18 亀裂破裂炸裂分裂
そして、貴族学園入学後のある日、十五歳になったクラウスが爆発した。
貴族学園で、中間テストが行われたのだ。
クラウスは学年二位となり、デイジーは学年一位となった。
一位と二位の点数差は八教科で三十四点差と圧倒的であった。
しかし、二位と三位の点数差は五十点以上あり、さらに圧倒的だった。
クラウスも頑張ったのだ。
しかし、デイジーの壁は高く――クラウスを伸ばすためにさらに高く高くそびえ立ったそれを、彼は超えることができなかった。
そして、クラウスがデイジーを超えられなかった事実が、学園で中間試験成績結果として張り出され、誰しもの目に明らかになってしまったのである。
これにより、九歳の頃から婚約者によるスパルタ教育を受けながら努力を続けてきたクラウスの心が、ぽっきり折れてしまった。そして、成績発表のあったその日の夕方に、いつもと変わらず王宮のクラウスの部屋にやってきたデイジーを、拒絶した。
「お前が居なかったら、私の世界は平穏だったんだ」
「クラウス」
「なんで私の前に現れたんだ。なんでお前は、私と同じ年なんだ。なんでお前は、女で、私の……っ」
ソファに座り、頭を抱えたままこちらを見ないクラウスに、デイジーは扉の近くから動くことができない。
「お前はいつでも、いつまでたっても、私の世界の悪役だった。……そうじゃなくなる日は、きっと来ない」
「……」
「顔も見たくない。出ていけ!」
デイジーは、言葉もなくクラウスの私室から退室した。
閉じた扉を振り返り、五分ほど見つめていたけれども、かける言葉が浮かんでこない。
そして、部屋から聞こえてくる嗚咽に、何も言わずにその場を去った。
デイジーは、知っていた。
彼女の婚約者は、今までさんざんスパルタデイジーに対して苦情を申し立てていたものの、決してデイジーの悪口を言わなかった。
けれども、その壁を越えてしまうほど、彼は追い込まれてしまったのだ。
もう、限界だったのだ。
そう思う。
けれども一体、どうすればよかったのだろう。
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その日、家に帰って両親と弟にこのことを相談してみたけれども、いい考えは浮かばなかった。
「これで根を上げるなんて、クラウス殿下も情けないなあ」
「そうねえ。まだできることは沢山あるんじゃないかしら」
「姉様を超えたいなら、姉様より頑張ればいいだけなのにね」
「……それはそうかもしれないけど」
デイジーの家族は、だめなら頑張る、それでもだめならやっぱり頑張るをモットーとして生きているのだ。
そして、デイジーも、頑張って頑張って、だめでももっと頑張ろうをモットーとしている。
だけど、その理屈だけではどうしようもないこともあって。
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「クラウス様〜! 一緒にお昼を食べましょう!」
貴族学園の第二学年に進級したデイジーは、その黄色い声を聞いて、廊下で、自分の少し後ろを歩くクラウスを見る。
声の主に嬉しそうにほほ笑む彼を横目で見ながら、デイジーは毅然と前を向いて、歩みを緩めることなく、そのまま教室へと戻った。
「デイジー様、いいのですか?」
「クラウス殿下もです。あんな下品な男爵令嬢に、鼻の下を伸ばして……」
「いいのよ。私、気にしていないわ」
クラスメートの女子生徒達に囲まれながら、デイジーは穏やかな微笑みを浮かべつつ、首を振る。
第二学年に上がってからというもの、クラウスはバニラ=キャンディという男爵令嬢と交流するようになった。昼休みは常に一緒に過ごし、他の休憩時間も隙を見ては寄り添っている。
そして、貴族学園の学生達の多くが、男爵令嬢バニラ=キャンディと仲睦まじく過ごす第一王子クラウスに、いい顔をしていなかった。
とにかく、バニラの素行が悪すぎるのだ。
バニラの周りには常に高位貴族の令息達が侍っていて、第一王子のクラウスですらその中の一人にしかすぎない。
彼女が国の妃となるにふさわしい女性と言い難いのは誰の目にも明らかで、そのことが周囲の不安を煽っていく。
そして、国の第一王子に人を見る目がないことへの憤りと落胆、身分の低い男爵令嬢を不当に優遇することへの怒り、ついでに婚約者を放置して他の令嬢と懇意にする不誠実さへの疑心もない混ぜにした状態で、そのうっぷんを晴らすかのように、生徒達はクラウスを非難する声を、彼の婚約者であるデイジーに届けてくるのだ。
(私はクラウスのお母さんじゃないのよ!!)
