第1話 朝廷からの打診
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- 1539年(天文8年)1月 -
- 摂津(兵庫南東部から大阪北中部)大坂城 -
潜水艇で沖まで出てそこから輸送船に乗り換え、大坂城にやってきた俺。元就さまへの新年の挨拶に間に合いました。
いや、加賀(石川南部)に出向した時点で新年の挨拶は免除されていたんだけど、出来るだけ早く尾張(愛知西部)の尻を叩いた方が良いかなって思ったんだよね。
もっとも、結論から言うけど全くの無駄だった。
尾張の斯波統雅さん(傀儡)と織田信秀さんが、毛利氏に臣従するために新年の挨拶を兼ねて元就さまのもとに馳せ参じていたのだ。
うん。降伏するのに新年の挨拶って、丁度いいタイミングだよね。
で、元就さまに新年のご挨拶をした後、同じく新年の挨拶に来ていた斎藤利政さんと斎藤利政さんが調略した数人の信濃の国人たちと一緒に今後の信濃での活動方針・・・まあ、当分は武田氏との緩衝地帯としての態度を堅持するというだけなんだけどその打ち合わせ。
続いて行われた新年の方針会議で、伊勢に集結していた毛利軍は尾張の斯波・織田軍と合流してそのまま三河へと侵攻する。加賀の毛利軍は、能登を包囲するのと越後の長尾氏の侵攻に備えるため越中に侵攻することが決まった。
「主上は、毛利三位殿を正三位の参議および征夷大将軍に推挙したいと仰せです」
松が取れる頃、朝廷から元就さまに進階を推挙したいのだが?という事前の連絡のための使者が来た。昔は正月7日に白馬節会の饗宴というのをやってそこで叙位を併せてやってたんだよね。
で、こういうのは事前に摺り合わせておいて双方合意しておかないとお互いに気まずくなるから、急いで上層部が集まっての会議。
「正三位は、毛利家が足利家、北畠家、斯波家を配下に収めたことで朝廷での家格を保つ意味もあり賛成です。ですが、征夷大将軍に就任するのは反対です」
足利天晴さんが、開口一番征夷大将軍になることに反対する旨の意見を述べた。
俺は即座に、征夷大将軍になれるのは源氏の頭領のみ!というかと思ったけど、よくよく考えてみると、征夷大将軍の地位に就いた源氏の長者は源氏で3代。足利氏も12代の足利天晴さんで終わっていて、現時点では16人しか輩出していない。(木曽義仲の征東大将軍を含む)
けど、源氏以外の征夷大将軍は平安までに12人。鎌倉3代以降に6人。建武以降に5人ほど存在している。(含む征夷将軍)
征夷大将軍=源氏長者=武家の最高権力者というのを狙った徳川家康の仕込みなんだろうと思う。(※征夷大将軍=源氏長者は後世の俗説)
では、足利天晴さんが元就さまの征夷大将軍に反対する理由とは何か?というと、元就さまの毛利氏の祖である大江氏が源氏と足利氏の側近だったということらしい。
足利天晴さん、元就さまを管領に祭り上げたときに一族の畠山氏の養子に据えて仮初めだけど、源氏と縁続きにしましたよね?ってツッコミを入れたかったけど、元就さまが祖先が仕えた家の地位を簒奪したと公家の雀たちに囀られるのも確かに気分は良くない。
そして、反対だけで終わらないのが足利天晴さんである。元就さまは既に大宰権帥と九州探題という地位にあるのだから、鎮西大将軍の地位を求めてはどうかと提案してきた。そもそも、征夷大将軍というのは、蝦夷(というか東北)討伐のため京から太平洋側を通って北上する軍を率いる総大将の地位だからね。
「朝廷には古来より、西日本での争乱鎮圧のために軍を率いた者に与えた征西将軍という地位がある。なら、いま西日本を支配下に治めている御館さまは、西国武家の頭領として征西いや、既に鎮めておられるのだから鎮西大将軍の地位を求めるべきである」
ふんすと鼻息荒く足利天晴さんは断言する。まあ理屈は解るので、誰も反対はしなかった。
そして朝廷からの使者は、元就さまが完全にお断りしなかったことに安堵して帰って行った。
ちなみに源頼朝が征夷大将軍になった理由って、鎌倉幕府を開いたときに朝廷が提示した惣官、征東大将軍、征夷大将軍、上将軍の官位のうち平宗盛が任官した惣官とライバル木曽義仲が任官した征東大将軍は不吉。上将軍はメジャーじゃない。ということでそこそこ有名な征夷大将軍を選んだということらしいよ。




