災い
頭の中が真っ白になりそうな私に、彼女は胸を飾る紅い石を示して言葉を続けた。
「信は、今のアンタを導く手段として、この石に力を与えてアタシに託したんだよ。まだ意識がハッキリしてる自分の一部を、私の口を借りて話させる為のパイプ役としてね」
──まだ思い出せない?
と、切なく問う深緑の潤んだ瞳に、まだ記憶が整理できていない私の姿が映る。
石の意味は大体分かった。が、もう一人の自分? 三つの呪?
脳裏に駆け巡る記憶の道。
確かに<千年の刑>も彼女の事も覚えている。
だが何かが、抜け落ちている。それが一体何なのかなど、探る事も考える事もなかった。
今までは。
何故なら──考えようとすると、その度に睡魔に襲われていたから。
今なら、今記憶の封印を解く鍵が目の前にいるこの瞬間ならもしかして大丈夫かもしれない。
そう思いながらも、睡魔への不安を払拭するように私は端的な質問をした。
「あの……もう一人の私、とは?」
「やっぱり信の思ってた通りね。てか、この石の事も忘れてたの?」
「い、石の事は覚えてますよ! ただ、その、石の意味は覚えてませんでしたが……。それに、もう一人の自分の事を教えて下さい!」
いつも自分一人で考え出すと襲う睡魔は、ここで払拭されるのだと実感した。頭が冴えたままである。ああ、そうなると色々知りたくなるものだ。
私は飢えた者のように身を乗り出したが、彼女は思った以上に私の記憶が抜け落ちた事にまだショックを受けているようだ。
私にとってはそんな今更、と過ぎる思考を脇において早くその先を急かす。
「私だって、記憶を取り戻したいんです」
「分かったわよ。シン、アンタは言ったの。<千年の刑>が終わる頃、この地に帰──」
ふいに、彼女の言葉を遮る幾多もの悲鳴が響いた。その悲痛な叫びは窓の向こう側からだ。
蒼白に顔色を変え、彼女は窓に向かって外を見る。
遮られた事に私は少し肩を落としたが、レンの震える背中を見てると何も言えなかった。
あのような悲鳴など、私には日常茶飯事なのだが、彼女は違う。
彼女は肩を震わせたまま怯えるような声で呟いた。
「……もう、災いが来たっていうの!?」
暗闇の空には赤き竜が弧を描きながら、狂ったように舞っていた。その足下で、先程まで賑やかに色づいていた人間達の声が絶望感に満ちた狂気へと変貌している。
もはや今の私にとっては、小高いレンの洋館から見える遠い景色のひとつにしか過ぎないが。
だが轟く悲鳴は人間ばかりでは無いようだ。赤き竜もまた、何かに怯えるかのように咆哮を上げ、こちらの窓まで震えさせる。
災難とはそういうものだ。いつも突然やってくる。
とはいえ私は、何度このような悲鳴を耳にしたことか。あと何度聞いたら終わるのか。
「シン……あれ見て、何も思わないの?」
振り向きながら見据える彼女の双眸には、怒りと切なさの色を醸していた。
何となく責められているように感じるのは……気のせいか?
それとも、私の反応が気に食わないのだろうか。もうこんな場面には慣れてきてしまっているのだから仕方が無い。
仕方が無い――?
ああ、私は……私は、こんなにも冷たい者だったのか。そんな自分自身にも呆れ返る。
そう。私が行く先行く先にいつも災難が……ん?
「これも、わ、私の……せいですか?」
彼女は苛立ちを露わに肩を怒らせながら私に歩み寄る。その形相から様々な感情が渦巻いてるのが分かった。
彼女は窓の外に見える赤い竜を指差しながら、再び私の思考を困惑させる言葉を吐いた。
「あの赤竜は、主のアンタが呪を受けたまま帰ってきた事を恐れてるのよ!? まだ何も感じない?」
──は?
いやいや。
へ? 私は確か力弱き妖魔……妖魔なんですよね!?
ああ、流石にもう地を掘り上げる程の深い溜め息しか出てこない。
「レン。もう勘弁して下さい。私にはもう何が何だか……」
刹那、空が赤く染まった。いや、正確には……。
「噴火──!? シンっ、ほら見て!!」
彼女に言われずとも、また言葉を遮られた私でさえ流石に目を奪われた。
闇夜に高らかと噴き出す赤い飛沫。
その美しくも不吉な色は、我慢の限界を超えたかのように四方八方に噴きあがる。
赤く燃える山から立ち昇る噴火の様子に、ただ目を奪われた。
今までのどの景色よりも美しく残酷に思えるのは、私が関係していると本能的に知ってるからだろうか。どこか見慣れた風景なのに、妙に胸が苦しい。
こんな気持ちは……初めてだ。
私は、いったい何を――忘れているんだろうか。
遠くにいるはずの赤き竜が、まるで怖れるように私を見て狂気じみた咆哮を上げている。
──胸が、痛い。
「もういいわっ。とにかく皆をここへ避難させなきゃ!」
言うやいなや、彼女は茫然としていた私の腕を強く引っ張り窓から飛び立とうとした――て、えっ!?