あれをなんとかしろとばかりに届く苦情の数々に、デイジーは肩を落とす。
正直、クラウスがバニラとお付き合いをするのであれば、好きにすればいいと思う。
だって、デイジーとクラウスの仲は冷え切っていて、二人に未来はないのだ。
手順はどうかと思うけれども、思うところはないでもないけれども、クラウスに対して物申してやりたい気持ちはあるけれども、デイジーにクラウスとバニラの仲を邪魔する意思はないのである。
というか、見たくないし、聞きたくない。
正直、クラウスとバニラについては、一切関りを持ちたくない。
それなのに、周囲の者達はいい情報を手に入れたとばかりに、二人の仲睦まじい様子を逐一、デイジーに報告してくるのだ。
デイジーは常日頃から、バニラによる謎の嫌がらせを受けているけれども、そんなことよりも、周囲による密告のほうが彼女の負担になっていた。
そもそも、バニラがデイジーの物を壊したり、盗んだり、階段から突き落とそうとしきたり、空き教室に呼び出して令息達で囲もうとして来たりしても、別になんてことはない。教室で片手でリンゴを握り潰したり、我が公爵家のマッスルな使用人達と共に昼休憩に筋トレをしていれば、たいていの嫌がらせはなくなるのだから。
(まあでも、どこかでけりをつけないといけないわよね……)
クラウスとバニラが付き合いを続けるのであれば。
……いや、そうでなくとも、いつかどこかで、今後のことを考えなければならないのは事実だった。
デイジーは今のところまだ、クラウスの婚約者なのだから。
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「クラウスは、バニラ様のようなご令嬢がお好きなのですか」
貴族学園の卒業式を一カ月後に控えたある日、デイジーはクラウスにそう尋ねた。
その日はたまたま、空き教室に居る彼を見かけたので、二人で話をしたいと申し出たのだ。
それぞれが連れていた侍従侍女を廊下に出し、デイジーはクラウスと久しぶりに向き合う。
こうしてまともに話をするのは、第一学年の中間テストまでのことだから、実に二年以上ぶりだ。
あの頃のクラウスはデイジーと同じくらいの背丈であどけない顔をしていたのに、久しぶりに近くで見ると、デイジーより頭一つ分は背が高いし、顔立ちにも子どもっぽさがなくなっている。
年月を感じさせるそのたたずまいに、デイジーは、本当にこれ以上、問題を先延ばしにすることはできないのだろうなと、息を吐いた。
「お前になんの関係があるんだ」
「……一応、私はあなたの婚約者です」
「その自覚があったのか」
「バニラ様が、お好きなのですか」
答えを返さないクラウスに、デイジーはしばし答えを待った後、目を伏せる。
「……わかりました」
俯くクラウスに、デイジーは腹を決めた。
腹を決めて――クラウスの右頬に、横なぎに平手打ちをかました。
持ち前の筋肉を最大限に使い、全身を腰から回転させながら、右腕をフルスイングした。
ぶぁっちぃーーーーーーん!!!!!と音を立て、教室の机をなぎ倒しながら倒れゆくこの国の第一王子。
相手は王子様だ?
そんなことは、関係ない!!!!!!
「こんの、浮気クズ野郎〜〜〜〜!!!!」
「ちょ、ちょ、ちょっ、おま、ちょっと待て!」
「婚約解消まで『待て』できなかったのはそっちでしょうが、最低不義理男!!!!!」
クラウスに馬乗りになってバシバシ平手打ちを浴びせるデイジー。
その苛烈な音に、廊下で待機していた侍従侍女達が慌てて扉を開けて空き教室に入って来た。
しかし、そこに居るのは鬼の形相でクラウスをしばき倒している公爵令嬢である。
世にも恐ろしいその剣幕に、使用人達が身をこわばらせたところで、デイジーに一方的に虐げられていたクラウスが反撃に出た。
「それを言うならこっちだって言いたいことは山ほどあるんだこのノンデリ女!!!!」
クラウスがデイジーを思い切り突き飛ばしたので、デイジーは机をなぎ倒しながら床に倒れ伏した。
その様を見ながら起き上がったクラウスの足に、デイジーが素早く飛び蹴りをかまし、結局二人とも、再度床に崩れ落ちる。
「おまっ、本気で蹴るなよ、骨が折れるだろ!!」
「低能最低男がよく人並みに文句を言えたものね!!!!」
「相手が暴力女だからな、高慢ちき筋肉女!!!」
