『き・eye』2
駅裏のファストフードを選択したおれに町田の否はなかった。
食にこだわらないでくれるのは本当にありがたい。
虎もまだ友だちとはそこいらの店に入れない規律に縛られたガキなので、うれしそうで。それは、なによりなんだがなぁ。
「兄ちゃんたちは、いつもこんなかんじなの?」
虎が町田に甘えている。なにしろ椅子の下で両足がぶらぶらだ。
「一海さんて、おうち、どこ? 近くならお昼はうちで食べたらいいのに。おれ、作るよ?」
町田が静かに首を振る。
「おれね、ドラムは叩きたいから学校に来てるけど、それと加藤さんは別。――重荷にはなりたくないんだ。それは理解して…もらえる?」
「うん」こくりとうなづいた虎の頬がみるみる赤く染まった。
「でも! おれも一海さんと仲良くなりたい。遊びにきてよ」
町田がおれを見る。おれに決めよ、と?
「虎、町田だってひまじゃないんだ。無理言うな」
「じゃあ…、じゃあさ。アドレスかIDもらっていい? おれ初めてなんだ、ゲイのひと。聞きたいことも聞いてもらいたいことも、いっぱいある」
「…………」「…………」
いや、虎、町田は違うし。おれも違うし。
でも、おまえはそうだって言うんだな?
いったいおれはどうしたらいいんだ。
手にしたチーズバーガーに語りかけるおれの横で、虎がスマホを出した。
止めろ、おれ。止められる理由を探せ。
「――ぁ」
虎が小さく叫んで。
テンパッているおれの視界にそれは落ちてきた。
バイブ機能のせいで、ブーブーとうなりながらテーブルの上でうごめく小さな機械。
「出ねぇの?」
突然できた猶予期間に安どして息をつく。
「ん。ちょっと、ごめん」
震えるスマホを引っつかんで虎が席を外したとたん、町田がテーブルに突っ伏した。
なに?
聞く前に腕をつかまれて。
おれがどれほどの恐恥に全身をわしづかみにされたかは町田も知っているだろう。
なにしろ町田はおれの腕をつかんでいるのにぶるぶる震えていた。
王女さんは町田を助けなかった。
たぶん、おれを助けるので精一杯で。
「一海さん、今日はありがとでした」
跳ねるように軽やかに電車を降りた虎は、なにも知らない。
町田が見たもの、おれが知ったもの。
誰だ。
おまえを【ダメ色】にする、おまえを死にたいほど絶望させるやつは。
町田は見るからに憔悴した様子で手すりにすがっていた。
悪ぃ。ほんとごめん。
町田を乗せて走り去る電車に向かって、心から謝るけど。
この世に本当に不思議現象があるというなら、こういう気持ちをこそ相手に届けられるシステムをおれらによこせや、王女さん。
「兄ちゃん、ありがとね、一海さんのメアド。本当は兄ちゃんと話したいけど、やっぱまだ恥ずかしいから――。おれ、強くなるまで待っててね。好きだよ。兄ちゃんが一番好き」
「…………」
はにかむ虎に真っ直ぐに見上げられて思うこと。
誰かをかわいいと思う気持ちに種類なんてあるんだろうか。
みんな、きちんと区別してんのか?
おれはできない。
五十嵐をかわいいと思う気持ちも。
町田をかわいいと思う気持ちも。
虎を――弟を――かわいいと思う気持ちも。
おれの収納フォルダはひとつな気がする。単純だから。
「兄ちゃん……」
「…………」
「おれも兄ちゃんたちみたいに、強く…なれるよね」
「…………」
「兄ちゃん……?」
虎はむかしからおれの気分には敏感だ。
おれが今どんなに自分の無力さに打ちのめされているか。
理由はわからないまでも、沈んでいるのくらいはわかるんだろう。
「兄ちゃんも、つらかった?」
震える小さな声で聞かれて、もう顔がゆがむのを止められない。
頼むぞ、町田。
腰に回した腕で押してやる虎の身体は五十嵐ほどきゃしゃで。
「町田はいいやつだから――なんでも聞いてもらえ」
おれではきっとわからない。
自分らしくいることが、異常だとさげすまれるような理不尽な孤独は。
〔音楽室にいます〕
おれが自分から電話もメールもする気分じゃないことに、町田はちゃんと気づいていた。
メールがきたのは4時間目終了のチャイムのあと、補講が終わった瞬間だ。
勉学中に他のことを考えさせない配慮。
