29 魅惑誘惑篭絡?
時は少しさかのぼり、機材設置確認をしていたケビンは、そこに現れたバニラと向き合っていた。
「素敵な夜ですね。少しだけ、お話しませんか?」
そう話しかけられたケビンは、機材の設置確認のためにかけていた眼鏡の奥から、彼女の顔を目を凝らすようにして見る。
ケビンの目の前に立っているのは、バニラ=キャンディだ。
この国の第一王子の寵愛を受ける男爵令嬢。
ピンクブロンドの髪に、淡い水色の瞳が愛らしい女性である。
彼女の持つ美しさという特性は、ケビンにとっては特段意味をなさない。
ケビンの女性に対する認識は幼い時点で止まっているからだ。
綺麗だなと綺麗じゃないなくらいは判別ができるし、本日のケビンの神のごとくあまりにも美しい場合はさすがに『これは美しい人だ』とわかるのだが、先ほどのように大量の令嬢に囲まれた場合、もはや誰が誰と言う認識をすることも認識できなくなってしまう。女性と言う存在への興味が育っていないのである。
しかし、珍しいピンク色の髪という特徴は、ケビンにとってありがたかった。
おかげで、目の前に居るのが誰なのか、あらゆる意味で女性が苦手なケビンでも、すぐに判別をつけることができる。
「バニラ様、でしたか」
「嬉しい、名前を憶えてくださったのですね!」
「いえ、まあ、はい」
「せっかくなので、そこのガゼボでお話しませんか? ちょうどよく空いているみたいです」
「いえ、結構です」
「そんなこと言わずに」
「結構です」
「お堅い方。どなたかに操を立てているのですか?」
ゆっくりと近づいてくる彼女に、ケビンは困ったなと思いながら、会場のほうを見る。
周りを見渡しても、誰も居ない。彼女はなぜか、一人でここに居るようだ。連れ立っていたアレは一体どうしたのだろう。
「よそ見なんていやです、ケビン様。あたしだけを見てください」
「……バニラ様、会場にお送りしましょう」
「あら、エスコートしてくださるの?」
「いえ、私からは二メートルは離れてください」
「二メートル!?」
「私はアレに関与したくないので」
「アレ?」
「アレです。あなたのパートナーの、アレ」
ケビンが心底嫌そうにそれを口にすると、バニラは目を丸くした後、意外にも声を上げて笑い始めた。
「ふふっ。あの人を、アレ呼ばわりだなんて!」
「怒らないのですね。意外です」
「だって、わかりますもの。あんなのはアレで十分です」
「おや、ひどいことをおっしゃる」
「まあ、共犯でしょう?」
「なんのことですかね」
「自分だけ逃げ出すなんて、ひどい人」
言葉とは裏腹に、心から楽しそうにしているバニラに、ケビンは(なるほどなるほどなるほどなるほど)と心の中で頷く。
「ケビン様は、周りがよく見えていらっしゃるのね」
「そんなことを言われたのは初めてですね」
「あら、そうですか? なら、あたしとケビン様の相性がいいのかしら」
「そうですか?」
「だって、あなたはあたしを馬鹿にしないじゃない」
「……? あなたは賢い人ですから」
ケビンの一言に、バニラは驚いたように固まった。
不思議に思ってその顔を見ていると、じわじわと頬が赤く染まっていく。
設置確認のために眼鏡をかけていたので、せわしなく動くまつげのひと房までよく見える。
「……ケレンスキー侯爵って、女たらしなのね」
「そんなことはないと思いますが」
「リップサービスが上手いわ」
「そういうのは苦手ですね。嘘が得意に見えますか?」
「……見えないわね。本気なの?」
「思ったより自己評価が低いのですね。本当に不思議です」
「……!」
バニラは悔しさでいっぱいといった様子で、ケビンをキッとにらんできた。
その目は潤み、頬は赤らみ、唇は歯の間に収まっている。
……なぜ?
