『ほ・eye』3
そんなわけで虎隊員の出動、決定。
町田のためにひと気のない線路脇の細道に移動して、虎に告げた作戦。
「なんだかまだよくわかんないけど。とにかくそのお姉さんと仲良しになれば、兄ちゃんの助けになるんだね?」
「ごめんね、とんちゃん。いつか時間を作ってちゃんと話すからね」
なんで町田が申し訳なさそうなのか。
「ううん」虎はふるふると首を振った。
「兄ちゃんがナンパなんてできるわけないし。仲良くなればいいだけなら、ぼく、お姉さん得意だしっ」
「そういえば――五十嵐とはすっかり仲良しだってものね」
町田がほほえむ。
「うん。でも今も沙織さん、なにも聞かないでいてくれるから――。ぼくも知らなくていい。兄ちゃんは間違ったこと、しないもん」
いいや。
今回、完全に王女さんは間違ってるから。
なんて言って話しかけようかな、制服でいいかな。
ぶつぶつシミュレーションして、やる気満々の虎の横で町田の目が言っている。
時間をくれ。話す機会をくれ。
そうだな。
メールや電話でしたい話じゃないもんな。
うなずいてやると町田がはにかんだ。
色つきグラスのせいで表情は読めなくても、なにしろうつむいた首が真っ赤だ。
「あーあ」
苦しむ虎を見つけてくれた町田への恩返しはこれにて終了。
町田には虎をやる。
ひとの絶望や悪意が見えてしまうことに苦しむおまえを信じるやつをひとり追加。
――でぇもぉぉぉぉぉ――
おばさんを友だちに追加って。
うちの王女さんは、無茶ぶりにもほどがある。
「シフトはわかったから、今度の土曜、決戦だよー」
まともに歩くことすらままならないおれと。
ひとりではファストフード店なんかに気楽に入れるべくもない町田。
中学生の虎を何度もひとりで電車に乗せることにはどちらも反対で、虎の参加はひとまず彼女のシフトをおれたちがなんとかつかんでから、ということにしたのに。
虎は翌日にはもうひとりで出かけ、ちゃっかり彼女のシフトを確かめてきた。
なんでも、店に落とした定期を拾って交番に届けてくれた親切なお姉さんに直接お礼が言いたいと、町田に教えられた容貌を告げて頼んだら、レジにいたオバサンたちがあっさり彼女のシフトを教えてくれたそうだ。
年齢差が逆にあやぶまれずすんだ勝因か。
さりげなく王女さんの手助けか。
いずれにしても、女たちに愛されて、名探偵爆誕。
「ああ、くそ。イライラするっ」
ケガ人業も5日。
少しは慣れるかと思いきや日々つのる不便。
虎が買ってくれた3本ラインのパチモンシャワーサンダルに右足を突っこんで、おしとやかに登下校しているのに神経が磨り減ること大根おろしのごとくなり。
誰かにまた踏まれる恐怖で、ここは爪先が鉄板の安全靴でも履きたいところだけど、もちろんそんなものは持ってないし。バディーテーピングで薬指とともに固定された小指がかさばってローファーは履けないし。
病院貸与の杖をついて、ケガをしてます的外見で同情されれば危険もないか。なんて。
おれの人生はそんなに楽観できないらしかった。
「世の中、ただまっすぐ歩くのが、なんだってこんなに大変なんだ!」
コンビニの駐車場に座りこんでゲームをしている小学生の自転車はドミノ倒しで襲ってくるし。
バカ犬は飼い主を引きずって足の匂いを嗅ぎにくるし。
植えこみから飛び出してきておれを驚かしたクソ猫は、わざわざもどってきてサンダルの足に猫パンチ。
自分も驚いたことへの仕返しだろうが、八つ当たりも甚だしい。
「…くそっ。くそくそくそっ」
たかが女ひとりのわがままのために。
好きよー 好きよー きゃぷーてん
学校の敷地外まで轟く即席応援団の男声合唱で暑苦しさ倍増の土曜の昼下がり。
今日は虎が“王女さんのお気に入り”と接触してくれる。
町田には虎が彼女をゲットするまで、もう店には近づくなと言ってある。
町田に王女さんを渡すまで、もうやつに恐ろしい思いはさせたくない。
――がんばれよ、虎――
「兄ちゃんも、がんばるわ」
授業中がもっとも平和だと、しみじみ思いながら歩く駅までの10メートルが1500メートル走ほどのラップになってもう汗だく。