ずっと理不尽に傷つけられてきた男は優しい。
重たい防音ドアを押した瞬間に流れ出てきた腹に響く重たいバスドラの音。
ツインペダルというものを使っているらしいが、おれには奏法やら楽器の名前やらはどうでもいいんだと気づいた町田は、それ以上のことは話さない。
ただ、おれが町田の音を気にいったことだけを素直に喜んで叩いてくれる。
今も、おれに気づいても町田はドラムを叩き続けている。
おれも声はかけず、丸椅子を引きずって黙って町田の真正面に座った。
腹に響く音は、聴くというより感じる音で。
身体が揺れだす頃には、音だけで世界がいっぱいになる。
見えないものに苦しめられる町田がドラムを選んだわけを、この頃はおれも理解していると思う。
――ああ――
いっぱいだ。音だけでいっぱい。
生きている。
心臓の鼓動だけでいっぱい。
気づくと青いタオルで額の汗をぬぐう町田が横に座っていた。
「落ち着きましたね」
「いやなやつ」
どれほど巧妙に隠されても他人の心の状態がわかるなんて、なんていやなやつ。
「なにから話しましょうか…‥」
「やばいことばっかだから、おれの顔を見なくてすむように横に座ったんだろが。なんでもこいだ」
「…………」
図星。
はぁ……。
「加藤さん……」
おう。
「まえに、おれが話したこと、覚えてますか? 図々しいけど加藤さんの中に入れてもらうって。それですごくラクになるって――」
「意味わかんないけどな。おれといると、おまえいくらか気楽そうだよな、街中にいても笑うし」
「――はい。それ、虎くん無意識にするんです。だから最初に会ったとき、加藤さんの後ろにいる虎くんに気づかなかった。まったく彼の色が見えなくて」
それって――…
「空っぽだって…ことか」
恐ろしさで身体が震えた。
大丈夫ですとささやいて町田がおれの肩をなでる。
いつもの逆だ。
「虎くん、加藤さんと完全に同化するんです。本当にびっくりしましたよ。自由自在です。するっと消えちゃう……」
「…………」
「カメラをいやがったときも、おれが波動に倒されたくらい、すごくおびえてたのに、するっと加藤さんのなかに消えて、本来の温かいオレンジになってもどってきました」
「…………」
「でも……、あの電話のときは、加藤さんのなかに……逃げなかった。ゆうべはおれと加藤さんのことを知りたがって、ずいぶんメールしてきましたけど、自分のことはなにも書きません。かなり深刻な状態だと思います」
「…………」
頭が真っ白っていうのは、こういうことかとぼんやり考える。
どうしたいのか。なにをするべきなのか。おれの頭はまったく考えてくれない。
「一番深刻なのは、虎くんは加藤さんには絶対に見せないってことです。加藤さんに助けてもらう方法を知ってるから、虎くんは黙って耐えちゃいます何度でも。死んでしまいたいほどつらい時を、何度も何度も…繰り返…して……」
泣くな、町田。
言いたいことはわかった。
おれは虎を泣かせなきゃならないんだな。
泣かせなきゃ、おれには虎の本音が見えない。
そうなんだろ?
ありがとう。
「ありがとう、町田」
気づいてやってくれて、ありがとう。
「おまえがいてくれて、よかった」
「虎ぁー? 町田つれてきたぞー」
「おかえり、兄ちゃん。いらっしゃい、一海さん」
玄関まで出てきた虎のうしろから香ばしいソースの匂いがする。
「焼きそばか?」
焼きそばパンが好きな男を思って胴震い。
木村はおれでも引き止められた。
虎にも本音で向かってこさせれば、なにもしてやれなくても味方にはなってやれる。
テーブルについた虎が、にこにことおれと町田を交互に見てる。
「わ。おいしい」
町田の社交辞令に満足した虎の期待にこたえるべく、おれもうなずいてやる。
「よかったぁ」
やっと虎も「いただきまーす」
妹だったら、どんなに愛らしいだろうなんて。
もう夢にも思っちゃいけなくなったんだな、としんみりしたおれを町田が見ていた。
顔に出さなくてもみんなバレる。
本当にいやなやつだけど、今は相棒だ。
なるべく早くカタがつくことを祈ろう。
