第七話 食の好みは『中身』依存なれば
ブリュンフィル公爵家本邸、その食堂。
装飾一つとっても王城のそれにすら並ぶほどに豪華絢爛で広大な一角に(アリスリリア=ブリュンフィル公爵令嬢ということになっている)シェルファは一人席につく。
朝食。
(『演技』で味方につけておいて損はない高位の)他者の目がなかろうともアリスリリア=ブリュンフィル公爵令嬢の立ち振る舞いは揺らがない。これはもう癖になっているので食事の際の小さな動作だけでも人の目をひく美しさが醸し出されているのだ。
……『中身』がアリスリリアであれば。
今のアリスリリアの身体の『中身』はシェルファだ。培った技術など何もないポンコツメイドが優雅に食事をとることなんてできるわけがない。
もちろんそんなことは重々承知のことだ。ポンコツメイドに完璧な立ち振る舞いなど求めていない。最低限、作法に則って食事をとってくれれば『まあ本調子ではないんだろうけど、こうして食堂まで足を運ぶくらいには回復しているから大丈夫だろう』と受け取ってくれる……はず。
百点なんて無理だ。
それでも及第点、赤点さえ免れれば誤魔化しもきく。
庭師見習い相手に散々やらかしているが、それでもまだ挽回できるはずだ! というかアリスリリアにはもう自分にそう言い聞かせるしかなかった。
今日まできるだけ時間を見つけてシェルファには必要最低限、絶対に使うであろう食事の作法を叩き込んでいる。基本中の基本だけでも覚えさせるのに苦労したが。
何はともあれ練習の通りにやれば問題はない。
多少拙くてもわざわざ指摘するはずもない。アリスリリア=ブリュンフィル公爵令嬢に余計なことを言って無用な怒りを買う愚行に走ることはないだろうから。
というわけで他のメイドと共に食事の準備を行い、後ろに控えるアリスリリア。なぜシェルファの食事の準備をこのわたくしがしなければならないのですかと叫びたいのを我慢して、だ。
とにかくアリスリリアの身体を操るシェルファがこうして顔を出しているのだから病気だなんだと騒がれるようなことにはならないだろう。少しでも長く時間を稼いで入れ替わりという不条理を覆す。そのためにも──
「朝から脂っこい……もういいかな」
(ちょっ、ばっ、残すんじゃねえーですわポンコツメイドお!!)
確かに、だ。
アリスリリアは肉を好むので朝だろうが何だろうが必ずといっていいほど大ぶりなステーキを食べている。それが少食なシェルファの好みに合わないのかもしれないが、いつも通りのアリスリリア=ブリュンフィル公爵令嬢であると思わせるためにわざわざ顔を出しているというのにいつもらしくないことをしては逆効果ではないか。
今のシェルファの身体はアリスリリアのものなのだから胃が受け付けないということもないから(それはシェルファの身体でいつものように肉ばかり食べようとしたらムカムカして食べられないアリスリリアの経験からも断言できる)、単に好みで残したということだ。
朝からこんな脂っこくて分厚いステーキを食べるのはなんかちょっとやだな、とでも言いたげな声音だった。いつもはぽけーっとしていて声から表情からとにかく感情がわかりにくいくせにこんな時ばかり一目瞭然だった。
もう今すぐにでも怒鳴りつけたかったが、もちろん他のメイドがいる中でそんなことをすればロクなことにはならない。わかってはいてもぷるぷる握り拳を震わせてしまっていたが。
と、そこでこの場にいる使用人の中では一番立場が上である先輩メイド・ミーネが代表して(アリスリリアの身体を操る)シェルファにこう声をかけた。
「お嬢様。やはり体調がすぐれないのではないですか? 医療術師を呼んだほうが──」
「それはだめ……駄目ですわ」
「しかし」
「とにかくそれは駄目……ですわ」
一応医療術師を呼ぶほどの大事にはしたくないアリスリリアの指示は守るつもりはある……のだろう。そもそもの立ち振る舞いがもう散々なので鈍臭いポンコツなのか高度に知的にアリスリリアを破滅させようと目論んでいるのか、どちらにしても足を引っ張りまくっていることに変わりはないが。
と、そこで何か考え込むように視線を彷徨わせるアリスリリア。嫌な予感がした。とにかくもう余計なことはするなという気持ちでいっぱいだったが、アリスリリアの思いが通じていればそもそもこんな展開になってはいない。
だから、
「あ、サラダだったらまだ入るかも」
「な、あ……ッ!? 付け合わせでさえも野菜をお出ししようものならこのわたくしに草を食べさせるつもりなのかとお怒りになるお嬢様がサラダをご所望ですってえ!?」
「……っ……ッッッ!!」
