『で・eye』2
まさか、この学校には、こういう異世界人が集う、おれの知らない地下室が? ――なんていうはずもなく。
おれは、わけのわからない異世界人に捕獲されたまま、今度こそ1階のロケーションを見せたエレベーターのドアが、誰も降ろさず誰も乗せず、ただ静かに開いて静かに閉まる様子をぼう然と見た。
「おいっ!」
「――――あ?」
まぬけな声を出した男が、ぽかんと口をあけて、自分の両手がつかんでいるものを見る。そう。おれの腕だ。情けないことに、ぴくとも動かないお・れ・の・腕。
「離せ、こら。マジ痛ェ」
「や……」
跳びすさったヤツの身体のどこかが昇降ボタンを押したらしい。
エレベーターが静かに上昇しだして。おれはまた見知らぬ男と見つめあっていた。
いや、はっきり言って、おれのほうは今度はガンくれ状態だけど。
「ご…、ごめんなさ」
そこで息を飲んだ男が、2階に止まって静かに開くドアの前で、ぺしゃんと床に腰を落とした。顔はもう真っ白だ。
「おい?」
「ひっ!」
ひとの呼びかけに、失礼にも小さな悲鳴を上げた男は、そのまま頭を抱えてうずくまる。
あぜんとその様子を見ていたおれは、またしても不毛にドアが閉まるのを視界のすみで見て、なぜだか泣きたいくらいうれしかった。
なにしろそのとき、おれの常識の範囲に収まっていたのは、開いたら閉まる、当たり前のことをしているその無機物だけだったから。
「ちく…しょ。まだ、い、るよっ」
頭を抱えたまま男がうなる。
「そりゃいるよ。先に乗ってたの、おれだし」
ふつうに返事をする自分にも、もう驚けない。
人間、理解を越えた事態に遭遇すると、とりあえず己の原点に返るらしい。つまり、おれの場合は〈ナチュラルボーン・名なしの通行人〉。
「――え? ……あ! わっっ」
常に主役を張ってきたんだろう異世界人は3段飛びで我に返ったようだ。
目の前を暴走自転車に横ぎられたときのように跳びすさって、すでに閉まっているドアに背中から激突。
「くぅ……」
いや、そんなに大げさにうめくようなことじゃねえじゃん。とか。冷静に見下ろせている自分に感動だ。
おれってパニック状態でも生き残れるタイプかも。
「うそ! 来る!」
うめいていた男が突然ぶるりと身体を震わせた。
見るからにパニくった様子で立ち上がる。
こいつは死ぬタイプだな。お気の毒。とか。
鼻で笑っている状態じゃなくなったのは、男がまたおれにしがみついてきたからだ。
「おいぃぃ……」
声に力がないのは、しかたない。
もう、いちいち反応する気力エンプティー。
おまけに、今度は両手でおれの右腕にしがみついてきた男は、そうされてみると、あまり身長が変わらないせいで、おれの頬を盛大に髪でこすってくる。
へー。
こいつ、見た目しゃれおつ男子なのに髪のセットには無関心派? などと。かすかに匂うシャンプーの残り香に自分でも場ちがいな気がする感想。
笑いかけたとき静かにドアが開いて。
「あ!」
当然な驚きをひと言で表明した〈こんなかわえぇ娘、うちの学校のどこに生息しとったんじゃああああ〉ほどマイフェイバリットな女子と、おれは見つめあっていた。
くるんとまつ毛がカールした大きな目が、まばたきだけで殺人光線を放つ。ぷっくらした頬を囲むシャギーの入ったショートヘアも真っ黒でおれ好み。
背は女子としては高からず低からず。抱きしめれば、おれの胸にぴったりと頬がつきそうなジャストサイズ!
「キャッ」
ものの3秒で我に返っちまった娘は、律義に閉まり始めるドアを伸ばした腕で止めて。
おれに「くふっ」と、目もくらむかわいさで笑いかけてから、おれの腕にしがみついている男の身体を、上から下にゆっくりと――見た。
「ありゃ。やーっぱ町田だあ。うわぁー。そっかー。町田って、こっち系だったんだー。なーんか変わってると思ってたけどさー。ふーん、ふーん。――ってか、下?」
はいィ?
