魔獣の王
「ダメです! レスティ様!」
ティアさんが後ろで叫ぶ。
「黙っていろ、ティア・スタント。私は今レスティ・ウォーディアスに話している」
淡々と、男は続ける。
まるで生徒に出来の悪い生徒を教え諭すように。
「私と同じ、才能を持ちながら加護にその座を奪われそうになった男、領民を思い、統治のために学び鍛えたのに、なんの知見もない者にその座を追われそうになった男。心血を注いで作り上げたものを、伝統や権威のために奪われそうになった男。もっとも、私の方は奪われてしまったがな」
感情のこもらぬ声で話しかけてくる魔獣の王。いや、この言葉が本当ならこの男は……。
「では、貴方は、パーヴェル・リンドブルム殿か?」
死んだとされるリンドブルムの元後継者。魔獣の研究家で、領地を思う真面目な統治者でありながら廃嫡された男。
男がゆっくりと首を振る。
「廃嫡されたので名前はパーヴェル・エステスだな。廃嫡され、追放され、魔獣使いの才能に目覚め、そしてこうなった。失敗したお前の姿さ。レスティ・ウォーディアス」
「死んだはずの……」
後ろでティアさんが呟く。
「廃嫡された憂さ晴らしというわけではないのだろう。聞く限り貴方は廃嫡されても研究を続けるほど領のことを考えていた。それがこうなったということは……」
思いついた忌まわしい考えに頭を振る。
「……マグナガル殿が刺客を出したか……」
「聡いな。レスティ・ウォーディアス。その通りだ。あの男はリューダを後継として私を廃嫡するだけでは安心できず。私と、私の世話になっていた一族に軍を向けた。村ごと族滅されたよ。公式記録では事故死とでもなっているんだろう」
そう言いながらも、パーヴェルの表情はピクリとも動かない。
「馬鹿な。戦争中ではないんだぞ。いつの時代だと思っているんだ」
思わず罵倒が口をつく。それこそ、パーヴェルを活かしておいても統治に支障はなかったはずだ。一度降りた廃嫡の措置はそう簡単にくつがえるものではない。
相手が加護持ちなら尚更だ。
「まったくだ。十一年前の私も目を疑ったよ」
「それで、魔獣の研究を活かして軍隊を作って復讐というわけか」
「まあそういうことだ。直接の仇であるザカールは殺った」
つまらないものを見るように、側の魔獣が加えた死体に目を向ける。
「あとはマグナガルだ。そして、あんなやつを重用し、こんなカビの生えた仕組みを何も考えずに運用する王国を、王国が顧みなかった私の研究でぶち壊してやる。どうだ? 手を貸さないか? レスティ・ウォーディアス」
再び俺に手を差し伸べるパーヴェル。
「断る。貴方もこんなことはやめるんだ。王国は変わろうとしている。俺が証人だ。教会も、王家も、加護を闇雲に信奉する事をやめ、魔法の運用や知識を重視しようとしている。貴方の気持ちは痛いほどわかるが、矛を納めてくれないか」
「今更遅い」
返事は端的にだった。にべもない。
「貴方も民のためにいい領主になろうとした人間だろう。直接の仇はともかく、王国の民にまで牙を向けることはあるまい」
祈るような気持ちで彼を翻意を勧める。彼の気持ちはおそらく俺が一番わかるだろう。
「十一年だ」
揺らがない。
彼の表情も、声も、一才の乱れがない。
「全てを失って十一年。アラーバマス山脈で復讐のために魔獣と共に過ごした。アラーバマスはこことは比べ物にならないほど過酷な環境だ。そこで、復讐だけを目的に牙を研いできたのだ」
そこにあるのは、十一年かけて鍛えられあげた氷の意思だった。
「心まで凍てつくほど寒かった。血の涙が溢れるほどの日々だった。今更心を入れ替えたなどと言われて受け入れられるものか。加護を敬うものも同罪だ」
話しているうちに魔力が回復してきた。六節は無理だがある程度は戦える。もう少し時間を稼ぎたい。
「戦う気かレスティ・ウォーディアス。残念だ。私と似た境遇のお前なら、わかってくれるかと思ったのだがな。だがそうだな。同じような環境から同じような結論に辿り着いたとしても、お前は成功した側だったな」
違う。仮に廃嫡されたとしても、俺には父も母もエレミアもフローレンスもティアさんも、俺に力を貸してくれた人々がいる。
王国を滅ぼそうなどとは思わない。