『駅までバスに乗りゃいいじゃん』
おれの足をパシャパシャ激写しながら鼻で笑った吾川には、ステップを上って下りる、たぶんそんな単純な動作すらがつらいお年寄りや身体の不自由な皆さんのことを代表演説してやるべきだった。
そのうえで、テーピングで足が蒸れて、白癬菌に全身を侵食されて死ぬ男の姿を想像してみろや、とか。脅してやりゃよかったわ。
「いっ、てぇぇぇ」
足を気にしてうつむいて進めば、総受熱量を減らすために植えられた路傍の夾竹桃の下枝が頭に刺さるし。
「あだーだーだー」
腹を立てて見上げて歩けば目の不自由なかたのための誘導ブロックが完全なトラップ。薄いビニールサンダルがボチボチの健康サンダルに変身。
「はぁぁぁぁ。だめだ。休憩」
音を上げていつもの公園へと進路を変えたとたん感じた爽快感。
「あら順調」
森林浴効果というのは本当にあるのかもしれない。などと。
日陰でも焼けついて、降ろした尻にじわりと熱気を伝えてきた石のベンチでひと休み。
そもそも見えない、感じないおれに、王女さんはなにを期待していたのか。
別れる決意を固めてから、初めて相手のことを真剣に考えるような男だぞ、おれは。
頭をよぎるのは『王女さま、退屈そうです』という町田のひとこと。
町田を癒し、虎のところまで運んでくれたのは親心みたいなもんなんだろう?
五十嵐や木村が楽になれたのは、おまけみたいなもんなんだろうし。
おまけだったんだから、もう引っこんでりゃいいじゃんか。
退屈だから人助け?
ありえん。
ひと休みのはずが、ふたやすみ、みやすみ。
あっというまに立ち上がりたくなくなる無精者。
それでも空腹に負けて。
「どっせーぃ!」野太い掛け声とともに立ち上がり、へたに体重をかけると歩道の石畳のすきまに刺さるピンポイント技を披露してくれる杖と3足歩行。
「うわっ」
蹴つまずいてたたらを踏んだとたん「あららら、だいじょうぶ?」
「だっ。だいじょぶ…す」
驚いたなんてもんじゃない。
「よかった」にっこり行き過ぎたのは――ターゲット?
ベージュ色のサマーコートの下から店の制服のスカートがのぞいている、間違いない。
マジかっ! 片足立ちで回れ右。
知らず道の先を探したおれの視界の下の端、おれがさっきまで座っていたベンチの前に彼女はしゃがんでいた。
おい! そっちが大丈夫かよ。具合悪いのか?
「にゃあ……」
…………。
「にゃあ……?」
…………。
聞き間違いじゃない。
にゃあにゃあ言っているのは彼女だ。まさかの猫憑き女!?
「にゃあ? お姉さんだよ、出ておいで」
…………。
彼女の手にはハンバーガー。
ベンチの下から顔をのぞかせたのは茶色い2匹の子猫。
「にゃあにゃあ。そうだよ、おいで」
ンナァ~ ンミィイ~
猫たちがよたよたとベンチの下からはいだしてくる。
………くっ!
て…めぇ!
その女に憑いてるなら止めろ、くそ王女。
彼女の指が包み紙をはがしだす。やばいやばいやばい。
ミィィ
かぼそい子猫の鳴き声にブチギレた。
「あんた!」
ぎくりと振り向いた女が目を見開いておれを見た。
「その猫、去勢もしてない野良だろ。無責任に餌なんかやるなよ」
「……ぁ……」
唇を小さく開いた顔にはガキに突然非難されたことへの嫌悪はみじんもなくて。
「しかもなんだ、それ。そんな人間の食い物、動物に食わしていいわきゃないだろう。あんた、どんだけ無責任?」
止まらなかった自分の反省はしないけど、ほかの言いかたはあっただろう…と、自分に苦くツッコむおれの前で女の手からぽとりとハンバーガーが落ちた。
子猫たちはすかさず食いついた。しかたない。
フミャー フミャー
子猫の満足げな鳴き声が合図だったように女の目からぽろっと涙が落ちて。
あっと思ったときにはおれは走り去る女の背中を見送っていた。
「…ぁっ、ちゃぁあああ」
やっちまった。
せっかく虎がこれからがんばってくれるのに。
王女さんのお気に入りを泣かしちまった。
じ・えんど・おぶ・まいらいふ?
