未来の扉の閉ざされる音
朝起きていつも通り身支度を整え、朝食に向かう。八歳になる頃には、身体の弱い父は政務を代官のチェスターに任せて南方の保養地で療養していた。
王国の北に位置するウォーディアス領は寒い。病身には堪えるのだそうだ。母上も付き添いで領を出た。アルナードの母、ステイト第二夫人は、最低限領主一族が顔を出さねばならない催しに顔見せをする為という理由で領に残ったが、ウォーディアスのような小領にそれほど催し事があるわけではない。おそらく、嫁いでまもない事から父母に気を使ってくれたのだろう。
少し寂しくはなったが、年に一、二回はウォーディアス領に帰ってくる事もあるという事だった。俺はいつも通りに、チェスターと家庭教師に学び、微力ながら取り組んでいる土魔法による土壌改造、街道の整備、他領の産物の育成などを進め、アルナードに領主の仕事を説明し、エレミアを可愛がる。前ほどではないが時々3人でいたずらをする。そんな穏やかながら充実した日々を過ごしていた。
その日、朝食に向かう邸内はざわついていた。父上に何かあったか? いや、何かあれば俺に連絡がくるはずだ。しかし、従僕や使用人の表情は明らかに何かあった事を伝えている。憐憫? 同情? 何があった? なぜ直接俺に報告がない?
訝しく思い、朝食を取りやめて執務室に向かう。チェスターなら何か知っているだろう。
執務室にたどりつけば中から話し声が聞こえてきた。この早朝から執務室で会合? やはり常の事ではない。扉を開こうと手をかけた時、話し声が聞こえてきた。
「聞いただろう。アルナード様が加護に目覚められた。ウォーディアスはアルナード様が継ぐ事になる」
かご? カゴ? 加護? アルナード?
大変な事が起こったのはわかった。突然の事に頭が追いつかない。
扉の向こうからは尚も声が聞こえてくる。どうやら複数人でチェスターを説得しているようだった。
「チェスター、君も立場を考えるべきだ。レスティ様に政務を教えていた君はレスティ様派閥と思われる。いや、君の気持ちはわかるよ。アルナード様派閥など昨日までなかったんだ、そんな事を言われても困るよな。だが、加護に目覚められたからにはアルナード様が次期当主だ。ジェルダン男爵家から来た従僕が権勢を握る事になるし、おそらくこれからウォーディアスの政権に食い込む為に人員が送られてくる。ただでさえ、男爵家は当主が亡くなって働き口がないんだ。これ幸いにと有象無象がやってくるだろう。その前に旗色をはっきりさせておかないと下手したら君もレスティ様の追放に付き合う羽目になるぞ」
追放‥‥‥、追放‥‥‥?
扉を握る手が震える。そうだ、加護を得たものはその家の次期当主となる。子供でも知っている事実だ。虐げられた傍系の子供がある日加護に目覚めて当主となり大活躍、功績を建てて英雄となる。御伽話の定番。そう、物語として聞くのは加護を得て活躍する方の話だ。だが、現実には奪われる側がいる。
アザンドゥークの加護持ち、エイミヤス殿は独立した男爵家を新たに建てて当主となった。アザンドゥーク公爵家ほど家の規模が大きければそれもできるだろう。リンドブルムのリュドミーラ公が遅咲きの加護に目覚めた時、当主はどうなった?
もし、アルナードが加護に目覚めたのならば、俺はウォーディアスを追放される? 追放? なんの冗談だ? 俺は精一杯、力を尽くしてきた、父の代わりになれる様、物心ついた時から政務と! 魔法と! 次期領主としての振舞いと! 体調が悪い時も、悲しい時も、他にやりたい事がある時も、エレミアが寂しそうにこちらを見て、仕事に向かう俺に声をかけるのを我慢した時も。今更、今更、俺から奪うのか! 父を、爵位を、領地を、民を、後継の地位を。アルナード、お前が……!
(全然わかりません。兄上はすごいですね)
(兄上! 僕も、魔法を使ってみたいです)
(お願いです、兄上、氷の部屋があったらきっと過ごしやすいですって。やってみましょうよ)
(魔法も政務も兄上は何でもできますね!)