「いいわ。あなたも、あたしのものにしてあげる」
バニラは、一歩ケビンに近づいてきた。
「ケビン様も、男性だもの。きっとあたしには勝てないし」
ふわりと、視界が揺らいだ気がした。
心臓の音がよく聞こえる。
とくんとくんと、体が熱くなる。
見えるものすべてが、まばゆく輝いているような錯覚が起きる。
楽しいことが起こるときの、興奮のような。
恐ろしいことが起きるときの、恐怖のような。
ごくりと唾を飲み込んだケビンがバニラを改めてみると、彼女はゆっくりと、艶やかな桃色の唇を弓なりに曲げた。
「ケビン様とはうまくやれそうだわ」
彼女の顔がゆっくりと近づいてきて、しかしケビンは動かない。
動かず、その接近を、接触を待つかのように、ただひたすら、彼女を見つめて――。
その肩を掴んで、目の前の女を止めた。
「そういうことですか」
「えっ」
「あなたが何をしてきたのか、わかりました」
「なっ、なに……」
青ざめるバニラ。
ケビンはこれ以上ないほど目を見開いて、彼女を凝視する。
自分の肩を掴み、興奮した様子の男の狂気に、バニラが息を呑む。
「そうして、男を自由にしてきたのですね」
「……!?」
「これはすごいことです、バニラ様!」
「え……え!?」
「私はあなたを心から尊敬します。ぜひ、お話を――」
『――ケビン様、プランファイナルZです』
冷や水を浴びせられたように、血の気が引いた。
それまで興奮した様子から一変、青ざめたケビンに、バニラは止めていた息を吐く。声の元を探し、そしてケビンの着けているネクタイピンに目を留めた。
ケビンの身に着けている、小型遠隔マイクに。
『二階テラスに居ますから、下で待機してください』
「リーンハルト! だめだ、すぐに離れるんだ」
『まあまあ。過保護すぎると嫌われますよ』
「えっ!?」
『こういうのは膿を出し切るというのも大切なことです。まあ、このまま聞いていてください』
「リーンハルト!」
『うるさいのでスピーカーを切りますね』
絶句するケビンのネクタイピンから、デイジーとクラウスの会話が聞こえてくる。その内容に、憤っていたケビンも、隣でネクタイピンを不思議そうに見つめていたバニラも、次第に真顔になっていく。
『平民になったお前を、私が囲ってやる。どうだ、嬉しいだろう!』
『……えぇ?』
『お前は! 私が好きじゃないのか!!』
『ええ、あのはい、好きではないですね……』
『なにっ!? ど、どういうことだ! やはり、あの侯爵が好きだと言うのか。こんな短い期間で……浮気だ! 浮気!!』
「……」
「……」
ケビンは、何も言わない。
バニラも、何も言わない。
二人は目を合わせた後、無言で目をそらし、音声元であるネクタイピンを見つめる。
「なかなか拗らせていますね」
「そうなのよね」
ぽつりと呟いたケビンの言葉に、バニラもぽつりと答えを返した。
『王子である私の命に逆らえる者は居ないんだ!!!』
アレが叫んだところで、ケビンはこの場を辞することにした。
腹立たしくも、リーンハルトが呼んでいることだし。
「バニラ様。またお会いしましょう」
「……ケビン様?」
「あなたに会いにいきます」
それだけ言うと、ケビンはバニラに見えないように服の袖に隠しながら、魔道具の杖を振る。
「【シードフライング】」
紺色の布地に金の刺繍がきらめく燕尾服を翻したケビンは、自ら作り出した魔法の軌跡を追いかけるように、きらきらとした輝きを残しながら、空に向かって駆け上がっていく。
美しく優雅な様子に反して、彼の心は守るべき神と、神を害する有害王子への怒りで満ちている。
その後ろ姿を、熱のある瞳で見つめるバニラ。
しかし、朴念仁の極みたる黒髪枯れ木侯爵は、当然ながら、彼女の視線には気が付いていないのである。
ちょっとお外に出ただけですぐに変な女をひっかけるケビン