三つの呪と記憶の糸
──ぼやけた視界が広がる。映るのは白い壁と太陽光並みに眩しい豪奢なシャンデリア。
ん? これは何処かの部屋の天井? 私は、寝てたのか?
「なぁんだ、やっぱり夢だったのか」
「違うから」
「っえ!?」
私は自分でも驚く程の瞬発力で起き上がった。見覚えのある紅いベッドの傍らに、口元を引き攣らせたレンが腰を降ろし座っていた。
鳳凰じゃない、元の彼女の姿だ。
ほんの一瞬安堵を覚えた私に、彼女は呆れたような溜め息を零した。
「どこまでトボけるつもりよ。噴火も止んだし、赤竜はアンタが大体は思い出してる筈だ、って言うから何とかここまで運んだけど、気絶して目覚めたらまた振り出しに戻るなんて絶対やめてよね」
「あ、ああ……じゃあ、やっぱり夢じゃないんですね」
彼女の諌める言葉に肩を落としたこの時、私は何となく『記憶を戻したくない』という自分がいる事に気付いてしまった。
何がそう思わせるのか。数少ない記憶の一部を思い出すわけでもなく。ふと湧き上がる永い時の流れと、相反する短き命の灯に何か意味があるのだろうか。
漠然とした記憶のカケラが何か暗示めいていたように思える。
「すみません。どうやらレンと赤竜のおかげで少し断片的ですが、幾つか記憶と言えるのかどうか分かりませんが一応、取り戻したと思います。ただ……」
「ただ、何よ」
彼女の藤色の髪が、窓から差し込む朝一番の陽射しに晒されて眩しい。泣きボクロとは縁の遠い、気の強い双眸が一瞬揺らいだのを私は見逃せなかった。
「言っとくけど、アンタの大好きな人間達は無事に帰したわよ。おかげでアンタは、この街では疫病神扱いになったけどね」
成る程。
彼女のこの建物は、そういう緊急時に適応しているのか。
おそらく人間達は窓からずっと外を見ていたに違いない。取り乱した貧相な私を。嗚呼、それを想像すると、私は恥ずかしさから頭を掻いて空笑いを浮かべるしかなかった。
「でしょうね、ハハハ。あんな大っぴらに、空の上で竜に跨がってたんですから」
その瞬間ふと気になる事を思い出しそれより、と私は続けた。
「私は……誰かを探しに戻ってきたんですね? でも、戻ってきてはならなかった」
おそらく呪のみに限らず、自分自身でも封印していた。
だから記憶を探すと、まるで抵抗するように頭痛や睡魔に襲われていたのだろうか。
だとすれば、今は鳳凰の開放の力なのか頭痛はしない。
――そうだ。
何故か私には分かる。鳳凰の力が。ひとつの記憶の扉が開くたび、私は当然のように関連性のあるものを“知っている”。まるで本能のように。
嗚呼、私は――知ってるんだ。
つまり記憶を封印されていただけだったのか!
私が静かに記憶を辿る中、先程問い掛けた言葉に彼女は黙って頷いた。
「アンタが魔道士達に三つの呪をかけられたせいでね。一つは<千年間ただ生きる>、二つ目は<徐々に記憶を失いながらただ生きる>、そして三つ目は……」
続く言葉は、経験上から容易く分かった。
「<私が行く所災いあり>、ですね。そして最後に故郷へ本能的に戻り、災いを与えると。全く手の込んだ事で──……って、でも私は一体、何をしでかしたんですか?」
元となる原因は思い出せず私がそう問いかけると、彼女は軽い溜め息を吐いて伏し目がちになる。
「だから……そこまではアタシも知らないのよ。アンタはただただ、その、恋焦がれる人を取り戻すって言ってただけ。でも……その人ってさ、人間でしょ? もういないよ?」
その言葉の意味をどう捉えて考えたらいいのか分からない。
何より、私にはまだ疑問が山積みだ。
「あのぉ、妖魔なのに何故……竜が関係してるんですかね? 何故、レンが鳳凰なんですか?」