こくりと首をかしげられてクラクラ。思考能力3割減。
えっと『マチダ』? あぁ、こいつマチダっていうの? じゃなくて。主文は『こっち系』?
じゃなくて『下』? 『下』って、もももし…か……。
ひいいいいい!
おれのスカスカの知識ですら身体にぶつぶつと鳥肌を立てさせる威力の女子会トーク。
頭は理解できない現実を受け入れても、身体はそうはいかないらしい。
「あれー? ボタン押してなーい。なぁにぃ、もしかしてエレチューの最中でしたあ?」
えれちゅー?
ボキャブラリーが貧困なわりに、おれの脳は働き者だ。
エレベーター+ちゅう。瞬時に変換をおえて全身に鳥肌増殖指令。
「いーなー。でも、あたし1階にもどりたいんで下で。続きはあたしが降りてからしてね先輩。あ、先輩ですよね?」
定員11名の狭い空間に、ふわっと謎の甘い香りを漂わせた娘が、昇降ボタンに、これまたおれのツボ、魔女のように伸ばしていない短くてかわいい爪を薄いピンク色に塗った指を乗せて、おれを見上げてきた。
はい。先輩です。
いや、いい響きだな『先輩』。
帰宅部のおれには実に新鮮な響き。
こくこくうなずくおれにしがみついているマチダが、エレベーターが動き出すとやっと、スローモーションのように彼女のほうに顔を向けた。
「五十嵐……だった、の?」
「やーだな。恥ずかしくて振り向けなかった? そうだよ、あたしー。よかったねえ。目撃者が、言いふらす友だちもいないやつでさぁ」
マチダは返事をしない。
そしておれは、相変わらずマチダにしがみつかれてるわけで。
「おい」
おれが、さっさと弁解せんかマチダ! と揺すった腕はマチダに無視されて。
「だーいじょうぶですよー、先輩」
答えたのは、そのキラキラ眼に意外やBLモードも実装されているらしい娘イガラシ。
1階に止まったエレベーターのドアが完全に開くのも持たず、左右に分かれるドアの間をすりぬけた彼女は笑っていた。
人生ほぼ18年生きてきて、おれが初めて見た、胸をつくはかなさで。
「秘密なんか、ひとつもふたつもいっしょだもん。あたしが持っていってあげるよー」
ど…こ、に?
声にするひまもなかったおれの質問に、ぼそっと答えたのはマチダだ。
「あいつ……、いつ死ぬんだろう」
「…………」
「…………」
「…………」
マチダの沈黙の理由はわからない。
でも、おれが言葉を失ったのは、頭のなかいっぱいに、たったいま聞いた単語が増殖していたからだ。
死ぬ? 死ぬって誰が? 死ぬ? 死ぬって…いったい……。
「えと、あの――…」
マチダがなにか言っている。
マチダ? マチダって誰だ。おれは、そんなやつ知らないしっ。
「あの、加藤さん……?」
突然名前を呼ばれて。
のけぞった頭がガン! とエレベーターを揺らすほどの勢いで内壁に激突。
「…っつううう……」
「あ、あ、ごめんなさい! あの、えと、おどかすつもりじゃ……。大丈夫…です?」
「…………」
…なわけ、あるかっ!
おまえ誰? おまえナニ?
「あの……、落ちつきましたね」
断定されてムッカリ。
おれたちはやっとエレベーターを出て、たらたらと廊下を教室棟に向かって歩いている。
「ごめんなさい。あなたといると、その――、すごくラクなんで、おれ――」
はぁああああ?