「っうわわわっ!! ちょ、ちょっと待って下さい! 私は飛べませんよ!?」
「はあ? 嘘でしょ!? んじゃ他に何の能力あんのよっ。とにかく早くしなきゃ。ここなら魔道士達の見張りも災害にも影響ないはずだからっ!」
何だかまた色々訊きたい疑問が発生してきたが、今は取り敢えず彼女の言う通りに動くしかない。
とにかくハッキリと私の能力を伝えなければ。そう、ここは力強く言うんだ。
「睡眠と食事と長生きです!!」
「…………」
予想通り、彼女が固まった。
「シン、フザけるのもいい加減にしなっ!!」
「ひぃぃ──っ!!」
無理矢理引っ張り出された空の上。私の足下では、密集した木々が通り過ぎ、混乱に陥った街の風景が川のように流れ映る。その中で叫び声を上げる人間達。
「も、戻して下さいよぉ。わ、わた、私はホントに飛べないんですってばあぁっ!」
「うるさいっ。グズグズしてる暇は無いのっ。今、能力出すから腕離すわよっ。しっかり一人で飛んでちょうだい!」
彼女が手の平から青い光の膜を発した瞬間、私の腕はあっさり離された。
「ひゃああぁ────あぁっ!!」
落下速度が速かったのか、強い衝撃で背中を打ちつけた。その反動で体が飛び跳ねると同時に反転し、俯せの形で倒れ伏す。
「──!!」
ああ、なんて事だ。
私が着地したのは、恐ろしいことにあの、赤竜の背だった!
運が良いのか悪いのか。おかげでたいした傷も無い。赤竜が縦横無尽に飛び回っていたからだろうか。
だが流石に絶叫しそうな唇を噛み、息を潜め、振り回されないようにしっかり捕まる。
というかこの状況もやはり不運極まりないと自分自身思う。
眼下ではレンが人間達を青い光の膜で包み込み、何か口ずさむと一瞬にして膜内の人間達が消えた。
おそらく彼女の館に瞬間移動させたのだろう。噴火した炎が、街の所々に飛び火し出している。
あと少し遅れていたら、犠牲が耐えなかっただろうな。
こんな状況の中でそんな事を冷静に観察出来てる自分に感心した。
やがて暴れ狂っていたはずの赤竜が、大河の上空まで来てピタリと動きを止め、振り返った。
「──主よ」
主?
私の事、か?
落ちた衝撃で私の眼鏡は何処かへ飛んでいってしまったが所詮、伊達眼鏡だ。なんら不便ではないが、熱く乾いた空気が瞼に触れる。
感じるのは、不快感と懐かしい風。
やがて赤竜が低い声で呟いた言葉は、一呼吸ごとに私の意識の中にゆっくり浸透していった。
私は深く息を吐いた瞬間、脳裏を駆け巡るぼやけた記憶の映像に心を奪われた。
――小さな、人の子?
あれは、女の子だ。
私の回りにいる“仲間”と思われるが、何か話し合う姿。
人のような竜のような姿形。映像がぼやけて細かくは見えないのが歯痒い。
次に浮かんだのは、王冠を被る知性溢れる一人の女。その傍らで竜の姿形をとっている私が。
いや私自身かどうかは自信は無いし断定はできないが……ただ、何となくそう思える。
やがて過ぎる映像は白い月を背にした人の姿形をとる私自身。先程の女の前で膝を折り、何かを誓っている様子だった。
その記憶の映像の中で柔らかな声が響いた。
『生涯、人となって私と共にあって欲しい』
続けて響く、低く落ち着いた私の……声?
『貴女の思想を守り、貴女の愛する民を守り、貴女自身を守り続けたい』
刹那。弾かれた映像は別の映像へと変わり、意識の中に何かが飛び込んで来た。
どんよりとした空気の中、黒い服を纏う集団が私に向かって何か呪文のようなものを叫んでいる映像が支配する。
一瞬の呼吸後、画像が白く光り現実の私を苦しめた!
ぐっ。
締め付けられる……胸が苦しい! 喉の奥が焼けるように熱いっ!
