悪魔と彼女と忘れ得ぬ味
私は、世に言う悪魔だ。
人の魂は美味である。だから、人を見て美味しそうだと思うことはある。
けれども、その人間は違った。
諦めとも恐怖とも違う澄んだ瞳で私を見ていた。私の方が射すくめられていた。暫し自分が食べる側で目の前の人間が食べられる側だということを忘れていた程だ。
人間は、力も知恵も知れている。
手折るのは造作もない。
屠殺場に連れてこられた家畜のようなものだ。私がボタンを押しさえすれば、装置が作動して目の前のものが、生き物から食糧に変わる。
ただ、私はその最後のボタンを押す直前に、その人間の目を覗き込んでしまったのだった。
悪魔の前に立った人間。
猟師が猟銃でピタリと鹿の心臓に狙いを付けた時、その鹿の瞳が美しくて引き金を引くのを躊躇ったのだ。
その人間は強いわけではない。
むしろ、限りなく脆い。ガラス細工のように薄氷のように。
それでも、私は怖かった。
私がその人間をいとも簡単に壊してしまえる上に、現に私はそうしようとしている。
そのことが、どうしてか恐ろしかった。
永い沈黙の後、私はどうにかしていつものセリフを言うことができた。
「私は悪魔です。望みを何でも3つ言ってください。どんな望みでも叶えます。その代わり、全ての望みが叶った暁にはあなたの魂は貰い受けます」
望みを叶えることは私達悪魔の行いの本質ではない。
その過程を通じて、人の欲を肥大させ、束の間の幸せを与え、最後に叩き割るのだ。
魂を得るには卵の殻を割るようにそれを包んでいるものを壊さねばならない。
「私の魂を……奪って……」
弱々しく掠れた声。
しかし、聞き間違えではない。
この人間は確かに自らの魂を奪ってくれなどという馬鹿げたことを言った。
どういうつもりだろう?私への施し、慈悲のつもりか?
飢えた虎の前に身を投げた人間の修行者がいたという。だが、そんなにも私は飢えて見えるのだろうか。
人が食べないと死ぬように、悪魔も魂を食さねば死ぬ。けれども悪魔の飢餓状態が魂の見えない人間に分かるはずがない。
「なぜ、そのようなことを?」
「私……もう……」
聞き取るに耐えない。
どうやらこの人間、酷く衰弱している。病人か。
仕方がない。念話させるか。
「声が出せないなら念じてください」
「(こう、ですか?念話は初めてで。上手くできてますか?)」
「はい。聞こえてますよ。それで?魂を奪って欲しいということでよかったですか?悪魔の私が言うのも変ですが、なぜそのような望みを?」
「(私はもう長くないってお医者さんに言われてて。死ぬ前に誰かの役に立てたらいいなって……)」
近く死ぬと言うなら話は早い。
心を壊さなくても、肉体から解放された魂が天に還る間際に掠めとれば十分だ。水辺を離れる蜻蛉を虫取り網で攫うように。サッと捕まえればよい。悪魔にとっては容易いことだ。
見ればその人間の体は病に冒されていた。きっかり、あと3日の命。そのくらいなら十分待つことのできる時間だ。壊す手間すらかからない。勝手に壊れて分解してくれるのだから。
「いいでしょう。魂は貰います。他の2つの望みは?念のためですが、私ならその病を治して寿命まで生きるようにすることも、不老不死の体にすることもできますよ?」
「(……それは大丈夫です)」
「本当に?見たところかなり辛そうですよ」
「(それはまあ。悪魔さん、死ぬのってこんなにしんどいんですね)」
そんなことを言われても分からない。
死んだことはないし、悪魔は死ぬのではなく擦り減って消えるのだから。
何より、今まで人間など魂の包装材くらいにしか思ったことがなかった。開封して魂を頂いたら用済みの存在だ。人間が死ぬとき苦しいとか苦しくないとか、考えようとも思わなかった。
原理的には痛覚神経の通った生き物が死ぬ場合、苦痛を感じるものなのだろうが。
「そうですか。不老不死じゃないなら、痛みを麻痺させたり、楽に死なせることもできますよ?」
その人間は僅かに笑おうとしているように見えた。頬の筋肉の僅かな強張りは、笑顔と言えなくもなかった。
その様子に不思議と目が離せなかった。
「(悪魔さん、とっても優しいですね。……すごく魅力的な提案なんですけど、もうちょっとだけこうして悪魔さんとお喋りしてたいです)」
この人間は勘違いをしている。
が、敢えて訂正する必要もない。
「(あっ。いい事思いついた。悪魔さんとお喋りしてたいってのを2つ目にします!私が死ぬまでそこに居てお話し相手になって欲しいです。迷惑じゃない、ですか?)」
「いいでしょう。ただし死んだ後には魂を……っと。それは一つ目でしたね。つい癖で」
「あり…がとう……」
少女はしばらく私の顔を見ていた。話疲れたのか次第に瞼が下がっていき、静かな寝息を立て始めた。
たった3日間少女の話し相手になるだけで魂を貰えるなんてラッキーだ。最後の日にはほとんど覚醒していないだろうから実質的には2日程度。実に効率がよい。
※ ※ ※
それから彼女は起きたり寝たりを繰り返した。苦しむことも多かったし、次第に苦痛は強くなっている様子だった。
元来、悪魔は人間の負の感情を好む。確かに少女の苦痛は美味ではあった。ただ、どうにも好きになれない味だった。