なにしろ王女さんがいなくなったら、おれはまともに道も歩けないらしいから。
どうした援軍。出てこい援軍。
店までの道をカックンカックン進みながら、念力を送るのに虎も町田も現れない。
あたりまえだ。
町田には近づくなと言ってあるし、虎が来るのは女が退勤するという午後4時。
自分の不運さを呪いながら店の自動ドアを開いたときには、節電エアコンの風ごときじゃ治まらないほどの大汗をかいていた。
「いらっしゃいま」
カウンターの女がおれに気づいて絶句。
さすがに客商売、ひとの顔をおぼえるのは得意らしい。
先客のうしろにズリズリ足を引きずって並んだおれを、ちらちら見るけどその手はしっかり客に紙袋を渡している。
その、お持ち帰りの客が振り向いて2歩、おれの足を踏んだ。
「…っ、てぇぇぇ」
小指を折ったほうでなくて幸い。折ったほうだったらおれはこの場で卒倒、不戦敗だ。
「だ…いじょぶ、ですか?」
「……っす」
デジャヴのようなやりとりのなか、額の汗をぬぐって無事を表明。
足を踏んだババアのほうは謝りもせず平然と店を出て行ったのに。
「――ケガをされているほう…でした?」
「…ゃ、大丈夫。反対でした」
さっきのことを思い出せば、さぞかし不愉快だろうに、ちゃんと店員の仕事を全うしてくれる良いひとだ。平泉さん。
名札を読まなくてももう名前を知ってるなんて、すみません。
「ぇと…あの、ご注文は」
それでも態度がぎくしゃくするのは、おれのせいだ。
なちゅらるぼーん無神経な、いじめっこ。
「チーズバーガーセット。氷なしのコーラで」
「はい。チーズバーガーセット、氷なしコーラで。490円になります」
おれが財布から出した500円硬貨をレジに入れて、平泉さんはなにかを決意したように小さくうなづいた。
「ぁの…、あの…、お席でお待ちください。お持ちします」
「――ども」
王女さんが、おれより平泉さんのほうが好きなのは納得した。
――見えてんのかな、このひとには――
彼女の肩のあたりをながめてみても、おれにはやっぱり気配すらわからんけども。
平泉さんの言葉に甘えて入口近くのカウンターに腰を下ろした。
椅子に座るよりスツールのほうがなんぼもラクだ。
「はぁ…っ」
ケガのことを考えなくてすむなら人生を考える。
結論。まだもう少し生きていたい。なぜなら――結論にたどり着いた道程を、うだうだまとめだしたおれの目の前に、ことんと置かれるトレー。
「さっきは、あの…、あの……」
「おれ、ちゃんと謝りたくて来ました。上がりまで待ってます」
「――――ぇ!」
「さっきのベンチにいますから。謝らせてください」
聞いてるか、王女さん。この平伏の謝辞。
「やっ。ゃやや、そんなっ」
ぶんぶん顔の前で手を振る平泉さん。
「早く戻らないと怒られちゃいますよ。客、並んでます」
ひゃぁーっと小さく叫んで、狭い廊下をひょこひょこ進む後ろ姿はなかなかにツボだった。
「かわいいじゃねぇの」
つい、つぶやいてしまうくらいには。
ふと上げた視線で見つけたひとの姿に、あわてて確かめた腕時計は午後2時10分。
虎の情報ではまだ退勤時間じゃないはずだ。
ロータリーを出入りする人のなかを、ベージュ色のコートのすそを跳ね上げて走ってくる人。
あわてたおれが立ち上がりかけると
「ぁ、ぁ、ぁ、そのままそのまま」
平泉さんはぶんぶん手を振りながら息を切らせて近づいてきた。
それでも大事な男子の沽券。腹筋に力をこめてスクワットから立ち上がってお出迎え。
「さっきはごめんなさい。おれ、加藤って言います。そこの高校の3年です」
「あの、あの、そこの店でビジータイムだけパートで働いてます。平泉です。40歳です」
「――――ぅっそ」
おふくろと5つしか違わねぇの? ギョーテン。ってか、このひとも天然ちゃんか。
「女の人が、わざわざいいですよ、トシなんて」
思わず笑ってしまったおれに平泉さんも笑った。