「……今アタシの話聞いてた? アタシはそっちの方を聞きたいわ」
彼女の視線が窓辺に陣地取るふてぶてしい猫のように、辛辣で冷やかだ。
言い知れぬ悪寒を察知して大仰に両手を振って弁解した。
「あ、いやあの、ハイちゃんと聞いてましたよ! た、ただ。探してる人が誰かなのかも思い出せず、分からないままだし……」
語尾に自分の不甲斐無さを露呈しつつ肩を落としたが、その瞬間いきなり両手を彼女に掴まれた。
「わわっ! ま、また何ですかっ!?」
すると、以前あったように私を柔らかく見詰め、それとは裏腹な彼女の声音と表情が変わる。
「てめぇいつまでグダグダ言ってんだよ! とっとと黄帝の魂見つけてこの街からトンズラしろってんだ! てめぇはもう人間にはなれねぇんだよせめて黄帝と交わした約束ぐらい守れ! この能なし野郎がっ!」
言い終わると途端にレン自身の意識へ戻り、照れ隠しのように頬を赤らめ軽く咳込む。
これは以前彼女が言ってた昔の――私自身。
しかし。
「え……ーっと、これ、本当に、私ですか!?」
「そうよアンタよ、昔のね。その証がこれ……って何回も言わせんじゃないわよ! ああ、あの頃の信は、クールでカッコイイ人だったのにねぇ」
そう言って彼女は胸元の紅い石を手の中で包み込み、懐かしげに見つめる。もちろん、その石は私のベルトに嵌め込まれてるのと同じ。
先程まで僅かに光っていたのだろう。その余韻は見て取れたが、差程気に止める程の輝きではない。
そんなタイミングに、私の腹の虫が鳴った。
「プッ、ホントに信じらんない。アタシは何も食べなくても平気なのに。んじゃ取り敢えず、人間達が置いていったまんじゅうでも暖めてあげるから、食べな」
そう言いながら、卓上に積み重ねられた物を取り上げ両手に包み込む。能力を使って暖めてくれているのだろう。
私は申し訳なさで、お腹の虫を押さえながら聞いた。
「すみません。でも何故人間達が?」
「これでも、影ながら人間達を守れる範囲で守ってんのよ。魔道士達の支配はようやく形骸化してきたけど、時折恐怖を煽って自分達の力を誇示する。その犠牲になるのは人間。これはその時に持ってた人間の持ち物みたいな感じかな」
意外な話に私は身を乗り出した。
「殺されるんですか?」
彼女は憂いを込めて首を横に振る。
「ううん、魔物に変えられて……人を襲わせる。そこへ魔道士達が来て、力を使って片付ける。酷くない? 魔道士達にとって都合悪い事だけは記憶から消されるからアタシの事は知らないままだし」
「それはつまり、魔道士達が『絶対権力』を握り続ける為、て事ですね?」
私がベッドから降りながら言うと、彼女は頷きながら、暖かいまんじゅうを私に差し出した。
「そうね。アタシが人間守ってんのは、信に頼まれたからよ。アンタ……今でも、人間の事好き?」
その問い掛けに、私はまんじゅうを口にしながら迷う事なく笑顔で応えた。
「はい。そこだけはどうやら変わってないみたいで、よかったです。人間は面白い。人間一人一人に歴史があり、集合体になると、大きなエネルギーにもなって世界さえも動かす。必ず、明日を作るんです」
たとえ国が違っても、人間は同じ力を持ち備えている。それが人間という種族であるとしたら、最強の一族だ。
自ら破壊したと思えば創造し、失望したかと思えば希望を抱く。
理解極まりない存在。
可能なら彼らのようになりたい。そう思っても、その様相は定まらない。彼らは常に変化し短い命を、信じる何かの為に生きる。
だからこそ、私は単純に好きなのだ。
なのに、魔道士達が。
魔道士達、が……?
「あれ? 彼らは昔、人間達に何かをしたんだっけ?」
自分でも驚く程の嫌悪感が溢れ出す。何故だろう。
――彼らは人間に『何』をした?