ヤクザさん並のおれのガンにらみに、マチダはびくっと肩を揺らした。
「えと、あの――…」
うるせー。ヒトの顔色をうかがうな×××野郎。
あきらかに人種差別な呼称は脳のなかでも理性の伏せ字。
「ごめんなさい。自己紹介もまだでしたね。あの、おれ、1年D組の町田ー海っていいます。東京の町田市に、数字のーと海でヒトミです」
なに必死に解説してやがる。ヒトミなんて、どんな字だって
「女みてー」
おれのあきらかなイヤガラセに、町田はうつむいて笑った。
「ですよね」
「…………」
むかつく。いじめられっ子ちゃんなのか? おまえ。
おれはおまえが異世界人だろうが、×××野郎だろうが、かまわないけど。やられっばなしで人生投げてるやつとは関わりたくない。
「…………」
――そうか!
突然おれは自分を理解した。
ことなかれ主義の風まかせ男のくせに、おれはイヤなんだ、やられっぱなしは。
親に決められた人生を歩むこと=やられっぱなし。
なんだ。そうじゃん。そうだったんじゃん。
「加藤…さん――…」
「あ?」
「あの、加藤さんのことはおれ、入学した頃から、知ってました」
「なんで?」
問い返して初めて、会話が成立していたことに気づいても、もう遅い。
「あの……、見たこともないほど、きれい…だったんで」
プププププっと鳥肌がたって。
「歯を食いしばれっ」
手が勝手に町田の胸倉をつかんでいた。
「や…、あの、だから説明しますからっ」
「いらん!」
鳥肌のたった腕をシャツの上からこすりながら、ずんずん歩き出すおれの横を、町田はさして大変でもなさそうについてくる。
どうやら見かけを裏切るハイポテンシャルな肉体の持ち主らしい。
つまり男の劣等感をあおる、最大イヤなやつ、ってことだ。
「加藤さん!」
「うるせー」
「お願いです。聞いてくれないと、死にますっ」
「…………」
むかつき度一気に急上昇。
唐突に立ち止まったおれの真横で町田もぴたっと足を止める。
実にもう腹の立つ、ごりっぱな反射神経だ。
「だったらな! おまえも聞けっ」
「…………」
「おれは! そういうことを簡単に言うやつが! ひとを殺すやつよりも! きらいだ!」
以上。
二度と話しかけんじゃねえ。顔いっぱいにそう書いてガンにらみ。
少しはこたえたのか、表情をなくして突っ立っている町田を放置して歩き出すと、背後で不気味な音がした。
ごん ばきっ ごつ
「……っ……」
振り返るなと言っているのはきっと生存本能だ。
でも、それきり静かになった、ひと気のない薄暗い廊下で。あきらかにデビルメイドなその音を無視して、振り返らずにいるには、おれの理性は弱すぎた。
「――――ひっ」
そして当然いつだって、ちゃちな理性より本能のほうが正しいんだ。
なんてこったオー・マイ、ガ――ッ!
ガイコツマンがいたら拍手をくれそうなバイリンガル。
町田が死んだ。ってか。最悪でも[気を失った]でやめてくれゴッド様。
「おい!」
薄暗い廊下にへたっている黒い物体に、おそるおそる呼びかけてみる。
「…………」
返事しろって、おい!
がまんしきれずタタタッと走りよって。ジ――ザス!
床に飛び散っているこの赤いのは、もしや[血]ってやつじゃないのか、おい!
パニくっても冷静。地球最後の日でも生き残れそう。ほんのさっき思った自分像がガラガラとくずれていく。
「町田!」
町田町田町田。返事しろって、おい!
パニくるおれのSOSはジーザスに届いたらしい。
「ごめ…なさ……」
考えてみなくても、最初からおれには謝りっばなしの男の口が、まず吐き出したのがまた謝罪の言葉ってあたり実にビミョ~。悪いやつじゃなさそうだけどなぁ。
「町田っ」「王女…さま……」
「…………」
性能が悪いのは、おれの耳?
今『オウジョサマ』とか言ったか、この×××。
いやおれだって、信仰心のカケラもないくせにジーザスに助けを求めちまったけども。
「た…す、け……て、王女…さまっ」
「…………」
ぐっと、おれのシャツの肘のあたりを握った手が、おれの膝をコンクリートの床につかせた。
ごん!