「ねえ、兄ちゃんはなんで一海さんのこと町田なんて呼ぶの? おれ、いいよ。普通にしてくれて。っていうか、そのほうがうれしいな」
「…………」
町田にいやがらせをしたツケが、こんな形で返ってくるとは。
「一海さんは? 兄ちゃんのこと、ずっと加藤さんなの? 兄ちゃんもきれいな名前だよ? 名前で呼べばいいのに」
「…………」「…………」
町田がなにやら合図している。
おれには無邪気にしか見えない虎が、なにかを抱えているらしい。
「おれなんて……変でしょ? 全然弱っちいのに、虎之介…なんて」
町田が今やすがりつくような目でおれを見て硬直する。
だめだ、町田。本当におれには見えねえ。
五十嵐は泣いた。
木村は憎んだ。
だから、おれにはおれのいるべき場所が見えたのに。
「ねえ、兄ちゃん。おれ、まだここにいていい? 一海さんとふたりがよければ遠慮するけど」
虎がおれの腕にするっと腕をからめてくると、町田が目に見えて肩の力を抜いた。
「遠慮しなくていいよ、とんちゃん。加藤さんが一番大事なのは、とんちゃんだからね」
なんだ? 押しつけられている虎の身体がじわっと熱い。
思ったときには虎は跳ねるように立ち上がり、町田の後ろにまわって、その首に両腕を巻きつけていた。
「一海さん、好きっ」
「…………」
15年間、見たこともないほど虎はかわいかった。
こんなに無防備にひとに甘える虎を俺は知らない。
おふくろにも親父にも、爺さん婆さんたちにも期待されて。年齢よりずっとおとなびた優等生。それでもおれにだけは甘えてくれる虎を、おれはずっとかわいいと思ってきた。
でも町田に甘えている虎は全然ちがう。
――女…だ――
思いさしたことにおびえたおれの膝に、テーブルの下でそっと町田の手がのった。
なんてこった。なんてこった。
今、王女さんの助けが必要なのは、おれだ。
ゲイならまだよかった。性癖のちがいで片づけられる。
でも、虎は女だ。そうだろ町田。
「とんちゃん……。ごちそうになったお礼に、おれまた数学みるよ。おれらが真面目に勉強してたら加藤さんだって本気になるよ。それって、うれしいだろ? とんちゃんも」
虎がぎゅうと町田にしがみつく。
おれだけが混乱していた。
初めて気づいた事実に。
察する虎と見える町田。
おれはLDKのソファーに寝かされた。
「まったく……。補講ふつかで知恵熱ですか? そんなに勉強がきらいなら、もっとほかの学校でもよくなかったです?」
「兄ちゃんは、おれとちがって頭がいいの。むかしっから勉強してんの、見たことないよ」
「そ…れは、ひでぇ」
「あー。一海さんの前だから、かっこつけたいんだぁ」
くすくす笑う虎の横で町田がうなづく。
わかった。待つよ。
「おれは大丈夫だから。虎、町田の相手してやっててくれな」
「え。いいの? ほんと? も、兄ちゃんずっと寝てていいよ」
「それも、ひでぇ」
今度は町田も笑っている。
それにしたって、町田の思いついた、おれの体調不良の理由はひどすぎだ。知恵熱? 幼稚園生かよ。しかも本当におれを放置して、虎と並んで仲良くお勉強。
まあ、おかげで不安も動揺も隠さずに、虎のそばでソレを待てるのはありがたい。
町田は、なるべく虎の近くでさりげなく待ちましょう、と言ってくれた。
おれもそう思う。
相手は虎の電話番号を知っている。
町田がいれば、おれにもわかる。
わかれば即、ひんむいてやる。
おれにはもう隠せないように。
「わあ。とんちゃん、ずいぶん進んでるんだね。これ学校の課題? もうほとんど終わっちゃってるじゃない、ペーパー」
「あ…、うん。学校の宿題はみんなさっさと…終わっちゃおうと…思って」
「それにしても一晩でこんなに? 実は数学は得意なの?」
「ううん。兄ちゃんと違って苦手だから、一所懸命、先に…やっちゃうの」
町田がおれを見ている。天井を向いていても気配でわかる。
虎がやばいところに足を突っこんだらしい。
どうしよう。
町田の不安は見えるのに、本当におれには虎が見えない、わからない。
――王女さん――
一度だけ。一度だけ、お願いします。
おれは早く終わりたい。早く楽になりたい。
早くソレの首根っこをつかませてくれ!
