第3話 後柏原天皇崩御
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1526年(大永6年)4月
「これが帆船ですか」
田心の船上で伊作忠良さんが感嘆の声を上げている。今回の外交の行程は、安芸(広島)から南下して伊予(愛媛)沖を通り、日向(宮崎)に到達。伊東氏と島津氏に接触した後は薩摩(鹿児島西部)沖を桜島を眺めながら北上して肥前(佐賀から長崎)で少弐氏ではなく龍造寺氏に会うつもりだ。
それをぽろっと言ったら、伊作忠良さんが薩摩まで同行すると言ってきたのだ。俺と縁が出来た僧侶と武将を兼任する人って、なんでこう腰が軽い、いや糸の切れた凧のようにフリーダムなのかね?
薩摩で二日ほど歓待を受けたんだけど、唐芋で作った焼酎を提供したら物凄く絶賛された。
島津本家との話し合いの末、島津氏は日向での戦いを当分行わない事になった。島津氏が抱えている酒を作ってる杜氏さんが二人ほど、ついてくることになったけどね。
- ☆ -
「お初にお目にかかります。毛利家家臣で畝方石見介元近です」
「お初にお目にかかる。龍造寺孫九郎家兼です」
熊のような体格の初老男性がちんまりと頭を下げる。龍造寺孫九郎家兼。龍造寺の13代当主・龍造寺康家の五男だけど、内部分裂や当主の早逝で力を弱めた本家を立て直し、龍造寺氏を主家の少弐氏の筆頭家臣にまで昇りつめさせた男だ。
「まずは、石見介殿から頂いた龍王丸・・・ああ、無銘でしたので名付けましたが、そのお礼を直に述べさせてください」
そう言って龍造寺家兼さんは、背後に掛けてある俺が贈った刀に視線を送る。なんというか質実剛健を地で行く感じの装飾が施されたものが鎮座している。そういえば、ここ数年は主家の少弐資元さんに従って筑前(福岡北西部)で大内氏と戦っているんだよね。
「いえ、お役に立っているのなら龍王丸も本望でしょう」
そう言うと龍造寺家兼さんは口の端を上げて笑う。
「さて、石見介殿。毛利殿が主家少弐ではなく、某をお尋ねになった訳をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
龍造寺家兼さんが更に笑みを深くする。なんだか怖い。ただ考えてみれば、戦国時代末期に九州で大友氏島津氏と三國志をやってた龍造寺氏という歴史を知っていなければ、少弐氏筆頭とは言えいち家臣に過ぎない龍造寺家兼さんに声を掛けるのはおかしな話かもしれない。主家の少弐資元さんに疑われたら一番に粛清される対象だと今更ながらに気付く。
「これは、某の考えが浅慮でありました」
慌てて平伏する。
「殿に二心無きことを説明するのに苦労しましたぞ。まあ、毛利殿の行いは擒賊擒王なのでしょうが」
不意に龍造寺家兼さんからの圧が弱まる。擒賊擒王はいわゆる「人を射んとすれば先ず馬を射よ、敵を捕らえんとすれば先ず王を捕えよ」のことね。
唐の詩人杜甫の前出塞が出典らしい。
「まあ二心あり。そのような疑惑は龍王丸で斬り伏せましたがな」
龍造寺家兼さんはからからと笑う。
「毛利殿は何がお望みですかな?」
「今まで通り筑前をあと豊後の大友も脅かしてくだされば」
「是非もなし」
龍造寺家兼さんはいい笑顔で請け負ってくれた。
1526年(大永6年)6月
主上(後柏原天皇)が崩御された。史実よりちょっと遅い。それを受けて皇嗣(後奈良天皇)が践祚・・・天皇に即位する。ただ改元はされないらしい。
昇殿宣旨で例外的に殿上人になっていた俺は、元就さまの代理として主上(後柏原天皇)の葬儀に参加した。細川稙国さんの葬儀の時に金貨を置いてきたので、今回は以前頂いた般若心経のお礼も兼ねて現代人的なノリで500貫文ほど寄進した。
元就さまからの寄進は5貫文だったけどマシマシにしておいた。俺のポケットいや懐からは茶釜金貨を出しておいたけどね。
後日、京の色んな公卿さんからお呼びの手紙が届くようになり、極め付きは即位したばかりの主上(後奈良天皇)からもお呼びがかかった。元就さまは正四位と治部少輔に、俺は従五位下に昇官するらしい。
寄進=官位。まあ元就さまの格付けアップはいいんだけど、俺がそのお零れ・・・いや金貨を寄進したんだけどね。