再び霞みがかかる。
ずっと忘却と記憶の断片の中で、私は生きてきた。この感情もまた私自身の記憶の一部。
唯一しっかり覚えているのは、私が遥か昔、魔道士達に<千年の刑>を受けた事。
その後、まだ小さき白い鳥だった頃のレンと出会い、気まぐれに能力を使った事。だがその能力そのものは覚えていない。
まあ結果的に妖魔になったようだが。
そもそも何故、私は<千年の刑>を受けたのか。そして今、引っかかりを覚えたのは、魔道士達が人間に『何を』したのかだ。
「あの……レン。どうも先程の私、というか昔の私が言った事よりも気になる事があるんですが」
「アンタの能力に『質問責め』を一つ追加できるわね」
「あは……はぁ、まあ……すみません。あの、結局千年前に、魔道士達は何をしたんですか?」
「それも知らない。アタシが妖魔になった頃には、魔道士は人間を支配していたし、アンタ──信は、アタシの意識が失くなる時の約束と、この石だけを残してサッサとどっか行っちゃっていなくなるしさ」
置いてけぼりをくらった子供のように、彼女はふて腐れて言った。
冷静に見れば、クルクル表情が変わる可愛い女性だな。なんて言ったらきっと私は半殺しにされそうですね。
「でもアタシは約束を守り続けて、人間達を擁護してた。この街にアンタが帰ってきた時、悲しまないで済むように、さ」
照れ隠しなのか背中を向け、能力で軽く動きやすい服装に変える。
私と似た二枚布に、胸元が大きく開いたおヘソ丸出し。腰から下は激ミニのフレアーなスカートのような……って、どんだけ露出するんですかーっ!?
……また目のやり場に困りますよ。
「べ、便利ですねぇ。そんな、き、器用な能力もあるなんて」
引き攣りながらも褒めたつもりの私に、彼女は眉間に皺を寄せて振り返った。
「アンタが半端なせいで半端にしか使えないのよっ! 髪型も変えたりしたいのに、服装しか変えられないんだからね! てか自分の能力も使えなくなるぐらい記憶飛んだんじゃ、先行き不安だわ」
「う……同感です」
寂しい空気が流れる。
すると彼女は卓をバンッと両手で叩き、決起するように言った。
「っとにかく。昔の信が言ってたように取り敢えず、黄帝の魂を見つけに出掛けるわよ!!」
黄帝──!!
ああ、それもそうなのだけど。昔の私が確かにさっき言っていた。
でもどうしてもいろんな事が引っ掛かり、私自身どうすればいいのか分からない。焦りと苛立ちが先に立つ。
「あっ!!」
私の雄叫びに、彼女はビクリと肩を揺らす。
「な、何よ急にっ。し、しかも気持ち悪いぐらい目を輝かせて」
「きも……いや、あの! 昔のその私を、自由に呼べるんですよね?」
「……自由? アンタの言う自由ていう定義は当て嵌まらないけど」
「え」
途端に消火された私の気持ちを慰める事なく、彼女は紅い石を握りながら深緑の瞳を落として言った。
「信の、自由意思なの。彼が必要だと判断した時にしか、作動しない。もともとSなのよ」
「……エ、エス? あ、はぁ……S、だったんですかぁ」
エスって何ですかあぁっ。そういうのは私の記憶にありませんよっ。時代錯誤ですかねぇっ!
ハア、どうしてこんなに違いがあるのだろう。全く。泣きたくなる。
「でもそこがまたシビレちゃうんだけどさぁ」
紅潮した頬を緩ませる彼女の視界に、過去の私ではない私を映すと、一気に冷めた表情に戻った。
ああそうですか。すみませんねー、今こんなで。
私にはもう苦笑いしか浮かばない。
「何見てんのよ。とにかく、えと、街の中央にある宮城へ行くわよ! あそこに、黄帝の墓があるから」
「あ、あの城にですか!?」
やがて太陽が影を消す程の高さになった明るい真っ只中、私はレンの背後について街の入口に入った。
あれだけの噴火があった後だ。街はさぞや灰だらけで、おそらく人間達は皆何処かへ避難しているだろう。あの城も無事では済まないはず。
と、普通なら思う。
「あのぉ……なんで、街がいつも通りなんですか? しかも、皆……ほら、何事も無かったように」
私が指差す先には、石畳みの街道。昼間の買い物客や散歩などで平然と行き交う人間達。商売をする物売り達の賑やかな声も飛び交う。
まるで、夕べの事を完全に忘れてしまったかのようだ。と、そこまで思考を巡らせ先程レンが話してくれていた事を思い出した。
「あっ、すみません。そういえばさっき教えてくれたばかりでしたね。しかしたった数時間でこれだけ片付くなんて、すごいですね」
「まあね。でも多分今回は思わぬ人物の登場もあって、慌てたんじゃない? 魔道士が片付けるのは記憶操作もあるから、大体一日はかかるんけど今回は特別早い。どうやら、疫病神化しかけてたアンタの事も忘れたみたいだからいいんじゃない?」
確かに私とすれ違っても皆、無関心だ。思わぬ人物とは私の事ですね。ただ茫然と歩く私に、レンは小さく言葉を続けた。
「魔道士達はもうアンタの事に気付いてる。逆らう者には、刑罰。自分達にとってマイナスになる者は消す。だから気をつけて行きましょ」
「え? あ、じゃあ何故レンは平気なんですか? 明らかに、レンの存在はその“逆らう者”でしょう? 大丈夫なんですか?」
すると彼女は、怪しい笑いに口角を上げた。
「実は私ね、魔道士達の一人と愛人関係なの」
「へ? え、ええぇっ──っ!!」
空まで轟く私の奇声に、行き交う街の人々が振り向いた。
「馬鹿っ、行くわよ!」
瞬時に腕を引っ張られ、レンと私は風のように街の中心部へと駆抜ける。彼女の背を見つめながら絡まりそうな足を更に加速させる。
だが体の動きとは全く関係なく、私の中で思考だけが加速する。
……魔道士の一人と、愛人? 彼女は妖魔だ。いやもうそれも怪しくなってきたが。しかしその彼女を受け入れ、魔道士の皆が見て見ぬふりをするとなればおそらく上層部の輩に口添え出来る者。だとしたら相手はかなり権力を持っているのではないか?