「あんたがなよついてるだけでしょ、へたれ浮気野郎!!!!」
そこから、いい年をした男女の喧嘩とは思えないほど、すったもんだのもみ合いの戦いが始まった。
殴る、蹴る、髪を引っ張る、突き飛ばす。血が吹き飛び、教室の机という机、椅子という椅子はすべてなぎ倒され、空き教室の中心に広いスペースが出来上がったところで、なぜか掃除モップを手にした公爵令嬢とホウキ&チリトリを手にした第一王子による激しい打ち合いが始まってしまった。
その様子を呆然と見ていた侍女二人は、打ち合いの音を聞き、ハッと我に返った様子で、侍従二人に小声で叫んだ。
「ちょっとこれ、あなた達、止めなさいよ!」
「どうやって!?」
「ど、どうやってって……」
「いや、だってこの二人、歴戦の訓練兵みたいに強くないか!?」
「訓練兵ってレベルじゃない。こんな打ち合い、俺は国の剣闘士大会でしか見たことがないぞ!」
言われた侍女二人は、改めて彼女達の主人たる公爵令嬢と、その婚約者である第一王子の戦いを見る。
両手でモップを持ち、第一王子を突こうとする公爵令嬢。突きを避けた第一王子は、チリトリをモップにスライドさせるようにして公爵令嬢の懐に入り込む。獲ったとばかりに目をぎらつかせた彼の下から、ニヤリと笑った公爵令嬢の膝蹴りが迫って来る。慌てて身をのけぞらせた第一王子の隙を、公爵令嬢が逃すはずはなく、彼女の蹴りが、第一王子を机の山に突き飛ばし、ドンガラガッシャ―ンという派手な教室に音が鳴り響く……。
数秒で行われたそのやり取りに、侍女二人はごくりと息を呑んだ。
「そんなの知らないわよ……」
「なんとか……しなさいよ……」
「だから、どうやって!?」
「これの間に入るなんて、走る馬車の前に飛び出す子どもと一緒だろ!!」
結局、使用人達は、彼らの主人の戦いを震えながら見つめていた。
たまに、「や、やめてー……」「二人ともー……おやめくださーい……」と小さく声を発するのが、なんとも物悲しいことである。
最終的に、モップとホウキの衝突により、双方の刃(?)がぽっきり折れ、デイジーが机を、クラウスが椅子を持ち上げたところで、侍従侍女達が四人で体を張って、間に割り込んだ。
「殺意が高すぎます!!!!」
さすがに侍従侍女達に危害を加えるつもりはなかったのか、荒ぶる公爵令嬢と第一王子は、それぞれの武器を床におろした。
デイジー達は懇願する四人の使用人により、保健室に行くことになる。
そこで治療されるのかと思いきや、流血、青タン、毛が抜け、捻挫、骨折多数という彼女達の壮絶な喧嘩の跡に、保険医がまさかの失神。
結局、学園長の判断で、高貴なる二人に傷跡を残さないために、希少な治癒魔法師を呼び出すことになってしまったのである。
「高貴なるお二方が、一体何をなさっているのですか」
事故が起きたわけでもない平和な貴族学園なんぞに呼び出された希少な治癒魔法師は、二人の壮絶な負傷状況に「えぇ……?」と引き気味になりながらも、苦言を呈して去っていった。
残されたのは、両親に通報された第一王子と公爵令嬢、その使用人達と、目を覚ました保険医である。
「クラウスなんて嫌い」
「それは奇遇だな」
それだけ呟いたクラウスに、デイジーは目を向けなかった。
ただひたすら、俯いて、膝の上に置いた自分の手だけを見つめる。
いつも見慣れた手のはずなのに、なんだかそれがぼやけて、よく見えないのだ。
ぽたぽたと落ちてくるそれに、最初に驚いたのは、デイジーの隣に居る男だった。
「……おい」
「うわぁあああああああん」
デイジーは涙を抑えることなく、恥も外聞もなく、その場でわんわん泣いた。
ずっとずっと、デイジーは知っていたのだ。
周りが思う以上に、自分で思う以上に、自分が傷ついていることを知っていた。
小さい頃から邪険にされてきたのに、なぜ、婚約解消すると言わなかったのか。
どうして自分が、クラウスの訓練をすると言い出したのか。
その理由を、わかっていたのだ。
そして、なにもかも、きっともう、どうしようもない。
その日は結局、国王カーティスと父ダニエルが迎えに来て、クラウスとデイジーをそれぞれ連れて帰宅することとなった。
泣き続けるデイジーを、クラウスはずっと見ていたように思う。
そして、デイジーがクラウスとまともに話をしたのは、それが最後だった。
成長した男女の身体能力の差をもってしてなお、勝利は難しいようだ。