柴田権三
「教授、来週ヘルシンキでの学会の日程が決まりましたので資料を机の上に置いておきます。私は先に現地に入りますので、分からないことは住吉くんに聞いてください」
几帳面な性格で自分の身の回りはもちろん、仕えている教授室ですら我が家のようにキレイに整頓する助手の桑野弘二が言った。彼にとってそれは業務上のことではなく、自らも関わる一部分として当然の行為であり、何ら特別なことではない。
「ありがとう桑野くん、君にこんなことまでしてもらっては申し訳ない」
「いえ、教授がいい環境で仕事していただくことをサポートするのが私の役目です。どうかお気になさらないでください」
桑野は東都大学に来る以前、サラリーマンをしていて前任者が突如退職したときに、権三の助手になったという経緯があり、詳しい事情は権三ですら分からなかった。ただひとつ分かっているのは彼がここ東都大学の卒業生らしいとのことである。
「住吉くん、ヘルシンキの特産物は何があるのかね?現地に着いたら孫娘たちに土産を買おうと思っているのだが、すまないけど調べておいてくれないか?」
「はい分かりました教授。お孫さんたちのお歳はおいくつですか?」
住吉菜穂子はキャンパス内でも評判の美人で知れ渡り、いろいろなサークルや他の大学関係からも声が掛かるほどであるにも関わらず、本人はそんなことは一切相手にせず研究に没頭する毎日であった。
「上の子が中学二年生で下の子が小学六年生、どうだ!かわいいだろ?」
そう言うと権三はおもむろに机の引き出しを開け、写真を取り出し菜穂子に手渡した。
「ほんとだ。カワイイ!自慢のお孫さんたちですね」
「姉が望で妹が愛莉。将来お姉ちゃんは学校の先生で妹は君と同じ天文学者になりたいんだと言っている」
権三のニコニコした顔を見て菜穂子もつられて笑いながら言った。
「愛莉ちゃんかぁ!楽しみにしていますよ。将来、一緒に研究とかできたらイイですね」
「いや!強力なライバルになるかもよ」
すかさず権三が切り返して二人は笑った。
日本で一、二を争う学力の東都大学はその学生、職員とも常に周りから羨望の的となり、誰もが彼らの頭脳と知性に信頼を置いている。しかし、いつの時代もそんな所でも、いやそのような所であるが故に人間の浅ましいところが見え隠れする。学長選挙。
次の教授や准教授は誰かなど人事は特に激しく争われることが多く、その時期が近付くと大学内がピリピリとし、その緊張は学生にまで及び、一種異様な空気に包ま
れる。そんな中、権三はひとり関係ないといった立場で毎回その時期が来ると決まって、学会や出張が入り、皆からはわざとそうしていると言われ、本人は笑いながら頷いている。
今回のヘルシンキ行きの最中にも権三を含め、人事異動や昇格があり助手の桑野は自身の助教昇格のことで精一杯になり、いつもは権三に同行するのだが珍しく先に出発するという逃げに出たのである。
あとから出発した権三は疲れていたが、ヘルシンキ空港に着くと先着していた桑野が出迎えた。
「教授お疲れ様です。外は寒いのでこれをどうぞ」
そう言うと桑野は手に持っていたコートを権三に渡した。
「ありがとう。さすがに北欧だね。機内からもう寒さが伝わってきたよ。これを見るとさらに実感するね」
預かったコートに袖を通す頃には一面の銀世界が目に飛び込み、メインゲートを出ると一瞬のうちに体が冷えるのがわかった。
「あの~教授、その~教授が出られるまで人事に何か動きがありましたか?」
なんとも煮え切れない、遠慮した聞き方で誰が聞いてもそのことで頭が一杯とすぐ分かる言動の桑野に権三はひとことで言った。
「大丈夫だ!」
桑野にとってそれはどちらにも取れる言葉だが、今まで権三がそう言ったときに外れがないとわかって初めて笑顔が出た。
「さっそくですが教授、まだ発表前の段階ですが今回の論文はかなり反響がありそうですよ」
先ほどの心配など微塵も感じられず、本来の仕事に戻った桑野はタクシーの扉を開け、権三の後に乗り込んだ。今回の学会で発表する論文は長年、権三が研究してきた総決算で宇宙物理学者として最後の大仕事である。星の一生は長く、人間の寿命など遠くおよぶはずもなく、その星の変化など目にすることなど一人の人間が見ることはほとんどない。
しかし、その残骸や記録は確認することができ、映像や書物、または口伝などいろいろ方法はあるがもっと確実な科学的証拠がないか、それが科学者としての責務であり、それを突き止めるべく権三は長きにわたって研究を重ね、今回その仮説を学会で発表するところまできた。会場に着き関係者や出席者などに挨拶を済ませ、ディスカッションなど忙しいスケジュールが続き一時間の休憩後、いよいよ論文発表の時間がやってくる。
「すまないが桑野くん、少し横にならせてもらえないか?めまいがするので・・・」
「そういえば教授、先程から顔色が悪いですね。こちらに着いたばかりなのにハードスケジュールですからね。どうぞ、おやすみになってください。用意は私がしておきますから、時間がきたら起こしにいきます」
時差ボケかそれとも急に寒い地方に来て、けして若くない権三の身体には堪えたのか、休憩をとって大舞台に臨むよう控え室へと向かった。それから権三の論文が発表されることはなかった。桑野が控え室に行ったときには権三の息はすでになく、すぐさま病院に搬送されたが北の寒い地で権三は客死した。
桑野以下、関係者が地元警察に事情を聞かれた。
もちろん形式的ではあるが外国人であり、論文を発表する間近という極めて特殊な状況下での事などを考慮し、司法当局も判断した。調べた結果、特に異状もなく死因は脳卒中であった。まもなく到着した里美は父権
三の変わり果てた姿を見て号泣し、立っていられないほどであった。
無言の帰国後、権三の葬儀がしめやかに行われ、娘の里美はもちろん、孫の望、愛莉は突然の別れで葬儀中も泣き崩れ、龍一ひとりでは手に負えないほどであった。
参列者も数百人にのぼり、あらためて権三の人望と指導者としての偉大さを皆が実感した。最期に彼が愛したピアノの名曲が流れ、参列者の惜しむ声と涙で静かに送られた。