今度のクラッシュ音の出所はおれの膝。
「てめ、いてぇじ」「止…められない。わから…ない」
あー、もう。だから
「なにがだよ? おまえ、わけわかんねえ」
くたばってるくせに、この怪力。
絶対おれの膝、すりむけたからな。
この手を離せ、イカレAIのサイボーグ。
王女だろうがジーザスだろうが、強制お祈りはノーサンキュー。
おれをそんなものの名前でひざまづかせた罪は重いぞ、きさま。――とはいえ。
「お…ね、がぃ――しま…」
「…………」
町田はたぶん膝からくずれて、まともに床と激突したんだろう。デコから血ィ出てるし。
「本当に、お…れには、なにも…できないん…です」
泣いてるし。
「でも、加藤さんが、なんとかして…くれるって。王女…さまが、教えてくれてます。本当です」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
鳥肌軍団、全身侵略完了。
「いや。おれは、うそでもかまわないんだけどな、町田」
頭、打ったんだもんな。うん。じっとしとけ。
救急車を呼んで、おれは去る。善意の第三者。
スマホは運の悪いことに、パンツの右ポケット。
町田に右腕を捕獲されて床にはいつくばっている状態じゃ、ブラジル=地球の裏側ほど遠い場所に必死で左手を伸ばすと、気づいた町田がうめきながら半身を持ち上げた。
「大丈夫です。おおげさにしないで…ください。前とか鼻からいっちゃって――。骨、折れたこともある…し」
「…………」
町田は絶句したおれに『すみません』とまた言って、パンツのポケットから出したハンカチを額に当てた。
「血とか出たほうが、頭はあぶなくないんで――」
そんなこと、なんで知ってる? ってか聞いてねえし。
おまえ絶対、おれと住んでる世界が違う。異文化交流はヨソでしろ。
「加藤さん。話……、開いてくれますか?」
「やだ」
おれの即答に、町田は笑った。
「だめですよ。聞いてくれます。だって、青くなりましたもん」
「………」
顔色か?
思わず頬に手を当てたおれに、また町田が笑う。
「おれ、こんなこと、誰かに話せる日がくるなんて、思いませんでした」
「待て。おれは聞くなんて言っ」「ありがとう、王女さま」
続く言葉を喉につまらせた、とどめの一撃。
町田は、おれじゃない誰かに頭を下げていて。
おれはもう振り返ることもできずに、廊下の冷たい床に、ぺたんと女の子座り。
いるんだな? いると言い張るんだな?
よし。わかった。話はそいつとしてくれ。おれは知らん。関わらん。
「おれ、小さい頃から見えるんです。なんか、ヒトの周りに色…が」
色? 王女さまとやらじゃなくてか。…ってか、おれに話しかけるのはやめろ。
「町田」
「はい」
「おれがイヤホンしたら、しゃべってよし。いいな」
「はあ?」
町田が音楽室にバッグを置いてきたというので、おれたちは音楽室にいる。バッグのなかに傷バンも消毒薬もあると町田が言ったからだ。
医務室は放課後には無情に閉まる。
「あの、それって補聴器かなんかです?」
奥のドラムセットの横で、手慣れた様子で傷口を消毒していた町田が、ドアにもたれているおれを見た、その上目遣いの表情にはありありと心配げな色が浮かんでいる。
そんなことよりてめぇの傷の心配をしろ、とつい返してしまいそうになって深呼吸。
「いいから。言いたいことは王女と話せ。おれは知らん」
「え? 加藤さん、王女さまのこと、実はご存知でした?」
頭打って忘れたか、ごらあ。おまえがいると! 言ったんだろうがっっ。
眉間にシワをよせてにらんでやっても、町田は怖がるどころか、ボーッと頬を染めて唇を半開き。
「すごい! おれも、こんなに見えたのは初めてなんです。色のほかにも、なんかボンヤリ見えることがあるんだけど――。すごい、加藤さん、すごい。そっか。そうなんだ」
「…………」