episode.19
ハルはごくんと唾を飲んだ。これは決戦である。
木々の隙間から、もう街が見えている。
この場に立ち止まって5分が経過し、レイは腕を組んで体重を近くの木に預けていた。
ハルは今日、森を出る。レイが強硬手段でもう本当にハルの家に住むと脅したら流石に観念したのだった。
ハルの腕を引いて連れ出す事も出来るのだが、今日に至るまでに強引な手を取った自覚があるレイは、この時ばかりはハルのペースに合わせていた。
と言うか、フンフンと鼻息を荒くして「ちょっと!待って!ください!」と見た事もない顔をされてしまっては待つしかなかった。
「仕事場と生活する場所を分けるだけだろ。もう二度と森に来ないわけじゃあるまいし」
「そ、そう言う問題ではないんです」
そう。そう言う問題ではない。レイは誤解をしている。
ハルが立ち止まっているのは、森が名残惜しいからではない。
この先に待っているであろう宿敵との遭遇に躊躇っているのだ。
この場にいても、カラカラ、パカパカとそれらしい音が聞こえてくる。
とは言えいつまでもここに佇んでいる訳にもいかない。時間がもったいない。
ハルはもう一度唾をごくんと飲み込んで、覚悟を決めて顔を上げた。
「い、いき、行きましょう!」
もうレイの事を考えている余裕は無い。毎度街に出る時はこうして気合を入れて、「別に怖くないし?」と自分に暗示をかけて一歩踏み出すのだ。
深くフードを被りレイの事は差し置いてズンズンと歩みを進める。
ちなみにハルは目的地であるレイの屋敷の場所など知らないのですぐにとっ捕まえられた。
「どこに行くつもりだ?」
「副団長のお屋敷であります」
「………こっちだ」
「はい!参りましょう!!」
人格もちょっとばかしおかしくなっているが気にしないで貰いたい。
顔が見えないほど深く被ったフードの隙間から、レイの足元を見失わないように、それだけに集中してついて行く。
途中、視界の隅に映った荷車のタイヤにドキッとしたが、歩みを止めなかった自分を褒めたい。
が、動いている馬車相手ではちょっと無理そうだった。
カパカパ、カラカラと聞こえてくる馬の蹄とタイヤが回る音でハルはどうしようもなくなった。
「副団長………」
全身をローブで覆った真っ黒い生き物…ハルの力無い呼びかけでも、レイが聞き逃す事は無かった。
「どうした?」
怖気付いたかとレイはハルに歩み寄った。深くフードを被ったハルの表情は背の高いレイからは見えなかったので、覗き込むように屈んだ。
そっとずらしたフードの隙間から見えたハルの表情は、影になっていても不安と恐怖を映しているとはっきりと分かった。
ハルが人混みを得意としない事は分かってはいたが、祭りに来ていた時はここまでなっていなかった。
「どうした?」
もう一度問うと、ハルはレイの服の裾を力無く握った。
「す…すみません………」
馬車はもう、ハルの横を通り過ぎている。音が遠のいて行くのに比例して、ハルも落ち着きを取り戻していった。
レイはハルが話すまで何も言わなかった。
ハルは一呼吸置いて小さく口を開いた。
「馬車…が、怖いんです。轢かれた事が、あって……」
「……………馬車にか?」
「夢です」
ハルが轢かれたのは馬車なんかよりもよほどスピードが出るこの世界には無い乗り物だ。
だから夢だと言う事にした。たかが夢に怯えるアホな魔女と思われても良い。そう思える程に苦手なのだ。
はあ、とレイのため息がハルの前髪に届いた。
レイは自分の服の裾を握っていたハルの手を剥がすと、それに自身の手を重ねた。
ついでに深く被っていたフードを脱がされて、眩しさでハルは一瞬目を閉じた。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、当たり前だが目の前にはレイがいる。
「もう行った。大丈夫か?」
いつに無く優しいその声色に、ハルはコクンコクンと頷いてみせた。
「無理をさせた。悪かった」
「いえ………」
言わなかったのはハルの方だ。こんな馬鹿げたトラウマを、あんなものが怖いなど、出来る事なら隠し通したかった。
前世の言葉を借りるなら、だってダサいじゃん?
そんなハルをレイは笑わずに気遣ってくれた。レイが笑うはずはないと分かってはいたのだから、結局こうなる事なら先に言っておけば良かったと後悔した。
「ハル」
名前を呼ばれて、ずっと俯いていたハルはようやく顔を上げた。
「顔を上げていろ。顔を上げて、しっかり見るんだ。隠して見えなくしてしまうから怖いんだ。」
「!」
「それからもう一つ。今お前の隣に立ち、手を引く男がこの俺だと言う事は気休めにはならないか?」
ハルは唖然としていた。
レイが紡ぐ言葉の全てが、ハルに衝撃を与えた。
ハルはこれまで、怖いものを見ないようにして生きてきた。目を伏せて、近寄らないようにして。
だから怖いのだと言われたのだ。
ハルはもう、下を向かなかった。そこにレイがいるから。
日々の鍛錬を思わせる、ちょっとゴツゴツした手が、ハルを守ると約束してくれているから。
「大丈夫か?」
「はい」
呼吸も落ち着いて、ハルはしっかりレイの目を見て答えることが出来た。
「そう言えば、お前の好きな食べ物を知らないな。何が食べたい?」
歩み始めたレイが、何の脈絡もない話を振ってきたのはきっと彼の優しさなのだろう。
「副団長が作ってくれるんですか?」
「そう望むのか?」
「前に作ってくれたスープが美味しかったので、また食べたいなと思っていました」
「そうか。では近いうちに叶えよう」
「ありがとうございます」
道の真ん中を馬車が通る。ハルが俯く事は無かった。