いや、そうではない。それらの人を殺されて廃嫡されていたら、俺だってこうなっていたかもしれない。パーヴェルは正しく俺の裏返しだ。あり得たかもしれない俺の姿だ。できれば戦いたくはない。
「復讐はともかく、王国の民を傷つけるというなら戦うしかないですね。どうしても、ここで収めることはできませんか」
無理だろう。
こんな言葉で翻意するくらいなら何処かで止まっていたはずだ。
そう思いながら、もう一度、問いかける。
「失った命が帰ってこない以上それはできない相談だな。お前はティア・スタントを殺されて同じ質問に頷けるのか?」
返答は冷たいものだった。そして、痛いところをついてきた。
「まあ、いい。はいそうですかと手を取り合えるとは思っていなかった。考えてもらいたいのは本当だが、ここで長々と話したのは時間を稼ぎたかったからだ。どうやらお前も魔力回復のために時間を稼いでおきたかったようだがこちらも事情があってな」
パーヴェルが右手を上げる。違和感。後ろから、何かが迫ってくる。新たな魔獣の群れだ。先頭の雪猩猩が何かを掴んでいる。
「マグナガル殿っ!」
上半身だけになったマグナガル殿だった。しまった! ここで俺とティアさんを引きつけて、逃げた砦の生き残りを別動体で急襲していたのか。長い会話は俺たちが戻らないようにするための時間稼ぎ。そして、生き残りが殲滅されていた場合救援もすぐにはこないということになる!
「状況は把握したようだな。私としては、ここでお前を殺しておいた方が後の心配がないのだが。どうだ? どうあっても降ることはないか? そこまで王国に忠義立てする義理があるとも思えないが」
義理があるかと言えばあまりない。だが、残しているもののことを考えれば頷くことはできなかった。
「では、ここで戦うか? 砦を攻めていた魔獣が五十体、他の砦に回していた魔獣の残存数がおよそ五十体。合わせて百体近い魔獣を相手にできるのか? 今のお前に」
唇を噛み締める。どうする? 更に増援がきた今となっては戦うのは無理だ。魔力が持たない。だからと言って手を組むことはできない。一か八か逃げるか? 残り少ない魔力で活路を見出せるか? 勝算は薄い。そもそもパーヴェルはどうやって魔獣を操っている? 元々はそれほど秀でた魔法使いというわけでもなかったはずだ。魔力ではない。餌? 調教? 馬鹿な。そんなもので躾けられるなら苦労はしていない。くそっ、魔獣使いの情報が欲しい。
「残念だが、協力しないのであれば死んでもらう」
冷たい声が響く。死の予感が漂う。どうする? レスティ・ウォーディアス!
パーヴェルが再び右手を上げた。魔獣たちが唸り声をあげる。まずい!
「レスティ様! 氷壁呪文を!」
ティアさんが背中合わせに立つ。何か考えがあるのか? くそっ。頭が回らない。
「氷雪・連環・氷壁・陣!」
パーヴェルが腕を振り下ろす直前。氷壁を周囲に張り巡らせるのが間に合った。だが時間稼ぎに過ぎない。既に雪猩猩が氷壁をガンガンと殴りつけている。焦りで心が粟立つ。
「レスティ様、逃げてください」
「無理だ。長距離飛翔呪文で二人運べるほど魔力が回復してない」
「一人で、です。私の魔力を吸収して、一人で飛ぶのならば砦までは持つはずです。二人死ぬより一人生きるべきです」
ティアさんが俺の手を握りしめる。真紅の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
「馬鹿な! ティアさんを見捨てろっていうんですか?」
「見捨てなさい! 貴方は生きなければなりません。ウォーディアスの民の為にも、エレミア様とフローレンス様の為にも、これから襲いくる魔獣から北の民を守る為にも。貴方にしか、これは止められません。これがっ! 私がここにきた意味ですっ!」
「そんな……」
言葉がつむげない。見捨てる? ティアさんを? 師匠を? 俺の大事な……。
左頬に衝撃が走る。ティアさんに叩かれたようだ。
「しっかりしなさい! レスティ・ウォーディアス! 師匠の命令です。生きろ!」
ティアさんが、俺の腕を取る。手のひらから、暖かい波動。これは、魔力を送り込んでいるのか?
