を付けてくださいね」
ケビンはデイジーを腰から引き寄せると、杖できらきらと輝く床をいくつも出していく。
そして跳ねるように宙を駆け出した。
床が弾ける勢いを使いながら、バニラを囲うようにして守っている国王直属部隊を、頭の上から追い越すのだ。
先週の夜会のときよりもスピードを出して空を駆けているのだが、一緒に居るデイジーは、余裕のある様子でケビンによりそっている。
「デイジー様、ずいぶんと手慣れましたね」
「一度経験しましたし、スカートではなく騎士服ですからね! 杖を貸していただければ、たぶんこの倍は早く動けますよ!」
「私が足手まといでしたか……!」
実はここ数日、この杖の使い方をだいぶ練習したのだが、やはり神は愚民ごときでは追いつけない存在らしい。
いや、作戦における杖の使い手を間違えたというほうが正しいのか。
雑談をしながらも、宙をすごい速度でかけていくケビンとデイジーに、頭上を追い越されている国王直属部隊達の一部は気を取られている。
割と贅沢な身なりの若い貴族の男が、キラキラ輝くタイルを弾けさせながら、妙にスタイルのいい巨乳金髪ポニーテール騎士服令嬢を連れて宙を駆けているのだ。
その不思議な光景は、彼らの幼い頃の記憶を呼び起こすものだった。
まるで、おとぎ話に出てくる、楽しくてキラキラした魔法のような。
そんなふうに、うっとりと呆けている彼らの気持ちを、ケビンは察することができなかった。
(なんだかぼんやりしている兵士さん達だなあ)
ケビンは失礼にもそんなことを思いながら別の杖を使い、ケビンの発明品のファンになりかけている彼らの頭上から、非情にも目つぶしの煙を浴びせる。
男達の悲鳴や叫び声が聞こえる中、その少し離れた先頭を駆けるピンクブロンドの令嬢の元に、ケビンは舞い降りる――。
「ケビン様っ、ここで手を放してください!」
「えっ!?」
舞い降りる前に、ケビンの手から勝手に離れた女仮面ことデイジーは、バニラに向かって体当たりするように落ちていく。
「極悪変態女バニラ、覚悟〜〜〜〜〜〜ッ!」
「きゃあああああーーーっ!?」
ちょっとした高さから襲い来る仮面女騎士の図は、バニラに想定以上の衝撃を与えたらしい。驚きの極致といった形相で叫んだバニラは、動揺したままデイジーのフライングボディアタックを全身で受け止め、女二人の悲鳴と共に、庭園の芝生の上で、水色デイドレスの令嬢と騎士服姿の女仮面が、もつれあいながらゴロゴロと転がっていく。
二人の回転が止まったところで、芝生に降り立ったケビンは、バニラの顔の近くにしゃがみこんだ。
「バニラ様、大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけないでしょっ!? この女の手綱、ちゃんと握りなさいよ!!」
「私に十字固めされておきながら、ずいぶん余裕じゃない、この淫乱女!!!」
「いたたたた、や、やめなさいよ、この筋肉女っ!」
「バニラ様、あなたは本当にすごいです。誰かに師事を受けたのですか?」
興奮した様子で、きらっきらに輝く紫色の瞳を向けてくるケビンに、十字固めをされているバニラも、十字固めをしているデイジーも、疑問符でいっぱいの様子で固まる。
「あなたの持つその杖、私が作って落としたものなのですが」
「え!?」
「もともと、惚れ薬的な杖の開発をしてみてみたらどうだという話になって、それで着手したものなのですよ」
惚れ薬と言われて、惚れたも腫れたも知らないケビンは考えた。
そもそも、惚れるというのは、どういう状況を指すものなのか?
好みの女性を見た時の性的な興奮、美しいものを見た時の感動による興奮、恐ろしい瞬間に立ち会った時の恐怖による興奮は、すべて違ったものなのか?
愛と好きは異なるのか。
恋愛の愛と家族の愛は、まったく別物なのだろうか。
吊り橋効果という現象は、恐怖による興奮と性的な興奮が同一、または似通っていることを指してはいないか。
短く終わる愛と、長く続く愛の違いはなんだ?
恋愛結婚と政略結婚の違いは。
人はなぜ、人に惹かれるのだろうか。
わからないのであれば、すべてを再現すればいいのではないか?