「ぐっ、っぅううあっ! ああぁぁああ────っ!!!!」
私の苦痛と咆哮は、手で掴んだままの竜の鱗を掻きむしった。
同時に痛みを訴えた竜の叫びが、私と呼応するかのように残響が遥か天へと伸びるのを感じる。
傍らでは噴火の勢いが止むのを、肌で感じる。まるで呼応するように、私の中で一気に記憶の蓋が次々と開いていった。
視界が揺らぐ。
レンが事の成り行きを見守るように、空中で私を見つめているのが分かる。
意識が現実に引き戻ったのだろうか。だが苦しみは止まらない。
私は助けを求めて腕を精一杯伸ばした。
「く、苦しいっ。た、助けっ!!」
力の限り叫んだその時、赤竜が痛みに耐えきれないのか一気に乱暴な旋回をする。
「主よ! おやめ下さい! 今の状態で貴方の力を暴発させないで下さい!!」
喉の奥からしぼり出すように言う赤竜の言葉に、私の苦痛と混乱が理性という名の思考に変化する。
──暴発?
気が付くと、自分の体に異変が起きていた。私の体がバチバチと放電していたのだ。
「こ、これは、どういう……?」
一体自分に何が起きたのか全く分からない。しかも、何故この竜は私を知っているかのように?
その時、記憶の一部が蘇る。
「──ああ、もしかして君は竜か人か分からない者達の……一人か?」
虚空に視界を定めたまま、私は小さく呟いた。
私は……何を、忘れている?
霧に撹乱された記憶の断片。覚えのない記憶が、次に私を恐怖に陥れる。
ああ、頭が痛い。
体中から得体の知れない何かが今にも溢れそうだ!
「シン、こっち来なさい!」
白い手が私の腕を強く引っ張り、赤竜の背から体が引き離されかけた――刹那!
「主よ、ごめん!」
赤竜が彼女を振り払うように激しく翻した。
「キャ──ッ!!」
翻る風圧の勢いで、彼女はまだ完全には止まない噴火した火口へと飛ばされてしまった。
なんてことをっ!
ようやく私は我に返ったようだ。ダブる記憶の映像と現実が交錯していたが、赤竜の動きと衝撃で今見た光景に愕然とした。
「レッ、レン──ッ!!」
「主よ。貴方を待ち続けたあの女もまた、我らと同類! これで記憶が多少は戻るでしょう」
「は!? だ、だから私も彼女もただの、ただの妖魔ですよねぇ──っ!?」
そう叫びながら内心は、今までにない恐怖感と目の当たりにする現実の言葉を否定したがっている、臆病な自分に気付く。
──私は何故こんなにも、何を恐れているのか?
──何故まだこの体は放電し続けているのか?
ああ、頭が痛い。
だが先程よりは、自分の意識をしっかり持てる。不安な気持ちも、矛先が変わったせいだろうか。私の視線は、彼女が投げ捨てられた火口に縛られる。
「主よ、あれを見よ」
「言われなくても見てます! よ、妖魔とはいえ、あんなマグマに身を投じれば……──って、ええぇっ!?」
噴火口から、赤い閃光と虹色に放射する炎が天を突き抜く勢いで溢れた。と同時に、鮮やかな紅く巨大な羽根と、多彩に輝く長い尾。
それは黄色いクチバシから、高らかに鴾の声を上げる。
「え? あ、あれは……?」
「我らの仲間──鳳凰です」
鳳凰。
ホウオウ……。
レン?
レン……は、ホウオウ……?
「ええええぇぇっっ!?」
鳳凰、いやレン、いや……鳳凰は、熱さを知らない炎を身に纏いながら私達の方へ近づいてきた。
いや、ちょっと待って下さい。何がどうなってそうなったんですか? いや、もう……え?
側に来てまず鳳凰は赤竜に文句を垂れる。
「全く! 意外に乱暴なのね」
「急場の智恵だ。合理的と言って欲しいね。さあ、早く!」
やがて鳳凰である彼女が怯え気味になっている私を覗き込み、暫く互いを確認し合うように見つめ合う。
「シン。取り敢えず、人間達は私の作った結界の中で安全だから、そのまま私の目を見てて」
「は、はい……」
否応なしに向き合う形で、私は言われるがまま彼女の唯一変わらぬ深い緑の双眸を何とか直視した。
深い、新緑。
その瞳に──吸い込まれるように、どんどん意識が遠のいていく。と同時に、夢うつつな記憶の断片が再び脳裏に蘇る。
深緑の木陰。
手の平大の白い鳥。
──ああ、そうか。
これは、レンと出会った記憶。
気まぐれに戯れた小さき友。だが彼女の命は短く、先に逝かれる哀しみを忘却に変えた。
そして彼女に、私の能力を使った最初で最後の時。
「永遠なる命を君に。俺はまた帰ってきてしまうだろう。その時は、共に俺の愛しい人を探してくれ。──約束だ……必ず」