「このような時のために開発した。私のオリジナル魔法です。フフ、貴方相手にしか使えませんが」
もう目を瞑っていてもわかるティアさんの魔力波長。魔力が回復していく。
魔力伝達魔法、いつのまに。
「残していても仕方ありません。かまいません。限界まで受け取りなさい」
魔力切れで頭痛も目眩も相当あるはずだ。それなのにティアさんは視線を逸らさず、こちらを真っ直ぐに見つめながら指示を出す。まるで何も見逃すまいというように。
魔力は回復した。氷壁が削れていく。時間がない。
「もう……、大丈夫ですね」
相当に辛いはずだ。ハァハァと息を吐きながら、ティアさんは懐かしそうな顔をして、俺の頬を両手ではさんだ。
「あの時の坊やが、立派になりましたね。楽しかったですよ……」
ティアさんの瞳から涙が溢れる。少しタレ目がちの、真紅の瞳が潤んで、宝石のように煌めく。
「レスティ、鈍感な人……。本当は私、ティアって呼んで欲しかったんですよ」
ティアさんはそういって、ゆっくりと俺に口づけをした。甘い、汗と身体の匂い。
唇の感触が、冷たい。体温が低い、氷のようだ。
氷壁が崩れる。魔獣が押し寄せてくる。
「行きなさいっ!」
ティアさんが離れて、腕の中の温もりがきえる。よろめきながら、ティアさんが俺の背を押す。
双頭氷虎がこちらに飛びかかってきた。飛翔呪文を唱えて、咄嗟にティアさんに手を伸ばした。
体が浮く、指先がティアさんの腕に届いた。掴め! このまま、できる限り遠くまで!
ティアさんは、俺の顔を見つめ、ゆっくり首を振った後、手を振り解いた。そして、己の使命を果たして満足したかのように、微笑んだ。
地表が遠のく、空中に逃れた。
スローモーションのように、眼前の風景が流れていく。地上に残されたティアさんが双頭氷虎に引き倒された。魔獣が押し寄せてくる。ティアさんは魔獣の群れの中に消えて見えなくなった。
走馬灯の様に、ティアさんの言葉が脳裏に浮かぶ。
(十歳のいていい環境じゃないわよ‼︎ お姉さんと逃げましょう‼︎)
(じゃあ、居てあげます。しょうがないですね)
(もし、全てに嫌気がさしたら、私は貴方を連れて逃げて差し上げますよ)
(フフフ、自慢の弟子です)
(ダメですよ。レスティ様を守るために私がいるんですからね。私の命に替えても貴方を守ります)
「ティアァァァァァァァァァァァァァッ!」
何も考えられなかった。魔力が残り少ない事も、ティアさんの最後の言葉も、頭から吹き飛んだ。
全力で魔力を集中して、ティアさんの消えた場所に突っ込む。身体強化をして雪猩猩を殴る、双頭氷虎の爪を掻い潜り、氷の剣で斬りつける。魔獣を掻き分けるように斬り伏せていく。どれだけ進んだかわからない。ティアさんの姿が見えない。
進む。
魔獣が行手を阻む。
斬る。
雪猩猩が殴りかってくる。
障壁で防いで殴り返す。
飛刃空魚が体に突き刺さる。
剣で払い除け、さらに進む。
目が霞む。
魔力がもうすぐ尽きる。
だが、ティアさんを置いていくわけにはいかない。
足を進める。
重い。
氷の剣をのろのろと振り上げる。
信じられないほど腕が重い。
かろうじて双頭氷虎の牙を防いだ。
力が入らない。
踏ん張れず、膝をついた。
雪猩猩の拳が脇腹に突き刺さる。
障壁が破られた。
「ゴフォッ」
血の塊が込み上げてきた。そのまま、雪上に倒れる。立ち上がれない。死が頭をよぎる。
「……ティア」
いつも隣にいてくれた人。ずっと支えてくれた人。師匠であり、尊敬できる魔法の先達であり、信頼できる部下であり、頼りになる仲間であり、時には保護者のように、時には姉のように俺を守ってくれた人。
「死なせる……わけには……いかない……んだ……」
膝と、肘で雪を押し除けるように這って進む。いや、もう、進んでいるのかもわからない。
背中に、飛刃空魚の刺さる衝撃。胃から血が上ってくる。吐き捨てて、進む。
感覚がなくなっていく。お陰で痛みは少ない。体力が急速に落ちていくのを感じる。身体に根を張るかのように冷たさが、骨に染み込んでくる。寒い。
だが、ティアに出会うまで、止まる訳にはいかない。
ゆっくりと這う。いや、這っているつもりだが、動けているのかもわからない。
視界は雪に覆われて何も見えない。
手を伸ばす。できるだけ前に。
少しでも先に届くように。
この先に、いるはずだ。
探すんだ。
少しでも、進まないと。
ティアが……。
ティア……、
待っ……。
そうして、俺の意識は途切れた。