「そこで私は開発しました。人の興奮を呼び起こし、恋に落ちたのだと、限界まで錯覚させる魔法を――」
催眠と感覚と温度と気圧と光と。
すべてを駆使し、感動的で恐ろしくて親しみやすくて刺激的で性的で偶像的で唐突で馴染みのある衝撃を与える杖を開発した。
けれども、この杖には問題があった。
「対象が絞れないのです。杖を使われた対象が誰に対して興奮するかどうかを、術者が選び取ることができない」
選び取るには、それ相応の代償が必要なのだ。
そしてそれは、ケビンには実行できなかった。
杖を落とした後も、放っておいたのは、そういう理由だ。
きっと、魔石の限界値まで術を使い続けたとしても、思いどおりに事を運べる存在など居ないと思っていたから。
「けれどもあなたはすごいです。そもそも、杖の発動条件である言霊を知らないにもかかわらず、卓越した魔力感知能力と魔力操作能力で杖の発動に成功していること自体が奇跡のようなことなのです。それだけでなく、発動した魔法のほとんどを、魔石の力に頼らずに自分の魔力を混ぜた状態で起動しているので、杖の消耗がこれ以上なく遅い。落としたのは確か三年以上前であったというのに、なんら魔力の補充をすることなく今日までその杖は起動しています。術式の内容を理解しているのかと思いましたが、先ほどの衝動的な起動のさせ方を見ると、感覚的に何が必要なのかを感じ取りながら術を使っているのでしょう。まさに天才、魔法の才があなたにはあります。そしてそれだけではありません。まさかこうも対象者を広くとらえながら、あなたに好意を集中させることができるとは」
「ケビン様、お、落ち着いて……」
「あなたはまさに、世界に称賛されるべき――世紀の色仕掛け女です!!!!」
芝生はシーンと静まり返った。
気が付けば、周りには撒いたはずの国王直属部隊の男達が取り囲んでいる。
彼らもケビンの説明内容を聞いたのか、困惑した表情で立ちすくんでいる。
しかし、ケビンの視界にはそんな有象無象は入ってこない。
彼の目の前に居るのは、至高の現代サキュバス・バニラだからだ。
デイジーに十字固めをされながら服を乱し、頬を染め、ぷるぷると震えながら、涙目でケビンを睨む姿は、まさにお色気の象徴たる彼女にふさわしい図だった。
「言いたいことは、それだけ、ですか……っ」
「まだたくさん言いたいことはあります! まずあなたの魔力操作のやり方ですが」
「もうやめて! もういいわ、もう全部、たくさんよ!!!!」
肩で息をしながら、バニラはひとしきり叫んだあと、静かに息を落ち着けている。
しかし、誰もバニラに声をかけられないでいる。
それほどに気まずい空気が――ケビンはまったく気が付いていないが――そこには流れている。
少し落ち着いたのか、バニラは覚悟を決めた顔で、ケビンを見た。
「……ケビン、様」
「なんですか、バニラ様!?」
「……。もう、観念するわ。最後に、内密にお伝えしたいことがあります。耳を貸してくれますか」
「はい、なんでしょうか!?」
ウキウキが隠せない様子で、バニラの顔に耳を寄せるケビン。
デイジーはケビンとバニラの接近にビキビキと血管を浮かべていたが、十字固め中で余計なことはできないと思ったのか、おとなしく二人のやりたいようにさせている。
そうして、近くに寄ってきたケビンの耳に、バニラの囁くような声が届いた。
「馬鹿な人」
ちゅっ。
その温かい感触に、ケビンの思考が止まる。
視界に入るのは、離れていくピンクブロンドの影と、水色の瞳。
「ざまあ、みろ、だわ。これであなたもこの女も、あたしのこと、しばらくは忘れられない――」
「キィャアアアヤアアアアアェアァアアアアアアアア」
自分の真横から発生した世に恐ろしい大音量に、ピンクブロンドのお色気令嬢バニラは、ビクッと体を震わせる。
ケビンは、叫んだ。
叫んで叫んで、この恐慌を世界に知らしめんとばかりに悲鳴を上げた。
「ケビ、ケビン様? 落ち、落ち着いて」
「ヒィエエェェェェヤァアアアアアアアアアァアアアアアアアア」
「いやああケビン様ーーーっ!!!!」
叫んで叫んで叫び続けるケビンの傍に、十字固めを解いたデイジーが慌てて駆け寄ってくる。
そして、先ほど不純異性交遊的な接触のあった彼の右頬を、ハンカチを取り出してごしごしと拭い始めた。
「いたいいたいいたいですデイジー様」
「ケビン様今助けますからねケビン様今助けますからねケビン様今助けますからね」
「デイジー様待ちましょう少し落ち着きましょうか」
「ケビン様逃げないでください!!!!」
デイジーが頬の皮膚を削らんばかりにこすったのが相当痛かったのか、我に返ったケビンは必死にデイジーから逃げ出そうと、腰が抜けた状態で芝生をはいずっている。
その後ろからハンカチを持って襲い掛かる女仮面。
若干雪の残った青い芝生の上で、「イィヤァアアアアア」というケビンの悲壮な叫び声が舞う。
「……」
バニラは当然ながら、こっそりその場を逃げ出した。
どうやら、彼女が選んだ選択肢は、黒髪眼鏡の一代侯爵に多大なる影響を及ぼしたらしい。