アルナードの声が頭でこだまする。お前が……。視界が暗い。身体に力が入らない。
「何も君にレスティ様を見限れなどと言っているわけじゃあない。アルナード様をレスティ様と同格に扱えというだけだ。加護を丁重に扱うというのはこの国の決まりなんだ。何もおかしくはない。後は教会か陛下から下知があるだろう。それまで、二人共を次期当主として扱う、それでいいだろう?」
声に聞き覚えがある。家宰のバーボだ。おそらく皆、チェスターの下で政務を手伝っていたウォーディアスの生え抜きの家臣達だ。そう、大領からのつてで派遣されてきたチェスターは直接ウォーディアスに縁があるわけではない、最悪、ここがダメならまた別の、病床の領主や戦争で政務の取れない家に雇われればそれで済む。多少面倒なことになろうとも、追放まで付き合う義理はないのだ。それで済まないのはウォーディアスに生まれ育ち、父に仕え、当然次代は俺に支える予定だった者達だ。話が違うと思っただろう。少しでもアルナード寄りに動かねば、最悪俺に付けられて一緒に追放される可能性すらある。
そうだ、誰も彼らを責められない。巡り合わせが悪かったのだ。
「今からでも、はっきりと男爵派につくべきだ。加護に目覚めたらすぐに配下として馳せ参じた。アルナード様はわからんが、ステイト夫人は心強く思ってくれるはずだ」
これは、徴税官のヨーハン。徴税官だけあってシビアなヨーハンらしい意見だ。
そうだ、それが当たり前の選択肢だ。誰も、何も悪いことはしてないのに追放なぞされたくはない。
どこか、心が遠くにある様だった。目の前に起こっている事、話している内容を天井から眺めている様な、自分の事でない様な感覚。おかしな事に、他人事の様に感じるおかげで冷静に判断することができた。
「だが、レスティ様はどうなる? ここにいる皆が知っているだろう。まだ八歳なのに、あの方は本当に頑張っていた。良き領主になろうと努力していた。俺達はみんなあの方に期待していただろう。昨日の今日で手のひらを返すのか?」
「ああ、お可哀想にとは思う。小さな頃から頑張っていたのも知ってるさ。だが、どうしようもないだろう? 加護持ちの領地には様々な特権が与えられる。俺たちが何をしようと民はアルナード様を求める。それこそ特権なぞなくても。加護は英雄なんだ」
これは、農政官のグリンと軍人のネクロ。俺の思いつきで遠方の商業作物を育てるのに、グリンはいつもに楽しそうに付き合ってくれた。黙々と仕事をする誠実な男。加護と共に戦うことになるネクロの言葉には実感がこもっている。
そうだ、加護の力は100人の魔法使いに相当する。加護持ちが国の為に働く代わりに、侯爵家待遇の宮廷職があたえられ、裁判権、徴税権と共に、領地には兵役の免除、税の軽減、公共工事の補助が行われる。
「考えようによっちゃ、これで俺たちもいい目を見られるぜ。ウォーディアスは貧しいが、加護が出たなとなれば話は別だ」
茶化すように話すのは、厩長のイフズタだ。
そうだ、領のためにはこれは良いことなのだ。英雄が出て、税が軽くなり、街道の整備や開発に使う援助を得やすくなる。イフズタはいつも歳をとり過ぎているから新しい馬を買いたいと言ってはチェスターに予算がないと断られていた。領民にとっても、そこで働く官僚にとっても加護が領主になるというのは望ましいことなのだ。
「私は雇われだ。レスティ様の味方でも敵でもない。雇い主は領主のレンデル様。もっと言えば、クレアネメス家からの口聞きだ。淡々とやるべき事を行い、上の判断を仰ぐ。とにかく、教会から加護認定官がくるだろう。話はそれからだ。まだ加護と決まったわけではない。しかし、前例に倣い、事がはっきりするまではアルナード様をレスティ様と共に次期当主として扱う。それでいいだろう」
チェスターが重々しく告げる。俺に領地経営を教えてくれた、もう一人の父のような存在。相変わらず、嫌になる程誠実で、真面目な男だ。
彼も、味方ではない。わかっていた事だ。この国で、加護が正義のこの王国で、加護に敵するものがいるはずがないのだ。冷えた心に諦念が押し寄せる。仕方ないのだと。誰が悪いわけでもない、ちょっとばかし女神にそっぽむかれたのだ。神の気まぐれなど人の身には抗いようがないのだと。諦めかけた俺の耳に、中の会話が聞こえてきた。
「エレミアさまはどうなる?」
エレミア‼︎ 家督争いに関係ない女児、しかもまだ四歳だ。エレミアに何があると?