甘い、甘い、蝕まれるような甘さ。
酩酊を越えて二日酔いのような私まで痛みを感じるような温かくも刺々しい甘さだ。
「今からでも痛みを取りましょうか?まだもう一つ望みは残ってますよ?」
「(……いい)」
見かけによらず強靭な精神力だ。普通に壊そうとしていたらよほど骨が折れた事だろう。つくづく幸運だったようだ。
「(悪魔さんってずっと昔から生きてるんでしょ?伝説の勇者様って本当に居たの?)」
「ああ、勇者。居ましたよ。彼はとても手強かった。私や他の悪魔が束になってかかっても歯が立ちませんでしたね」
「(すごい!!悪魔さん、あの勇者様と戦ったことあるの?!)」
少女の顔が赤みを帯びているのは発熱の為だけではないようだ。
「(悪魔さん!勇者様のお話!…聞かせ…て…」
寝てしまったか。
少女の体力は限界に近い。少し話しただけで睡魔に襲われるようだ。
それにしてもこれから死のうというのに彼女はどうしてこれほど満足げな顔で眠っているのか。
まあいい。起きたら勇者の話をしてやろう。
私にとっては苦い経験でもこの少女にとっては値千金の価値があるようだし。命を削って聞くくらいなのだから。
※ ※ ※
夜となく昼となく。
少女と私の雑談は続いた。私が睡眠を必要としない悪魔だったのは幸運だった。
ただ、私はついに少女の病や苦痛を除いてやる事はできなかった。
これは私達悪魔に課せられた制約。悪魔は、自ら人間に干渉する事ができない。唯一、人間が「望み」として要求したときだけ、しかも人間を幸福にするためではなく魂を食する手段として能力を行使できる。
それが人間の魂を糧とする私達に許された生き方であり、世界の秩序だ。
悪魔は秩序に反する事はできない。
少女の好きな歌、花、昔飼っていた犬。
短い時間で私が少女について知った事柄はあまりにも少なかった。
彼女が起きていられる時間は段々と短くなった。起きていても夢現のようで何を言いたいのかはっきりしない事が増えた。
私は悪魔だ。
契約は履行せねばならない。第二の契約である「死ぬまで側にいて話し相手になる」を実現するため、能力を使った。つまり、彼女の夢を読んだ。
そうすれば彼女がもう夢と現実の区別が付かなくなっても彼女の話についていく事ができる。
私は悪魔だ。
契約は絶対だから。
呼吸すら苦しそうで、体に痛くない所などもはやあるまい。
生半可な拷問より辛い事は人間を熟知した悪魔にはよく分かる。
夢すら見ない深いところに彼女が居るとき、このまま目覚めなければ良いのにと思った。
それは早く魂を食べたいという食欲によるものだったのだろうか。
思えば不思議なものだ。
「アイツを苦痛の内に殺してくれ」と願われれば私はこれくらいの事は、いや、これ以上の事をする。その際の苦悶の声は耳に心地よく、恐怖と苦痛は美味であって、きっとその願いを役得だと思うというのに。
それは過去だけでなく、将来においても仮にそういう場面に出くわせばやはりそう感じると確信する。
では、彼女だからか?彼女が苦しんでいるから私は苦しいのか?私はおかしくなってしまったのだろうか?
悪魔が人間に同情を?
同情とは違う。
愛か?
それこそおかしい。悪魔が人間に恋をするというのは、シマウマが草に、ライオンがシマウマに恋するようなものだ。
秩序に反している。悪魔にとって秩序は絶対だ。
※ ※ ※
空が白んで来た。
窓から一条の光が差し込む。
朝か。
「(悪魔さん。……これ、最後。元気でね。ありがとう……)」
薄ら開いた瞼から熱く透明なものが零れ落ちる。
私が思念を感じ取れたのは本当にそれが最後だった。
けれども人は、意識が落ちてもすぐには死なない。呼吸が止まり、心臓が止まるまでにはもう少しの時間がある。
その間の彼女が生きているというのかどうかは見方による。
悪魔から見れば魂が未だ露出していないから生きているという事にはなる。
悪魔は人間に干渉してはならない。
私は彼女の瞼を閉じてやる事も、手を握る事もできない。
最後の下り坂を緩慢に転がり落ちる彼女を眺めているだけだ。
悪魔には涙腺などという器官は存在しない。
彼女の呼吸は不規則に。時折、思い出したように息を吸い、吐く。
そして何の前触れもなく、呼吸することさえ止める。
私には見える。
黄金とも白とも付かない、太陽よりも宝石よりも煌めくそれが今や人の形をした苦痛をもたらす器官であったそこから解き放たれるのを。
「止めろォォォォォォォ!!」
叫んでいた。
叫んでいるのは私だった。
何百年ぶりか、あるいは生まれて初めてのことだった。
その感情は焦りか怒りか。否、もっと痛切なものだった。
私の手は意思と関係なくそれに伸びてゆく。何万回と繰り返した動作だ。万に一つも逃す事はない。
嫌だ。
それを輪廻から切り離し彼女を永遠に終わらせる事を、何故私が、私のこの手でやらなくてはならない?
悪魔とはそれほど罪深い生き物だというのか。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
——悪魔にとって、契約は絶対だ。
その魂の味を私は忘れる事ができない。
死ぬ事もできない悪魔は、時折、彼女を思い出しては、今日も元気に生きている。