いや、でもなぁ。彼女は千年前にその刑罰を受けた私と繋がりがあり──……。
「ダメだ。頭がこんがらがってきたぁ」
「何ぶつぶつ言ってんのよ! さあっ、着いたわよ」
我に返り息も絶え絶えになっていた私は、辿り着けたであろう目的地に意識と視線を向けた。
視線を向けた先に、迂闊にも夕べは気付かなかったのか、宮城の手前両脇に等身大の銅像が雄々しく数体台座の上に建っていた。
まあ私は普段から迂闊な者だから、夕べ見たものが全てだとは思わないけれど……一体や二体では無いのだから結構目立つ。
何故こんなものを見逃したのだろうか。
その銅像姿は人間のようではあるが、明らかに他の人達とは違う。
長いマントと宝飾に包まれた杖。両目だけはおそらく本物の青いサファイア石が嵌め込まれており、それが街を見張ってるかのように妖しく光る。
いつ盗まれてもおかしくない宝石の目は、触れる事の出来ない畏怖感を与えていた。
「こんなの、ありましたっけ?」
「夜は姿を隠して、あの不気味に光る目で監視してるの。奴らは夜の方が力が高まるからね。本来は人間達にも気付かれない程度に、監視していたいみたい」
「何故です?」
「公にしなくても、畏れられる存在になりたいんだってさ」
畏れられる、存在?
──畏怖。
「ふんっ、簡単な答えでしょっ。要するに神になりたいのよ、おバカ」
ん? ……おバカ、ですか。あ、まあハイ、それは私の事ですね。
それにしても……。
「はぁ、神……ですかぁ」
それを口にした瞬間、何げなく脳裏に過ぎった。噴火によって紅黒く染まった空の上で赤竜が言った言葉。
『──主よ』
私が……竜の主?
辻妻の合わない事ばかりが、再び目覚めたその一晩のうちに起きた。
だがこんなに直接自分が関わる事など、この千年間無かったように思う。それだけに私の思考もついていけないまま、事の成り行きが進んでいくのが怖いと思うのは変だろうか。
せめて私の思考という歩調に合わせていってほしいが、彼女相手ではそう簡単では無さそうだ。 いや、私自身も何処かで焦っている。忘却からの脱出の向こう側に、一体何があるのかを心の何処かで性急に知りたがっている。
「シン、何ボーッとしてんの? 昼間この辺りは人が少ないから、今のうちに入るわよ」
「あ、は、はいっ」
私が銅像の脇を過ぎた瞬間、一番入口寄りの一体から妙な視線を感じた。
「ひっ」
情けない一声を上げたが、振り返る勇気は無い。
――誰かがもう見ている。
そう感じるのも束の間
、レンが呆れた表情を浮かべて肩を落としながら私に振り向いた。
「どぉおんだけ弱虫なのよ。ああー、昔の信は何処に行っちゃったんだろぉー」
「あっ、すすすみません。でもっほらっ、紅い石の中に、ね?」
瞬速で頭を叩かれた。
一直線にのびる長い石階段を昇り、ようやく宮城内の建物に足を踏み入れる事ができた。まあ彼女の洋館に比べれば、ギリギリついていける階段だ。ちょっとした運動にはなったのかもしれない。
「もう建物の中ですか。此処は……高さがあるわりに、奥行きはたいした事無さそうですね」
「ふん、それはどうかしらねぇ」