願いは届いた。
虎のスマホが震えだす。
相手も学生なら、虎をおもちゃにして遊びたい、たいくつな時間は、たぶん一定だろうと踏んだおれたちの勝ちだ。だから
――頼む――
祈りながら半身を起こして、しっかりと床に足をつく。
虎がスマホを取った。
おびえている。おれにもわかる。
虎の目がディスプレイを確かめた瞬間、町田が白目をむいてテーブルに倒れていくのを、しっかり両手で受け止めた。
王女さんの助けがないと知りながら、前線に立った町田。
「ありがとう町田」
おれ、やるよ。
ここからは気合いれて、絶対一度で終わらせる。
だから町田のほうを助けてやってくれよ、王女さん。
心から王女さんのレスキューを願いながら、気絶した町田の額をなでて、その硬直した身体を床に横たえる。苦しめて本当にごめん。
虎はスマホを握りしめたまま、おれたちを見ていた。
「虎――」
「…………」
びくっとおれを見上げる虎に差し出す手。
「スマホ、よこせ」
おれがつかんでやる。
おれが見てやる。
おまえを絶望のどん底に突き落とすやつの正体を。
「…ゃ、なに?」
状況についてこられないまま、虎が尻で床をずりさがった。
「いいから、よこせ。3度は言わねえ。よこさなきゃ――ぶんどる」
「ゃっ、なに?」
もう、おれにも見える。
ぶんぶんと首を横に振る虎の顔は真っ白だ。
「よこせ」
「いやっ」
虎は必死だ。なにしろおれに逆らえている。
ガタガタ震えて言うことをきかなくなったらしい身体を丸めて胸の下に小さな機械を抱きこんだ。
「虎之介!」
名前が虎を苦しめてきたことも、もう知っているのに。
いじわるな兄にまで痛めつけられて、虎の身体がびくんと弾む。
その一瞬に、おれの手は虎の手に届いた。
町田には勝てなくても虎になら充分おれの力も通用する。
「いや――っっ!」
ぶんぶん頭を振ってあばれる虎の手を、がっしり握って胸からはがす。
「ぃやぃやぃや――っっ」
虎が泣きだす。号泣だ。
おれはスマホを握った虎の手をつかんで虎の身体を引きずった。
近くにいたら気絶していても絶対に町田がヤバイ。
「いや――っ。も、許して。なんでもする! なんでも、する――っ」
そうだな。
これまで15年、本当にいやがることは絶対にしなかった。
泣かせたことはあっても、泣けば必ずごめんと謝って抱きしめてきた。
ここまで泣けば、これで終わる、そう思うよな。
「兄ちゃん! 兄ちゃん!」
廊下を引きずられながら、泣きぬれた顔を上げて、おれの視線をほしがる虎には応えない。
おれだって恐ろしいんだ。
こわいんだ。
子ども部屋のドアを開けるべく右手を離した瞬間に、這いずって逃げようとした虎の手から小さな機械を奪い取った力はもう暴力だ。
「ひい――っ」
悲鳴をあげた虎が部屋に入ってきたときには、おれの指はもう着信したメールを開いていた。
〔7/26 14:20 ご主人様〕
「…………」
ボタンを押す指が震える。
「いやっ! 返して!」
虎が伸ばしてくる腕を情け容赦なく叩き落として、ボタンを押した。
〔参考書がほしいなあ 誰か金貸してくれないかなあ 2500円でいいんだけど 20分で出てこい こないならまた写真撮る〕
メールにはご丁寧に画像が貼られていた。
無残に唇を真っ赤な口紅で汚されて泣いている虎の。
「…………」
全身が怒りで震える。
「ぇ、ぇ、ぇ…」
虎は床にうずくまって泣いている。
「…………」
受信ボックスには〔ご主人様〕からのメールはひとつもなかった。
きっと、傷つけられるたびに幼稚な遊びの証拠を消している。
ばかな虎。
反対に脅してやればいいものを、ただやられる道を選ぶなんて。
「他に――なにされてる。まさか…夏期講習の金も――取られてんのか!」
「ぇっ、ぇっ、ぇっ」
「応えろ! どのくらいこのアホを、のさばらせてんだ!」
怒りで足が出た。
おれはかわいそうな弟の身体を蹴った。
ひとりで死にたいほどの絶望を抱えてきた、かわいそうな、まぬけ。
「虎っ。虎…っ」
でも泣いてくれたから。
これからはどれほど傷つけても、きちんと抱きしめてやれる。
おれが両腕を差し出すと、虎は素直に腕の中に入ってきた。
「ぅわぁぁぁあああああ――ん」
「うん…、うん…」
赤ん坊の頃から泣けばそうしてやったように、頭をなでた。
どうしたら仕返しができるか。
〔親がいるので出られません明日なら〕
虎の代わりに返信しながら、頭のなかを渦巻いていたドス黒い暴力の衝動は根性で消す。
おれが汚れたら、虎が泣けない。
虎が王女さんに届かない。
「兄ちゃん……、にぃ、ちゃ…ん」
しがみついてくる虎をあやしながら、そのメールを受け取った。
〔だったら数学のペーパーも仕上げてこいよ 2時に駅〕
上等だ。
――王女さま――
おれ信じるから。
どうか、どうか! 虎と町田をよろしくお願いします。
おれは、あんたにかばわれるほどキレイな男じゃないけど。
もう少しだけ、おれといてくれよ。
おれはヤツをぶちのめす方法を考えるわけじゃない。
虎を自由にする方法を考えるだけだから。