「だって。3年生とか言われたから、あたしも…って。つられちゃった」
照れたように笑うひとの顔がなぜ一瞬で寂しく曇るのか。
おれには町田の能力はない。わからない。
でも自分がなぜ今ここにいるのかはわかってるから。
すでに知っていることを隠す罪悪感でいっぱいになりながら
「あの…、退勤時間…2時だった、です?」
それだけはきっちり確かめたい。
「あ!」
たぶん、おれの気持ちをきちんと受け取ってくれたんだろう。
平泉さんは、こくこくとうなづいた。
「あのね、3連休にシフトを変わってあげる約束をした子が、今日は早入りなんで。上がりなんです、あたし。本当よ。心配しないで」
「――なら、よかった」
「うん。本当によかった。いつもならあたし、4時まで仕事だから。きみ、こんなとこに座ってたら溶けちゃってたわよ」
「…………っ」
つい吹いてしまったおれに平泉さんもクスリと笑う。良いひとだ。
だからもう、本当に情けない。
おれの暴言のせいで町田から王女さんを奪わないように、なんとしてもこのひとを――王女さんを、町田に届けないと。
「座りませんか」
ちゃんとレディーファーストで彼女にベンチを勧め、彼女がおどおどと腰かけたのを見てから、よっこらせと腰かける。なんだかスムーズ。まいったねぇ。
片足に力を入れられないと、座るのがどんなに難儀かはもう身に染みていたのに。これが王女さんのよこす差分か。
「さっきは――、叱ってくれてありがとう」
「いや、言いかたが悪かったっす。おれ――無礼で、すんません」
「…………」
「…………」
うーん。この困った沈黙。
謝りたかったのは本当だけど。
このひとと仲良くなれ、助けろ、という指令はおれが受けたわけじゃないし……。
このひとがなににつらい思いをしているのか。
おれには見えない。わからない。
「うちにも犬がいてね。ちゃんとわかってたのにね。あんなものを子猫にあげちゃいけないのは」
「…………」
「…………」
再びの沈黙に身じろいだおれの足の間から、茶色い毛玉が現れた。
ンナァ ンナァ
「あ!」「あぁ?」
ふたりで言って。ふたりでのぞきこむ。
「やべ。こいつら、人間に慣れちゃったよ」
言ってからしまったと思っても遅い。
「ご…めんなさい……」
案の定、おれは平泉さんの両手が薄いコートをしわくちゃにするのを見た。
そんなものを見せられれば、もう仕方ない。
おれがまたこのひとを不愉快にさせるまえに、虎とバトンタッチだ。
「おれがこいつらの飼い主、探しますよ」
フミャァア
抗議する声を聞き流して、首筋をつまんで1匹ずつ通学バッグの中に押しこむ。
頼まれたわけでもないのに今度は猫助け。
やれやれだよ、もう。
「うちはマンションなんで飼えないけど。2、3日学校に置いておけば、その間に誰か探せると思います。…ってか、全力で飼ってくれるやつ探しますよ」
じゃ、と立ち上がったら平泉さんが「待って!」と、おれのシャツをつかんだ。
「今から学校に?」
「はい」
「あの、あたし、あの、この子たちのごはん――、買って持っていっちゃ、だめかしら」
「…………」
「…………」
助けたい気持ちは本物なんだな。
王女さんが気にいったひとだ。
きっと町田が見たらとてつもなくきれいな色をしたひとなんだろう。
「場所、知ってますか?」こくこくうなずくひとに頭を下げる。
「じゃ、引き取ってくれる飼い主へのわいろ分も――5日分くらい? お願いします」
貧乏学生じゃおかか飯くらいしかやれないからなぁ。そのまえに、米が食える月齢なのかすら、おれにはわからんしな。
ンナァ ンナァ
バッグの中で毛玉が暴れだした。
「おとなしくしろって」
もう杖はめんどうなので、ズリズリ足を引きずって歩き出しながらバッグの中に手を突っこむと、どちらかがザリザリとおれの指をなめてきた。
「やめろ、こら。病気になるぞ。人間さまは、きたねーんだからっ」
「いったい、どんな手を使ったんです」
はぁぁ?
