第7話 桂川原の戦い
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1527年(大永7年)3月12日。桂川原の東岸。鳥羽に幕府軍の細川高国の兵3,000が陣を敷く。そこから東北に少し離れた六条に足利義晴の兵2,000が本陣として布陣。本陣から北に離れた川勝寺に後詰めの武田元光の兵2,000が布陣。
そして、細川高国さんの陣からかなり東北に離れた北白川に六角の三雲定持と馬渕宗綱の兵2,000が布陣したという。対する波多野、三好軍は桂川原の西岸。伏見久我に兵7,000を率いて陣を構えた。
「放て!」
戦いは日が暮れて、あたりが暗くなった頃に桂川原の西岸に陣取る波多野、三好軍による弓による攻撃から始まった。後に「桂川原の戦い」と呼ばれる戦いは、こうして幕を開けた。
「ぬう。こちらも迎え撃て!」
細川高国側も反撃のため矢を撃ち返す。たちまちのうちに辺りが喧騒に包まれる。
「いきなり攻撃を仕掛けてくるとは、戦の流儀を知らぬ田舎者め」
波多野、三好軍からの夜討ちと聞いて、細川高国は鎧を身につけて慌てて外に出てくる。
「ええい。徹底的に反撃せよ!」
細川高国の命令でより一層の反撃が加えられる。
「大変です。武田大膳大夫殿の陣が攻撃を受けているとの情報が!」
細川高国の元に伝令が駆けこんでくる。
「な、すぐさま援軍に向かう!兵500。我に続け」
一瞬の間があったが、細川高国は自ら兵を率いて援軍に出ることを即座に決断し、命令を下した。
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「だが、結局援軍は間に合わず武田軍は潰走。武田大膳大夫殿は若狭に逃げ帰った。裏から崩れた訳か」
俺の報告を聞きながら、元就さまは「ふう」と息を吐く。
「よほど動揺したのでありましょうな。管領殿はそのまま将軍様の本陣に駆け戻り、そのまま将軍様ともども六角軍の陣まで逃げ落ちました」
で、追撃してきた柳本賢治軍を六角軍が迎撃し、柳本賢治軍に少なくない被害が出た。その後、幕府軍は六角軍に守られながら近江(滋賀)坂本に落ち延びたという。
「久しぶりに元近が御伽衆らしい仕事をしたな」
カラカラと元就さまが笑う。え?直接の報告こそ、やってませんでしたが常に報告は上げてましたよね?
「それで義兄上。公方さまと管領さまが近江(滋賀)に落ち延びられたのは何故でしょう?」
その隣では少輔太郎くんが目をキラキラさせながら聞いている。ぐはっ。破壊力高いな。少輔太郎さま今年で7才だっけ?(※史実と違い1520年11月生まれ)大きくなったなぁ。
「今回将軍さまは、周辺の有力国人に対し助けを求めましたが、結局来てくれたのは若狭(福井南部)の武田と近江(滋賀)の六角だけです。武田は負けたので頼れるのが近江の六角だけだったのです」
「ふーん。なる程ですね」
本当に理解しているのかは怪しいが、少輔太郎くんはうんうん頷く。実際のところ武田元光さんが早々に敗走してなくても若狭から西に逃げるのは出来なかったりする。
丹波(兵庫東部から京都西部)に隣接する但馬(兵庫北部)の守護大名山名誠豊は因幡(鳥取東部)の守護大名の山名誠通に攻められて没落。
将軍になるときに3万人を引き連れて上洛してくれた備前(岡山南東部)守護代の浦上村宗は周辺国人との抗争で動けず、播磨(兵庫南西部)守護赤松政村は上洛要請に応じなかった。直接の逃げ道が東にしかなかったのだ。
「で、政務の主が居なくなった京は今後どうなる?」
元就さまは興味深げに尋ねる。そう。足利義晴さんと細川高国さん。長期戦を想定したのか、本陣に政務の中心である評定衆や奉行人を連れてきていて、近江に逃げる際に全員を連れていったのだ。
「公方や管領が京から逃げ出すのは、今までにも多々あったことですが、今回の逃亡で政務を回せる者が一人もいなくなり幕府は事実上の崩壊です」
「阿波(徳島)の細川殿と三好殿が京に上洛し、号令しないことには、どうにもならないか」
元就さまは視線を空に逸らし、隣りの少輔太郎くんがうんうん頷く。親がすることを真似るのが楽しいのかもしれない。
「今の細川殿と三好殿には京での基盤がありません。幾らかの伝手がある摂津(兵庫南東部から大阪北中部)堺で臨時の幕府を開くのではないかと」
「幕府?誰を公方さまに頂くのだ?」
「阿波には公方さまの異母弟殿がおられます」
足利義晴さんの異母弟である足利義維さん。後の堺公方または堺大樹その人である。