アリスリリア『らしくない』振る舞いを続けるシェルファに対してもそうだが、サラダを希望しただけでそこまで驚くこともないだろうと二重の意味でぷるぷるするしかないアリスリリア。
確かに野菜は嫌いだし、彩りとかなんとかそんな理由でステーキの横に野菜が添えられているだけでも不機嫌になっていたかもしれないが、それでもそこまで大袈裟に騒ぐことなのかと普段なら怒鳴っているところだ。
「お嬢様、悪いことは言いません。医療術師を呼びましょう!! 今すぐに、さあッッッ!!!!」
だから騒ぎすぎだという怒りをどうにか呑み込んで、ミーネに駆け寄るアリスリリア。不自然だとしても、流石にこれ以上放置していたら大事にされかねない。
「メイド……じゃなくて、ミーネ。落ち着いて」
「だけど、シェルファっ。あのお嬢様が朝からサラダを食べたいと仰っているんですよ!? これもう本気で弱りきっている証拠じゃん!!」
「たまにはそんな日もあると思う」
「高熱で起き上がることもできない状態でもおかゆではなくてステーキをご所望して食べ切ったあのお嬢様が!?」
「……たまにはそんな日もあると思う」
いや確かにそんなこともあったと目を泳がせるアリスリリア。まさかこんなくだらないことで追い詰められるとは思ってもみなかった。
仕方がない、とアリスリリアは静かに決意する。
普段は一蹴している理屈だが、今この状況を覆すにはこれしかない。
「せっかくお嬢様が気まぐれでもサラダを食べると言っているんだから、ここから健康的な食生活を送ってもらえるかもしれない。なのに変に騒いで拗ねられてもう一生サラダを食べないと言われるよりは素直に従ったほうがいいと思う」
ハッ!? と目を見開くミーネ。
たまに肉だけでなく云々と言ってくるミーネにはこういう言い回しが効果的なはずだ。
……健康的な食生活とか知ったことかせっかく腐るほど金があるのだから食べたいものを食べたいだけ食べるほうがいいに決まっている、というスタンスのアリスリリアにとっては唾棄すべき理屈だったが、場を収めるためなら仕方ない。
「それもそうよね、うん」
ようやく落ち着いたかと、一息つこうとして、先輩メイドであるミーネはなぜかアリスリリアに柔らかな目を向けて、
「何より『あの』シェルファが特に何も心配していないなら大丈夫だろうしね。私としたことがいきなりのことに取り乱しすぎちゃった」
「なにを──」
「申し訳ありません、お嬢様っ。サラダ、今すぐお持ちいたしますね!!」
先輩メイドの言葉が気にはなったが、厨房に向かって慌ただしく部屋を出ていったために追求することはできなかった。
何はともあれ、医療術師を呼ばれるような大事にならなかった。それだけでも良しとするべきだろう。
……食事一つでここまでぐだぐだなのだ。こんなのいつまでも誤魔化せるわけがないので、本当に早く入れ替わりを元に戻す手段を見つけ出す必要がある。
ーーー☆ーーー
ちなみに厨房に向かった先輩メイドがアリスリリアがサラダをご所望だと伝えたら、その場の料理人全員が大笑いしていた。もしもアリスリリアがいたらそれこそ一瞬で沸騰して怒鳴り散らかしていただろう。
「おいおい、お嬢様がサラダってお前、嘘つくにしてももうちっとマシな嘘をつけよな。『シェルファの時』、内臓のいくらかがぐちゃぐちゃだっつーのに肉を食べると言って聞かなかったくらいだぜ」
「本当なのよ」
「はっはっはっ。まっさかー。……え? マジな感じ?」
「マジな感じなのよ!!」
アリスリリアが生まれた時からずっと料理長をしてきた中年の男はしばらく身じろぎ一つできなかった。
だけど彼はミーネというメイドのことを知っている。彼女は流石にこんな嘘を長々と引っ張るような女ではない。そもそもお嬢様関連で嘘をつくような女ではないと少し考えればわかることだ。
「そうか、お嬢様がついに苦手を克服しようってんだな。あんな食生活だと早死にしてしまうと心配だったが、そうか、はっは、そうか!!」
ばんっ!! と掌に拳を叩きつけて、そして料理長は厨房にいる全員に向かってこう告げた。
「テメェら!! お嬢様の食生活を早死に一直線からひっくり返すためにも料理人のプライドにかけて野菜も美味いんだと思わせてやるぞ!!」
おおおおおおおおおおおおッ!! と今から戦争でもしそうな勢いの雄叫びが後に続いた。いやだからそこまで大袈裟にするなとこの場にアリスリリアがいたら地団駄を踏んでいたことだろう。
その後?
アリスリリアの『中身』は好き嫌いなんてないシェルファだから出されたサラダは美味しく食べたに決まっていた。
その結果に厨房の料理人全員が感涙して今日は野菜克服記念日だと大騒ぎだったのだが、幸か不幸かアリスリリアに見つかることはなかった。