声に顔を上げると町田がいた。
迫りくる負の感情から己を守る町田の唯一の防具、爆音で心を異世界に飛ばすごついヘッドフォンを肩にのせて。
「とんちゃんを見守らなきゃ、と思って。張ってたら加藤さんは来るし。あのひとは飛び出して行っちゃうし」
「ばかか、おまえ。そんなことのために、こんな街中に何時間もいたのか!」
「王女さまの機嫌をそこねると、加藤さん本当に危ないですから」
危ないのはどっちだ。
おれですらもう、何度もおまえがぶっ倒れるのを見てるのに。無茶しやがって。
「あのな、心配してくれるのはありがたいけど。王女さんの思ってるようにはならねぇぞ。あのひとは良いひとだ。だからって友だちとか無理。なんにしろおれは今日で終わりだ」
町田は笑った。くすくすと。
「そうですか? その猫たちによそ見してても転ばないし。さっきの交差点でも誰にもぶつかってませんでしたよね?」
はぁ?
「王女さま、ご機嫌ですよ? いったい、なにしたんです、加藤さん」
いや、なんもしてねぇし。ってか、え? え? え?
「いるの?」
「はい。お戻りです」
はぁぁあああああ?
「あ。加藤くーん」
「…っす」
校門で平泉さんを待つ係にされたおれは、すでに英単語帳を50枚はめくっていた。
電話して止めた虎は『なーんだ、がっかり』と笑ったけど。
『聞かせてくれるよね?』と続けた声は真剣だったので、そうすると約束はした。
おれが話せることなんて、なんか憑いてるんだって。以上。だけどな。
本当にもう!
家出するなら覚悟を決めて出ろ。
謝りもせずにもどってくるとか、ありえねえ。
出て行ったのも帰ってきたのも、見えないわからないじゃ、怒鳴りようもないけども。
「遅くなってごめんなさい」
いやマジで待ちました。
ここは、女ってやつは! って言っていいところ?
「ぇと、あの子たちは?」
「それがちょっと――…」
町田は毛玉ふたつを抱えたまま2メートルはあるフェンスを軽々とよじ登って、4面を囲まれた軟式テニス部のコートに毛玉を下ろした。今もそこで毛玉と遊んでいる。
「あの、あたし、猫ちゃんは初めてでわからなくて――。大きさを伝えてペットショップの店員さんに勧められたものを買ったんだけど――。加藤くんは大丈夫? 1日2回なんて、その、時間…取れるの?」
「餌すか? 置いとけば食うんじゃないの?」
どうぞこちらに、とテニスコートに向けて歩きながら超初歩的質問。
「だめよ、この暑さだもの。くさっちゃうわ」
「…………」
えっとぉ――。
家畜分野は初心者のおれでもわかる。
飼料なら腐らない乾物があるのでは? そのくらいは進んでるんじゃないの? 日本の技術は。
「…………」
「…………」
まったく猫の生態を知らないおれが口をつぐんだのは仕方ない。
でも白い重たげなビニール袋を提げた平泉さんは、たぶん怒っていた。
「あの、彼は――?」
フェンスの向こうで毛玉と遊んでいる町田に気づいた平泉さんが立ち止まる。
「後輩です。おれよりずっと優しいやつなんで、あの子らの世話はやつに任せますから」
町田は子猫相手にまるで犬の散歩でもするように歩いていた。
子猫たちも子犬のように町田の足元にじゃれついている。
「ココォ――っ!」
「…………!!」
おれの心臓を縮み上がらせた平泉さんの突然の叫び声。
常人では飛び越えられない隔壁。
見えているのに手が届かない場所。
フェンスに向かい両腕を伸ばして傾いでいく平泉さんの身体を抱き留められたのは、おれ的金メダル。
「ココ! …ココォ!」
フェンスにすがりついて平泉さんが泣いている。
おれにはかける言葉もないけれど、きっと平泉さんのココはもういない。それだけはわかるから。
「あの子らにはちゃんと、見つけますから。平泉さんくらい、かわいがってくれるやつ。おれがちゃんと見つけます。だから平泉さんはココのことだけ、思っててあげればいい」
「か…と、くん――…」
おれの胸に頭をつけて、わーんと子どものように声をあげて泣きだしたひとをどうしたらいいかわからなくて、おれの腕は空中でフリーズ。
町田は両腕を胸の前でクロスしてみせている。満面の笑みで。
本当にいやなやつ。
だったらおまえが抱いてみろ。
40歳だぞ、おばさんだぞっ。
「…………」
でも胸から腕から伝わってくるひとの悲しみは、15歳の虎も、40歳の平泉さんも変わらない。
少なくともおれには。
「…………」
そっと抱きしめたら嗚咽が激しくなったのは、oh! ジーザス。




