『ひ・eye』4
「結局、数字だけ兄貴に勝てば、満足できたんか、おまえ」
「わかんね」
コンクリートブロックの壁に寄せられた、見知らぬ他人の車のバンパーにもたれて作った親密な空間。
「なあ、木村、おまえ、やりたいことねえの?」
「――――スペアが、そんなこと、考えられっか…よ」
ずっと母親の視線をほしがっていた、寂しい子ども。
「卒業まで、まだ半年あるぜ。おまけに浪人する余裕も私立に進む余裕もないおれとは、立場が違うんじゃねえの、おまえって」
なにしろ兄貴は早稲田の政経。私立に通わせる財源があるってことだろう? ほどほどに金持ちだよな、おまえん家って。
「加藤……」
なんだ?
「結局……、ズルして上げた内申点で推薦取ったら――、おまえ、おれを軽蔑するよ…な」
「なんで?」
「…………」
「…………」
「…………」
ああもう、しようがねえな。
「おれなんかより、よっぽどりっぱに大学に行く理由あるじゃん、おまえ。とりあえず、おふくろさん黙らせて。それからシャカリキに探せばいいよ。自分にできることとか、楽しいこととか」
「ズルして入った、場所…で?」
「そう思うなら、あと半年、しっかりガリ勉くんになって、それこそ本気で東大ねらえば?」
「簡単に言うんだな」
「だって簡単なことだろ? おまえにはもう、がんばるちゃんとした理由ができたんだから」
「…………」
「なあ、木村、おまえってさ、きっと今まで兄貴と比べられるのがいやで、本気で勝負したことなんて、ねえんだろ。でももうスペアはいやなんだ、うんざりなんだ、そうだろ? だったら本気だせるよな? それで負けたら、その程度ってこと。いつまでも兄貴のスペアやっとけ」
「――キッツイやつだな、おまえって」
そうなのよ。
「おれも最近、知りました」
がくんと両膝のあいだに頭を落としたおれは、声だけを聞いた。
あはは、と小さく耳元ではじけた笑い声。
「えと、あの――…」
木村の笑い声が聞こえたんだろう。足立の遠慮がちな声がした。
「ふたりとも、おなかすかない? あの、コンビニで、ちょっと…買ってきたけど」
「おう!」なにかを吹っ切るように立ち上がった木村が、白いビニール袋を受け取った。
「うわ。なにこれ。なんでアンパンとジャムパン?」
顔をしかめる木村に、足立のうしろからひょいと顔をのぞかせた町田が首を傾げる。
「だめですか? 足立先輩のおごりですよ。カフェオレも買ってくれました。冷たいうちにいただきましょうよ」
ってか、町田ね。
「おまえもいっしょに行ったんだろ、コンビニ。なんで止めねえ」
「え? だって疲れた頭にはいいですよ、甘いもの」
「あれ?」
袋のなかをごそごそ探っていた木村が取りだしたものを見て、足立の顔がみるみる赤くなる。
「えと、それは浩ちゃんの。――えと、なんか、よく食べてるから、あの、好きなのかなぁ~って」
焼きそばパン、ね。
それ、最近のおまえのブームだよなぁ、木村。
足立はよく、おまえのことを見てるねえ。よし、おれらは撤収。
「じゃな、木村。おれはこいつに飯おごる約束してるから。飲み物だけもらうわ。足立、ごち」
「ええ? 加藤さん、おれ、そんな……。いいですよ、おれのことは」
気のきかねえやつ。
焼きそばパンを手に真っ赤になってる木村を見てても、それ言うか。
「行くんだよ、おらっ」
町田の腕をつかんで歩きだしたとたん、首筋の産毛をチリチリさせた悪寒。
「ほら、大丈夫! 大丈夫よ、浩ちゃん。加藤くん男子が好きらしいけどっ。ね! ちゃんとカレシいるから」
足立いぃぃぃぃぃぃ。いつか泣かす。
駅へと歩き始めて、歩みののろい町田にふと気づく。
マジでおごってやろうかっていうのに、どうしたよ。
「あの、加藤さん」
おう。
「おれ、その、コンビニとか行かないので――。ダンシとかカレシとか、なんの略です? パンの種類ですか? 女子語かな? 加藤さん知っ――」
そこで町田が黙ったのは、おれがカフェオレを噴かないように、掌でがばりと口元を覆ったからだろう。
「加藤さんっ! どうしました?」
「ぶっ……はははははははっっ」
飲みこんだあとはもう、身体が半分に折れるほどのばか笑い。
笑いやんだおれが、なんの説明も解説もせず、黙って高架下の通路へと進むのに町田も黙ってついてくる。
知りたくもないことを知ってしまう男は、ひとに聞くことをしないらしい。
なぜ。
どうして。
わからないから聞く。
わかりたいから聞く。話す。話し合う。
おまえには必要ないらしいそんなことを、強要するのは気が引けるんだがなぁ。
「なあ、町田」
「はい」
おまえはどう思う?
「誰かに認められたいから自分を傷つけるやつって――、そんなに寂しいんかな」
「…………」
町田の返事はない。
そりゃあそうだ。
ちと重すぎた。
口にしたおれすらがもう、しんみり、どんより気分だし。
「すま…」「五十嵐がそうでしたけど――。木村さんも…ですか?」
「…………」
「…………」
おれが柄にもなくヒトってやつについて真面目に考えて落ちたこと。
隠せないなら言葉にしちまえ、と思ったこと。
ひとりでは抱えきれない思いをおまえに押しつけたこと。
すまない、と謝ってはいること――。
みんなおまえにはわかるんだよな? 見えるんだよな?
「わかんねえ。わかんねえんだけど、さ」
「加藤さんは、怖くないですか? ひとりぼっ…ち」
町田の声が震えた。
足も止まる。
やっちまった。
町田がずっとひとりぼっちだったことは、もう聞いて知っているのに。
「おれは――…」
うわ。なにを話そうとしてんだ、おれ。
「おれは、わかんね。今まで本気でひとと向きあってこなかったから」
「…………」
止めようもなくこぼれる本音。
見えてんなら見せていいよな? なんて。
そんなのはおれの甘えだって、わかってるんだ。
「おれは、見えるものすら見ないで。平然と生きてきたんだな」
胸にすとんと納まった結論。
歩き出したおれの斜め後ろを町田は黙ってついてくる。
見えないものを見る男には、言わなくても伝わることがあるようだけど。
でも、でもさ。
言葉にできることは、言葉で伝えてやるほうがいいに決まってる。
そうだろ? 王女さん。
「おれ、信じてるぞ、おまえのこと」
「……はい」
「…………」
「…………」
一歩一歩、町田の脚の運びが重くなる。
どうしたよ、むかつく高機能男。
「泣くな」
「はい」
泣かせておいて言う言葉じゃないけどな。
「おれは、いじめっこらしいから――。おまえは王女さんに、かわいがってもらえ」
「笑って…ますよ、王女さま」
ああ、そうかい。
「だからって、めんどうなのはもうこりごりだからな」
「――――はい」
1拍おくれた町田の返事の意味を聞くべきか、聞かざるべきか。
「ま、いいや。腹へった」
昼時の混みあうファストフード店から漂う匂いに負けてしまったのが運のつきだったとは。