「魔力もある。順当に行けば縁を繋ぐ為に他家に嫁ぐ予定だが、こうなるとどうかな? 少しでも直系の力を削いでおきたいならややこしいが忠誠を誓う分家に降嫁してしまうか、財力はあるが魔力や家名はない家に出してしまうか」
「レスティ様は努力しておられたし、あの歳にしては破格の出来物だった。没落男爵家臣団が舵をとって万が一にも失敗した場合、政務だけでもあの方になどという声があがらないとは限らないからな。その時に後押しになるようなところに妹君は置いておきたくないだろう」
「最悪、一緒に追放か教会入りか。加護持ちは王国の象徴だが、少し裏に回れば闇の深い話だな」
そこまで聞いたところで、俺はそっと扉の前を離れた。俺が廃嫡されれば、エレミアも一連托生。そんなのってないだろう! いや、自分の事がショック考えが及ばなかっただけで、これも当然と言えば当然の帰結だ。頭の中の冷静な部分は囁く。だが、納得はできない。エレミアは四歳、産まれてほどなく父が病床に臥したため、父母と触れ合うこともなく、ほとんど俺を親代わりに育ったようなものだった。その兄の俺も政務と勉強に忙しくなり、エレミアはいつも寂しそうにしていた。アルナードが来てからどれだけエレミアが笑顔を浮かべるようになったことか! そのアルナードがエレミアの未来を奪うのか?
頭が痛い。脚に力が入らない。考えをまとめようと、よろよろと自室に向かっていると、声をかけられた。聞きなれた少し舌足らずな声、俺の、愛する妹の声。
「おにいさま、どうしたの?」
エレミアが階段の下から、怪訝そうな顔をしてこちらをみている。
く
ダメだ! 気取られるな! 息を深く吸え、顔に表情を出すな! 笑え! 口角を上げろ!
「エレミア、おはよう。どうかしたのかい?」
俺は上手く表情を繕えているだろうか? 自分ではわからない。腹に力を入れろ! 声を震わすな!
階段を上がってきたエレミアが近づいて、下から見上げてくる。
「おにいさま、しゃがんで?」
「なんだい?」
できるだけ、いつも通りを装って、にこやかに膝をつく。最近、お気に入りの肩車のおねだりだろうか。可能な限り人と合わない部屋で過ごして、早めに切り上げよう。
そんな事を考えていたら、ひざまづいた俺の頭を、エレミアの小さな手が撫でていた。
「よしよし、いたいのいたいのとんでけー」
「なんっ‥‥‥、で‥‥‥」
声が詰まる。
「まえに、おうまのまえにとびだしたわたしを、にいさまがかばってせなかをいためたことがあったでしょう?」
ああ、そんなこともあった。
去年だった。エレミアが軍馬の調練所に忍び込んで跳ねられそうになった時のことだ。3歳の時だろうによく覚えてるな。
「ひどくうちつけて、とてもいたかったって、チェスターにきいたわ。でも、にいさまぜんぜんへいきなかおして、だいじょうぶかって、わらいかけてきたの」
小首を傾げながら、エレミアは俺の頭を撫で続ける。
「そのときと、にいさま、同じかおをしてるわ。どこか、いたいのではないですか? いたいのに、いたくないようなおかおです」
抱きしめた。嗚咽が溢れる。
俺の、大切な家族。全てを失う俺に、身分も才能もそんな事は関係なしにそばにいてくれるもの。お前を不幸にするわけには行かない。
俺の巻き添えで、お前の運命まで変えてたまるものか!
「おにいさま、やっぱり、いたいのですか? なかないで、おにいさま、よしよし。よしよし」
腕の中の暖かさと、頭の上の小さくも優しい感触に、涙が止まらなかった。
俺はこの日、未来の閉ざされる音を聞き、それに抗う事を決意した。




