1-3(1)白神朝緋②
ふと、眠りについたその夜。
何のきっかけもなく、無くしたモノが見つかるようにぽっと、何の前触れもなく記憶が鮮明に呼び起こされた。
まだ街を出る前、人間に興味などなかった頃──黒蜥蜴は翠山で静かに暮らしていた。そんな折、山中で怪我をした人間の女と出会ってしまった。
「────」
本体の姿に、女は恐怖も敵意も向けることなく、ただ困ったような表情で、
「ごめん、足挫いちゃったみたい。肩貸してくれない?」
と、笑いながら手を伸ばしてきた。
正直、山で人間と関わることは気乗りしなかったが妖魔の俺を見て何の反応もしなかった女に若干の興味が湧いた。気まぐれに女を麓まで運んでやると、後日わざわざ会いに来た。
「やっと見つけた! この間のお礼言おうと思ったのに全然見つからないんだもん……ねぇ、名前教えてくれる? 私は──朝緋、あなたは?」
人間の名前なんてどうでもよかった。話そうと思ってはいなかったのでしばらく無視していたが、女──朝緋は毎日のように俺の元へ訪れた。仕方ないから擬態で名乗ると、少女は屈託のない笑みを浮かべた。
「妖魔のお友達なんて初めて! よろしくね、境くん」
家族以外に名前を呼ばれるのは新鮮だった。
それからしばらくして、朝緋が妖魔を狩る存在だと知った。けれど標的にしているのは翠山の下にある街で暴れる妖魔だけで、山に来ているのは純粋に俺と話しに来ているだけだった。
「だって、山でひっそり暮らしてる境くんたちを消す理由なんてないでしょ?」
もっともな意見だった。
「それに、キミはトカゲさんみたいで可愛いのにね!」
これについては同意しかねた。
それから朝緋とは翠山で何度も交流を重ね、街に現れた妖魔退治にも協力する真似事もやって見せた。もちろん、両親やほかの人間には見られないように。
人間との交流も悪くはない──そう思い始めた頃、別れは急に訪れた。
「────」
翠山で好戦的な〝獅子の妖魔〟と呼ばれる同胞が暴れていた時だった。説得を試みたものの、家族を守るだの他人は信用できないだと山を縄張りにして人間だけではなく、他の妖魔も脅かしていた。ちょうど両親が街を離れていたタイミングに一人で対処しようとしたところで、朝緋が割って入った。なぜか悲しそうな表情で少女は俺を止めた。
「これは私の使命だから!」
啖呵を切って妖魔に挑んだ少女の末路は、血まみれの姿に成り果てていた。なんてことはない、弱肉強食の世界でこの女が負けただけだ。
僅差で生き延びていた獅子の妖魔は朝緋にとどめを刺そうとしたが、俺は咄嗟に朝緋を庇い妖魔を返り討ちにしてやった。
「あ……境くん。はは、結局──君に助けられちゃったね」
倒れそうな少女を受け止めた。弱々しい声と共に、朝緋は笑みを浮かべる。恐怖はなく、絶望もなく、柔らかく笑った。
「はぁ……やっぱり私ひとりじゃダメだったなぁ」
一人バツが悪そうにする朝緋を黙って見つめた。流れる血を止めることもできなければ、人間相手に励ましの言葉をかけることもない。
「──────────どうして」
自分でも一瞬気づかなかったが、擬態になり思わず朝緋に問う。
「どうして────笑ってるんだ?」
発声したことに自分で驚いていると、少女は俺の右手にそっと触れた。
「なんでかな? わかんないけど、キミに看取ってもらえるなら────いいかなって」
非力な手からわずかに、俺へ光が流れ込む。それが何かは当時わからなかった。
「きっとね、キミに会えたのも運命なんだ………」
朝緋が空を見つめる。
「妖魔とか、人間とか関係ない。キミのその手は──」
満足気な表情を浮かべた少女は、そのまま瞳を閉じて動かなくなった。
山の中で生物の生き死には何度も目の当たりにしてきた。両腕の中で命の灯火が消えた少女も、その一人にしか過ぎない。
正直、なぜ死に瀕して笑っていたのか理解できなかった。考えようにも、人間のことなんて何も知らなかった。
「はぁ、アホく──いや、やめとこう」
それからすぐ山を出て、朝緋の体を一度だけ案内された碧海市にある彼女の家の庭に運び安置した。突然の妖魔と少女の亡骸を目の当たりにして、人間達は怒り狂っていたが気にならなかった。
「………おねえちゃん?」
妖魔である俺を見るより前に、地面で静かに横たわる朝緋にひとりの子供が近寄った。
「おねえちゃん、風邪ひいちゃうよ?」
そいつは死んだんだ。風邪なんて引きようがない。呼びかけようとしたが、黒蜥蜴の姿をした俺は口が利けなかった。
「………」
やがて武装した人間たちが周囲を囲んだので、面倒になり咆哮し威嚇の意をみせる。
「ねぇ、おねえちゃん! おねえちゃんてば!」
必死に朝緋を呼びかける子供が少し気になったが、これ以上いても朝緋の言葉の解を得られないことは明白だった。
「────!」
剣に槍に銃に、様々な武装が襲い掛かったが、全て受け止めて弾き返し、ゆっくりと跳躍してその場を後にした。
その後は朝緋の言葉の意味を求め、両親に頼み込み人間の世界へ飛び込んだ。わざわざ県外まで足を伸ばしたが結果はつまらないものだった。
朝緋のような存在もいなければ、彼女の残した言葉の意味も分からずじまい。無為に時間が過ぎ、気づけば擬態生活は怠惰な日々となり今に至る──記憶が戻らなければ、白神朝緋という人物を思い出せないほどに。人間を学ぶために擬態で過ごしていたというのに、その目的となった根本を忘れていたというのは、なんとも情けない。
そんな記憶が蘇ったのころには、窓から朝日が差し込んでいた。
「白神朝緋って…………朝緋のことか」
思えばあの看取った時に流れ込んだ光、あれが土地神の力といえばそうなのだろう。しかし今でも、今だからこそなおさら謎だ。
「どうして────」
何故俺なのか。今更考えたところで答えが見つかるわけないが口に出てしまう。堂々巡りの末、解を得られるわけもなく。
「アホくさ………さっさと起きるか」
気だるさを気合いで振り切り、支部へ向かった。